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自序
戊辰の役は、明治維新の新建設に伴って起こった極めて複雑した免れ難い戦乱であったが、武家時代最終の戦だけに、東西両軍何れも武士道精神を発揮して戦った。
白河口の戦は頗る激戦であり、且つ長期に亘った戦争であったので、白河地方にはその戦跡も多く、史話や記録も亦多く遺されている。余、大正九年白河に居を移し爾来二十有余年此等戦跡を遍く訪ね、古老に実話を質し、或いは旧家に記録を求めた。適々今秋戊辰戦争を隔てる七十四年に方り、此等地方特殊なる郷土史料を一般史に織り込み「戊辰白河口戦争記」と題して上梓に附することとした。
本書収むる所、雑録と見るべきものあり、また?火編に慮辺物語に類する所も少なくない。これ当時の実況を語るに足るものは片言隻句へんげんせっくと雖も之を収録せるに因る。本書戦争史と言わずして戦争記と称したるもこれがためである。ただ著者の浅学寡聞、よく史実を尽くさず、推敲意に満たざる所多し、後日訂正修補の機あらん。されどこの小著世に裨uするあらば幸である。偏に江湖の批正ひせいを仰ぐ。
口絵の五月一日戦図は、大山元帥伝の付図なるを、特に大山家の御許を得て本書に転載したるもの、戦図の縮写、白河城大手門の複写及び砲弾等の実写は何れも熊田猛夫氏の労を煩わしたるもの、題筌だいうけは大谷五平士の揮毫きごうを岩越次郎氏の彫刻されたものである。ここに付記してその好意を深謝す。
昭和十六年九月
著者識す
第一章 幕軍鳥羽伏見に敗る
第二章 西軍江戸城に進撃
第三章 奥羽鎮定の方針
第四章 奥羽列藩の白石会議
第五章 世良参謀福島に殺さる
第六章 会兵白河城を奪取
第七章 戦争当時の白河城
第八章 白河口の戦争
第九章 五月朔日の大激戦
第十章 西軍白河に滞在
第十一章 輪王寺宮奥羽に下り給う
第十二章 東西相峙す二旬
第十三章 西軍棚倉城に迫る
第十四章 白河地方に砲声の絶ゆるまで
第十五章 板垣参謀三春に向う
第十六章 若松城遂に陥る
第十七章 奥羽諸藩降る
第十八章 西軍帰還の途白河に宿泊
第十九章 東西両軍の墓碑及び供養塔
第二十章 戊辰戦争と地方民
戊辰白河口戦争記
佐久間律堂著
第一章 幕軍鳥羽伏見に敗る
戊辰戦争は鳥羽伏見の戦争から始まる。
将軍徳川慶喜は、慶応三年十月時勢を察し、「当今外国の交際日に盛なるにより、愈々いよいよ朝権一途に出不申候では、綱紀難立。」との大英断を以て大政を奉還した。
朝廷これを許し、慶応三年十二月九日には小御所の会議が開かれた。これが新政府としての最初の会議である。この会議に土佐の前藩主山内容堂は徳川慶喜を召して会議に列せしむべしと主張したが、大原重徳・岩倉具視等はこれに反対し、且つ慶喜の誠意を疑い、且つ官位を辞せしめ、土地人民の返還を求めたのである。幕府側はこの会議の結果慶喜の退官となり、納地のこととなった事を以て薩摩藩及び其一派の公卿等の陰謀であるとして憤慨する所あり、君側の姦を清むべしとした。賢明なる慶喜は幕臣の不平が輦轂れんこくの下に発してはと恐懼きょうくして京都二条城から大阪に退いた。一方江戸では三田の薩藩邸に潜む浪士等の市中奪掠があり、西丸の炎上等の事があって、ここに幕府側と薩藩とは反目した。三田の薩邸を焼いたのは十二月二十四日であった。この報せが大阪に達すると、幕府側の諸隊は令を待たずに戎装じゅうそうした。即ち頃日の朝廷の措置は決して朝廷の真意でなく、薩藩等の奸謀となし、君側を清めねばならぬと、上洛掃攘の議が一決され、慶喜もこの説に傾いた、慶応四年正月三日、慶喜入朝の事となり、幕臣は討薩の表を携えて上京した。薩藩は武力によって徳川三百年の勢力を破壊するでなくては王政復古の大業は為し得ざるものとして、故意に徳川主従を憤らしめたのである。そこで徳川主従は討薩の表を携えて入京となる。これが鳥羽伏見の戦の原因であり、戊辰戦争の原因である。
討薩の表に云
臣慶喜謹而去月九日以来御事体奉恐察候得者、一々朝廷の御真意には無之、全く松平修理大夫奸臣共の陰謀より出候は天下所共知。殊に江戸・長崎・野相州所々乱暴強盗に及候も、同家家来の唱導により東西響応皇国を乱し候所業天人共に所憎に御座候間、前文の奸臣共御引渡し御座候様御沙汰下度、万一御採用不相成候はば不得止誅戮ちゅうりくを加え可申候。此段謹而奏聞そうぶん奉候。
正月 慶喜
斯く討薩の表を上り、幕軍は正月三日会津、桑名二藩の兵を前駆として、譜代諸藩の兵三万を以て鳥羽・伏見の両道から進んだのである。
幕臣の上洛は薩長の待構えていた所であっので、薩兵から砲撃は開始された。固より薩長は聯合れんごうされている。
翌四日、朝廷は仁和寺宮彰仁親王を征討大将軍となし錦旗節刀きんきせちとうを賜うて出征せしめたから、幕軍は朝敵となった。連戦四日幕軍は敗れて大阪に遁のがれ帰った。慶喜は錦旗と聞こえて、大阪城を尾張・越前に託し、会津・桑名等の藩主と共に六日夜軍艦で江戸に帰った。
白河町天神町藤田某の記録に会津兵の白河通過の状を述べて藤田某は、白河天神町大庄屋藤田孫十郎の弟である。孫十郎は現在の藤田新次郎氏の祖である。鳥羽伏見の戦に徳川の脱兵及会津兵の手負者及途中死亡者は、駕籠かごにより継ぎ来り、又は引戸駕籠に乗りたるも、渋紙に包みたる死人もあった。云々。
慶喜が江戸に帰ると、当時フランスは東洋に野心満々たるの時であったから、公使ロッシュを江戸城に登城せしめ、慶喜に面会の上頻しきりに薩長と戦はしめんとした。軍艦も兵器もすべてフランスに於いて用立をするからと誘った。この時慶喜は断然これを却け「わが国はたとえ公卿大名から申出たことであっても、朝命となっては違背のできぬ国柄である。」と諭したという。
此の時慶喜が凡庸の主であったら、我が国体を傷つけたことであったろう。当時英仏の関係から推して見ると、フランスが幕府に加勢したとすれば、必ず、英は薩長に結んだに相違ない。慶喜の賢明によって我が国は外国の于渉を受けることなく、外国勢力が扶植することなくて済んだ。
第二章 西軍江戸城に進撃
慶応四年正月十日に、朝廷は徳川慶喜及び松平容保・松平定敬等の官爵を削り、遂に東征の師を起して諸藩の兵を徴した。二月九日有栖川宮熾仁たるひと親王が東征大総督となられ、同十五日錦旗節刀を授けられた。斯くして西軍は東海・東山・北陸の三道から江戸城に迫った。総督・参謀左の通りである。
東征大総督 熾仁親王
参謀 王親町中将
同 西田辻大夫
同 西郷隆盛
同 林玖十郎くじゅうろう
東海道先鋒総督兼鎮撫使 橋本実梁さねやね
同 副使 柳原前光さきみつ
参謀 木梨精一郎
同 海江田信義
東山道先鋒総督兼鎮撫使 岩倉具定
同 副使 岩倉具経
参謀 板垣退助
同 伊地知正治
北陸道先鋒総督兼鎮撫使 高倉永祐ながさち
同 副使 四條隆平
参謀 黒田清隆
同 品川彌次郎
東海道は進撃を主とし外ニ道は防止を主として二月十一日・十二日・十三日を宮闕きゅうけつを拝辞し、三道齊ひとしく進んだ。この中の東山道先鋒の軍が白河口に迫るに至ったのである。
東山道先鋒は二軍に分れ、一軍は板垣参謀これを率いて信州から甲府に入り、幕府新撰組の隊長近藤勇を勝沼付近で破って新宿に着いた。一軍は伊地知参謀これを率いて上武の間に幕軍と戦い、進んで板橋に着いた。東海道軍は進んで池上に着き本門寺に陣した。北陸軍は千住に着いた。
大総督宮は二月十五日京を発し、海路駿河に至り駿府に府を置き愈々三月十五日江戸城総攻撃に決した。
此に徳川譜代の臣は皆兵器を取って立とうとする形勢なので、慶喜は勝安房やすよしをして之を諭さしめ、身は江戸城を出でて上野寛永寺に屏居して恭順し朝命を俟まった。諸道の兵江戸に迫るに及び、山岡鐵太郎は駿府に至り西郷隆盛に面会して慶喜恭順の意を述べ、次で勝安房は高輪の薩邸に西郷隆盛と会見して慶喜恭順の状を陳じて、討伐の師を停められたしと謂うに至り、隆盛はこれを総督宮に稟して諸軍の進伐を停めた。
四月四日柳原前光は勅使として江戸城に入り、慶喜に死一等を減じて水戸に幽し、江戸城及び軍艦・銃器を収む。
四月十五日大総督宮熾仁親王は江戸城に入らせ給うた。
第三章 奥羽鎮定の方針
奥羽の鎮定は大兵を動かすことなく、奥羽諸藩の兵を以て鎮定することに朝議が定まって、其の令は奥羽諸藩に下ったのである。
令に云
就徳川慶喜叛逆、為追討、近日官軍自東海・東山・北陸三道、可令進発旨被仰出候。附ては奥羽の諸藩宜知尊王大義相共に援六師征討之勢旨。御沙汰候事。
正月十七日には朝廷仙台藩に令を下した。その令に云
仙台中将
会津容保今度徳川慶喜の叛謀に与し、錦旗に発砲し、大逆無道可被発征伐軍候間、其藩一手を以て本城を襲撃速に可奏追討之功旨、御沙汰候事。
此に仙台藩主伊達慶邦はこの旨を藩中に達した。
会津藩主松平容保は江戸城藩邸に謹慎中であったが、慶喜の旨を受けて、二月十六日江戸を出で帰国した。この時局に当って江戸市内取締の重任を担っていた庄内藩も亦帰国した。桑名藩主松平定敬も江戸藩邸に謹慎中であったが、藩邸を出で其の菩提寺の霊岸寺に退き、大久保一翁の勧により更に僻遠の地に謹慎することになり、其の領地の越後柏崎に退いた。
二月十六日、左大臣九條道孝奥羽鎮撫総督となり、澤為量は副総督、為量は宣嘉の父。醍醐忠敬・大山綱良(格之助)・世良砥徳きよのり(修蔵)参謀となりて、慶応四年三月二日、薩摩百三人・長藩一中隊・筑前藩百五十八人・仙台藩百人の守衛兵を率いて京都を発し、海路奥羽に向かった。
是より先、奥羽鎮撫使として澤為量・醍醐忠敬命ぜられ、其の参謀には薩の黒田清隆・長の品川彌次郎命ぜられた。然るに其の鎮撫の方針を定むるに当り鎮撫を主とするか、討伐を主とするかに関して議恊かなわず、鎮撫を主とする黒田・品川は参謀を辞するに至った。そこで前記の任命となる。これが会津討伐と
もなり、奥羽列藩の同盟ともなったものである。
奥羽鎮撫総督京を発するに方あたり天童藩の老臣吉田守孝が前導に任じた。三月十日浪華なにわを出帆、十九日松島に上陸、一時観瀾かんらん亭を営所とした。三月二十三日には仙台藩主松平慶邦松島に到り、九條総督に謁して会津討伐先鋒の命を拝した。慶邦は是に於て兵を御霊櫃・土湯・中山・石筵いしむろ・湯原等の諸口に出し進んで会津に迫った。
然るに奥羽諸藩の意向は、概ね弭兵びへい論で会津討伐を不可とし、寛大の処置を講ずべしとなし、仙台・米沢ニ藩がその主唱者であった。
鎮撫総督は会津を討たしめようとする、奥羽諸藩は会津を救うとする、この両意見の相違は互いに誤解を生じせしめたのである。
此の頃米沢藩の大瀧新蔵等仙台に来つて、世良参謀に面談して曰く「容保謹慎中である、于戈かんかを動かすことなく鎮撫し得べし」と建言した。所が世良参謀は大に立腹して「米藩異議あらば会藩と同罪なり」と言った。初めから世良参謀と奥羽諸藩とは氷炭相容れぬ関係に立った。
世良参謀は奥羽諸藩を以て奥羽を鎮撫することの困難であることを察知して、長藩に左の書を送って援兵を請うている。世良参謀は長藩出身である。
爾来益々多祥に御尽力被成御座の段奉大慶候。鎮撫使一統、海上無異之儀、当月二十三日仙台城下へ著陣相成申候。偖さて会藩にても大きに憤発、上下一和、自分将軍と称号し、水兵・徳川兵・桑名兵・其他農町兵・新撰組等集屯、四境へ勢を張り既に押出すの勢と相見え申候。右の次第に付、仙台不練の兵にては奏功無覚束、巨細こさい軍防局へ申遣候間、御承知可被下候。
何れ薩兵と我が兵と被差出不申では、中々六ケ敷様むずかしきよう存、乃ち薩藩大野五左衛門差登候に付、御面会の上、万緒御咄可申様頼置候間、是亦御承知可被下候。庄内も少々手当有之候哉に相聞え申候。米沢も半信半疑也。不足頼と奉存候。右は用事而巳のみ。
早々頓首。
三月晦日
世良修蔵
大戸準一郎様
廣澤兵助様
尚々彌次郎へも荒増あらまし申遣置候間、御承知被下度候。已上いじょう。
この文を以てすれば、世良参謀は奥羽兵を以ては会津討伐には不足とし、且つ米藩を信じて居らぬことは明白で、奥羽は薩長兵をして追討すべしと覚悟したものである。
第四章 奥羽列藩の白石会議
四月二十六日会藩主松平容保は使を仙台・米沢に遣わして降を請うたので、ニ藩は書を総督府に上つて容保の使者を軍門に引見せんことを申出ている。
閏四月四日には仙台・米沢ニ藩書を督府に上つて、会藩降伏の状あるによって追撃の中止を請うている。
これより先閏四月朔日頃、醍醐・世良の両参謀は本宮にあり、仙台藩を督して会津に進撃せしめ、中山・石筵に戦があった。この頃鎮撫総督は東山道先鋒軍の宇都宮にあるものに移牒して速に白河口に来援することを求めている。
閏四月四日、愈々仙台・米沢の両藩は奥羽の列藩に廻文して其の重臣を白石に会合するようにした。これ会藩救解の趣旨からである。
其の文に
陸奥守並弾正大弼儀、会津容保御追討之先鋒被仰付、陸奥守出陣被致候処、今般容保家来共陣門へ相越、降伏謝罪之歎願申出候に付衆評致度候間、御重役方之内、白石陣所へ早々御出張相成候様致度候。以上。
閏四月四日
陸奥守は仙藩主であり、弾正大弼とは米藩主である。
この回章に由って重役の会同したものは盛岡・二本松・守山・棚倉・三春・山形・福島・上ノ山・亀田・一ノ関・矢島等で、棚倉からは平田弾右衛門が出席した。
閏四月十二日、仙・米両侯は会侯の嘆願書に両藩の嘆願書及び白石に会合した十四藩重臣の嘆願書を添えて、岩沼に於ける九條総督に謁してこれを呈し親しく事情を述べ、会藩のために哀を請い、兵を止めんとことを請うた。九條総督は快然たる態度で嘆願書を落手せられ、速に奏聞に及ぶべしとの旨があった。
此に於て本意達し仙藩主伊達慶邦・米藩上杉齊憲なりのりは各々その藩に帰る。所が九條総督から仙・米両藩に左の令達が出された。
今般会津謝罪降伏歎願書並奥羽各藩歎願書被差出熟覧之処、朝敵不可入天地罪人に付、難被及御沙汰早々討入可奏成功者也。
閏四月
奥羽鎮撫総督
この令達に接した奥羽列藩は大に憤慨し、我々の歎願する所は九條総督これを諒とせられその態度意向公正であった。然るに令達の此に及んだのは全く薩長の専横せんおうにありとなし、特に世良参謀を憎んだ。世良参謀は列藩の差出した歎願書を出張先の元宮にて見、筆を執て左の付札をなしたという。九條総督は歎願書を飛脚によって世良参謀に送り意見を徴したものである。時は閏四月十三日。
会津容保儀、不可容天地罪人に付、速に討入可奏功候事。
ここに於て列藩は閏四月二十三日再び白石城に会した。この時は前の十四藩の外に秋田・弘前・新庄・八戸・平・福山・泉・本庄・湯長谷・下手渡・天童等が加わって二十五藩となった。
相議して曰く、宜しく公義正道に依り、奸賊を清掃し忠を朝廷に尽さざるべからずと衆議一決し、列藩の重臣盟約調印して太政官に建白書を上った。この会議に棚倉藩からは梅村角兵衛が出席している。
奥羽同盟二十五藩とは
仙台・米沢・盛岡・秋田・弘前・二本松・守山・新庄・八戸・棚倉・相馬・三春・平・福山・福島・本庄・泉・亀田・湯長谷・下手渡・矢島・一ノ関・上ノ山・天童・山形をいう。
翌五月には米藩の遊説によって越後の新発田・村上・村松・長岡・三根山・黒川の六藩も加わって奥羽越列藩同盟が成立した。斯くて聯盟事務所を白石城に設け奥羽越公議所と称した。
同盟の成立せる時、仙・米の両藩は、「同盟の挙は聖明を壅塞ようそくする君側の奸を攘はらい海内擾乱を鎮定するにありて、徳川政府を回復し貴藩を援助する趣旨に非ず誤認する勿れ」と会藩に告げた。其の時会藩の梶原平馬等「寡君かくん固より王師に抗するの意なし、君側を清めんとするにあるのみ」と答えたという。これが戊辰奥羽戦争の起った骨子である。
第五章 世良参謀福島に殺さる
慶応四年二月十六日朝廷は二本松藩管理の白河城を仙台藩に交付した。奥羽同盟の成立前、慶応四年四月三日仙台藩主伊達陸奥守の家来伊達筑前等官軍の先鋒となって白河城に入り市中の取締をなした。郡司代森孫三郎旧小名浜代官も白河城にあった。当時旧幕僚の代官は朝廷の郡司代に任せられて其の民政に当っていたものである。
奥羽諸藩中鎮撫総督の命を受けて白河城に守備したものは仙台(三小隊)・二本松(兵員不詳)・棚倉・三春(二小隊)・湯長谷・泉・平等の諸藩である。督府は閏四月七日に平・泉の両藩に本月十日を期して討会応援として白河に出兵すべしと令している。二本松藩は城中に、三春藩は会津町の学館に、湯長谷藩は妙関寺に、平藩は常宣寺に屯営した。
閏四月上旬、世良参謀は白河城本丸に入り奥羽鎮撫使の標札を掲げて号令し奥羽諸藩その指揮を仰いだ。
然るに奥羽同盟が結ばれ四囲形勢頗る険悪となるや、世良参謀は「奥羽皆敵」容易に鎮撫すべからずと考え、一方東山道先鋒の伊地知参謀に書を寄せ、急を告げて白河に援軍を求め、自らは仙台の総督府に往いて軍事を議せんと、閏四月十八日駕を飛ばして福島に向い、十九日福島北町金沢屋に投宿した。福島に着したのは午後三時。
この日仙台藩瀬上主膳・姉歯しば武之進等土湯口の荒井・鳥渡の陣を引揚げて福島に在った。これが世良参謀としては不運であったのである。
前記の如く奥羽列藩は会津救解歎願書の斥けられたのを以て世良参謀の所為となし、奥羽は彼一人のために害を受くるとなし、列藩は皆彼を憎んだのである。固より大山・世良等の意図は追討にあったのだから、会藩救解の哀願の容れられないのは当然であった。
世良参謀が福島金沢屋に入るや、福島藩鈴木六太郎を招いて、羽州出張の大山参謀格之助に送る密書を託し、明払暁ふつぎょう二人の飛脚を以て出発せしむべきを以てし、且つこれを仙台藩に洩す勿れというた。これ姉歯の知る所となり、其の密書は瀬上主膳に提出されたのである。
密書中に
奥羽皆敵と見て進撃の大策に致候に付、乍不及およばずながら小子急に江戸へ罷越まかりこし、大総督につき西郷様へも御示談致候上、登京仕、尚大阪までも罷越、大挙奥羽へ皇威赫然致様仕度奉存候。
姉歯等この機を失わば後患来るべしとなし、急に計劃けいかくを進めた。金沢屋に投宿せるを幸に酒宴を設け、珍肴ちんこうを進めて遇した。瀬上・姉歯等福島藩の目明めあかし浅野宇一郎を通じ、即刻召捕るべき策を講じ、福島藩遠藤條之助、仙台藩赤坂幸太夫をして、十九日夜三更に金沢屋の寝所に踏込ましめた。修蔵短銃を執って放たんとしたが発しない。立ち上って襖を背にすると、不運にもその襖が倒れて終に縛に就いた。参謀付属の勝見善太郎刀を振って対むかったが仙台藩の田辺覧吉に其の場に斬られた。勝見は長藩で白河から伴い来た従者である。斯くて修蔵は瀬上の宿である目明浅野宇一郎宅に引致されてしまった。
姉歯押収の密書を示して詰る。流石の傑人世良も捕われては弱くなる。
明けて二十日、宇一郎は世良を屋敷河原に斬った。屍は阿武隈河に投じ、首級は仙台藩大越文五郎見届の上、桶に入れ筵包みとなして奥羽越公議所の白石城に送った。白石城に着いたのは夜の四ツ半、仙台藩但木土佐これを城外月心院に葬る。世良参謀時に三十四歳。
この参謀の暗殺は薩長の敵愾心を強めたものであったろう。
記録に残る参謀の遺品調は
一、刀一振
一、短刀一振
一、本込ニイール一挺
一、ピストル一挺
一、セコンド一
一、蟇がま口一
一、金五六十円
一、紺縞木綿単衣ひとえ一
一、蒲色風呂敷一
奥羽人の世良参謀に対する余憤よふんは七十年を経た今日尚熄やまぬものがあるが、世良参謀の傑士であったということは誰でも称賛している。
世良参謀が白河城に来り市中・市外を軽装で巡羅津じゅんらし、其の画策を練るの時、誰も彼も参謀の胆力に服したものだと伝えられている。
西白河郡小田川村佐藤眞太郎氏の談によれば
世良参謀は、豪胆な人で、白河城にある時、小田川や踏瀬に往来して自ら用を辨べんじたものだという。
参謀が福島に出発する時、白河を出ると狙撃に合った。参謀は直に自らこれを殺してその首を十文字清之丞という者に託し白河城に送り福島に向った。その時小田川を駕籠で過ぎたという。
東巡録によれば、明治九年六月白石御通輦つうれんに際し世良参謀に金幣を下賜せられ磐前いわさき県をして祭祀を行わしめられた。世良参謀地下に感泣したことであろう。
第六章 会兵白河城を奪取
