【廃墟マニヤ File028】
M尾鉱山(岩手県)
(その2)
私がこの「M尾鉱山」を訪れたのは、まだ学生であった1985年(歳がバレますね〜)、昭文社のガイドブックでその存在を知り、東北旅行の途中に立ち寄ったのが最初でした。廃墟となった建物が建ち並ぶ姿に、非常に衝撃を受けたのですが、そのときは同行者がいた上、スケジュールが詰まっていたので、外観をちらっと眺めることしかできませんでした。
もう一度行ってちゃんと見たいと思いながら、ようやく再訪することができたのは、なんとそれから十年近く経った1994年秋のことでした。
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約十年ぶりの「M尾鉱山」。ようやく来られてちょっと感動です。まだ下界は夏ですが、さすが北の国の高原地帯、夕暮れが迫っていることもあって秋の気配を感じます。
この鉱山跡、鉱山設備はほとんど残っておらず(坑口などは水没しているようです)、見どころは丘の上に11棟残る鉄筋コンクリート住宅跡です。この丘に建つアパート群は「緑ヶ丘アパート」という名で、全棟スチーム暖房、水洗式トイレ完備の当時としては最先端の集合住宅でした。住宅各棟には「いろは」順に「い」から「る」まで名前が付けられていたそうです。
緑ヶ丘アパートは家族のいる社員用の住宅で、1951年(昭和26年)にまず「い〜へ」の6棟が建てられ、後に「と、ち」、そして「り〜る」の5棟が追加されたそうです。写真で高い位置にある3棟は後に建築された建物で、手前から「り」「ぬ」「る」号棟と名付けられていました。虚ろに開いた窓が、なんとはなしに骸骨の目を思い起こさせます。
左手奥に見えるのはM尾鉱山中学校の体育館と校舎の跡。中学校廃止後は「S活学園」という学校法人に使用されていましたが、そちらも閉校になっていることはみなさんご存じの通りです。
……思い入れのわりに到着したのが遅かったので、後で紹介する「至誠寮」などを覗いているうちに暗くなってしまい、早くも探索終了! 翌日仕事があるため、このまま東京まで帰らなくてはなりません。次回は絶対時間に余裕を持って来ようと、固く心に誓ったのでした(ここまで1994年9月)。
さて、そんなこんなで、それからさらに十年以上の年月が過ぎた2006年9月。「東北廃鉱ツアー」と称して、久しぶりに東北遠征の旅にでることにしました。
まず最初にやってきたのがこの「M尾鉱山」です。丘の上のアパート群は変わらぬ姿を保っているようですね。
……と思っていたら、なんか近くから「ガッコン、ガッコン」と日本ブレイク工業系の工事音が聞こえるじゃあ〜りませんか!? 音のする方を見てみると、なんと学習院の施設が解体されていますよ!
この「学習院H幡平M尾校舎」、元は1953年(昭和28年)に建てられた「M尾鉱山病院」の建物を流用したものだったのですが……。
あとで調べたところ、学習院の校外活動施設として使用されていた「H幡平M尾校舎」は、建物の老朽化などの理由によって2005年9月に閉鎖され、建物解体後その土地をH幡平市に譲渡することになっていたようです。
解体作業の真っ最中ではどうしようもないので、気を取り直してまず「緑ヶ丘アパート」を見に行くことにします。建物などの基礎だったのか、貯水池だったのかわかりませんが、アパート側のヤブの中にはこんなワナが!
とは言っても、現役当時使われていたと思しき小径が草むらの中に残っているので、そこからはずれなければ全く問題ないわけですが……。
題して「秋の廃墟」。もう少しススキを白く撮るとイイ雰囲気だったかもしれません。
とりあえず薮をかきわけて「い」号棟に近づいてみることにします。
(続く)
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