閏四月十六日、会藩は始めて大平方面に兵を出し眞名子まなご村に陣した。此頃の奥羽列藩の形成は白石会議既に成り、会藩討伐の意なく、只鎮撫総督の命を以て白河城に兵を置くに止まり、十八日には世良参謀は去っている。此の機逸すべからずとして、閏四月二十日暁天、湯本口・羽鳥口に陣した会兵丹羽長裕家記に会兵及び幕兵。彰義隊の兵とある。その将小池周吾は搦手より、野田進は追手より白河城に攻入った。三坂喜代助は脇曲輪くるわの女牆じょしょうを攀よじ登って城内に入り城門を開いて会兵を導いたという。
会藩兵先づ会津町に火を放ちて一挙にして城を抜いた。城中の兵驚愕狼狽城に火して根田方面に退却した。二本松藩和田右文城中に貯へて置いた弾薬が会津の有となることを憂いて火に投じ、また千両箱は井中に投げ込んだと伝えている。戦争後この井戸を浚さらって千両箱を探した者があったが何もなかったという。その後、この本丸の井戸は久しく埋まっていたが、昭和十二年に旧もとに復した。
落城の時千両箱を担いだ話。後に白河の名町長になった大竹貞幹氏と川崎彌八郎氏が担いだ。大竹氏は代々城主に寒晒粉を納めた家で城中に出入しており、川崎氏は白河の名家川崎彌助の後で城中に出入して居った者である。その千両箱を担ぐ時実に周章しゅうしょうしたもので、前の者が立てば後の者が腰が立たぬ、後の者が立てば前の者が腰が立たぬというような有様であった。三百年も太平であった当事の事で、大砲の音を聞こえては全く腰がぬけて歩まれなかったものだと大竹氏が天神町の安田平助翁に後日話したという。
鹿島の富山氏の記録に
四月二十日朝六ツ時、会津様御人数並に御旗本方都合百三十八人程と申す事、湯本・羽鳥村に固め居候処、二十日朝、米村より鉄砲を御城に打ちかけ候。白河城落城致し、丸の内残らず焼ける。家中は道場小路・会津町残らず焼け、御城に固められた御人数千五百人根田に引くもあり、二本松藩は二百人許ばかり鹿島に引き俵籠の支度する様申され候処、その中に本沼まで引取。その中に白河城も静に相成候へば町方の者は申すに及ばず、近在の者まで丸の内の火消に参り候。この者共に御米蔵より米を下され候。町方の者は老若男女に至るまで皆貰い候。酒屋ではハンギリに酒を入れて表にて呑ませ候。質屋より品物を取出し皆呉れ候。廿一日、会津智恵様分にて番兵致し候。鹿島村はづれ文吉前街道にて篝火を焚き村方の者一軒一人づつ出で焚き候。町方にても人足引出され、まことに末々どうなるものかと生きた空もなく仕事を致すいくじもなし、毎日唯日を暮し居候。
富山氏の記録は大沼村鹿島の富山幸吉氏所蔵。
天神町藤田氏の記録に
本城付の在米数千俵大庭御米蔵に貯蔵あり、兵火の為めに米蔵焼け落ちたるに、其の米は町民に与えるというを聞き、二十日午後すぎには焼米の中より丸俵を掘り出し背負い来るもの蟻の卵を運ぶが如し、中には途中まで持ち出し、再び掘り出したるものを運び来る内に、他の者来りて持ち行くもあり、多きは三俵・四俵と運びたるものもあり、それ故に戦争中貧民は飯米に差支えたることなく、実に戦争の手始とて筆紙に尽し難し。
二十日払暁、大砲の音するや戦争始まりたるを知り、家族一同家財を片付け、酒蔵の目塗の折、空飛ぶキュウキュウと砲丸の飛び行く音を聞き、慄然言語を発する事能わず、何れもウロウロと立騒ぐのみ、空腹になりたれども飯食は更に通らず、水を飲むにも手足振ひて茶碗の水は飛出づる有様なり、宅には孫十郎と母と拙者のみ、奉公人は金之助・初蔵・宗兵衛・新三郎・孫三郎・下女イソ等都合十人なり、漸く昼過に至りて食事す。兄孫十郎は町役人なる為め会津の軍目付役と同行せり。
二十一日、二十二日、市中一般表裏の戸明放しにて店飾は勿論、畳建具必要の外は夫々片付、今にも人家焼払の覚悟をなし居たり。
閏四月二十三日、夕刻より徳川脱兵及び会津兵続々繰込み来り、寺院又は旅籠屋等に宿泊せり。武器は旧式にて火縄付鉄砲或は弓矢・槍等を多く持参せり。
閏四月二十四日も同様繰込、徳川脱兵新撰組人数五百人位一に旗本の士なり。洋服又は野袴着用しあり。洋式鉄砲・ヘベル銃を携帯し頗る軍気を挙げたり。
丹羽長裕家記云
閏四月二十日早暁、敵軍会兵・幕兵彰義隊等白河城外平藩・三春藩の警衛場なる会津町口・道場門を破り火を放ちて城中に侵入し頻しきりに発砲す、其の形況斥候の急報あり、城兵能くこれを防ぐ、然れども衆寡敵し難く防禦の術既に尽く、特に野村十郎城兵を指揮して本丸を自焼遂に横町口を破って出づ、総軍根田に退く。敵兵白河を取る。城郭悉ことごとく焼失す。戦死一人下士大友左衛門
是日、醍醐参謀は郡山駅に抵り、将に白河に入らんとしたが、城の陥るを聞き二本松に引帰った。
道場小路に火を放って会兵が白河城に迫る時小峯寺の住職が梵鐘を搗いて之を報じた為に、会兵に狙撃されて死んだ。と今に白河町に伝えられている。白河城はその日の午の刻には全く落城した。之の戦に丹羽氏の家記に戦死者一人とあるのを見ても攻城の容易であり、城兵に戦意のないことが窺い知られる。此の日の会津方の兵力は百三十余人であったという。復古記には会藩の総兵三百人と註している。
翌二十一日には、下野・陸奥の両国の境に「從是北会津領」と書した標を建てた。白坂村の石井勝彌翁曰く
この標はちょうど境明神の前に建てられた。西軍が入って来ると、この標を倒して進んだ。
第七章 戦争当時の白河城
戦争当時の白河城は明城であった。即ち城主の御留守の城郭であった。
慶応三年に白河城主阿部氏は棚倉に移封され、慶応四年に至って復び阿部氏は白河に転封されたが、中止となって白河は明城を続けた。明城ではあったが、形からいえば今日の如き廃墟ではない。本丸・二の丸・三の丸があり、濠は深く水を湛え、石垣の上には白い壁塀がまわり、数個の櫓が見えた堂々たる城郭であった。天主閣は白河城にはなかったが白壁塗の櫓や塀が遠くから白く望まれて実に立派な城郭であったと伝えられている。
白河郡栃本村の大庄屋根本家の慶応四年の御用書留帳に、阿部氏の慶応四年に於ける白河転封の事実が左の如く記録されている。
此度棚倉より白河へ御所替につき、凡五十日の間人馬遣高二拾五人・二十五疋宛、釜子・金山両道□□□□日々遣払之儀、道中 御奉行領係来る二十一日より諸荷物差立に相成候旨棚倉表より御懸合並に頼談等相立候間、右両道継立人馬御領中一統之助人馬被仰付候間、先格之振合を以て令割賦わりふ、継立向差支無之様取計可申候。以上。
辰二月十九日
領奉行
年番触元
大庄屋
右之通被仰出候間、此段御達申上候。以上。
三月廿日
触元役所
移封の命によって阿部藩士は白河に移ったものもあり、棚倉に居残ったものもあった。中止となって白河に引移ったものは再び棚倉に引き戻った。若し阿部氏が慶応三年に棚倉移封とならずに白河城主であったとせば戊辰戦争はどう展開したものであったろう。
慶応三年阿部氏の棚倉移封は薩長の謀略に出づるものなりとも伝えられている、阿部藩は当時新兵器元込銃二百挺を有し調練に努む。
慶応三年に阿部氏が棚倉移封となるや、白河領城付六万石は幕府の直轄となり、民政は小名浜代官森孫三郎が掌り、城郭は二本松藩の管理に属したのである。
第八章 白河口の戦争
閏四月二十三日奥羽同盟成り、福島に軍次局を置いて仙将坂英力これを督し愈々奥羽軍は西軍と戦うことに決し、会藩もまたこれに加盟した。
白河城が会藩の奪う所となったと聞えた西軍は、閏四月二十一日大田原を発し監崎・油井・関谷の東軍を撃破して、二十四日芦野に宿した。東軍の間諜これを知り、鈴木作右衛門・木村熊之進・小池周吾・野田進等の会将等戦略を定め、白坂口へは新撰組隊頭山口次郎を先手とし遊撃隊遠山伊右衛門これに次ぎ、棚倉口へは純義隊長小池周吾、原方街道へは青龍隊長鈴木作右衛門これに当って西軍の来るを待った。
二十五日暁天、西軍来って白坂口を攻めたので山口次郎・遠山伊右衛門等隊兵を指揮して戦った。
太平口の会藩軍将日向茂太郎は進んで米村に在り、砲声を聞き急に進んで白坂口の横合から西軍に当たった。砲兵隊長樋口久吾は白河九番町より進んで戦った。棚倉口より小池周吾、原方より鈴木作右衛門進撃、義集隊今泉伝之助・井口源吾等歩兵を率いて戦った。西軍は皮籠原に散開して猛烈に東軍を衝いたが遂に三面より包囲され、西軍の参謀伊地知正治(薩藩)其の不利なるを知り、兵を収めて芦野に退いた。
東軍勝に乗じて追うて境明神に至る。この日の戦、払暁より日中に亘り激戦数刻殆ど間断なかった。
今に有名に語伝えられているのは、この日の戦に薩長大垣十三人の首級を大手門に梟きょうしたことである。会藩はこの日士気大に振った。
本道からの西軍は、小丸山・老久保・与惣小屋方面より来る。十三人は本隊より遥先に出で、白坂街道脇の用水堀に沿へ九番町口東軍の本塁に迫って、石橋下に潜み、稲荷山なる東軍を狙撃し多くの死傷者を出した。遂に東軍に捕らえられて斬首された。
白河中町棚瀬利助翁曰く
十三人の梟首は、大手門で、四寸割の板に五寸釘を打ちつけてそれに梟した。町々からそれ西軍の首を取ったといって、見に行くものが多く、大手門は黒山を築いた。戦慄しながらよく見た。首級に各藩の木札が付けてあったように記憶している。
維新戦役実歴談という書がある。これは長藩士の戊辰戦争の実歴談を編したもので、大正六年の出版である。同書中男爵梨羽時起の談に
二十五日には僅かの人数であった。薩州の四番隊と、吾輩の二番中隊の小隊と、原田良八の小隊それだけで行って、其の他の兵は大田原に残っていたように覚えている。白河の凡そ十町程手前に出ると、何時でも魁をするものが十人ばかりで先手の方でやっている小銃の音が聞える。敵は木や畳で白河の入口に台場を築いて小銃の筒を揃えて出ている。それで中々進まれなかった。その入口というのは、双方が水田で細い畷手なわて道で並木がある。敵は向うの低い山に畳台場を立派に拵こしらえて畷手道へドンドン打出すから進めなかった。その中に左の方の後の方へ廻られて打出された。どうしても行かれぬので手前の山の所に戻った。所で先に行った十四五人のものはズット台場の下まで行って戦った。その中の半分は殺された。
この時殺されたのは鹿児島の者と長州の者と半々と覚えている。河村さんは右裏の方へ四番隊の中幾人かを連れて、黒羽藩を案内として行ったが道が分からぬので戻って来た。此の日は怪我が多かった。戦の終わったのは昼頃であった。芦野まで戻った。河村さんも一緒であった。
全体二十五日には、伊地知さんは今日は僅かの人数であるから無理だというたが、河村さんがヤレヤレと言い出してやったものだ。
それから五月朔日に白河城を取ったのは人数を増して行ったからだ云々
第九章 五月朔日の大激戦
五月朔日の白河口の激戦は、我が国戦史上での激戦の一つであろう。
東軍は二十五日の勝報得て白河城に兵数を増した。仙台藩の大番頭坂本代炊・佐藤宮内・瀬上主膳到り、一柳四郎左衛門もまた到る。棚倉藩平田弾右衛門も兵を率いて之に会したので東軍の勢は頓とみに振った。
復古記によれば
閏四月十八日、奥羽鎮撫総督府参謀世良修蔵・参謀伊地知正治に移牒して白河城の急を報じ援を乞う。正治乃ち薩・長・大垣・忍四藩の兵を率いて来援す。
又二十五日の記に、参謀伊地知正治薩・長・大垣・忍四藩の兵を督して白河城に迫る。賊嶮けんに拠って抗拒す、官軍克かたず、芦野に退守す。
又二十七日の記に、参謀伊地知正治薩・長・大垣・忍四藩の兵を督して芦野に次し、将に薩・長・大垣三藩の兵の宇都宮に在るものを合し大挙して白河城を攻めんとす、因って土佐・彦根二藩の今市駅及び日光山にある者を分ちて宇都宮を守らしむ。
西軍の二十五日の敗戦が江戸に達して因州・備前・大村・柳川・佐土原の兵が来援することとなり、芦野の西軍は宇都宮よりの増援を得て其の数、七百余人、砲七門を以て白河に迫ることとなる。閏四月二十九日、西軍来襲の報あり、之に対して東軍は遠山伊右衛門・鈴木作左衛門・小池周吾・小森一貫斎の会将・瀬上主膳の仙将・棚倉の平田弾右衛門等兵を以て桜町方面を守った。
白河口方面には井口源吾・杉田兵庫・新撰組山口次郎等が向った。
原方々面は日向茂太郎長坂山の麓に塁を築き、井深右近これに加わって其の兵数合せて二千余人、砲八門であった。日向茂太郎五月朔日米村に戦死。いよいよ五月朔日午前四時、西軍三道より白河城に迫る。
其の一は薩・長・大垣の兵、砲二門を以て黒川村より原方街道に迫った。
原方方面のこの西軍の案内役を勧めたのは上黒川村の問屋内山忠之右衛門であった。五月十八日に至って会津藩は忠之右衛門宅に押入り之を捕まえて会津に連れ行き入牢せしめ、八月二十二日に斬首せりと伝う。忠之右衛門時に年四十二歳。墓所は西郷村大字小田倉字備前にある。後、官より祭祀料一百五十両下賜。
其の二は本道を進んだ薩・長・大垣・忍四藩の兵である。
其の三は白坂村より大平八郎を案内として南湖の南に出で桜町、棚倉街道に出た。
斯くして東西両軍の大激戦となったものである。
五月朔日の東西両軍の砲数に就て大山元帥伝に、東軍は会二門、仙六門、棚倉二門、西軍は本道四門、黒川方面三門、桜町一門とある。
維新史料に云
閏四月二十八日、白河城を攻むるの議ありしかど、果さず。五月朔日午前四時を進発の期とし、兵を三道に分ち、薩の二番隊・四番隊は、白河の南湖をめぐり棚倉街道に進み、三番隊、大垣一小隊は本道より進み、五番隊並に大垣・長州・各一小隊は白坂駅より左の方黒川村に進み、それより原方へ出づ。此の時本道已に戦を始む。是れ即ち最初の約束にして、敵をして本街道に力を用いしめ、左右の翼各々敵の背後に至らば、火を揚げて以て一時に攻撃を始むるものとし、其の距離棚倉街道第一なるを以て同所に火を揚ぐるを期とす。已にして烟けむり炎天を蔽おおう、仍って進んで大に奮激す。敵兵三面に敵を受け、防戦二時間余、猶砲台によりて守禦す、官軍進んで砲台に迫る。賊遂に潰走す。先是我が三番隊は迂回して長坂山の賊を追撃し、四番隊と合し、町口の台場を横撃す。於是賊兵大に潰乱す。仍て又一小隊を二分し、本街道の後山に登り背後を断ち四方一時に攻撃す。賊兵狼狽し進退途みちを失す、此の日首級六百八十二なり。四斤半の旋條砲を鹵獲ろかくす。これ嘗て米国の贈る所、当時我が国僅に二門を有す。これその一なり。
元帥公爵大山巌伝には
五月一日
敵軍は其兵力優勢にして、仙台・会津・棚倉・旧幕兵等約三千に達するに拘らず、白河南側に陣地を構築して官軍を待てり。
第一次戦闘後官軍は増加隊を得て、其数七百余に達し、三方面より白河を包囲攻撃せんとす。
右翼隊は棚倉街道方面を迂回し、敵の左翼及び其側面に出づ、その兵力薩二・四番隊・臼砲一。
中央隊は正面に於て陽攻し敵を牽制す、兵力薩砲二門・臼砲打手・兵具隊。大垣二隊、長原田小隊砲一門、忍藩砲一門。
左翼は黒川方面より原街道に出で、敵の右翼を包囲攻撃す。兵力薩五番隊・二番隊・砲隊二門、長一中隊と一小隊。大垣二隊・火箭かせん砲一門。忍一小隊。
払暁予定の如く諸隊前進し、午前六時頃中央隊先ず砲火を開きしに、敵全く正面に牽制せられ、しばしば出撃せんとす。此間両翼隊の包囲全く成り三方より敵を攻撃し午後二時に至り是を潰滅す。
諸隊は白河を占領し、隊伍を整頓し其地に宿営す。官軍の死傷約七〇。敵は死屍六百余を残し、本街道並に諸間道より散乱退去し、会兵は遠く勢至堂付近に、仙兵は二本松に退却す。爾後官軍は同地に滞在して前進せず。
これが西軍の記事である。
南湖公園鏡山にある阿部藩の碑に
五月朔日、官軍囲攻、城兵禦之、奮激戦闘自晨至午、雷轟電撃殺傷相当、而衆寡不敵守兵弾尽刀折、城遂陥、乃退守金山。
白河町九番町口にある会藩の碑に
白河城当奥羽咽喉、為主客必争之地、我兵先拠之。閏四月二十五日、薩摩・長門・忍・大垣之兵来攻、相戦半日、我兵大勝、四藩の兵退保芦野。五月朔日、復自白坂・原方・畑諸道及山林間道来攻、欲以雪前敗其鋒甚鋭。我将西郷頼母・横山主税各率兵数百、与仙台・棚倉兵共当之。自卯至午、奮戦数十百合、火飛電激、山崩地裂、而我兵弾尽刀折、三百余人死之。仙台・棚倉兵亦多死傷、城遂陥。
白河戦争報告記に
この記は白河本町庄屋川瀬才一が明治三年八月二十七日に白河県へ戊辰の戦況を報告した記録である。川瀬庄屋は弾丸雨注の中を侵して見聞したと言われているから実記と見るべきであろう。
五月朔日卯の上刻、官軍勢五百人、九番町木戸外まで宵の間に潜み、彼所に潜みかくれ、夜の明を待ちて打出てたる砲声の烈しき人目を驚かす。此度は東京口・米村口・原方口・棚倉口を官兵方は四方より討入候故、会藩の手配案に相違し大に周章し、棚倉口の固、第一に破れ候故、挟撃ならんと心付候哉、桜町・向寺町に放火して引退く有様東西に廃れ、南北に走る其の混乱蜘蛛の子を散らすが如し。東京口・米村口・原方口一度に破られ、人数引上げの時登町に放火す。如此四方共に破れ惣崩となり候故、其の日の死亡六百八十三人。
此の日の戦に会藩の副総督横山主税は稲荷山に奮戦中弾丸に中って倒れた。戦猛烈にして遺骸を収めて退くに遑いとまなく、従者の板倉和泉僅に首を馘かくして退いたという。
会津史談会誌に柴大将の談として「白河で戦死された、家老横山主税殿の葬式行列は殿様の行列も見ない奴振りなどが出て、立派なものであった」と、記してある。
軍事奉行の海老名衛門などは龍興寺の後山で血戦し、為すべからざるを知って自ら腹を屠って死んだ。
寄合組中隊頭一柳四郎左衛門も死し、混戦状態となるや、総督西郷頼母馬を馳せて叱咤衆を激励するも潰乱制すべからず。頼母決死進んで敵を衝かんとす。朱雀一番士中隊小隊頭飯沼時衝轡くつわを把って諌いさめて曰く、総督の死する時にあらず、退いて後図を計れと、頼母聴かず、時衝乃ち馬首を北にして鞭って向寺の方面に走らす、頼母遂に勢至堂に退く。
棚倉藩の将阿部内膳は桜町口を守った所謂十六人組の勇将であったが、奮戦負傷し金勝寺方面に避難し遂に倒れた。金勝寺に避難する時、白河中町の商人五十八歳の小崎直助が力を添えて阿武隈河を越したという美談が今に伝わっている。小崎直助は白河町の旧家であり、阿部様出入の商人である関係上此挙に出でたものであろう。
「仙台からすに十六ささげなけりゃ官軍高枕」
という里謡りようが当時歌われた。
仙台からすとは仙台藩の細谷十太夫の率いた一隊で、須賀川地方の博徒百余人を募り衝撃隊と称し、神出鬼没、夜襲が巧で屡々しばしば西軍を苦しめたもので、黒い布で覆面し黒装束をして戦に参加したもので烏組の名がある。小田川村の宝積寺などが本営になっていたものだと地方の人は話している。西郷村の鶴生にも烏組が居って出没し、西軍を苦しめたとの話が残っている。
十太夫常に部下に謂う。「敵は銃隊であり、遠きに利あり、一二人斃たおるるも意とする勿れ、先ず敵を衝け」と。西軍烏組に苦しめらる、これは五月朔日のみでなく、その後にも西軍を辟易せしめたものであった。十六ささげとは、白河地方で栽培する大角豆ささげの一種である。棚倉藩十六人組を指す。棚倉十六人組は洋式の軍装によらず、我が国古来の戎衣じゅうい兵器を用い、甲冑に身を固め槍・弓矢での装束であったという。
棚倉藩決死十六人組の氏名左の如し。
阿部内膳
有田大助
大輪準之助
北部史
志村四郎
川上直記
梅原彌五郎
須子国太郎
宮崎伊助
鶴見龍蔵
宮田熊太郎
湯川啓次郎
岡部鏡蔵
村社勘蔵
野村絢
山岡金次郎
有田大助は幕末の風雲に際し緩急に備うるため、文久二年白河田町の刀鍛治固山宗俊に託して刃渡ニ尺六寸五分の名刀を用意した。この名刀は現に西郷村の鈴木市太郎氏が所有している。此の種の用意は当時の武士には多かったことであったろう。
五月朔日天未だ明けぬに西軍鼓譟こそうして路を分って迫り来る。仙台藩の参謀坂本大炒は天神山に上って之を望む。時に西軍山に拠り、水に沿うて要路を?ヤク 手編に危していた。大炒先頭に立って命を下して突進し、敵を横合から衝いて西軍を辟易せしめたが、大炒が紫旗を林端に立つと飛弾雨注した。従者避くることを勧めたが肯がえんじない。決死の士十五・六人と阿武隈河を徒渉としょうして進んだが銃丸に頭を貫かれその場に斃れた。僕の庄太夫これを背負うて逃れしも途に絶命し、今村鷲之助代って屍を担うで陣中に至ったので遺骨を漸く仙台に送るを得たりという。これが坂本参謀の白河口奮戦談である。
先に世良参謀を福島に暗殺するの計をなした仙台藩姉歯武之進の勇戦談もある。武之進は仙台藩五番大隊の軍監として瀬上主膳に属し白河に出陣し、奮戦するも仙軍利あらず退却の時、独頑として動かず、敗残の兵を指揮し自ら大砲を放ち、抜刀躍進したが弾丸頻に至り流弾に中って斃れた。これも五月朔日のことである。
今に地方に伝わる五月朔日の戦に就ての翁媼おうおうの談を記して見る。
白河鍛冶町小黒万吉翁の談
西軍で強いのは薩長、東軍で強いのは会津であった。戊辰の戦は会兵と薩長兵の戦であると言ってもよい。西軍は戦争は上手であったようだ。兵器も西軍の方が新兵器を多く使った。又薩藩は一人でも二人でも銃の声を聞くと吾先に進んだ。
五月朔日の戦の日、八龍神に水車屋を業としていた槌(?)屋桝吉の妻が分娩後五日なので、八竜神の土橋下に避難していた。通り掛った西軍の士、赤児に勝軍太郎と名つけて、曰く官軍は町人や婦人には手は掛けぬ安心せよと。今に伝えて美談としている。
白河年貢町石倉サダ媼の談
媼は当時十六歳。
五月朔日、官軍は九番町、桜町方面から攻めて来た。会津様は敗れて血まみれになって町に逃げ込む。町の人達は老を扶け幼を負うて皆横町から向寺道を逃げたものだ。そのさまは大川の水が流れるようであった。うしろを振り向く暇などあったものではない。躓くものなら倒れる。その狼狽さは何というてよいか譬たとえようがない。今でも思い出すとゾットする。私達は向寺から根田・本沼を通って船田村の芳賀の親戚に身を託した。
白河二番町の後藤みよ媼の談
私が二十四の年だった。閏四月二十日に二本松様が白河城を守っていた所に、会津様が道場小路から攻入った。小峯寺の住職が鐘を撞いたので会津様に狙いうちされた。二本松様は根田の方に退いて、会津様が白河城に入った。
五月朔日には子供二人を連れて内松村の叔母の所に避難した。五月朔日の戦争の跡を見ようとして白河に来た時、九番町の所で大男の屍が路傍に横ばっているのを見たが惨酷なものであった。内松を引あげて白河に帰って来たのは七月末頃と覚えている。五月朔日の日はジクジクと雨の降る日であった。
白河町熊本籐三郎翁の談
私が二十一歳の年が戦争の年だ。白河城は明城で、仙台様は町固め、平様は市中廻り、三春様は木戸見張りの役であった。
四月二十日に会津様が道場町から入って城を取った。
四月二十五日、西軍と東軍との最初の戦で西軍が敗れた。四月二十七日には戦はない。五月朔日には大戦争があった。私は四月二十九日に棚倉に買物に行き留守をなし、その帰りは五月朔日、金屋町法雲寺の住職と上野出島で出会った。住職曰く、「大戦争である、白河に帰ってはならぬ」と。そこで私は桜岡の英助の家に行き、翌五月二日家に帰った。二日には勝負が決して至って穏であった。
翁の談によって四月二十七日には戦争がなかったことがはっきりする。二十七日に戦があったようにも伝えられるのは誤である。
西白河郡西郷村大字米の小針利七翁の談
戦争の年は十五歳であったが。よく戦争は判っている。
五月朔日、米村に戦があった。当時米村は四十戸であった。皆会津様の宿をした。四百人からの屯所であった。私の家には十人も泊っていた。米村は会津贔屓であって何とかして会津様を勝たせたいと祈ったものだ。官軍は下新田の観音様付近に大砲部二門を据えてドーン、ドーンとうった。会津様は立石に陣を取った。
いよいよ米村の会津様が出発する。日向大勝(日向大勝は米村の兼子大庄屋に居られた。)は陣羽織を着て、中山に官軍を激撃せんと指揮したが、官軍に狙撃されて死し、ために会兵の士気衰え、米の南の田や堀を越えて米部落に引揚げた。
この戦に会兵の一人が米の南で弾丸で腹を貫かれて斃れた。天保銭十三枚所持していた。
仙台様は堀川の西南、古天神を守ったが破られて金勝寺に退いた。立石稲荷の前では会兵が十三人も討死した。
この日に生捕になった東軍は、翌日に白河の新蔵の土橋や円明寺の土橋の所で斬られ、胴も頭も谷津田川に捨てられた。今円明寺の橋の袖にある南無阿弥陀仏の碑は、この供養のために後人の建てたものである。
白河七番町青木やす媼の談
私は十三歳。
戦争となると馬に乗せられて、小田川村の芳賀須知の親の里に避難した。毎日親が迎に来るのを待っていた。十五日も立って白河に戻ると、また戦争となり此度は黒川の親戚に行った。芳賀須知では他所からも避難者が集って各戸人が一ぱいであった。戦争というものは本当にオッカネァものであった。白河に帰って見ると家は官軍様に占領されていて、私達は板小屋に寝起していた。官軍様は服を着ていた。七番町の錠屋では炊き出しをした。
白河町七番町の柳沼巳之吉翁の談
私は十二歳。
親は家に居たが、婦人や子供は在の方へ移った。武士は農夫には構わなかった。
大平八郎が案内しなければ白河は破れなかった、大平の案内で桜町が破れそれで九番町口も破れた。会津様が大平八郎を恨むのもわけがあることである。
白河町桜町渡部秦次郎の談
五月朔日の戦に東軍の士で十六七歳の者六人生捕となって桜町の街上に至ると、首を取るから首を差しのべよ。となった。六人の者何れも覚悟して西に向って手を合わせ立派に斬首されたという。その遺骸は町の人が寺小路の榎えのきの下に葬った。
著者が三神村酒井寅三郎氏に聞くに、海軍大将日高荘之丞閣下は白河口では白河町菖蒲沢で奮闘されたという。閣下は明治の晩年に数回に亘って矢吹の宮内省御?場に来り酒井氏に泊まられたのである。
五月朔日の東西両軍の兵数に就て、復古記所載の五月七日白河口諸軍への達書に
白河城乗取、大に朝威を賊地に振い敵鋒を摧くじき、策遠算なく、頗る愉快の勇戦を遂げ、実に欣然踊躍きんぜんようやくの至りに不堪、天威之所為と雖、偏ひとえに将士捐躬えんきゅう力戦功に非らずんば如何ぞ数倍の賊兵をして一時に敗滅せしめんや。云々
又復古記白河口戦記に左の文がある。
是より先、会津兵・旧幕府捕竄ほざんの徒等、白河城を陥る。既にして東山道総督府参謀伊地知正治薩・長・大垣・忍四藩の兵を督して之を克復す(五月朔日)賊退いて仙台・会津・棚倉等諸路に分據ぶんきょし以て官軍の衝路を?ヤク 手編に危す。官軍亦兵を分かちて之に備え、相峙そうじして戦わざること殆どニ旬、此時に当り、仙台・二本松・棚倉・中村・三春・福島・守山等の兵前後賊軍に来り加わり、其の兵数凡そ四千五百人許に至る。而して官軍僅かに六百五十余人に過ぎず、衆寡敵せず、困りて援を大総督に乞う。是に至り、大総督府東山道総督を更めて白河口総督となし、尋て応援兵を発遣す。
会津藩の白河出兵数は約千五百人か。
五月十九日岩倉具定が東山道総督を免ぜられて奥羽征討白川口総督となり、同時に東山道副総督岩倉具経も奥羽征討白川口副総督となった。
五月朔日の激戦地帯は、九番町口・稲荷山を第一とし、白井掛・薬師山・龍興寺の裏山・蛇石・薩沢等白河市街の南方丘陵地で、市街戦はなかったらしい。桜町方面に小戦があったという。今龍蔵寺境内にある仏像に弾痕あるを見る。この仏像は元西蓮寺のものである。
勝ち戦であった西軍の死骸は白河本町の長寿院に運ばれて回向えこうをした。長寿院の住職は豪胆で寺を守っていたので、この寺に運ばれたものだと伝えられている。東軍は惜むべし、その死骸はそのままに遺棄せられて田圃に山中にあるを里人達に葬られて香華こうげを手向たむけられた。同情は勿論東軍に注がれた。後に至りそれぞれ寺小路や花見坂や八竜神に合葬されて里人に供養塔をも建てられた。
九番町辺の民家には一軒に五人六人、白井文蔵氏の宅などには九人、その隣には十三人も自尽されてあったと言う。これは東軍の壮烈を物語るものである。
大平八郎の間道案内
鎮台日誌第三に大平八郎の感状が載せられている。文に云
大平八郎
白川復城之節、棚倉海道間道筋案内、且白坂宿人場継立無滞致周旋しゅうせん、前後骨折奇特之至ニ候。依而手錠一挺下賜事。
六月
官版の鎮台日誌に一農民が所載せられたことは栄誉とする所であった。彼も戦後、時々鎮台日誌第三を見よと豪語したという。
然し会藩から見れば大平の案内がなかったらと敗戦とはならぬと怨んだ。
明治三年八月十一日会津藩士田辺軍次のために白坂村鶴屋旅館に大平は殺さるるに至った。大平を殺した田辺はその場で切腹した。田辺の墓は白坂村観音寺にあったが、後白河九番町の会津藩碑の側に移された。観音寺にあった田辺の墓は、高一尺八寸、七寸角、操刃容儀居士とある碑で、大平八郎の子息に当るも者が供養のために建てたもので、墓と共に松並の会津藩の側に移された。
閏四月二十九日の夜、大平八郎は薩藩四番隊長河村奥十郎(純義)に面接し、白河城討入の案内を託された。そこで白坂から五器洗を経、夏梨・十文字に出で、搦山の裏手に当る金山街道の蟇ひき目橋にかかり、搦山の石切山で白河討入の合図の烽火をあげ、桜町方面から入って東軍を破った。地理不案内の西軍にとってはこの案内が大成功の基をなした。その功によって大平は二人扶持となり、次白坂町人馬継立取締役を仰付かり非常な勢力を持つに至った。
白河町本町遲沢信三郎所蔵記録に
大平八郎
白坂順之助
遲沢新左衛門
当分白坂宿取締人馬次立云々
辰九月
白河口
会計官
この記録によれば大平八郎のみが取締役ではなかったものであろう。
この方面の西軍の道筋は夜の中に石阿弥陀を通って土武塚、八竜神に出でたとも伝えられていて、幾筋にも通ったものであろう。西郷村の和知菊之助翁の談によると石阿弥陀から池下に出たという。
白河金屋町の斉藤千代吉翁の談
田辺軍次が白河から白坂さして行く、皮籠原の一里壇の所に指しかかった時、白坂から来た白河天神町の古物商大木某に出会った。軍次は何とかして大平を誘い出す工夫はないかと苦心していた時である。その日は雨が少し降っていた日なので、その商人に近づいて
白坂方面の天気模様を尋ねた。
大木は田辺のボロ袴を付け胡座を着ている醜き姿であるのを侮り、会藩士とは心得ずに
何だかわからぬ
と答えた。
武士に向って無礼をいうな、容赦はならぬと。なる
大木は恐れて白坂に引きかえし大平を頼んで一命を請うことになって、当時会津藩の常宿であった鶴屋に詫を入れる。
この話は色々に伝わっている。千代吉翁は十二歳、畳職で父と共に畳替をした年だという。
第十章 西軍白河に滞在
五月朔日の大戦に西軍は全く白河城を回復し、白河市中に入る。白河城は前述の如く、奥羽鎮撫使世良修蔵在城、二本松藩及三春藩これを守る。然るに閏四月十八日世良参謀去るに及んで会津藩は白河城を取り、五月朔日には西軍が白河城を回復したのである。西軍は五月の初から七月頃にかけて白河に滞在したものである。
本町の芳賀本陣は西軍の病院に当てられた。皇徳寺も病院であった。銃丸の傷は竹製の水鉄砲で焼酎消毒をして荒縄で治療したという。当時の小銃丸は今日のものと違って直径一糎せんち四磨粍みり乃至一糎五粍、長さニ糎七粍乃至三糎もある鉛玉所謂椎の実玉であるから荒縄で治療したことも首肯される。当時尖頭弾丸を椎の実玉といった。
白河登町の大島久六氏宅には後の大山元帥(当時彌助)。天神町の菱屋には後の野津元帥が宿泊した。野津元帥は時に病に罹り菱屋飯田すいに世話になりたるを徳とし、元帥になられてからも同家に音信が屡々あった。先年元帥の女婿上原勇作閣下が来白、須釜嘉平太氏に一泊の時、専念寺の菱屋の墓に詣で義父の旧恩を謝された。
今南湖神社に奉納されてある上原閣下揮毫の「里仁為美」の額はすいの妹に当る大谷せいの奉納である。大山元帥は砲兵隊長として九番町口を攻め、五月朔日後は白河二番町酒屋大島久六に滞在と同元帥伝にも見えている。
本町の佐久間平三郎氏宅は当時油製造を業としてあった関係上、イゴ煎釜が長州藩の兵糧部に利用されたという。イゴとはエゴマのことで油を搾る原料である。大工町の吉成房次郎氏宅には薩藩の軍楽隊が滞在した。同氏の母堂かね媼は僅かに六歳であったが、今に太鼓の形や、笛の音を記憶していると語る。同氏には薩州四番隊金穀方と書いた大箱が保存されている。大きさは幅一尺四寸、深さ二尺、長さ三尺で、松材の五分板作りで左右に紐通しがある。
年貢町の大槻佐兵衛氏宅は大垣藩の本陣であったので、戦後も長く大垣藩士との間に音信があった。
松井幸太郎氏の父の宅は当時松並の権兵衛稲荷の前にあり、薩藩の宿舎であった。薩藩が白河を立って会津に向う時、永らく御世話になった形見にと陣羽織の裏地を置いて行かれた。今に同家に保存されて戊辰戦争の記念物となっている。その裏地は呉絽地で猩々しょうじょうが書かれてある。
天神町今井清吉氏には、官軍御用の木札がある。表に官軍御用と記し、裏に官軍の二文字が烙印されてある。材は杉、形は長方形で幅三寸、長九寸、厚四分、これは西軍が貨物に刺してその所有を明にしたのであろう。
┌───┐
│ 軍 官│
│ │
│ 御 │
│ │
│ 用 │
│ │
└───┘
||
||
||
V
中町の荒井治右衛門には弾薬を入れた器物の蓋が残されてある。一尺一寸位の矩さしがね形である。黒地に朱漆で丸に十の字がある。薩藩の遺品である。
天神町の藤田氏の記録に西軍の身支度を記して
官軍の身支度は賊軍とは大に異なり、隊長及び卒・人夫に至るまで身軽にして、単衣着に白木綿のヒコキ帯を締め、刀一本落差にして羽織・袴等を着用せるものなく、小具足等は尚更無之。云々
西軍の服装に就ては長寿院の什物として保存されている当時の薩・長・大垣・土・佐土原・館林の諸藩の忠死者百余人を描いた総髪姿の絵が最もよく説明している。
白河地方に今も残されている服装談は、西軍は膝きりの単衣、中にはツツッポダンブクロ、坊主頭、銃は元込め、阿部様は陣笠で袴を着けた。概して和洋折衷の服装であったという。
町内の商売は子供や婦女子は在方に避難したが、各戸相当に商いをしていたものである。年貢町大谷鶴吉では味噌が売れたと言い、二番町の八田部万平氏などでは酒屋であったが、戦争が始まると酒は売れぬが、戦争が止むと売れたものだという。
五月六日に、白河町問屋常盤彦之助が薩藩に殺された。白河町の常盤は、阿部の常盤か、常盤の阿部かと呼ばるる程の勢力を有したもので、徳川時代に於て住山・大森・大塚・芳賀の旧家と共に白河町年寄を勤め且つ問屋で地方道中取締の要職にあった。
白河年貢町石倉サダ媼の談
常盤の旦那が殺されたのは五月六日であった。
中町の常盤の旦那の家には、大森町年寄や、夫の林蔵や、新宅常盤が居合わせていた。
真夜中薩藩士二人が来て、旦那を用事あるによってと連出し、松坂屋横町、(今の中町から手代町に通)と横町にかかると、旦那を二人の間に挟んで、後から斬殺した。即ち暗殺であった。旦那の首は大手前広小路に梟された。
兼てから常盤家に別懇であった大工町の井筒屋の主人が、旦那の首を其の場から関川寺に持行胴と共に火葬にして埋めた。井筒屋の主人の罪は問われなかった。旦那の伴をした長吉は直に此の暗殺の由を常盤家に知らせると大騒となった。夫の林蔵はこれを久田野に避難していた奥様に知らせた。これから常盤家は勢至堂に避難した。戦争も止んだ十月になって常盤家では空棺で葬儀を行った。
序ついでに白坂村の大庄屋・本陣で問屋を兼ねた白坂市之助暗殺の事を記そう。市之助は江戸の御家人であるが、白河町年寄り大森家の養子となり、白坂宿の白坂家を嗣いだものである。閏四月二十五日西軍のために呼出され白坂宿の町はづれで殺された。
第十一章 輪王寺宮奥羽に下り給う
輪王寺宮公言法親王、後の北白川宮能久親王、五月十五日彰義隊が上野の戦で敗れると、宮は寛永寺を御出立になられ、幕府の軍艦長鯨丸にお乗り遊ばされて奥州に落延になられた。
五月二十八日、常陸の平潟に御上陸。奥羽同盟の磐城の各藩重臣は色を正して宮を迎え奉った。宮の平潟御上陸の御扮装は浅黄色の法衣を召された。平潟甘露村の慈眼院で緋の衣に替えられ、深網笠にて御顔を隠し給う。従僧としては彼の豪快寛永寺の別当覚王院義観である。常に御側を離れなかった。
五月二十八日、本多能登守の泉舘に御一泊、御伴三十人、本田家より御見送の士一百人、正午泉藩を御発駕。平坂野八幡神社領、高月台の社司飯野盛容邸に入らせ給う。
翌六月一日には平藩主安藤家から七百両、飯野氏より百両の献金があってこれを御用途に充てられた。
斯く磐城三藩の御警護によって宮は上市萱村庄屋阿部宅に御泊の上小野新町に御着、神俣・大越を御通過、熊耳くまがみ街道から三春に御着。時に六月二日。三春藩主秋田万之助後見秋田主税出でて奉迎、龍穏院に御泊。
三日、土棚を経て本宮に御着。四日、中山峠を越えさせ給いて五日猪苗代御着。六日若松御着。御滞在。六月十八日、若松御発。檜原の陰を超えさせられて二十日米沢御着。に二十七日米沢御発。二十九日白石城御着。七月二日仙台に入らせ給う。時に御年二十二歳。
宮は令旨を奥羽の諸藩に下して薩長の罪を算かぞえられ、君側の姦を払うべしとの事となった。諸藩は相謀って親王を推し軍事総督と仰いだ。七月十二日白石城に御出陣せられ仙台藩警護の任に当たる。此に於て朝廷は断然伊達・上杉の官位を奪った。宮の令旨は奥羽軍の士気を振わせた。
仙台藩記に云
七月二日、輪王宮、会津若松より仙台に転与。城北仙岳院へ入与。慶邦父子及び重臣其他奥羽列藩の家老共に至るまで面謁す。
また仙台藩記云
七月十二日奥羽列藩家老共会議の上、日光宮を促し軍事総督と称し、守衛の兵隊を付属し、刈田郡白石城まで出陣、各藩軍議す。
此の頃白石城には各藩の重臣が出席していた。棚倉藩からは西村吉太夫等が出席している。
七月十五日には棚倉藩老侯葆眞ほうしん公が白石城に到って法親王に謁している。
第十二章 東西相峙す二旬
東軍は五月四日に須賀川で奥羽列藩の会議を開いて各藩の部署を定めた。
上小屋方面へは会藩の総督西郷頼母・高橋権太夫・木本内蔵之丞・野田進・杉田兵庫・坂平三郎等の諸隊が陣し、上田八郎右衛門・小池帯刀等は大平方面を固めて羽太村を本営とした。
本道には仙藩の将益田歴治、二本松藩の丹羽丹波、会藩の辰野源左衛門等が矢吹に陣した。
会将の小森一貫齋・木村兵庫及び相馬・棚倉の兵は金山方面の守備に当たった。
愛宕山・八幡台に守兵を出し、刎石・二枚橋の要地に衛兵を置き、金山・七曲には塁を築き、夜は山々に篝火を焚き、西軍の隙もあらば忽ち襲わんとする勢であった。
西軍も亦白河に在りて防禦の策を施し、四方に番兵を出し、持場を定めて東軍に備えた。
本道・黒川口は薩兵。旗宿口・石川口は長浜・忍兵。湯本口・大谷地口・根田口及び白坂口は大垣兵。各々昼夜を厭わず番兵を出し一方大総督府に加兵を乞うた。
閏四月より五月にかけての西軍の指揮は東山道先鋒であったが、東山道先鋒総督岩倉具定は奥羽追討白河口総督となり、同副総督岩倉具経は奥羽追討白川口副総督となって西軍を指揮することになった。具定は具経の二男、具経は八千丸といいて具視の三男である。
西軍の其の局に当たったものは公卿と武士で、九條・沢・醍醐・岩倉・鷲尾等は公卿で、西郷・伊地知・板垣・世良・大山・渡辺等は武士であった。
五月二十一日に七曲の戦があった。七曲とは小田川村の泉田から小田川に越す所の地名である。此の頃の戦に仙藩の所謂烏組が細谷十太夫指揮の下に六十七人悉く抜刀して西軍を潰走せしめた勇壮な話は今に伝わっている。
五月二十五日、東軍白河に迫り、大田川・小田川・本沼等に小戦があった。東軍の小田川に集るもの百余人、薩・長・大垣の兵が之を破り、大田川を焚いた。大田川の焼かれたのは麦刈時であったと伝わっている。西軍の手負二人、長藩四番隊は鹿島口より本沼に向って東軍五・六十人を破り民家を焼いた。東軍死者十五人、長兵死者一人、傷兵一人。此の日大和田に東軍と大垣藩との小戦があった。
五月二十六日、また東軍白河城に迫る。棚倉口・矢吹口及び長坂大谷地の諸方面皆進み来る。時に柏野・折口より会兵も進みて戦う。東軍不利。また金勝寺・富士見山・仙台街道の左右の山等に戦あり、西軍の死者一人、手負三人、東軍の死者三十人余。西軍の記録によるこの日、白坂の天王山にある東軍は黒羽・大垣の兵と戦う。東軍は棚倉・中村両藩で死者十一人、西軍は死者一人、手負六人西軍の記録による
五月二十七日、小戦あり、金勝寺の東軍は大谷地に退いた。比石の焼かれたのも此の日である。
五月二十八日、金山の東軍白河合戦坂に進撃して小戦あり、釜子の東軍も亦進んで搦山に至るも戦わずして退く。この日死者東軍二人。
五月二十九日、東軍相議して払睦白河城総攻撃に移る。仙藩の砲兵隊長釜石栄治は白河関門に、芝多賀三郎は山手に、田中惣左衛門は羅漢山及富士見山に、会の高橋権太夫・木村内蔵之丞等は金勝寺から向った。会藩の蜷川友次郎・小池帯刀等は雷神山に、上田八郎右衛門・相馬直登・土屋鉄之助等は折口に、仙藩の中島兵衛之介は愛宕山方面より、会藩の小森一貫齋・木村兵庫等は棚倉口に各々備をなして、山々に篝火を焚いて西軍の隙を窺った。
西軍之に応じて本道・黒川口は薩、旗宿口・石川口は長・忍。湯本口・大谷地口・根田口及び白河口は大垣兵これを守った。
金勝寺方面まづ薩軍に向って攻撃を開く、仙藩の細谷・大松沢等苦戦したが根田及び長坂に退いた。会藩の小原宇右衛門の率いた砲兵は六段山及び金勝寺山を攻撃したが敗れ、坂本兵衛・遠山虎次郎等戦死。仙藩・二本松藩兵棚倉口より進んで土・長・忍三藩の兵と血戦し、棚倉兵またこれを援戦したが東軍は不利に終り、東軍は会藩の小原宇右衛門・杉浦小膳以下将卒十余人。仙藩は戦死八、負傷二十。西軍は長藩死一。負傷七。大垣藩死一。負傷六。薩藩死二。負傷十三。忍藩負傷五。黒田藩死二。負傷六。
阿部正功家記云
五月二十六日、東軍白河に進撃す。此の日払睦金山の兵進んで合戦坂及び十文字村に戦う。其の兵を分かちて白坂の屯営を撃つ、釜子にある各藩合併の兵進んで搦村に戦う。諸隊弾薬つがず合戦坂・白坂に火を放って兵を収む。此の日吾が藩の死者四人。(副軍目付太田友治・銃士林仲作・鈴木熊之丞・銃卒奥貫貞次郎、)傷者五人。
藤田氏の記録云
五月二十三日二十六日の誤記か。白河にある官軍総責と称し、奥羽軍は会津口・仙台口・棚倉口・白河口の諸方より責め来れり。そは金勝寺山及び長坂山より一手。米村口より一手。富士見山・向寺・坂ノ上より一手・搦山・合戦坂より一手。白坂口より一手。其の景況は金勝寺山・長坂山より来りたるは米沢・会津の兵にて山上より続々鉄砲を打かけたれども、官軍の人少のため進むこと能唯会津町土手の杉に隠れて応戦せるを見るのみ、奥羽兵多人数なれば容易に引上げざる有様なり。
官軍は向寺より不動様の坂下を通り、飯沢に出で林中より裏切したるため死傷を残して長坂村を指して逃去れり。米村口より来りたるは会津及び徳川の脱兵にて堀川端にて砲戦す。官軍阿武隈川より米村に至りて敵の後に廻りたり。敵は死傷を出し、米村民家を火し、羽太村に引上げたり。
仙台口より来りたるは仙台・二本松・三春の兵にて向寺坂上にて官軍と合戦中、官軍聯芳寺山より裏切、是れも敗軍小田川村に逃去れり。白坂口よりは会兵小丸山辺まで来たれるも引上げたり。
棚倉口は金山道・五箇村道より責来り、棚倉藩士権田東左衛門隊長となり、真先に進み来りたれば味方不動前に戦死。それがため進み入ることと能わず引揚げたり。斯の如く白河総攻撃とて来れるも時間に相違あり、払暁より開戦せるあり、十時頃より始むるありて敗る。
此の一戦後、町民は多く帰宅せり。
又藤田氏記録に云
官軍の出陣する時は、賊の砲声を聞くや否や直に銃を持ち、着のみ着のままにて寝所を出で、飯も食わずに我先にと出かけたり、御飯を食して御出掛といえば砲丸を食うから腹もへらぬ、飯は後から握飯にして持ち来れという。それ故官軍の戦は何時も早かりき。
奥羽勢の仕度は夫々身を纏め、宿舎主人に飯を炊かせ、十分腹を拵こしらえ握飯を持ちて出かけたれば官軍よりも遅れたり。
西軍の出陣のさまは一人でも二人でも砲声を聞くと出掛けたが、東軍は勢揃をして出掛けたものだという。大谷地に伝わっている話に「東軍の陣地が大谷地にあった、それを西軍は根田方面から攻めて来たが、あの根田と大谷地の耕地をつなぐ細流に沿いて上って来た有様というものは、何というてよいかわからぬ機敏さであった」と。
小田川村の佐藤庄屋は奥羽軍の屯営所であった、村の人夫が集まってよく握飯を作ったという。当時、多くザル飯を炊いた。ザル飯とは、沸騰している湯釜にとぎ米をザルに入れて煮たものであるという。
五月二十九日、東山道先鋒総督参謀板垣退助宇都宮より土軍を率いて白河に入る。
白河金屋町の斉藤千代吉翁の談によれば、大工町の常瑞寺が板垣参謀の陣営であったという。千代吉翁は袋町生れ育ったので、よくこの事は知っていると語る。
藤田氏の記録に板垣退助が白河に入ると、名札を出し、白河近在を探偵するものを人選せよという。藤田氏の家は町役人なる故に。探偵とは何をするものなりやと聞きたるに、笑うて実況を内々に聞取るものなりという。依って目明役めあかしやく(オカツヒキ)七・八人書出したり云々とある。同記録に、断金隊長の美正貫一郎もこの時来る。美正は二本松打入りの時、本宮の皮を糠沢方面から進んで渡る時に、大内屋の土蔵から狙われて戦死、屍は川に流れたり。後に死体を求むれども見えざりき。とある。
川瀬才一の白河県への報告書に云
二十六日、当所を真中にして会藩の徒等惣攻に寄来る、人数凡そ一万人有之候か。
東の方は桜岡村・新小萱村・根田村・向寺町坂ノ上関門まで寄来る。艮の方は葉ノ木平・六反山。乾の方は飯沢村・金勝寺村・阿武隈河を隔てて戦う。
西の方は折口原・水神原の辺より立石山・原方道・高山村・東京街道は皮籠村・小丸山・天王山・龍興寺・三本松。
南の方は鬼越村・南湖池下・焔硝・義五郎窪・蛇石・月待山。
巽の方は関山窪・兜山・豆柄不動・土腐塚・十文字原・合戦坂・味方不動・八龍神・山の神・結城の墟・搦目村・大村・鹿島村に至る。
如斯囲遶じょう無透間すきま押寄寄来り、卯の中刻より午の下刻までの大合戦なり。会藩方の大軍へ小勢を以て防戦する官軍方の苦戦は九死一生のその勢、恰も韋駄天の荒れたるが如し。見る者、聞くもの恐怖せざるなし、万方より打こむ砲声は百千の雷地に落つるかと疑うばかりなり。
如斯官軍方の血戦に恐怖せし会藩方は八方とも敗軍しける故、其の日の死亡数知れず、死骸山の如し。血は流水の如し。巳の刻に至り漸く砲声静まり相引に引く。
翌二十七日は午の刻より又々攻寄来り、日の落つるまで烈しく打合し、会藩は多く火縄筒故、官軍方六連発こめ故砲声別なり。
鹿島富山氏の記録云
二十六日の朝六ツ時、棚倉道に大砲の音致候。其の中合戦坂口の戦と相成候。其の日の総攻と相成候へども、鹿島口戦と相成候に付、村中の者は吉太郎殿の脇のバンカリの塀の中に老人子供まで皆すくみ候。
何れにも搦口大砲甚だしく候へば大砲の玉あんまり上にてわれ候につき生きたる空もなく皆同様に驚き今に命をはるものと覚悟致候内、白河より長州様の大砲二門下の川原ゆより搦目の奥兵めがけて甚だしく打こみ候へば、奥兵大軍とは申しながら、官軍は戦上手にて遂に奥兵を追い散らし漸く少し安堵致候得共、何うも致せ、其の夕より比石下より篝火ひかり昼の如し。
官軍は戦は勝ち候へども、奥兵大軍に候間油断に相成らず、村方の人足にて篝火一ヶ所へ五人づつ割当て昼は木を切り、夜は篝火を焚き、長州様固めの場所鹿島口・八龍神口・南口にて長州と忍との人数にて百五十八人許、奥兵は何分にも大軍なれば油断相成らず、長州様は鹿島村へ御出張相成、村中は御宿と相成候。
尤も度々の大雨にて橋も流れ通行も不都合故、村中御宿と相成候。その中薩州様少しくり込み、土州様も二十七日繰込候で長州様代りに相成候。
六月朔日、西軍二百人許と会津・仙台の兵と合して七曲坂に戦う、此日は西軍敗れて根田に退いた。西軍根田に火を放たんとす、東軍これを見て一斉射撃をして防ぐ、西軍屍を棄てて白河に退いた。東軍の傷々者二人。
六月八日、仙台の細谷十太夫和田山に陣した。西軍は富士見山からこれを砲撃した。
六月九日の刻、西軍数十人中を発しつつ、富士見山から進んだのを細谷組が之に応戦。仙台藩の大松沢掃部之助小田川村にあったが来援したので勝敗決せずに互に兵を収めた。
此の頃奥羽追討総督の任命あり。
鎮台日誌に云
六月十日御沙汰書
正親おおぎ町中将
奥羽追討為総督出張被仰付候事。
鷲尾侍従
大総督参謀被仰付奥羽追討白河口出張可有之被付候事。
とあって鷲尾侍従が大総督参謀として、白河口に出張となる。
六月十一日には、東山道総督参謀板垣退助、同伊地知正治を参謀補助として鷲尾参謀に属せしめたのである。而して両参謀補助は白河口の諸軍を督した。
六月十二日の大戦
この戦が五月朔日の激戦に次ぐ大戦であって、従って戦線も広かった。東軍はこの戦を以て白河城を回収せんとしたのである。
棚倉口よりは会藩の純義隊・棚倉兵・相馬兵。根田の和田山よりは仙藩の細谷十太夫・大松沢掃部之助。愛宕山方面より会藩遊撃隊頭遠山伊右衛門。大谷地口よりは会藩の高橋権太夫の砲兵及び仙台の中島兵衛之介、及び福島の兵。下羽太村より白坂口へ会藩の原田対馬・赤埴平八郎、仙台の大音武蔵。此の時には西軍の増援も来り、その勢大に振った。
棚倉口は薩・長・忍の兵に破られ、根田の和田山からの攻撃が意の如くならず、大谷地は薩・土の軍と戦い互に勝敗があったが、根田方面が破れたので退いた。
本道口愛宕山方面は遠山伊右衛門奮戦したが、敵弾に斃れ、其の子主殿屍を背負って退くも亦斃れ、伊右衛門五八、主殿三一、会藩殉難名簿に和田山に戦死とある。小松族・山寺貢等相次で死し、仙藩の大松沢当和田山砲撃して奪取したが、西軍の襲撃を受けて苦戦した。下羽太の戦況は有利で夜襲を行いて西軍を破り、進んで白坂村に黒羽衣を破るも大垣兵の来援があって退いた。
時に会藩の辰野源左衛門は、仙藩の細谷・大立目等と約して米村口より西軍を襲わんとしたが、仙藩の増田・大松沢と議会合わず、増田は矢吹に火を放って須賀川に退いた。
金勝寺山の会藩の砲兵盛に白河城を猛撃し、一時西軍を混乱せしめたが、西軍が上羽太・下羽太・関谷今羽太の字名。に火を放ったので共に敗れた。
福島藩隊長池田邦知等六反山に奮闘し、十四人討死したこれも六月十二日である。
相馬誠胤家記云
六月十二日、白河総攻の報告あり、黎明関山の跋号砲六発を期とし、各藩道を分かちて進む。我が藩大沼口に向う。敵月見・月待の両山頂に胸壁を構え僅に応戦するのみ、故に分隊の布列進んで山麓に迫り挑戦す。敵兵漸く加わり四斤砲を以て射撃す、我が兵大小砲を以て攻撃苦戦す。偶々会兵来り援く、時に仙・棚の兵合戦坂に進み戦うといえども死傷多く遂に兵を引いて走る。敵尾して来り、我が帰路を断たんとす、止むなく退いて八幡山に至る。敵敢て迫らず。各藩の兵と共に兵を収めて金山に屯す。戦死一人。
板倉勝達家記云
六月十二日、仙・会と共に外面村より大谷地へ繰出し、石切山にて砲戦、金勝寺の前山乗取り、討死手負者有之、午ひる半頃外面村へ引揚。夫より矢吹駅へ引取宿陣。
土州藩届書云
本月十二日、平明、白河表諸藩持口賊軍襲来、弊藩持場金勝寺山・飯沢山・湯本道等にて戦闘、午時頃賊軍潰走。諸手追撃、賊之宿営村落所々放火仕候。弊藩死傷之人員左之通
戦死 田中煌之助
同 黒岩兼之助
重傷帰営後死 楠瀬六衛
手負 北川源五郎
同 森本醇しゅん助
同 岡本虎之助
同 浅田悦七
同 田中茂作
一、討取 二十四級
一、生捕 二人
一、旗 二本
一、小銃 二十八挺
一、大小刀 二十九口
一、槍 四本
右之通御座候。以上。
六月
土州 板垣退助
薩州届書に
今朝五時頃、大垣藩兵の持場仙台街道之方に砲声聞候処、六字頃応援之兵差出呉候様、右藩より申来候に付弊藩三番隊繰出候中、追々賊徒引退候様子につき、八字頃より進撃、会津街道之白川より一里程にて大谷地村という所に賊徒屯集に付、左右より挟撃に攻寄せ終に撃破陣屋用具焼払候処、本街道方之賊営未堕味方半隊位にて合戦最中之由聞こえし故、又々右場所に攻寄せ砲台打破賊徒残らず追散し、陣営に放火、右両所にて討取候者凡三・四十位。石川街道口は弊藩持場所、仙台・会津・二本松等之賊徒多人数間近く寄来り、此方より半隊づつニ陣左右より廻りて追払い、夫より進撃二ヶ所の屯賊を討破り、会津隊長井口源吾以下討取候者四十余人、生捕一人、弾薬分捕不残凱陣。
原街道口も弊藩持場之処、十二字頃より遥之向に敵二百許追々相見え、且湯本街道口堅め之土州勢も余程進撃の様子に付、此方よりも撃出て、賊徒不残追散し討取少々御座候。尤も弊藩戦死手負左之通。
戦死 永野忠之丞
同 長束一郎
同 池田次郎左衛門
同 濱川彦兵衛
同 三原周助
同 黒田運次
同 小出謙齋
同 川崎一介
同 野田郷左衛門
同 種子田左衛門
右御居申上候。以上。
六月十三日
薩州 島津式部
相良次郎
大垣藩の届書によれば、白川城四方口々え賊徒襲撃し来り云々とある。又大垣藩の持場は仙台口・会津口であって、手負者八人。黒羽藩の届書によれば、今朝卯之刻頃西原黒川口より賊兵五十人程白坂駅固場へ襲来、追々賊兵相加わり凡二百人程に相成、双方砲撃。賊一人討取。味方には手負死人一切無御座候とある。
六月十二日の兵数
西軍、薩の兵数は白坂口・黒川口・石川口合せて六百人。長は棚倉口・旗宿口合せて百五十人。土は金勝寺山・湯本口合せて四百人。大垣は仙台口・会津口・白坂口合せて二百余人。忍は旗宿口百余人。黒羽は白坂駅百三十人。計千五百八十余人。
東軍、棚倉口、仙・会・中村・棚倉兵三百余人。石川口、仙・会・二本松兵二百余人。仙台口、仙・会・三春兵千余人。会津口仙・会・福島兵八百余任。金勝寺山、仙・会・福島兵五百余人。湯本口、仙・会・米・江戸脱兵千二百余人。合計四千余人。
此の日、大谷地・柏野・長坂等の民家焼かる。
西白河郡大沼村大字大和田鈴木伊左衛門翁の談
辰の年の戦争に大和田は仙・二本松半の屯所で、水野谷庄屋は会所であった。
官軍は桜岡の愛宕山から大砲をうって、それは激しい戦であったものだ。桜岡は二軒の農家が二本松藩のために焼かれたが、大和田は幸に一軒も焼かれなかった。白河口の戦争の終わったのは何でもお盆の頃であったろう。
西白河郡大沼村桜岡辺見フサ媼の談
戦争の年は私が十六歳の時だ。桜岡の戦争は六月十二日、桜岡では辺見林之亟という私の祖父の家と、その分家の私の家とが焼かれた。林之亟は桜岡一の金持であったので焼かれた。林之亟は小判を甕に入れて前畑に埋めて逃げたが、会兵に連出され、金を出せと脅かされて遂に埋めた金を出した。出さぬと殺されるから出したのである。
官軍は散髪でスッポ、ダンブクロ。人夫結髪、奥勢は結髪。
奥勢が引くと官軍はトコトンヤレ節で入って来た。「どうしたひどい目にあったな」とやさしい詞であった。村では握飯を出して御馳走した。村中の薪は皆奥勢に焚かれてしまった。序にトコトンヤレ節を付記しよう。この歌は品川彌次郎が士気振作のために作ったのが始であるといわれる。今に白河地方に残されてあるものは沢山ある。ニ三を記して見る。
宮さん宮さん、お馬の前にキラキラするのは何じゃいな
トコトンヤレトンヤレナ
あれは朝敵征伐せよとの、錦の御旗じゃ知らないか
トコトンヤレトンヤレナ
これは全国的に有名なものだが、短いものに、
国のみやげに生首さげて、白河立つときやお目出度い。
長い刀はだてには差さぬ、朝敵征伐するためよ。
軍する身と生れてからは、どこのいづこで果てるやら。
薩藩くつはでとまらぬ時は、長州鉄砲で攻めてやる。
小田川村大谷地の草野初吉翁の談
私は元治生まれで戦争の事をかすかに覚えている。
伝え話によると、大谷地は会津口なので度々戦争があった。根田の方から官軍が河に沿うてやって来た。会津兵は外面の方に引退いた。大谷地の前の山を田中山というが、ここに官軍が陣し、月の入山には会兵が陣した。今に田中山に塹壕がある。
彌次郎の曲と(曲門)で会兵が非常にやられた。
金勝寺山と草取山で大激戦 此の時会将の望月新平様が殺された。大谷地は皆焼かれてしまった。私などは母親に負われて下小屋に避難した。
信夫村外面の国井清太郎翁の談によると、会将の望月新平という偉い武士は外面村の国井営七宅に宿っていたが、惜しい事に金勝寺山で斃れたと言っている。
信夫村の飯土用の岩谷平吉翁はいう。望月様が金勝寺山でやられると、とてもこの重傷では会津に帰られぬから、首にして国に送れと遺言した。首は飯土用を通るとき槍の先にかけて通った。
望月新平は望月新兵衛の次男で義集隊小隊長で、五月二十六日金勝寺山に戦死。時三十一。
会津史談会誌に柴大将の談として望月新平の葬式の事が記されてある。曰く
望月新平の葬式の時、馬場口門で、御門番が仮門が間に合わぬ、暫く行列を止めてもらいたいというと、或る老人が大声をあげて「目出度戦死された武士の葬式に仮門とは何事だ」と叱りつけて無理に通したという。
仮門とは葬式行列が郭門を通るとき、長い葦を三方に立てて其下を通すことで、御城門の不浄を避けたのである。
平吉翁の談
戦争では、羽太も柏野も、米も、真名子も、根田も皆焼かれたが飯土用だけは焼かれぬ。
それは会兵が飯土用を焼くために下小屋からやって来ると、大勢の兵が白馬に跨って之を遮ったので焼失を免れた。その白馬の兵は飯土用の鎮守鹿島の神である。
飯豊坂にも刎石にも今に土塁が残っている。刎石山は大谷地も根田も一目に見える景勝地点である。会兵は滑川、飯土用を根拠として白河に繰出した。出発の時は勇しいものであったが敗れて帰ると悄然たるものであった。白河攻撃の時、村の者は皆人夫に使われた。物の運搬、夜になると篝火焚。
会藩がいよいよ飯土用を立退く時兵器などを形見に残して行ったものだが、明治政府の厳達によって差出し、今は残っていない。
今地方で発見する小銃の弾丸に横線のあるのが西軍のもの、線のないのが東軍のものだ。
私は会兵が飯土用を引払った後に、黒羽藩の人夫として三斗小屋に行った。その時に実際の太刀討を見た。
黒羽の将の十八歳になる者が、会兵に発砲すると不発であった。その隙を見た会兵がその将を倒した。すると其の部下が太刀を振りかざして向って来た。会兵はこれを討殺した。次に追って来た黒羽藩兵と一人一人太刀討をやって七人まで倒して仕舞ったが、八人目に勢がつきてやられた。汗を握って見て居たが、機をはずさずに白河に逃げた。大根の味噌漬一本を三人で嘗めながら辛くも帰宅した。
西白河郡大沼村搦の内山粂楽翁談
私の家は戦争中は官軍の陣舎、何でも昔からの物は全部その時散乱して仕舞った。物を後の世に残して置くなどの考はあったものでない、命だけの存続を考えたものなそうです。
六月十二日の戦がこの辺での大きいものであった。今の県道の所には谷津田川が流れていた。阿武隈河は今のように搦部落に近く流れないので、もっと北を流れていた。私の家と谷津田川との間には長い土手があった。奥兵はそれによって鹿島方向の官軍と戦った。すると後山から官軍がやって来て奥兵は挟み討となったので守が破れて谷津田川に沿うて比石に逃げたが、奥兵は搦の谷津田川で七人やられた。今ある供養塔はこの七人を弔ったのだ。
内山家は大庄屋で、感忠銘を建てた内山重濃の後である。当時の小銃丸の弾痕が今に座敷に残っている。
大沼村久保の辺見サト媼の談
戦争の年は二十一。
昼食を食べていると屋根に鉄砲玉がヅトンとやって来た。ソレ大変と食を中止して逃出した。この日は六月十二日である。戦争中後の山麓に穴を掘って住まった。
私がその穴にかくれていると。男はおらんかとやって来る。生きた様はない。久保の男皆郷夫に出て残るものは女計。
その中に奥兵か官軍か判らぬが、傷を負うて血だらけになってやって来て、休ませて呉れという。私は飛出した。後に見たら絶命していた。戦争というものは恐ろしいものだ。今でも当時の事を思うとザワザワする。
久保地方の話によると、西軍は鹿島の裏の愛宕山に拠り、東軍は久保の愛宕山に拠りて対陣したという。六月十二日の戦は東軍不利で本沼に退いた。
今、畑の中、田の中に小銃丸が見付かる。久保方面の東軍の戦死者は六地蔵の所に里人が合葬した。この六地蔵の地は桜岡に面する久保の西で山王坂の入口である。
六月六日大総督府の達によると、焼討をして民を苦しめることは厳禁されているが、事実焼討は行われた。
大総督府より諸軍への達書云
賊徒追討之節縦令巣窟タリトモ放火堅被禁候事
六月
大総督府下参謀
第十三章 西軍棚倉城に迫る
六月十四日、大総督参謀鷲尾衆は阿波藩を率いて江戸を発し、六月二十三日白河に入り常宣寺を本営とした。
この頃奥羽追討総督は正親町公董きんただであることは前記の通であるが、七月五日に正親町総督が江戸を出発せざる中に罷めて、七月九日に鷲尾大総督参謀が奥羽追討白川口総督に仰付かった。八月九日には鷲尾総督が罷めて、復び正親町公董が之に代わっている。鷲尾総督の辞したのは所労の故であった。
御沙汰書に
依所労被免候事とある。
又正親町陣中日誌に下の記が見える。
鷲尾殿御不快につき御交代となる。
正親町総督は八月七日参謀補助小代清八等を従えて江戸を出発している。
鷲尾大総督府参謀白河に着して、棚倉攻の軍議決し、翌六月二十四日、参謀補助板垣退助は薩・長・土・忍・大垣五藩の兵八百余人を率い、大砲六門を以て棚倉に向った。
追撃は関山前から二手に分れ、一手は薩藩百五十余人、土藩百余人旗宿通となし、一手は其の余の兵を以て本街道即ち郷戸通をした。郷戸には東軍砲台を設けたが破られ、関山上からも大砲で西軍に対戦したが効かなかった。
郷戸辺の老人の話によると、関山から打出した大砲の玉は目に見えたものであって着弾は遠くて南湖付近まであった。云々
白河町の老人の話によると、八龍神まで達したものもあったと言っている。
黒羽藩八十人は、白坂村から中野村に出で、白河よりの軍と合し中野の東軍を破り、又番沢で東軍と戦い金山村に至って本道よりの軍と合した。
金山村には仙台・相馬・二本松・棚倉の藩兵四百余人備えていたが番沢の砲声に驚いて退却した。棚倉城の手前には砲台を築き、左右に伏兵をおいて戦ったが敗北。棚倉藩は城を自ら火して退却した。時に二十四日の正午。
西軍の記に
官軍の進撃頗る猛烈、朽ちたるを摧くだくが如く、 云々
この日東軍の首級十五。長藩手負三人、土藩即死一人、手負一人
これを見ても棚倉落城の易々たることが察知できる。
阿部正功家記云
六月十五日、西軍の軍艦平潟に上陸、金山口の兵、仙台藩二小隊、中村藩一小隊、純義隊二小隊を分ち、及棚倉守衛の兵我が藩二小隊を以て中山嶺、御齋所嶺に遣りこの両道を防禦せしむ。是に於て使を三春・仙台等に馳せて援兵を乞う、来らず。云々。又二十四日払暁、西軍大挙金山口に来る。我が藩各藩の兵を合併して金山を本営とし白河道郷戸・中野両所に備う。此日西軍両道に分れ進撃、郷戸に迫ること最も急、我が兵防戦に勉むといえども、支うる能わず。西軍数歩に迫り防戦甚だ苦しむ。番沢は破られ、退いて松原の胸壁を保つ、砲撃死傷あり、会の隊長木村兵庫弾丸に倒る。此時純義隊小松村にありて戦を交えず。機を失す。中野の防戦また敗れ。両路の西軍一集して番沢に火を放ち、我が右を巡りて松原を横撃す。衆寡敵し難く残兵を率いて且つ戦い退く。逆川に至りて僅かに備を設く。西軍も亦敢て進まず、暫時ありて又激戦す。此時弾薬殆ど尽き、二藩の援兵已に去って寡兵支うる能わず、一軍挙って死を決す。然りといえども城兵寡にして苦戦察すべし。遂に兵を収めて城下に退く。此日釜子の兵も南方に当りて砲声を聞き本道に戦争あるを知る。直に間道を進んで横撃せんと南に向い疾馳す。而して社川暴漲ぼうちょう進むを得ず。於是棚倉の急を援けんと、川に沿いて又東に馳す。此時西軍金山口を破りて能坂越の間道を経て棚倉城の西南に迫りて発砲頻なり、我が藩奮戦防禦すといえども、四方出兵の故を以て城中寡く城又堅固ならず、不得止自焼して逃る。
此時金山の兵城下に及ぶ城既に破れて猛火万蔓延、却って西の進撃する所となる。因て山逕みちを越え石川に退く。又釜子の兵疾駆堀之内村の境に至る。棚倉に方って延々天に登るを見る。且つ落城の報を聞く。於此兵を収めて石川に退く。我が藩死者十一人。銃卒小隊長本田九左衛門、大砲士伍長奥原一、銃士三沢錦糸八郎、弾薬方内儀茂助、大砲士上田源八、銃卒村田磯吉、小林庄次郎、武川子之吉、農兵竹次郎、惣内、新吉。傷一人銃士田代金三郎。
勝敗は時の勢である。棚倉藩の苦戦察すべきである。
又阿部正功家記云
五月三日、阿部養浩家族を携えて旧領鉾衝村に避く。三日、美作守会津に往いて軍議す。
六月二十四日、葆眞城を出で須賀川に至り敗兵を集め、二十六日同所を出発し、領分伊達郡保原村に宿陣す。二十五日、養浩鉾衝村を発して会津に入る。二十六日、美作守会津を出て保原に宿陣す。家族藩中皆保原に移る。
八月三日、葆眞僅にニ三人を従え、領分出羽の山之辺に移住。同日美作守白石に入る。次で仙台に行く。十六日、養浩会津を出でて仙台に行く。
此の記事によって、棚倉藩主一家の当時に於ける動静が知られる。
序に白河藩主及び棚倉藩主としての阿部氏について略記する。
阿部氏の祖は有名な忠秋公で隅田川を渡った功によって旗本から抜擢されて武州忍に封せられた。阿部氏の家老平田弾右衛門、隅田川渡の時君公の馬に次いて渡る、代々家老となり弾右衛門を襲名した。
阿部正権まさのり
鉄丸と称し、文政六年松平氏に代って武州忍より白河に入部。
阿部正篤
正権の養子となり、文政六年家督。天保二年退隠。同十四年薨去こうきょ。
阿部正瞭まさあきら
正篤の養子。天保二年家督。同九年逝去
阿部正備まさかた
正瞭の養子。天保九年家督。嘉永元年退隠。明治七年逝去。
阿部正定
正備の養子。嘉永元年家督。同年八月逝去。
阿部正耆まさひさ
正定の養子となりて家督。元治元年逝去
阿部正外まさとう
阿部遠江守とうとおみのかみ正蔵の長男。元治元年本家を嗣ぎ、老中加判に列す。葆眞と号す阿部遠江守は旗本阿部氏の分家。
阿部正静嗣まさきよ
阿部正外の長男。美作守と称す。慶応二年六月皇居警衛を命ぜられる。慶応三年棚倉に移封。
阿部正功まさこと
正耆の実子にして正静の後を継ぐ。
此の頃白河大統寺の住職に賢邦というあり、薩人なるによりて、西軍と地方人との間に立って斡旋し大に地方人に便宜を与えたと伝えられ、又西軍の参謀の使となって棚倉藩に恭順を勧めたとも伝えられている。
大総督府より、白川口出張の伊地知、板垣両参謀補助への達書に云
去る二十四日、棚倉落城の節、各藩之内孰いずれの藩に候哉、市中或は農家に立入、金銀其外衣服等奪取候徒も有之候趣相聞、如何之事に候。兼て被仰出候御箇条も有之候故、向後屹度きっと取締可申旨、被仰出候事。
戦争当時東軍も西軍も、白河地方のみならず到る処鶏を取って食った事は事実である。衣服金銀の掠奪も多少あったものであろう。
第十四章 白河地方に砲声の絶ゆるまで
六月二十五日、長・土・大垣・黒羽の勢二百余人棚倉城を出発して釜子の陣屋を襲ったが、陣屋の兵退散して一人も居らぬ。斯くて陣屋は焼かれた。
釜子村深沢利平氏編集「新古釜子」に、戊辰釜子の役を記して曰く。
二十五日長州の田中隊森永彌助、五十嵐庄太郎の率いる軍勢釜子陣屋に入り込み、各所に於て砲火を放ち、陣屋並に民家を焼く、栃本の大崎山の西と東と土手を築きたるは此の時である。又釜子の寺山、深仁井田の刈敷山に土手を築きたるは薩州で、人夫一日の賃金小ニ朱金一枚(今の六銭二厘五毛)の高給なれば一日の中に成功せりという。湯長谷・二本松・仙台の兵に釜子陣屋の兵も加わり阿武隈河の対岸木之内山・瀬知房・川原田・吉岡へ陣取、薩長軍は栃本の天王山、深仁井田の刈敷山より鉄砲を放ち、互に戦いしが僅か三十分にして奥羽軍は退却せり云々。
昭和十二年十月発行の会津史談会誌第十六号に、釜子陣屋の義侠として野出蕉雨氏の談が挙げられている。
曰く 余が白河方面の軍事方を勤めていた時に釜子陣屋から軍用金として、一万両の提供を受けた。五回にも亘り駄馬によりて、長沼の本陣に持参した。是がために白河方面の戦闘の軍資金は、殆ど藩の補給を受くることなくして賄い得た。又五月朔日の戦には釜子陣屋は、立操隊長八木伝次郎が三十一人を率いて会津方に応援した云々。
此日白河では金勝寺・根田・大谷地・米村方面に小戦があった。此日会藩の総督西郷頼母刎石に来る。丹羽長裕家記によれば、
六月二十九日、西軍払暁霧に乗じて阿武隈河を渡り、河原田陣営に迫って砲撃す。急にして支うる能わず。我兵大に敗る。関和久の兵来りて応援す彼既に退く。これより関和久・河原田の諸隊引いて須賀川に転戦す。此役本藩の死者銃士南部権之亟・渡辺新介・軍医桐生玄貫とある。
西白河郡関平村の穂積誠氏の談によれば、六月二十九日早朝、蕉内道より大垣兵発砲しつ押寄せ来り、関和久村の入口緑川久吉・鈴木馬之亟へ火を放ちて焼失せしめた。また川原田・刈敷坂口より西軍押寄せたるため、村に駐屯し居たる奥羽諸藩の兵は驚き一方ならず、一戦も交えずに引揚げた。引揚の時下町の水戸元右衛門・木戸元兵衛方に放火し、ために大混雑であったという。
六月二十九日、仙台藩は七曲・小田川・矢吹を引揚げて須賀川に屯集した。此時仙台藩は矢吹駅が西軍の陣所となることを恐れて焼払う。
七月朔日、仙台藩の大立目武蔵・細谷十太夫会藩・二本松藩と兵を合わせて白河城の西に迫る。十太夫は天神町裏の胸壁を目あてに進んで発砲し、武蔵は白河城西の古天神の胸壁へ向って発砲し、烈戦阿武隈河を渡って攻め入る。西軍敗れて立石山に退く。この日、二本松藩は夜半潜に堀川に宿陣して白河の用水を絶って西軍を苦しめた。
七月朔日、羽太方面では、西軍は東軍の背後に出で上羽太・下羽太・関屋の民家に火を放って東軍の根拠地を奪った。
この日の戦に有名な飯野藩森要蔵父子の義戦談が伝えられている。上総飯野藩は会津藩と同系の藩で、要蔵は飯野藩保科弾正の臣会て撃剣を千葉周作に学び斯の道に達す。江戸に道場を開き門弟千余人に及んでいた。会藩の急を救わんと七十二の老齢を以て、その子虎尾十六歳と共に会津に入る。此の日飯藩三十六人、土州八番隊と下羽太に戦う。要蔵老齢身を挺して進み刀を揮って奮撃し流血淋漓りんり敵三人を屠って倒る。虎尾奮戦したが狙撃せられて倒れた。武士の殉義称すべし。西軍の隊中に川久保南皚なるものがあった。曾かつて江戸に在りて屡々要蔵と剣を試む、戊辰の役土藩司令官として此の日の草に会す、その屍の要蔵父子であることを知った。また西軍の隊中に要蔵の門弟があったので、下羽太大龍寺に厚く葬った。
七月十五日、東軍白河城を襲う。泉田・小田川・金勝寺・大谷地の各村に戦があった。
維新史に云
七月十五日早天、賊兵来襲の状あり。白河駐守の官軍は一隊を分ちて迂回せしめ、関和久の間道を経、小田川駅の山下に至る。伏兵横撃して大に之を破る。賊兵狼狽機械弾薬を捨てて潰走す。此日戦死傷算なし。官軍獲る所の首級五十余、大田川まで追撃す。
仙台藩記云
七月十五日、坂英力・真田喜平太等軍制を厳正し、白河を一挙に攻取らんと各藩へ布告、前夜より兵を諸道へ配り払暁より戦争。本道口大松沢掃部之輔かもんのすけ会兵合併二大隊余、新城口中島兵衛之介、関和久口と申所、並に棚倉口塩森主税へ会藩辰野源左衛門等合併、総手一同進撃、先勢根田町入口にて射合、総軍苦戦前日より大雨悪路に進撃難儀の処へ、官軍勢横手合の山手に潜伏と相見え後より発砲、進路極まり死傷者も多分に出し鏡沼に引揚ぐ、死者十七人。傷二十人。
七月二十四日、東軍四・五百人釜子駅に押寄せた。此日の戦、九ツ半から薄暮に至る。官軍の手負僅かに二人。
七月二十八日、白河在陣の土藩の兵湯本街道を巡邏。東軍は羽太・蟲笠・眞名子の各村の胸壁によって戦った。此日高助方面まで戦場となる。各村の民家の焼かれるもの多し。これは西軍が東軍の根拠を奪うが為であった。此戦を最後として白河地方に砲声が全く絶えた。
七月二十九日が二本松城の落ちた日である。されば二本松落城の頃まで白河地方に戦争があったのである。東軍は白河城を回復しようと努めたが成功せずに終ったのである。
会藩士差置品物改
白河中町熊田庄屋に、慶応四年八月、会津人数逗留中宿々之差置候品物改帳というのがある。
四月二十日に会藩は白河城を占領、それから五月朔日の激戦まで会藩は前後四十日間白河に滞在したのものである。慶応四年には閏四月があるので四十日である。
五月朔日の混雑に白河に差置いた所持品が、白河地方に東軍の姿を消したその年の八月に品物改が執行されたのである。其の人数の多数なるに比して其の差置品の少なきことは、如何に会津武士の用意の周到であったかを物語る資料とするべきである。
記録によると
一セイヨヲ二ツバント鉄砲 一挺
清三郎
是は八月二十五日一の堰と申所の杉林より見付申候。八月二十七日守山探索方日向梅次郎殿・熊田寅吉殿両人へ相渡申候。
一半弓
矢 十一本
伝助
是は去る四月中会津遊撃隊北原三郎様より預かり申候。右両人に相渡申候。
この記録によって会津藩は火縄鉄砲を使用した外に西洋式の兵器も使ったことが判明する。戦争前に会津には新兵器売込みの西洋人が入っていた。また会津藩は慶応四年三月には横浜のオランダ商店から七百八十挺の洋銃を買入れている。
守山藩は三春藩と相前後して恭順したので、其の筋で命令で探索に任せられたものであろう。
一脇差 一腰
林左衛門
是は出立之節宿へ差置候。
一鉄砲 一挺
平蔵
是は去る四月中、会津遊撃隊出立之節差置申候。
一セイヨヲ剣 一振
脇差 一本
伝吉
是は石切山の川村文吉へ人数出立之節差置申候。
一しない 二本
興次兵衛
是は人数宿に相成居候処、出立之節座敷へ差置申候。
一鳶口 一挺
本 三冊
政吉
右同断
以上の記録は白河町全町に亘るものでなく中町だけのものであろう。当時戦乱の折探索などとなれど各家々では皆戦慄して隠しなく申出でたものであろう。清三郎とか伝助とかは白河中町の町人の名前で申出人と見るべきである。
第十五章 板垣参謀三春に向う
六月二十四日、板垣参謀は白河を出で其の日11:58 2009/12/08の中に棚倉城を落し、滞在すること一ヶ月、七月二十四日、彦根・長・土・忍・大垣・館林・黒羽等各藩の兵を率いて棚倉を出発した。斯く棚倉滞在の長かったのは、棚倉地方鎮定のためではあるが、平潟口参謀渡辺清の軍が平地方を平定して北上するのと謀略を合せた為である。
大村藩渡辺参謀は薩(八百七十六人)、備前(六百六十九人)、柳河(三百二十人)佐土原(三中隊)五藩の兵を率いて東軍を小野新町に破って三春に進んだ。
鎮将日誌云
薩州藩届出(八月)
為三春城攻撃弊藩大村、柳川、佐土原一同去月廿四日岩城平発軍。渡戸、上三坂へ宿陣。同廿六日暁二字に右総勢同所繰出進軍の処、仁井町手前に賊徒台場を築き致発砲候に付、弊藩十一番隊三番大砲隊には頻に正面より発砲、十二番隊には右脇より散隊にて打掛、九番隊私領一番隊は右山手より賊の後を取切。勿論諸藩総勢も前三口より致手配及攻撃候処、七字頃より八字頃までの間に台場乗取。賊徒致敗走候に付、同所より十五六町先広瀬関門まで致進撃、十二字頃仁井町へ暫時人数相丸め、無程追軍候処、途中要地へ残賊屯集発砲候に付、悉く追払相進候折、最早夕六字頃と相成候に付、大越村に宿陣す。
三春城の儀、同日に棚倉表ノ官軍攻掛候処、不及一戦、城主秋田万之助始、家中一同降伏確認も有之に付、廿七日岩城平表出陣の総勢も三春城下に繰込み、両道の官軍会同仕候。尤於仁井町弊藩戦死吉井甚之助一人有之、討取の賊は都合五人に及び申候。
渡辺参謀広瀬口から大越を経て三春に入る時、若者の実父佐久間寅吉(田村郡牧野村)これを案内した。著者の父また三春藩勤皇軍の一人なので大総督府から賜った大総督府の肩章が今にあり、明治四年には三春県から下の感状を下附されている。
佐久間寅吉
戊辰危急之際、国事に勉勤諸所奔走周旋尽力之條、更に詮議を以て二帯金統一挺給与候事。
辛未十月
三春県
板垣参謀は七月二十四日、棚倉を出発、同夜石川泊、二十五日蓬田・田母神に分宿、下枝通をして三春に入る。
これより先三春藩士河野広中(当時二十歳)棚倉に来り、土州断金隊長美正貫一郎に拠って三春藩主恭順の意を板垣参謀に通じたのであった。
著者は大正十一年の夏、河野翁が白河甲子温泉滞在中に戦争当時の活躍を直接に聞えた。曰く
当時三春藩は主戦論と恭順論との両派に分れた。恭順論者は由来奥羽の地は東北に僻在して皇化に浴することが薄く、ために前九年役、後三年役と征伐をうけて来た。この度またも征伐を受けることは皇道に背く、西軍は錦旗の軍である宜しく恭順すべしと主唱し遂に恭順派の勝利に帰した。斯くして三春藩は一人の犠牲者を出すことなくすんだ。のみならず秋田家老を筆頭として百人の勤皇軍を出した。
と語られた。
また曰く
牧野村に猪狩次郎右衛門という豪家があった。これは三春藩五万石東部随一の富豪であり、且つ勤皇家で恭順説に共鳴して居った。且つ同氏の室は常陸笠間藩岩城神谷陣屋長氏の女であるので、三春藩としては多大の便宜があった。佐久間寅吉のこの戦争に参加したのも猪狩家との関係からである云々。
と話された。
河野広中は板垣参謀の軍を三春郊外貝山村に迎えた。板垣の軍は南から三春に入った。平潟口の西軍は北から三春に入った。斯くて七月二十六日、藩主秋田映季あきすえ(万之助)城を出でて降り、西軍は翌日城を収めた。此に三春藩勤王軍百人隊は組織せられ家老秋田主税これを率いて、二本松城攻略の先導をなし会津に入る。
備前藩の伊丹内記が大総督府への届書によれば
平潟口西軍の三春に入る二手に分る。一手は一小隊薩・佐土原両藩広瀬通をして進撃。一手は柳川・大村両藩浮金通りをして進軍、柳橋に宿陣致し翌二十七日三春に一泊。
とある。されば白河口の軍は三春の南から、平潟口の西軍は北からとは限らぬのであったか。
六月十日大総督府は参謀正親町中将を以て奥羽追討総督となし、木梨恒準(長藩)渡辺清を参謀として海路より兵を平潟口に出さしめた。六月十日江戸出発。同十六日平潟口港着。六月二十八日に泉城を取り、二十九日に湯長谷城を抜き、七月朔日に平城を攻めて勝たずして退いた。
七月三日には大総督参謀四條隆謌たかうたが仙台追討総督となり、七月四日に正親中将は総督を罷めている。
七月十三日は平城を抜き、平潟口の西軍はこの勢を以て一方は湾岸線を北進し、一方は三春に向った。海岸線北進の西軍は七月二十二日久之濱に着、八月朔日浪江に進み、八月四日中村藩を降して仙台追討に進んだ。渡辺清は明治二十四年六月十五日福島県知事となり、翌二十五年八月二十日退職後勲功によって男爵を授けられた。明治二十七年十二月逝去享年七十。
大山元帥伝によると
彌助(当時の名)共砲隊を率い田母神に宿営。二十六日三春に入る。八月二十三日、彌助会津大手門前に於て右股を貫通銃創し病院に入り、八月二十六日には三春龍穏院の病院に達し、その後三春より再び白河に入る云々。
此の記事によっても西軍の進撃の道筋が知られる。
第十六章 若松城遂に陥る
七月二十九日、西軍二本松城を攻む。丹羽長国米沢に去る。老臣丹羽一学等苦戦するも城陥る。
二本松城を落した西軍は愈々大挙して若松城に迫る。八月二十日板垣・伊地知の両参謀は薩・土・大垣・佐土原・大村の各藩の兵二千余人を率い二本松・本宮を発した。此時平潟口・白河口両道の西軍は同一行動に出ている。白河に守備した薩長土藩の兵皆集中した。二十二日石筵を破り、猪苗代に殺到し、翌二十三日若松城を囲む。これより城兵死守防戦に努む。
復古記云
督府、大挙して若松城を攻めんとす。乃ち諸軍を部署し、参謀伊地知正治・板垣退助をして薩・長・土・大垣・大村・佐土原六藩の二本松にあるものをして石筵口より、館林・黒羽ニ藩の棚倉及白河にあるものをして三斗小屋より並進して若松に入らしめ、尾張・紀伊・備前・守山四藩の須賀川・白河に在る者を長沼及び牧の内に差遣し、機を見て勢至堂口より向わしむ。また備前藩兵の磐城平に在る者を若松・二本松に差遣す。又参謀多久茂族をして勢至堂口に赴き肥前藩の兵を督せしむ。
とある。
八月二十一日には大総督府は安芸四百十九人、肥前三百人、中津四百十五人、今治百三十八人の五藩の兵の日光方面に在る者をして、藤原口より若松城に向わしめている。又大総督府は薩藩百二十四人、宇都宮ニ小隊をも藤原口より若松城に向わしめている。薩藩士中村半次郎後の桐野利秋軍監として之を督す。
鎮台日誌に
中村半次郎
薩州、宇都宮両藩之兵隊藤原口出張に付、可為軍監旨 御沙汰候事。
越後口方面に於ても諸所に西軍転戦し、九月十日は津川口より若松城に向い、九月十四日若松城を攻む。是より戦争殆ど虚日なし。十六日には米沢にある西軍また若松に至る。
会藩は包囲内に在ること一ヶ月四面全く交通を絶たる。この苦境に立つて老幼銃剣を執って力戦したが城中糧食つき弾薬乏しくなり、又米沢藩来りて降伏を勧告するに及び遂に議を決して降ることになる。
九月二十日、若松城主松平容保はその臣手代木勝任てしろぎかつとう・秋月胤永等を遣わして米沢藩に因って降を乞い、二十二日容保父子城を出して西軍に降った。
当時伊地知・板垣の両参謀の軍議は奥羽は厳寒の地である。今より三・四十日も立たば、必ず降雪の期来るべし、若し仙台・米沢討伐のために徒に時を費さば年内に賊根を断つことは困難に至らん、会津は根本で仙・米は枝葉である。根本を抜かば枝葉は憂うるに足らずとしてまづ会津に向ったのものであった。
両参謀のこの軍議を見るも会津武士の団結とその精神が偲ばれる。
八月十三日付の陸路白川口、海路平潟口の諸軍への御沙汰書に云
奥羽は時季已に寒冷且諸軍の奮戦にて最早会賊孤立滅夷の秋至れり、依て海陸の諸軍合併戮力致し速に会津へ攻撃可有之旨御沙汰候事
但、会津平定後は更に策を定め最前御沙汰之通速に仙台討伐勿論之事。
八月
とある。
白河地方人の談
若松城落までは曇った日が多く、降雨も多かった。
又白河を上る西軍の士に会津は落ちましたかと聞くと、まだまだと言って通った。云々。
白河在住の旧会津藩士上野良尚翁の語る所によれば、天はその中に降雪を以て会津を助けん、暖国の西軍憂うるに足らず、降雪を待って決戦せんと覚悟し、城中で凧をあげて悠然さを示したものであったと。
六百余年に亘る武家政治の終りの戦として会津武士の奮戦は正に我が国武士的精神の華であった。ここに至れるは藩祖正之公以来代々の藩主の訓練の賜物である。
第十七章 奥羽諸藩降る
九月四日、米沢藩は家臣毛利上総を遣わし謝罪書を越後口総督に呈した。
九月十日、二本松藩は白川口総督に罪を謝して、十一日丹羽長国は寺院に謹慎した。
九月十五日、仙台藩は家臣伊達将監を遣わして平潟口総督四條隆謌の軍門に謝罪状を呈し、九月十八日藩主伊達慶邦父子退城して城外に謹慎した。
九月十八日には棚倉藩主阿部正静が仙台より領地伊達郡保原に帰り、家臣斉田兵太夫を以て罪を謝し降を乞うた。
棚倉藩主の謝罪歎願書
今般私儀名文順逆を誤奥羽各藩同盟仕、奉抗官軍、遂に棚倉城地を離れ、何共可奉申上様無御座深奉恐入候。伊達陸奥様は同盟最寄之儀に付、一先仙台表へ罷越候処、右同人並に上杉弾正より厚く 叡慮之程奉伝承、恐悦至極奉存候。素心勤王之外毛頭ニ念無御座候処、全遠境之僻土に罷在、春来天下之事情も隔絶仕、恐多も厚き 叡慮之程も具に不奉伺、一時之行違より終に今日之仕儀に立至候段、誠以奉恐入、悔先非謝罪仕候。随て兵器悉く差上、伊達郡保原村陣屋下寺院へ立戻恭順謹慎罷在、家来末々屹度謹慎申付奉仰朝裁候。此上は何分宜敷御処置被成候様偏に奉歎願候。誠恐誠惶謹言。
九月十八日
阿部美作守
奥羽諸藩の謝罪状はこの様の型で大同小異であった。
九月二十二日、会藩降伏の日、公現法親王には使僧仙学院・松林院を四條総督の軍門に遣わして謝罪状を上った。此に於て四條総督は津藩をして親王の居館を守衛せしめ、十月十二日に親王を江戸に御送り申上げた。親王は後に御里の京都伏見邸に幽された。親王は後の北白川宮能久親王に在します。
九月二十三日、庄内藩主酒井忠篤も謝罪降服し、是に於て奥羽越悉く平定。十月二十九日大総督熾仁親王は東北平定の状を奏し、錦旗節刀を奉還した。
十二月に至って、奥羽越諸藩主の罪を断じて各々処分を言渡した。大体からいえば寛典であったので、奥羽の諸藩洪大の聖恩に感激した。時の詔にも「賞罰は天下の大典、朕一人の私すべきにあらず、宜しく天下の衆議を集め、至正至平号毫釐ごうりも誤なきに決すべし」と仰せられている。
斯くて会津藩主松平容保を鳥取藩主池田家に、容保の子喜徳を筑後久留米藩主有馬家に永預となし、仙台藩等各藩の所領を一旦召上げて、更に左記の所領を賜った。藩主の家柄に就いては藩主を江戸に謹慎せしめて血脈の者をして相続せしめた。其の減封相続の例を挙げると
藩名 新所領 旧所領
仙台 二十八万石 六十三万石
米沢 四万石 十五万石
庄内 十二万石 十四万石
二本松 五万石 十万石
棚倉 六万石 十万石
白河町村村社巌翁談
世上阿部藩が慶応三年棚倉に移封の際、六万石減封された如く伝えられているのは誤で、移封の時は十万石、戊辰戦争の処分によって六万石と減封されたものである。と
泉藩二万石、福島藩三万石、湯長谷藩一万五千石は各二千石の削封となった。
また平藩主安藤信勇を陸中磐井に移し、祖父信正を永蟄居に処し、会藩主松平容大には後に陸奥斗南三万石を賜い、明治二年五月十四日に至り、会藩の重臣萱野権兵衛、仙台藩の但木土佐・坂英力、南部藩の檜山佐渡、山形藩の水野三郎右衛門、村上藩の鳥居三十郎、村松藩の堀右衛門三郎・斉藤久七等を斬に処した。
会藩の田中土佐・神保内蔵助、米藩の色部長門、庄内藩の石原倉右衛門、棚倉藩の阿部内膳、二本松藩の丹羽一学・丹波新十郎、長岡藩の河井継之助・山本帯刀等は既に死んでいるので斬罪擬して家名断絶とした。此等の重臣は皆各々其の藩の責に任じたものである。会藩は近年に至り鶴ヶ城址に萱野権兵衛の碑を建てて其の霊を弔った。
明治二年九月二十八日、仙台・南部・二本松・棚倉等の各前藩主の罪を許し、米沢・福島・泉の各前藩主を従五位に叙じょした。また公現法親王・徳川慶喜の謹慎をとかれた。
明治五年正月六日、松平容保・其の子喜徳・松平定敬・旧二本松藩士丹羽富敬、会藩士秋月悌次郎等十六人の罪を許された。公現法親王は三品に、徳川慶喜は従四位に、仙台・南部・二本松・棚倉の旧藩主は各々従五位に叙せられ、東軍の諸藩等しく厚き天恩に浴した。
第十八章 西軍帰還の途白河に宿泊
東軍降伏となって、西軍は凱歌を挙げて各藩に帰ることとなる。これは会津落城の九月の頃から十月・十一月である。白河でわ旗舎は勿論、普通の人家・商家まで其の宿に当った。今日の陸軍演習の宿割のようなものが永く続いたのである。
宿料は一賄一朱、一泊がニ朱位であって、料金は直にその藩から受取ったものの外、大田原受取とか、二本松願出とかがあった。
白河中町の熊田庄屋所蔵記録に諸家様賄調書上帳、薩州様御旅籠調帳、大田原請取分諸藩様御賄調等がある。これは中町だけの宿泊調帳である。他はこれによって類推すべきである。今同記録を抄記して見よう。
十月十八日
一備前三番小隊
六人様 十八賄 金沢屋直左衛門
十月十九日
一備前三番小隊
四人様 十二賄 丸屋市兵衛
十月二十日
一薩州四番隊
十三人様 三十九賄 井桝屋吉兵衛
十月二十日
一薩州四番隊
上下十人様 三十賄 京国屋休兵衛
十月二十二日
一鍋島様二番隊
夜十九人様 朝十五人様 〆三十四賄
さつまや佐助
十一月四日
一薩州国文市郎右衛門様
六人様 十八賄 浅川屋喜助
十一月七日夕、八日朝
一岡本伴七様 小室屋常蔵
などとある。士ばかりでなく馬も荷物も通った。宿泊せずに一賄の昼食だけで通過した者もあった。
同記録に
〆金三十二両二分一朱百四十二文
右之通御旅籠被下置奉謂候。以上。
辰十一月 中町庄屋良助 印
とあって請取証にも武士階級に対する敬語がある。慶応四年九月八日に明治と改元したのだから、辰十一月は明治元年十一月である。
第十九章 東西両軍の墓碑及び供養塔
戦死之碑・供養塔は東西何れの軍に属するものでも、等しく忠節に殉せるの忠霊塔である。今の人その昔を偲んで香華を手向くべく、後の人も亦この志を継いて忠魂を慰すべきである。
先ず西軍の碑から記さば
(一)薩長大垣十三人之墓
碑石一基、白河町松並にある。所謂九番町口にある。碑名に
慶応四年
薩長大垣戦死十三人之墓
閏四月二十五日
とあった。大正四年に小峰城の東、鎮護神山に薩藩戦死者七名の合祀後、長州大垣藩戦死六名の墓と改刻して現在に至る。これは慶応四年閏四月二十五日の白河口戦争の第一線で、戦死した西軍勇士の霊位である。
明治九年六月、明治天皇奥羽巡幸の折御車を駐めさせられて暫し弔われた。
明治四十一年九月八日には、東宮嘉仁親王白河に行啓。松並にその霊を弔われた。
(ニ)長寿院西軍の墓
長寿院の営域に薩・長・土・大垣・館林・佐土原六藩の白河にて戦死した者、会津等にて負傷し白河にて死亡した者及び病死者墓が百十六ある。内訳して記さば薩が二十九、長が三十、土が十八、大垣十三、館林七、佐土原十九である。この中薩藩のものは鎮護神山に移された。
墓碑は一人毎に建てられ姓名、卒せし年月日、行年等が刻されている。この墓に詣でる者、誰でも若きは十六・七歳多くは二十歳前後の青年武士が勤王の志を抱いて遠く奥羽の地に苦戦した忠誠に感ぜしめられる。明治三十年頃までは切り髪に黒縮緬の紋付羽織を着た未亡人や遺族等の墓参もあったと伝えられるが、歳月を経る今は縁者の弔うものは更に見えない。されど地方人の志ある者は香華を手向けている。
白河に戦死した行年二十二歳の土藩辻精馬友猛の墓石に和歌が誌されてある。
都由跡知流つゆとちる 伊笑智母奈謄香いのちはなとか 遠羊蹄加良武おしからむ 蚊称而佐佐宣之かねてささげし 和我美登於毛倍婆。わがみとおもへば
長藩野村伝源頼睦の辞世として
今さらにいふことのはもなかりけり
み国の露と消ゆるうれしさ
と尽忠報国の精神を詠じている。百十六名の心情皆斯の如くであったろう。
明治九年六月、聖賀東巡の際扈従こしょうした岩倉具視・大久保利通・木戸孝允等の此の寺院に立寄られて弔霊した事は墓地入口の石燈籠に依って知られる。石燈籠は二基ある。一基は大久保利通の献燈で
今夏六月 龍賀東幸。利通奉陪従先発之命。途経白河駅、詣戊辰之役官兵戦死者之墳墓。茲ここ奠まつる燈台一基、謹表追弔之意云。
明治九年五月廿八日 大久保利通
一基は岩倉右大臣・木戸顧問の献燈で
明治九年丙子六月
龍賀東巡扈従之次過于此弔戊辰戦死諸子之霊
従一位 岩倉具視
従三位 木戸孝允建
長寿院が西軍の墓所となった因縁は、五月朔日の激戦の日に白河町寺院住職の多くは避難せしが、当寺の住職が豪快で寺院を守り居たれば、西軍この寺院に戦死者を託して回向を謂いたるによると伝えている。什物として六藩戦死者の書像がある。皆総髪姿である。荷翁の筆である。
(三)白河役陣亡諸士碑
長寿院西軍墓畔にある巨碑で明治二十五年の建設である。島津・毛利両公を初め此の役に参加せる板垣退助・河村純義・大山巌等の発起によった建碑である。碑銘は
白河役陣亡諸士碑
捐躬報国 陸軍大将大勲位熾仁親王篆額
戊辰中興之元年春、六師東征首収江戸城。徳川氏恭順謝罪。而余賊尚拠東叡山不降、乃撃殲之。先是分軍
転戦両総常野之間、進徇奥羽。奥羽諸藩合従方命、会津仙台実為之盟主。幕府逋竄之徒又往投之、共抗王
師於白河城。域当奥羽咽吭、地勢険要、賊極力拒守。官軍進戦不利、退次芦野。五月朔、縦兵自三道往襲之。鋒
其鋭、斃会津仙台二本松棚倉等兵六百八十余人。賊不能支棄城遁。官軍乃入為根拠、蓄鋭議進取。賊察我
寡兵、大挙来囲、衆数千人而官軍不過六百余人備兵白坂駅使賊勿断我軍後爾来砲戦累費夜大小数十
合。毎戦輙有利。既而官軍日盆至、賊勢日愈蹙、退保其城砦。六月官軍別隊、由海路達平潟、攻平城抜之、将以
応白河軍也。二十四日発薩長土大垣佐土原館林黒羽七藩兵千余人、撃賊於関山、乘勢下棚倉城。於是海
陸諸軍悉会於二本松城下、倶攻抜其城。乃分為二軍、一由天狗角觝山、一由猿ー井保成本道。而三別遣一
軍由三度己屋、進共討会津、竟能得奏蕩平之功焉。是役也前後陣亡甚多、而座屍白河長寿院者、凡一百十
五人。墓上惟刻其姓名、未及録其事跡。於是七藩旧主及当時関其役者、慨然会財以図其不朽、徴文於余。鳴
呼戊辰之変、天下治乱之所判、而勤王諸藩率先敵氏A諸士亦皆捐躬報国以賛襄鴻業。此雖国家隆運之所
致、而其烈亦可謂卓偉非常哉。今二十五年矣。海内又安、庶民謳歌、追懐当時、恍如隔世。而百年之後、物換星
移、艱難遺跡或将帰乎湮滅、是此挙之所以不可已也。銘曰
有蔚佳城 白河之原 煌煌烈士 爰留其魂 遺勲銘石 山岳倶存
明治二十五年壬辰十一月
従四位四等勲文学博士重野安繹撰
辨理公使従四位子爵 秋元興朝書
この巨碑の竣工して除幕式の行わるる時、陸軍の軍楽隊も来り、大山大将等戊辰の役に関係あるの士参列して頗る盛大のもんであったと本町の佐久間平三郎氏は語る。
長寿院に明治三十三年、三十三回忌の霊祭が催された時、海軍中将伯爵河村純義、戦争当時の河村与十郎。文部大臣樺山資紀等が臨席し、二氏亦下記の書を長寿院に遺してある。
徳川氏の流の末は乱るる世となりて、其政を朝廷に還し奉り御代一統になり、大義名分を正しくせしに、豈図らんや、再び大軍を起し都に入らんとせしが、鳥羽伏見の戦の初、大内山に錦旗翻し征討の命を下し給い、八幡・山崎より難波の城も追攘い、東海・東山の両道に王師を向かわしめ、終に江戸城をあけ渡せしといえども、残党国々に依り王師に抗し、この白河を要し大戦に忠勤を抽ぬきんて、国の為に斃れし人々を長寿院に葬り、其戦功も少なからず、終に奥羽鎮定し、朝廷より厚く祭祀を賜り、実に慶応四年五月朔日、此の白川を陥落せし当日にて三十三回忌の祭典を催し、同従軍者にして今に生存せる有志ども子も交こもごも集まりて、なき人々の忠魂を慰めんと、旧藩主初夫々よりも祭典料を捧げられ、海山の種々を供えなき人々の御霊を慰めまいらせんとなむ。
明治三十三年五月二十八日
海軍中将正二位勲一等伯爵河村純義
国のため捨てしその名は白川の清き流に名をとどむらん
樺山文部大臣は慰忠魂の三字を大書し、明治三十三年五月二十八日、樺山と書かれてある。何れも長寿院に現存。
長寿院には明治の末期まで毛利家より年々供養料金若于を送られたが、今はその事が絶えている。
(四)薩州藩の碑
小峰城址本丸の東、鎮護神山に薩州戊辰戦死者の合葬碑がある。「戊辰薩藩戦死者墓」と題す。碑の高八尺、石質は花崗岩、筆者は大勲位侯爵松方正義である。碑の裏に三春・磐城・平・花見坂・長寿院合葬とある。即ち大正四年十一月に旧薩藩士等相謀り白河口の花見坂、白河松並。にあった薩長十三人中の七人、三春にあった者、磐城平胡麻沢にあった十四人、長寿院のものとを合して葬った。巨碑の台石に各々戦死の場所、所属隊名、氏名等が詳記されてある。何れも遺族が内務大臣の認可を受けて白河に改葬したものであると伝える。薩藩の此の種のことは会津若松融通寺にもある。両碑鎮護神山 融通寺共に白河町田中増次郎氏同仲三氏の請負に係るものである。旧薩藩では東郷大将の書「丹心昭万吉」のニ軸を田中氏父子に寄せて其の労を謝した。
(五)大垣藩酒井元之丞戦死の跡
西白河郡白坂村泉岡の南端、路側に木柵を巡らした碑がある。これが大垣藩酒井元之丞戦死之跡である。碑に刻して
戊辰
戦役旧大垣藩士酒井元之丞戦死之跡
とある。明治三十九年五月、元之丞の妹の建碑である。戊辰五月二十六日、白坂宿を大垣藩・黒羽藩が警固している所に、東軍来襲。西軍之に応戦、大垣藩の銃隊長酒井元之丞重寛部下を督して砲撃した。部下の松岡惣兵衛(十八歳)、瀬口与作(二十一歳)共に戦死せるも挫けず激戦三時間に及んだ。苦戦その功を奏し、東軍利を失って退いたが、偶々飛弾来つて元之丞の胸部を貫き戦死を遂げた。年二十五。墓は白坂村観音寺にある。此の戦に黒羽藩藪智次郎光著(十七歳)、後藤勇助幸由(五十三歳)も亦重傷を負うて戦死した。白坂村農夫広川喜七の死もこの日である。
(六)白坂村観音寺の墓
白坂村観音寺に左の五基の墓碑がある。
大垣藩 瀬口与作源光忠
同 酒井元之丞重寛
同 松岡惣兵衛源重勝
五月朔日白河戦死長藩 岡勝熊正義
六月十二日戦死同 浅野外裕正章
(七)館林藩梅沢長治郎之墓 (拠白河町 永島慶次郎氏調査)
西白河郡金山村正金寺の墓地にある。
表
館林藩村山直衛家来
梅沢長次郎直貫墓
慶応四年秋七月十六日
出兵先□ 卒歳二十二歳
大久保春盛誌
(八)宇都宮藩増淵勝蔵之墓(拠五箇村 石井重五郎氏調査)
表
官軍兵食方宇都宮藩増淵勝蔵之墓
裏
奉兵食之事、欲自釜子邑むら至于白河城途、至于細倉村。則賊兵潜伏砲撃。頗雖奮戦寡不敵衆終戦死矣。実慶応四歳次戊辰秋七月廿六日。享年十又七嗚呼恨哉。
増淵は慶応四年五月二十日細倉に戦死し仮埋であったものを、里人之を憐れんで同年七月二十六日五箇村田島の清光寺に移葬して建碑供養した。
(九)農民深谷政右衛門之墓
政右衛門は西郷村長坂の農民で当主政蔵氏の叔父にあたる。戦争の犠牲者となったものである。官軍墓地の取扱をうけ、今に毎年金弐円の掃除料を内務省から受けて居る。墓碑は
表に
速成佛身清居士
右側に
慶応四戊辰年五月廿六日没
左側に
深谷政右衛門
享年二十九
(一〇)芸藩士加藤善三郎墓
加藤善三郎の墓は白河町万持寺境内にある。これは不名誉の死であるが、武士の死際に於ける壮烈さを物語って地方人を感激させている。時は戊辰奥羽追討の任を果し、各々帰藩の途につく十一月、善三郎は白河町の北部某所、矢吹ならんという。に於て、戊辰戦役の軍夫としての務果たして帰家せんとする農夫、今の三神村農夫と伝う。がある茶屋に休憩していた。善三郎之を見て、小荷物を白河まで持てと頼んだ。その言語の余りに傲慢不遜なるが因となり、また軍夫の任も終って帰宅を急ぐこととて、農夫はその場より逃げ出した。善三郎はこれを追いかけ「武士の命に背くか」と後から斬り殺した。芸藩にては慰謝料を提供して事を示談せんとしたが、其の遺子は飽まで善三郎の罪を問うて止まぬ。芸藩は心ならずも善三郎に切腹を命じた。
善三郎は万持寺の本堂の中央に端座し、黒山の如く衆人の見てる前に悠々と
莞爾と笑いて散けり櫻花
の辞世の句を誦し、三宝に載せた短刀を執って勇ましく切腹した。後藤みよ当時二十四媼などはこれを見て居ったという。見るもの武士の最後の壮烈を嘆賞して止まなかったと。
万持寺にある墓碑の表
芸藩加藤善三郎光義墓
右側に
明治改元戊辰年
十一月四日有事屠腹
裏面に
辞世
莞爾と笑いて散りけり櫻花
行年
今に白河の人々は香花を手向けている。
(十一)白河夏梨の墓碑
墓碑の表に
光台院夏山道眠清居士
右側に
慶応四戊辰年五月一日逝去
右側に
官軍大竹繁三郎之墓
とある。大竹繁三郎は夏梨の農夫で、五月朔日白河口激戦のあった夕方、野に放てる馬を迎えに行かんとする途、西軍に東軍の間者なりと見誤れて殺されたもので、西軍は之を慰謝せんために官軍待遇をなしたものである。繁三郎は今の大竹儀重郎氏の祖である。
(十二)軍夫吉五郎の墓
軍夫棚橋吉五郎は、越後国蒲原軍白根村に文政六年癸みずのと未年正月元日に生れ、白河に来りせしもの、戊辰の戦乱に当り西軍土州藩軍義隊付軍夫として案内役を勤めた。これは吉五郎が地方地理に明かであったからである。二本松城門で戦死した。西軍は生前の功によって官軍の待遇をしたもので、墓は白河町妙徳寺に在る。
墓碑の表に
釈浄号信士
右側に
慶応四年七月二十九日
左側に
南町白木屋吉五郎 行年四十六歳
とある。
明治四年に元白河県庁から遺族に金百五十両を下賜した。その辞令に
磐城国白河郡白河本町
百姓 故 吉五郎
右之者儀去る辰年奥羽追討之砌みぎり、諸藩兵隊為軍夫出役進撃之際、死亡到段、憫前之事ニ候。依之跡家族へ金百五十両下賜候事
辛未十二月
元白河県庁
辛未は明治四年である。
序に官軍墓地の管理に就いて記さんに
官軍の墓地の管理は丁重を極めたものであって、福島県庁で出した官軍墓地監守の條文は下の通りである。
第一條 常に清潔に掃除をなし、香花水を手向たる事
第二條 墓標又は玉垣、雨覆之類に妨害をなすものあるときは之を制し、若し用いざるに於て宿所姓名を聞糺きゅうし速に届出る之事
第三條 風災又は腐朽等にて被害あらば詳細取調速に届出之事
第四條 総て墓所は第一号雛形の如く地種・地名・坪数・戦死之事故・旧藩名・姓名・年齢・墓標創立年月日建設せる際之事・玉垣雨覆等の実景を記載し、之を手続書に綴置べし
第五條 諸費一ヶ年手当として、金二円五十銭六月・十二月に可相渡候事
但第三條被害の如きは此費用外となすと雖、監守人不取締より生ずるものは、本條費用を以て差引くべし
第六條 前條費用第二号雛形の証書を以て出納係へ受取方可申出事
第七條 監守人代替又は移転等のことあらば、速に可届出事
第八條 一ヶ年一両度官軍又は区吏命臨時出張実地を検査し、若し不取締之廉かどあらば一切手当を不給、且つ看守を免じ更に他之者へ監守を命ずる等之事
第九條 県庁の都合に依り監守を免じ、又は手当を増減し箇條を更正増補することあるべし
第十條 監守人は此手続を遵守し、第三條雛形の受書を差出すべき事
各地の西軍の墓及び官軍取扱の墓には、今に掃除料が内務省から下付され、その霊は福島県管内のものは福島招魂社に明治十二年に合祀されて居る。
次は東軍の墓碑・供養塔に就いて記さん。
西軍は勝ち軍であったので戦死者の遺骸は始末され、前記の如くその後の管理も官に於て監督された。是れに引きかえ東軍は敗戦なる故に閏四月二十五日の戦死者十二人の外は屍は山野に曝されて山の中・森の間・田圃の畔くろにあたら遺棄されたのであった。然るに地方人は却てこの遺棄された屍に涙を注ぎ、人知れず春の彼岸・秋の彼岸・盂蘭盆の節には香花を手向けて霊を慰めた。
死骸の横たわった所には供養塔を建て、合葬の地には戦死の墓を設けて法要が営まれた。素心王師に抗する意なき戦死者であり、その君命を奉ずるの精神に富むの士を遇する これが当然である。
(一)会津藩十二人之墓
これは白河町常宣寺にある。十二士は閏四月二十五日、東軍勝戦の日の遺骸なれば立派に埋葬も出来たことである。建碑の表に
会津藩十二士之墓
裏の文に
慶応四年の役、我が兵白河城に拠る。同四月二十五日西軍来襲す。我が兵遊撃して大に之を破る。我れ亦死傷あり。其城南常宣寺に葬る者遊撃隊十二人たり。越えて明治二十四年五月、其親戚故旧謀って碑を建てて其忠節を表す。
(二)銷魂碑
これは会津藩の碑である。白河町俗に乗越という所にあって、薩長大垣十三人と南北に相対している。白河町新町で立てた戦死墓の三字を刻した巨碑があったが明治十七年に至ってこの碑が建てられた。其の碑文に云。
銷魂碑 正四位松平容保篆額
明治元年正月、我旧藩主松平容保公、従徳川内大仁在大阪城。内大臣将入 朝廷、使我藩士先駆。事出齟齬有伏見之戦。公従内大臣帰江戸。托列藩上謝表而待命於会津。奥羽諸藩亦連署為謂於朝廷。不報。大兵来伐。於是諸藩憤曰、是姦臣壅蔽之所致、盖非出 聖旨也。挙兵拒之。白河城当奥羽之咽喉、為主客必争之地。我兵先拠之。閏四月二十五日、薩摩長門忍大垣之兵来攻。相戦半日、我兵大勝。四藩之兵退保芦野。五月朔、復自白坂原方畑諸道及山林間道来攻、欲以雪前敗、其鋒甚鋭。我将西郷頼母横山主税各率兵数百、与仙台棚倉兵共当之。自卯至午、奮戦数十百合、火飛電激、山崩地烈、而我兵弾尽、刀折三百余人死之。仙台棚倉兵亦多死傷、城遂陥。棚倉平二本松諸城亦相継失守。自是東兵不振。後数月上杉氏遣使告曰、東征兵出聖旨、且聴其所謂。於是投戈出降。 朝廷乃下一視同仁之詔、藩荷再造之恩、臣蒙肉骨之賜。而其死鋒鏑者、寃鬼泣雨、遊魂迷煙、独不得浴沛然之余沢。吁嗟何其不幸也。雖然一死報主臣節茲尽、名声不朽。此之生而無聞者、其幸不幸果如何哉。地旧有碑、止刻戦死墓三字、不可知其為何人。頃有志之士相議醵金更建豊碑其後。使綱紀銘之。吁嗟綱紀与此諸士嘗同生而不能同死。今又列朝官之後。豈能無愧於心、為者何忍銘之。雖然銘則顕、不銘則晦、銘之或足以酬死者。乃揮涙銘之、曰、
見危致命 臣節全矣 苟不忠主 何忠 天子 方向雖異 可謂烈士 千載之下 頑奮儒起
明治十七年五月
東京大学教授正七位 南摩綱紀撰
成瀬温書
碑の裏及び左右側に白河口にて戦死せる横山主税・海老名衛門・遠山伊右衛門・日向茂太郎等三百四名の名が刻されてある。現在、会津出身の白河在住者は会津会を組織して、毎年五月の第一日曜日を期して供養を営んでいる。常宣寺住職足立氏が之に与あずかっている。
(三)田辺軍次の墓碑
田辺軍次の墓碑は元白坂村観音寺にあったが、後に乗越の会津藩の墓地に移され銷魂碑の東側に墓を定め、観音寺の小さな墓標も移されて今に存していある。最記明治二十九年白河に於ける会津藩会は下の墓標を建てた。
田辺軍次君之墓
君は会津藩士田辺熊蔵の長子なり。沈勇にして気節あり。戊辰の役会津の散るるや、東京に幽錮せられ、後赦されて斗南に移住す。君在京の日、郷人に語て曰く、我軍の敗機は白河の戦に在り。而して白河の一敗は実に大平八郎の叛応はんおうに因る。八郎は幕領白坂村の民なり、西軍を導き間道より出で我軍の不備に乗ぜしむ。其恩に背き義を忘る実に禽獣に等し。吾他日必ず渠かれの首を刎ねて以て報ゆる所あらんと。聞く者之を壮とす。明治三年七月君斗南を発し。八月十一日黄昏白坂村に向う。途に一商人に逢い前程を問う。商人其旅装の粗野なるを見て答うるに無体の言を以てす。君大に嚇怒して之を斬らんと欲す。其恐怖の状を視て翻然覚る所有り、乃ち問うて曰く。汝白坂村大平八郎を知るや。曰く、知れり。八郎は戊辰の役官軍に功あり、擢ぬきんでられて里正りせいとなる。君曰く可なり。八郎をして来り謝せしめば則ち汝の罪を許さんと。益怒を装い拉して白坂村役場に到り、使丁に告げて曰く。奴輩武士に対し亡状なり。今之を斬らんと欲す。急に村吏を呼び来れと。八郎報を得て村吏を従い来り、君を見て思えらく。士人年少に気鋭なり、一旦の怒に過ぎざるのみ。如かず旗舎に就て徐おもむろに之を解かんにはと。乃ち説て曰く。既に暮夜なり、謂う鶴屋に就て尊慮を聞くことを得ん。鶴屋は貴藩の旅館なりと。君心窃ひそかに謀の中れるを悦び、共に鶴屋に到る。八郎等百方商人の為に陳謝す。君機の既に熱せるを見て密談に託して衆を退け、独り八郎を留む。既にして君厠に上る。少時にして出で来り声を励まして八郎に謂て曰く。汝猶戊辰叛応の事を記すや。余は会津藩士田辺軍次なりと。言未だ終らず。刀を抜いて之を斬り面上を傷く。八郎徒手格闘す。君遂に伏せらる。是時舎中大に騒擾す。独り村吏重左衛門之を救わんと欲し、八郎の刀を執って闖入ちんにゅうす。時に燈光暗く甲乙を弁ぜず、力を極めて其上なる者を刺す。八郎叫んで曰く。吾なりと。重左錯愕更に君を斬らんとす。八郎既に力衰う。君間を得て重左を排す。重左微傷を負い刀を棄て逃る。君起て八郎を斬り遂に之を寸断す。忽たちまちにして村民麕到する者数十人。君終に免る可らざるを知り従容しょうようとして腹を屠ほうって死す。嗚呼何ぞ壮なる哉。時に年二十一。村民屍を同村観音寺域内に埋葬す。爾来星霜二十有七、墓碑永く荊棘中に隠没し人其事跡を知る無し。明治二十九年其二十七回忌に当り、在白河会津会員は相謀り、八月遺骨を白河会津藩戦死諸士の墓側に改葬し、其事跡を石に刻して之を建て千祀伝う。庶幾こいねがわくは君以て瞑す可し。
会津 高木盛之輔撰
会津 上野良尚書
(四)阿部藩戦死碑
棚倉藩戦死者の碑は、白河南湖の鏡山、共楽亭の北隣にある。其の碑文に云
阿部藩戦死碑
鎮英魂 従五位子爵阿部正功篆額
明治元年三月、棚倉藩主阿部正静、奉奥羽鎮撫総督之命、出師将討庄内。総督更令伝与仙台等兵討会津、即赴戦焉。会津既降。奥羽諸藩同于白石、連署上状請赦会津罪。 朝廷不聴。尚数其罪、発兵征討。於是諸藩憤慨。以謂伏見之事出於過誤、固不足深罪、況既悔悟。且我諸藩悃誠請哀、無有不聴之理。而発兵征討。是奸臣壅蔽之所使然、決非由聖旨。事至于此、豈可座視乎。遂挙兵拒之。棚倉藩使老臣阿部内膳将一大隊、与仙台会津等兵、拠白河城。五月朔、官軍囲攻。城兵禦之。奮激戦闘、自辰至午。雷轟電撃殺傷相当。而衆寡不敵、守兵弾尽刀折城遂陥。乃退守金山釜子等地。伝戦数十百合。延至六月、棚倉城亦失守。内膳以下前後戦没者五十又二人。前藩主阿部養浩、正静之高祖父也。退老多年不与事。而夙尊崇 王室。深憂抗 王師之非義、百方説諭臣下。於是首与正静哀請帰順。後数月奥羽悉平。 朝廷乃下寛仁之詔、復藩胙土、人人皆浴更正之恩。至是和気藹然四海一家無復遠近之別。二藩先奉総督之命、出師討庄内及会津、其無異志也昭々。以其僻在辺陬不通事情、不察 朝旨之所在、遂致誤順逆、誠可痛惜。然内膳等尽誠於其主、百戦致命。亦可謂烈士矣。頃者、有志之士相議建碑于白河南湖公園。請余銘之。余当時以奥羽追討総督参謀、在戎旅間、親知其情甚哀其志也。嗚呼、前日仇敵今則握手歓笑、相共浴 王沢、頌 王化、而死者独不与焉。豈不傷乎。雖然今日清明旧藩主恩遇回優於昔日、民皆鼓腹楽業。死者而有知亦応無憾于地下矣。銘曰。
捐身報主 節義可尊 是非順逆 豈遑細論
白川旧封 夙縁所存 毅然豊碑 長鎮英魂
明治十七年九月
元老院議官従四位勲三等 渡辺清 撰
平田文書
阿部養浩は大村藩主豊前守純昌の次男であった関係上、旧大村藩士渡辺に撰文を請うたものである。
明治十七年平田文左衛門等敬義会を組織して碑を建て、大正三年六月には旧藩士及び篤志者が白河鎮英魂保存会を組織して神道を以て英魂を祀ることとした。
大正五年七月には内務大臣の許可を得て社団法人として会の基礎を固くし、毎年秋の彼岸に例祭を行っている。旧藩の中村直敬氏、福田春三氏、会我演雄氏等其の理事である。
阿部藩士で六月十二日に白河合戦坂で戦死した平賀金右衛門の墓、五月朔日に戦死した牧田三之助重孝の墓は共に白河町長寿院にあり、阿部内膳正熙まさひろ之墓は白河町常宣寺にある。
此に庄内藩のことを付記して置く。
庄内藩は当時江戸取締藩の首藩であった関係から、三田の藩邸に潜む浪人等が慶応三年十二月末に江戸内、掠奪を行った時、庄内藩は幕命によって三田の薩邸を砲撃し之を焼払った関係があるから戊辰戦争の主力は会津・庄内の両藩に集注された。
(五)仙台藩戊辰戦争碑
白河町字女石にある。女石は白河町の北端会津街道と仙台街道との岐路の地である。碑は街道の西側にあって剣状をなしている。
表に
仙台藩士戊辰戦没の碑
裏に
表面十大字大勲位二品能久親王殿下親書也。旧藩有志諸子相議樹此碑、以大王有旧誼請其親書、以慰其魂、死者有知亦将感泣於地下也。
明治二十三年五月一日
旧仙台藩知事従五位伯爵 伊達宗基
其の傍に、戦死供養碑がある。これは明治二年に建てたもので、白河町の田町・向寺・根田・大谷地・金勝寺・飯沢・長坂等に戦没せる仙台藩士五十余人の屍を集めてこの地に葬った供養碑である。
仙台藩は戊辰戦役に各方面に於て多数の犠牲者を出しているが、五月朔日の激戦には八十余名、白河口を全体で百五十余名の戦死者があったと見るべきか。
碑の裏面の「有旧誼」とは前にも記せる如く、能久親王は戊辰当時の輪王宮公現法親王に在しますに依ってである。
碑は白河町龍蔵寺にて管理し、供養は春の彼岸に、秋の彼岸に白河町隣の小田川村根田部落の念仏講が年々行っている。龍蔵寺の記録によると仙台藩の白河口戦争の死者は
五月朔日に参謀坂本代大炒外八十二名。
六月十二日本道口六十一名。
六月二十四日金山戦争十七名。
七月一日白河・米村・大谷地六名。
である。
(六)福島藩戦死碑
白河町字向寺聯芳寺境内にある。明治二十一年白河町鈴木忠蔵、福島町高橋純蔵等の発起にかかる建設である。
福島藩士十四人碑
正五位子爵板倉勝達篆額
王政維新、廃幕府、撤藩鎮。其当擁兵抗命者、亦皆寛宥復爵位。況為之臣隷、射鉤斬袂、尽力事不独、其罪可釈其忠可憫也。討会之役、奥羽諸侯連署訴訟免。不聴。六師来伐。乃各発兵同守白河城。対塁踰月、遂為其所陥。転戦于金山于根田于大谷地。而仙台会津米沢棚倉二本松等兵相踵敗衂。是時、福島藩隊長池田邦知、以部兵在六反山、奮闘不撓、而孤立無援、刀折槍断、硝弾共尽、番頭渋川勝兆以下十四人死之。実明治元年戊辰夏六月十二日也。嗚呼士尚気節、食其禄者死其事、則十四人捐身報国、其情与従 王師致死者無異。今彼鬼既已列祀典矣。而此独委棄不問、可乎。頃者志士相議建碑表之。請文于余。余嘗事松山俟、其国与福島有魯衛之親、義付加辞、因援筆略述其事。係之以銘。銘曰
寒疾五日 不汗則死 彼懦偸生 壮士所耻 猗与英?白編に鬼 伴古壮士 含笑黄泉 留名青史
明治二十一年四月
従五位勲六等 川田剛撰
高橋純蔵書
「福島藩士十四人碑」と上部に書かれたのが篆額である。
(七)二本松藩戦死者碑
戊辰の役二本松藩戦死者二十三名の英霊を弔うために、昭和六年白河町長重公追遠会が主唱して、白河町円明寺丹羽長重公御廟所の参道側に碑を建てた。長重公追遠会は二本松旧藩及び白河町有志者を以て組織され、現在安田忠次郎氏・吉成房次郎氏等が理事である。書は上野良尚氏の精魂を傾けたもので碑陰に英霊の氏名が刻されてある。碑の表に
二本松藩士慶応戊辰戦死之霊
とある。
(八)忠千碑
忠千碑は西白河郡釜子村長伝境内にある。釜子村には越後高田藩の陣屋があった。戊辰の役徳川の鴻恩こうおんに感じて東軍に与して奮戦し十六名の死者を出した。その墓も長伝寺にある。
死節諸士碑
忠千碑 従ニ位子爵 榎本武揚篆額
磐城国西白河郡釜子村、世為越後高田藩主榊原氏之支村。遣士卒五十余戸守焉。明治戊辰之乱、奥羽同盟、四隣掻乱、道路梗塞、絶本藩之声息。既而西軍来討、勢甚急。諸士相議曰、吾藩浴徳川氏之恩久矣。義不可不倶盛衰也。即相率与東軍奮戦各地。百折不屈、死者十六人、可以見其忠勇義烈矣。今茲機庚寅値二十三回忌辰、古旧相謀欲建碑其村長伝寺、以表其忠節。来請余文。嗚呼余亦為当時東軍敗将、出万死得一生以至今、肯無有所為、愧於諸士多矣。乃俯仰今昔、述其概略。係之銘曰
生報主恩 死裏馬革 厥節何烈 厥心何赤 千歳不麿 深刻貞石
明治二十三年歳在庚寅十一月上旬
会津 山川浩撰
高田 中根聞書
死千碑と篆額にあるを以て世に忠千碑という。千は肝である。
(九)海老名衛門君碑銘
海老名衛門の碑は白河町龍興寺の門前にある。其の側に戦死者墓の碑石一基がある。是は海老名等一隊の戦死者の墓石であると伝う。碑文に云
海老名衛門君碑銘
明治戊辰之役海老名衛門君殉難。後十七年、其子季昌君建碑其地、使余銘之。余嘗辱君之知、略知其半生、乃叙之。曰、君諱季久、称郡衛門。其致仕後之称也。世仕会津藩。孝諱季長、称郡右衛門。妣大石氏。君幼頴悟、善文武之業。年二十八為目付。経学校奉行添役、公事奉行、郡奉行等数職、転軍事奉行添役、守安房上総之営。嘉永六年米利堅使節率軍艦抵浦賀、辺海戒厳。君与軍事奉行黒河内松齋指揮隊伍、進退兵船、以備不慮。已無事、居五年。徒江戸邸、為軍事奉行、転大目付、帰会津。安政六年再為軍事奉行、兼番頭勤、守蝦夷。加禄五十石、更賜職禄五十石、併旧三百五十石。嘗役于北蝦、余亦従焉。航白主海、攀雷電嶺、滞在鯨鯢出没、熊狼吼瞰之郷数月、文久三年致仕、還会津。前後賞賜不可勝数。戊辰之乱、復攝軍事奉行、出屯白河、五月朔、敵以大軍来襲。我兵血戦。丸尽刀折、?馬編に井頭死之。君知不可為、自屠腹死于龍興寺山林中。距文化十四年二月朔生、実五十二年也。君為人謙退沈黙、接人温和未嘗疾言遽色、而毅然卓立。処事方正不憚権貴、不侮卑弱、唯義是従。以人皆敬重之。傍好絵事、胸次瀟灑有韻致。配町野氏生四男二女、長季昌君嗣、累遷藩相、後仕 朝、為福島県官、転郡長。次夭、次季包、次季満皆善勉学。長女嫁小原内記、次夭。嗚呼余述此、宛然睹君奮戦切敵、慷慨屠腹之状、不覚暗涙交願也。銘曰
鞠躬盡瘁 船南馬北
為國致身 為君殉職
其節其忠 万世表式
明治十七年五月
東京大学教授正七位 南摩綱紀撰
大沼譲並篆額
篆額は「松柏独秀」の四字である。
(十)
(一)白河町字寺小路二十四番に一基
表に
戊辰役戦死之碑
碑は仙台石で、白河町渡部泰次郎・小黒万吉・金子祐助・小針寅吉諸氏が発起となり、白河町有志の賛助を得て、大正元年十月戊辰戦争に殉した東軍の霊を慰めんとして建碑したものである。東軍の遺骸の蛇石・文殊山或は桜町付近に仮埋葬の儘に放棄されてあったものを此に合葬して碑を建てたのである。表の文字は須賀川町龍禅子の書で、合葬者は十二名。桜町街上に斬首された六名を含む。
(二)白河町字八竜神九十一番に一基
碑は寺小路にあるものと同質、同形で書も亦同筆者である。藤沢・土武塚・八竜神等各所に散葬されていたものを合葬したものである。其数四十二名。建碑の発起者前に同じ。
(三)白河町字本町永蔵寺境内に一基
表に
慶応四戊辰年
戦死供養塔
五月朔日
(四)白河町字白井掛に一基
表に
無縁塚
左側に
慶応戊辰年
五月朔日戦死墓
(五)白河町関川寺境内に一基
表に
明治改元歳
戦死霊魂供養
五月朔日
裏に
先君小池理八、戦死之碑不顕於爰十数年、四方探求、頃者竟発見於桜町、故再建之、表其蹟云。
明治三十四年五月一日
男小池信好
これは阿部藩の小池理科八の供養塔である。小池理八は五月朔日桜町方面の戦闘に足部に重傷を負い立つべからざるを知って割腹したものである。白河の歌人文豊は
武士の心の駒はいさめども、黄泉までとはすすめざりしを
と詠じている。
(六)白河町字大工町皇徳寺墓地に一基
表に
戦死人供養
裏に
明治二已巳年二月十一日桑名卜円建之、慶応四年閏四月二十五日、五月一日の戦死者十一人。
供養塔の多くは建設者が其の部落民であるが、この碑には堂々と個人名を書いている。卜円とは白河町字中町の桑名清兵衛の号である。東軍の死骸の手代町・袋町・大工町等にありしものを合葬したのである。
(七)白河町龍興寺境内に一基
表に
戦死墓
右側に
慶応四戊辰五月一日、同穴四十四人。
(八)白河町常宣寺墓地に一基
表に
明治戊辰戦死之墓
(九)西白河郡大沼村大字大、字南田に一基
表に
慶応四戊辰年六月十二日
戦死数名埋葬塔
有志大村中
(十)西白河郡西郷村大字米に一基
表に
戦死供養塔
左側に
慶応四戊辰六月十二日
(十一)西白河郡大沼村大字大、字搦目に一基
表に
戊辰戦死之碑
側に
大正六年五十回忌供養付、搦目中再建立。
搦目の高橋清之助翁は言う。明治初年に建てた供養塔は明治二十三年の大洪水に流されて、今のものは大正六年に再建したものであると。流された塔は河底より掘出されて、傍に建てられてある。
(十二)西白河郡古関村大字関辺の池畔に一基
表に
戦死墓
裏に
慶応四戊辰六月二十四日
六月二十四日は、板垣参謀が棚倉に向った日である。
(十三)白河町字女石仙台藩碑の側に一基
表に
戦死供養塔
明治二年三月地方民の建てたものである。裏に記して人数百五十人余葬之とある。前記と重複するも掲ぐ。
(十四)西白河郡大沼村桜岡に一基
表に
戦死供養
左側に
会津仙台二本松四十九名
(十五)西白河郡小田川村大字小田川の入口観音堂境内に一基
表に
戊辰戦死供養塔
(十六)西白河郡五箇村大字双石字坊入に一基
表に
戦死霊魂供養
慶応四戊辰年六月
この供養塔は白河から石川に通ずる県道の側にあるが、この県道は明治十八年の改修に係るものであって、それ以前の道路は今よりも北方にあったものである。
(十七)白河町妙関寺の西側に一基
表に
戦死供養塔
明治二巳年五月朔日建立
これは供養塔としては最も小さいものである。高二尺五寸幅一尺四寸。
(十八)白河町米山越に一基
表に
慶応四戊辰年
仙台斉藤善治右衛門戦死供養
五月三日
高さ五尺、幅二尺。表の下部に山口七三郎・桜井伊勢松・木田三十郎と記してある。
(十九)白河町字馬町の橋の袖に一基
表に
南無阿弥陀仏
これと同種の供養塔は、新蔵より向新蔵に通ずる橋の袖にもある。此の二つの橋は元は土橋である。五月朔日の大戦争の翌日此二つの土橋で東軍の士は幾十人となく首刎ねられて屍は河に流されたものだと伝えられている。
南無阿弥陀仏の文字は、白河の歌人長瀬文豊が嘗て京都黒谷の敦盛の墓に詣てた時、その墓の景清の書を写し来れるものである。
(二十)西郷村大字羽太大龍寺の戦死墓
表に
慶応四年
戦死墓
七月一日
これは飯野藩士森要蔵その子虎尾と花沢金八郎・林寅之助・多湖宗三郎外会藩十五名の墓である。
(二十一)西白河郡金山村下羽原鹿島神社境内 一基 (拠白河町永島敬次郎氏調査)
表
内儀茂助明郎之墓
裏
慶応四辰年六月二十四日奥州白川郡郊外戦死于時四十有八
孝子 内儀明盈建之
(二十二)西白河郡西郷村高助班宗寺 二基 拠白河町安田良三氏調査
その一
表
大円道忍信士
右側
明治元年辰六月十二日
左側
丹羽左京大夫藩大河原彌太郎
その二
表
浜参道忍信士
右側
明治元辰年六月十二日
左側
丹羽左京大夫藩斉藤孫吉
(二十三)西白河郡西郷村米山下
表
戦死供養塚
左側
明治元年戊辰年五月
台石
四十三人
(二十四)西白河郡小田川村宝積院内
表
仙藩佐々木廣之助之墓
右側
慶応四辰年六月十二日
於当所戦死
(拠宝積院根本信識氏調査)
供養塔は藩籍不明であるが、主として東軍のものである。
第二十章 戊辰戦争と地方民
(一)地方民は戦争に苦しんだ。併し能く奉公した。
三年の凶作に逢うよりも一年の戦争地になるものでないと言ったようだが、実際町人も農民も苦しんだ。併し能く奉公した。
栃本大庄屋記録に卵買上の事がある。
其村々有之候玉子、是より出来候分御買上にに相成候間、相貯置可申旨、被仰出候間、村々小前一統心得違無之極厳重申付置、他所買一切不相成候云々
辰五月十四日
大庄屋所
同大庄屋の記録中、慶応四年六月三日の條には
先達相達置候、御買上玉子之儀、官軍方に鶏被取、玉子無之村々方も有之哉に相聞候。右等の次第の村は其合早速申出可相成候。猶又少々にても玉子出来候村方は五日置に収集、相集次第御差出可被成候。御差支に付此段申達候。以上。
辰六月三日開業
大庄屋所
(二)農民は落着いて仕事が出来ぬ
五月朔日の戦には、白河町の人達は前に述べた通り大抵地方に避難した。然しそれは勿論全部ではなかったが、老いたる者・子供・婦人達は大抵避難した。
店は開いていた。鞋わらじなどを西軍が買いに来る。有りませんなどと言ったものなら奥勢味方と睨まれたものであるという。
西軍は白河に滞在している。戦争は何時あるか判らぬので町人は浮腰であった。戦争は武士と武士の間でやるので町人や農民相手では無論ないのであるが、農民などは田植えの盛りであり、麦かりの真最中であったので野良にあって流弾の来るのを恐れた。
西白河郡小田川村泉田の吉田トヨ媼の談
媼は時に十八歳、泉田の戦争は田植時であった。
仙台藩は鬼窪山に本陣を置き、泉田の屋敷内に部落中の畳や戸板を出して塁を築いた。味噌桶や材木や臼をも運んで塁を築いた。東軍でも西軍でも食物があれば手あたり次第に持って行った。
麦刈りで野良に出でると、銃声が聞こえて来る。それ、今日も戦争だと芳賀須知の方に逃げる。芳賀須知に逃げた人も男は人夫に出された。
(三)民家が焼かれた
東軍に焼かれている。また西軍が焼いた所もある。
東軍は西軍の陣地となることを恐れて焼き、西軍は東軍の根拠地を奪うために焼いた。
白河城は守兵が焼き、棚倉城は自ら焼き、二本松城も自ら焼いたのである。白河地方で焼かれたのは根田の部落と、山の根今の西郷村の各村が最も多く焼かれた。根田の部落は只の一軒だけを残して皆焼かれたという。根田は東軍に組していると見られたからである。根田と言えば猫でも犬でも憎まれたものだという。それで根田の部落には今日古文書などは一通も残っていない。
明治天皇が明治九年奥羽御巡幸で根田御通過の際は皆仮小屋であったと伝えられている。
西郷村真船の和知菊之助氏が、西郷復興記という小冊子を出版されている。その文中に
明治元戊辰の年、偶々戦争に会遇し、時恰も農家は田植最中の事なれば、各々一生懸命に挿苗の折柄、突然銃声起り、外れ丸は早乙女の早苗持つ手先に落ちたりしに、孰いずれも驚き周章あわて、苗を捨て、我先にと安全の地に逃げたるなどして碌な仕事も出来ず、僅かに機を見ては植付けなどして居る内、時期を失し、猶且つ住み居る家は兵焚へいせんにて灰燼となり、何一つ残りたる物とてはなく、住むに家なく、着のみ着のままの有様にて、夜は樹下の芝生の上か或は竹藪などの中に寝起きを仕乍ら、何とか住むべき家を作るに、互に一軒に対し何日かの手伝あいをして岐ふたまた棒か何かを用いて掘建小屋を拵い、漸くに過ごして、其の秋に至りて収穫を見るに一家糊口の二・三ヶ月より、多くて四・五ヶ月位を支うるに如かず。辛くも其の年は万死一生の有様なりき。
戦争年は冷気が酷くて田圃に火を焚きながら田植をなし、その上に手入も肥料も充分でなく、秋の収穫は凶作同様であったと伝えている。それに翌年は巳年の凶作であったから農民は苦しんだ。
(四)男は軍夫にだされた
小田川村泉田吉田トヨ媼の談
軍夫は東軍にも西軍にも使われた。男が不足すると女まで軍夫に出た。女は遠くには行かなかったが、小田川まで行った。私などは何度か小田川の庄屋まで行って奥勢の握飯を結んだり、飯を炊いたりした。
夫の忠蔵は薩摩藩の六番隊に付いて会津まで行った。墨付を戴いて帰った。また働がよかったので太刀をも賜った。その太刀を家宝として置いたが、先年不幸続の時、占ったらその太刀が祟るというので他に出して仕舞って今はない。
白河町天神町の藤田定之助翁の談
白河に居ても人夫を勤めたが、鍋島藩付で勢至堂に一泊して会津はは入った。鍋島藩は天寧寺の山から御城をめがけて大砲をうったが、他の藩よりも上手なようであった。兵糧運搬、大砲丸運びをやらせられ一ヶ月後に帰った。分捕物としては何も持って来なかった。
白河町に遺る話として、男は居らんか、男は居らんかと、西軍は家々を捜し廻った。男は見つかり次第軍夫とされた。白河辺の軍夫は二本松で帰されたものと、会津まで行った者とがある。軍夫は弾薬・食糧を運ぶ事や銃の手入などを勤めたという。
白河町の棚瀬利助翁談
戦争の年は十四歳であったが、十五歳として忍藩の軍夫となり、会津に連れ行かれた。白河を出発して、大谷地・飯土用・滑川・牧之内を経て勢至堂の陰を越えて行った。白河を立つとき一斗炊の釜をもたせられて行き、帰りにもそれを持って帰った。滑川で舁いた棒をはづして釜の鍔を損した。その釜で会津で飯を焚いた。それが十四歳の私の役目。会津滞在は一ヶ月、帰る時赤津村にも勢至堂にも官軍様が見張をしていて、武士の持つ様な道具を持つと皆御取上となった。
軍夫の中には気の利いた者があって薩藩何番隊などという木札を付して白河まで持って来た者も少なくなかったが、それが知れると皆焼却された。私は白河を出る時勢至堂までということであったが会津まで進んだ。その時白河から忍藩に付いた軍夫は二十余人と記憶している。
この時翁の使った釜が、翁の家に残されてある。著者が翁を訪ねた時、この釜を前に置いて物語をされた。
白河金屋町の斉藤千代吉翁の談
白河から会津に軍夫に行った者は、分捕品として何か持って来たものだ、それが戦争が済むと官軍の知る所となり、皆差出せとの厳命があって、今の大工町皇徳寺付近で焼却した。器物や衣類や刀剣まで山の様に積んで煙にして仕舞った。
栃本村大庄屋の記録に
鎮撫使御用並諸家中御通行に付寄人馬左之通
四月十七日朝詰
一十四人、八疋
栃本
右之通
辰四月十六日
常磐彦四郎
又
鎮撫使御用其外諸家方臨時早打大通行に付寄人馬割る左之通
四月十八日未明詰
一四人、八疋
栃本
右之通
辰四月十七日
常磐彦四郎
又
鎮撫使御用並諸家中御通行に付寄人馬割
四月二十八日未明詰
四月二十九日未明詰
一八人、八疋
栃本
右之通
辰四月二十七日
常磐彦四郎
以上は白河城が奥羽鎮撫使の支配下にあった慶応四年辰四月のことである。白河町問屋常磐彦四郎から下命されたものである。
又同庄屋の記録に
此節
御親征に付白河城へ致集会、賊兵追払、官軍入込、追々大勢致出張候に付、差当人馬集兼候間、早々致手当、村々役頭より曳口罷出、官軍御用向無滞相辨わきま候様可被取計候。尤も白河駅へ副越候上者、無間違薩州小荷駄方へ届可被申出候。以上
但村々渡無滞早々留之場所より返納可被致候
白河駅出張
官軍薩州
辰五月五日開業
小荷駄方
深仁井田村
栃本村
形見村
千田村
これは五月朔日、西軍白河に大勝後、地方民に出した命令である。これに対して村方に於ては如何にこれを処理すべきかに就いて集会相談となったものである。地方民の去就に迷うも当然とする所であろう。
同大庄屋記録に
触状
別紙の御触状達状到来仕候に付、御順達申上候。右者御役所にも御伺不申候ては取計兼候間、村々明朝釜子村へ集会の上御相談仕度奉存候。早々如此御座候。以上。
深仁井田村
深谷彌左衛門
栃本村始
御同勤衆中
五月九日に至りて西軍御用人足の勤が左の如く厳達された。
同庄屋記録に人足に就いての厳達が載せてある。
今般
官軍方御用に付、左之村々軒別人足一人つつ明十日未明当所本町花屋由兵衛方へ庄屋・組頭差添右刻限無遅滞急度きっと相詰可申候。尤延引不勤之村者厳重之御沙汰有之候間、此段相心得村々刻付を以て順達に付、留り村より早々可相戻候。以上。
慶応四辰年五月九日
白川町
会所印
深仁井田村
栃本村
深仁井田村より谷津村まで有之。
栃本庄屋記録に篝火人足割の事が出ている。東西軍何れも篝火を野に山に焚いて互に勢を張っていたと伝えられている。先年、白河向寺の]えな神社の裏山から東軍の焚いたという篝火の炭が層をなして出た事がある。
同庄屋記録に
官軍様御用篝火木切人足割
明十三日未明詰、斧鋸持参。
右之通仰付候。日限之通間違無候様申付差出可被候。以上。
七月十二日
釜子役元
村々の人足が篝火を盛に焚く。鹿島富山氏の記録に、五月七日より篝火の場所、鳥居橋前一箇所、芳賀山下一箇所、桜岡前一箇所、搦目村一箇所、各村人足にて焚き、薩・長・大垣・忍様七八百人にて固め居候とある。
同記録五月二十五日の條に
夜、篝火山王坂の山の上一箇所、三本松一箇所、六地蔵一箇所、久保岩下の山二箇所、上の台二箇所、搦目山一箇所、谷津田川端一箇所、桜岡二箇所都合十一箇所の篝火各村人足にて焚き候。
とあり、また二十六日の記には、
双石の篝火光り昼の如し。村々の人足にて篝火一箇所に五人ずつの割合にて、昼は木を切り、夜は篝火を焚き云々
白河地方各村の人足・人馬は五月から会津落城後西軍帰藩に至るまで、毎日割当られたものである。栃本大庄屋の記録の所々を摘出して見るに、
軍夫並継立人馬差出候残之分男軒別一人早速当役所へ罷出候様可申付候。若遅滞於有之者取調の上厳重之咎可申付者也。
但人別書持参可有之候。並辨当ニ度分持参の事。
辰八月十日
軍夫役所
同八月十三日の條に
人馬継立は村々十五歳より六十歳まで人別有丈云々として
八月十四日 二人二疋 栃本村
八月十六日 四人二疋 栃本村
八月十七日 四人二疋 栃本村
八月十八日 薩州通行につき四人二疋 栃本村
八月十九日 三人二疋 栃本村
八月二十日 三人二疋 栃本村
八月二十二日 三人二疋 栃本村
八月二十三日 三人二疋 栃本村
八月二十四日 三人二疋 栃本村
八月二十五日 三人二疋 栃本村
八月二十六日 三人二疋 栃本村
八月二十九日 三人二疋 栃本村
斯くの如くに、人馬割付が、独り栃本村に限らず各村に割当てられ、これが九月・十月・十一月と続いたのである。
九月九日、白川軍夫方の達を見ると、女にても割当、当分の中軍夫方まで相詰候様、急度小前者まで申付べく候。若し怠り候名主は召捕之上入牢可被仰付候條、相可心得者也云々とある。、これによって見れば男が不足して、女までも割当てられたことが判る。
又同大庄屋記録に
追々御継立人馬指支候條、当九月十九日夕詰より改て人足高百石につき二人二疋づつ白川軍夫御役所へ日々定詰申付候間、可相心得候。勿論不参者、雇う銭急度可相納候。猶又村々庄屋共御用向有之候間、人馬召連可罷出候。以上。
九月十九日
軍夫局
これによれば不参者には雇銭代納の制も取ったのである。
白川郡下羽太村石井庄屋の記録に
一人夫弐拾九人
但六歳より五十九歳までの男子
一馬 弐十八疋
老馬弱馬除
内人夫壱人 会津若松詰
人夫弐拾八人
馬 弐拾八疋 白坂宿助郷詰
右之通取調奉書上候処相違無御座候以上。
辰九月二十八日 次郎兵衛印
黒羽
御役所
この人夫調は若松落城後、西軍帰還の人夫である。この記録によって人夫の年齢が知られる。
西白河郡中畑村小針彌太郎氏の記録
中畑村人足
林次郎
熊吉
彌八
長七
政五郎
三之助
豊之助
鶴吉
喜七
〆九人
右者共交代仕度候付御詮議之上右代人急御越可遣下候。
九月朔日
土州四番蝴蝶隊
輜重しちょう
中畑村戸主
小針七左衛門殿
(五)西軍兵糧米を買上く
栃本庄屋の記録に西軍が兵糧米を買上げた記録がある。文に云
官軍兵糧に差支候も難計、依之出穀の義堅禁候様申付候事。猶隠売等致し候者有之候節は厳重に咎可申付候事。
但白川表相応之以直段御用米に買上候間、銘々不洩様云々
辰九月
白川口会計官
別紙之通被仰出候條速に御願御承知知之旨、令請印留りより村継を以て、拙者共へ御戻可被成候。以上。
辰九月十六日
白川町取締役
住山甚八郎
大塚左太郎
白川郡
岩瀬郡
石川郡
右宿村御役中
白川町の町年寄住山・大塚の両家が、当時取締となって、白川郡外二郡よりの兵糧調達に当ったのである。
(六)愈々西軍引揚
栃本大庄屋文書に
今般諸隊急速引揚に付、其支配所千石に付十人づつの御割合、白川軍夫局へ品々人夫差出候様申達候事。
十月六日
太政官
白川会計官
会津落城が九月廿二日であったから、十月となると西軍帰還となる。
白川郡踏瀬の箭内庄屋に、明治元年十月の「官軍御用継立日締帳、踏瀬宿会所」という表簿がある。参考のため抄記する。
十月廿三日
一から尻 壱疋 紀州 田中長兵衛様
一軽から尻 壱疋 尾州 軍資方様
一軽尻 弐疋 紀州 栗又次郎様
同 中村儀七様
一人足 八人 忍藩 佐藤市蔵様
十月廿四日
人足 弐百人
馬 弐百疋
右二本松藩へ可被相渡候事 会計局
十月廿五日
人足弐人 小倉藩 三津谷賀平太様
人足七人
本馬弐疋 芸州藩 松田兼之助様
軽馬壱疋 筑前藩 野外敬吾様
賃済
人足八人 総督府 徳永仁左衛門様
十月廿七日
早かご賃済
人足 四人から馬弐疋 大垣藩 藤田徳七様
十月の終りに
〆人足三百三十七人
此賃 百参拾九貫七百拾四文
内
弐拾八貫参百八文 刎銭
〆本馬 四疋
此賃 参貫参百四拾四文
内
六百九拾六文 刎銭
〆軽尻 拾壱疋
此賃 六百九拾五文
内
壱貫廿壱文 刎銭
〆人足 拾参人 無賃
惣賃〆百四拾九貫百五拾参文
刎銭〆参拾貫百弐拾五文
西軍は毎日、宿々から人夫や馬を出させて通行し、その賃銭は支払ったのである。宿場の庄屋は大抵問屋を兼ねていた。
前記芸州藩の加藤善三郎が白河町万持寺にて屠腹したのも西軍帰還の途中の事で十一月四日であった。
栃本大庄屋の記録に
沢主水正様、羽州秋田表より御凱陣につき、今般当所御泊りに相成、大人馬継立に付、是迄の割合にては差支候條、依之家別人馬其下役相添え差出可申候。且不参等有之候村方は急度取調可及沙汰候間、其旨相心得無遅滞今夕相詰可申者也。
十一月十三日
白川民政取締所
出羽方面出陣の西軍も白河を通過した。十一月になると白河軍夫局の命令が、白河民政所の命令になっている。
(七)軍夫高の取調
栃本大庄屋記録に
白川口棚倉・三春・二本松・若松迄相詰候村々人夫勤高取調東京へ差出候仰出につき、其取調村々別紙雛形之通急速取調候様指図有之、不日其地へ致出張候間、其節差出候様御取計可被成候。以上。
大総督軍夫局
この記事は十一月十三日と十八日との間に見えている。明治元年十一月には江戸を最早や東京と呼びたるものか。白河地方の軍夫は白河口なる三春・二本松・若松方面に勤めたものなることもこの記録によって判然する。またこの記事によって西軍凱陣の人馬継立の終ったのも戊辰の十一月中旬頃であることが判る。
何れ戦争中の白河町は軍夫や藩兵の往来で雑踏を極めたものであろう。
明治二年十二月、天朝から芳賀源左衛門へ御沙汰書が下っている。
白河県支配所
磐城国白河郡白川駅
芳賀源左衛門
右者昨年戊辰之歳賊徒帰攘之砌みぎり尽力不少段相聞へ奇特之至に付其身一代名字帯刀允許いんきょ五人扶持被下候事。
民部省
芳賀は住山・大塚と共に当時白河町に於ける町年寄の家である。今芳賀の記録だけを知るを得たが、無論住山や大塚にも此等の御沙汰書はあったと思われる。尚芳賀が明治五年福島県出納係に出した五人扶持の請取書が見えているが、それには七月分(大)米七斗五升とある。芳賀への御沙汰書のこと、白河町本町遠藤英男氏の調査に拠る。栃本庄屋の記録中、辰十二月十四日の條に、松前表残共出兵有之兎角騒しく候。通行多端、依之明十五日七ッ時詰、高百石に付馬二疋づつ刻限聊か違なく相詰候様申付候事との命令が白河取締所から出ている。所謂榎本武揚等の五稜郭事件の騒擾が白河地方に関係している。
(八)地方租税減免の達
白川郡上羽太和知庄屋の免定に
辰年免定之事
白川郡上羽太村
一高四百弐拾七石九斗五升六合 本田
一高拾九石九斗壱升合 古新田
一高弐百五拾参石弐斗弐升七合 改出
高〆七百壱石九升四合
内
弐百八拾七石五斗六升 諸引
四百拾参石五斗六升四合
当四月以来戦争場罷成兵火消失者持高宥免
〆皆引
一高拾壱石弐斗九升六合 新田
前同断に付不残宥免
一高壱石七斗四升参合 新田
前同断に付不残宥免
一高六斗二合 新田
前同断に付不残宥免
一高壱石参斗五升三合 新田
前同断に付不残宥免
一高拾弐石五斗壱升五合 新田
前同断に付不残宥免
〆皆引
右者当辰成箇可相極処当夏以来戦地に相成難渋之次第依願先般相渡候免定与引替当壱ヶ年限り令宥免者也。
明治元戊辰年十一月
民政所印
右村
庄屋
百姓
今の西白河郡西郷村は、戊辰戦争には会藩の出入口で、殊に柏野・羽太の農民は難儀した。上羽太・下羽太・蟲笠は一軒も残らず焼かれた。勿論西軍に焼かれた。それは七月朔日であった。森要蔵父子の下羽太で戦死をした日だ。上羽太の和知庄屋に慶応四年の暦が今に残されてあるが、その表紙に「当村戦場になり七月朔日兵火にて焼亡す。」と記されている。当時中羽太は五軒だけの農家で焼失を免れたという。焼かれると皆小屋をかけて暮した。明治五・六年頃から家を建て始めたが、明治十何年頃まで小屋済をしたものだという。蟲笠の白岩源治氏の蔵は屋根だけ焼かれたので、蔵の中に住むことが出来たと話していた。この宥免の免定は下羽太の石井庄屋にも同様にある。民政所には佐久山取締所印とある。
栃本庄屋の記録に
去辰御収納之義黒羽藩取締中半納に申渡候。猶悪作村々用捨引、戦死・手負・焼失等租税皆免等も申渡候。昨年来助郷人馬繰出し或は官軍人数等入込村々諸失費等も多分有之可及難渋と存候間、去辰御収納之義都て半納之内、先づ半数皆済相□□可申、残半数之義は追て沙汰可候。尤皆済日限之義は御代官より可相達候。右之趣面々令承知組下村々小百姓共へも不洩可申聞候。以上。
巳正月十三日
柴一郎兵
柴一郎兵は高田領釜子陣屋藩士柴田一郎兵衛の略称、柴田は当時民政幹事であった。
白河城付六万石の民政は佐久山藩で行った。
福原内匠
其方儀当分之所、白川城付六万石租税取締可致旨、御沙汰候事。
九月
大総督参謀
九月は慶応四年九月二十四日である。福原内匠は旗本にして野州佐久山を治す。
富山氏記録に左の記がある。
御年貢の儀は半納に相成候。兵火に相成者無年貢に相成候。半納の者も大豆其他の納物御免にて、米金納にて金壱料に三斗五升相場に相納候。町相場金一分につき五升の相場に候。
(九)軍夫勤務の手当
西軍の軍夫として出役せるものには、村々に手当を下付したものである。
栃本大庄屋の記録に
釜子付村々
一金三両一分二朱也 中寺村
一金五両三分也 河原田村
一金一両三分二朱也 小貫村
一金三両二分也 形見村
一金三両一分二朱也 栃本村
一金二両三分也 細倉村
一金一両三朱也 上野出島村
一金二分二朱也 大竹村
一金一両三分二朱也 中野村
一金五両三分二朱也 内松村
一金三両二分二朱也 梁森村
一金一両一分二朱也 堀之内村
一金一両也 深渡戸村
一金八両二分也 釜子村
一金三両二分二朱也 千田村
一金一両二分一朱也 深仁井田村
一金四両三分一朱也 吉岡村
一金十一両三分三朱也 下野出島村
一金二両三分三朱也 宮村
一金三両三分也 小松村
一金二十六両一朱也 番沢村
一金四両一朱也 三森村
一金二両一朱也 下羽原村
一金十九両二分三朱也 和田村
一金十二両二分二朱也 下宿村
一金二十一両三分二朱也 上小山田村
一金四十三両一分一朱也 小倉村
一金十六両一分二朱也 市野関村
一金二十六両一分也 田中村
一金二十二両二分也 大栗村
一金一両三分也 四辻新田
一金十四両二分一朱也 前田川村
一金十三両一分一朱也 中宿村
一金十五両三分一朱也 下小山田村
一金三十九両二分一朱也 □田村
一金二一両一分也 浜尾村
一金四両三分一朱也 □□田村
一金三十四両二分二朱也 雨田村
一金五拾に両二分也 狸森村
〆金四百八拾四両一分一朱也
右者去六月より十一月まで軍夫相勤候につき、村々へ為御手当被下候事。
巳二月
白川口
軍夫局
軍夫勤務の手当として、前記のように四百八拾四両一分一朱。此の大金の渡方は正金として百八四両一分一朱、金三百両は札金として渡したものである。これは釜子村々の合計である。戊辰戦争の全軍夫の勤務支払というものは巨額のものであったことだろう。
白河地方の軍夫は従順に其の労役に服した。東軍にも、西軍にも聊かの反抗の態度がないばかりか、能く奉公したという。
(終り)
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