さて、案内板を読む限りでは、戊辰戦争の敗戦を逆恨みした田辺軍次が、怒りの矛先を大平八郎氏に向け斬殺に及んでしまったと。悲劇ではないよーな。惨劇、事件と記すべきでしょ。元来、悲劇ってのは主観的な見方だから、案内板で用いられる表現では無いような気がします。
どうにも田辺軍次の暴走にしか思えない当事件。では、そこまで彼を追い詰めるに至ったのは何故?
案内板中にも登場する斗南藩(となみはん)。会津藩が戊辰戦争後の転封先です。
この土地は農作物不毛の地と言われ、藩士達の生活は困窮を極め、およそ武士からぬ暮らしを強いられました。
そのような過酷な状況の下、はるか南方で成功を収めている大平八郎氏の話を耳にすれば、、、逆恨みするのもしょうがない?
大平氏の道案内はそれほどまでにそんなに知れ渡っていたのか?当時の情報インフラではかなりの喧伝がなされないと、白河の話が青森まで伝達されるって無理だよなー。それはそれでどんな手段だったのか気になります。
戊辰白河口戦争記の記述によると鎮台日誌に大平八郎の行動が記され、大平八郎自身も自己の成果を喧伝していたと。
当時十二歳だった少年にさえ大平がいなければ会津は負けなかった。と言われる程ですので、その話は遠く青森まで轟いていたのでしょう。
そもそもの理由として、斗南という場所に会津藩が移ってしまったのは???
明治新政府による処置の為と。
移封先としてお隣の猪苗代か、はるか北方の斗南を提示された会津藩は、自ら斗南を選択しました。
?何故? (ω・ )ゝなんで?
誰しもが抱くこの疑問。政府がお隣猪苗代でもよかよと言っているのに、自ら不毛の地を選ぶ?
ネットちょちょいといじってみると、会津藩は領民からあまり信頼を得ていなかったような気配が漂っています。
京都守護職を受けて以来の財政難。加えて戦争中における領民の扱い。
物資輸送のための人足のみならず、畳を持っての弾除け??←【要出展!】
会津藩降伏後はこのような圧政に苦しめられた領民の怒りが爆発。ヤーヤー一揆(会津世直し一揆)として、会津藩内各所にて農民が打ちこわしを行いました。
加えて、えーと多くの贋金をつかまされた者達の不満が溜まっていた。アラ ノ(´д`*)
どちらかと言うと猪苗代に移る事は身に危険が及ぶ可能性が高い?
借金もチャラにして新天地で一念発起!ってな事で斗南。
っで斗南に移っては海産資源を活用できずに農作物は不毛の地。→生活困窮→戦争で負けたせいだ!→原因は大平八郎だ!→殺ってやる(´・ω・`)
よく考えたら行動をしたのは田辺軍次一人だけなんですよね。賛同者がいない単独行動。現代だったら猟奇的殺人事件として扱われてもゴニョゴニョ
ついでなので、会津藩に一言。幕府の管轄だった小峰城を奪い取った行動に疑問符です。さらに從是北白川領の道標を倒して從是北会津領を打ち立てては、それは自ら会津戦争開戦を宣言してるようなモノ。
戦略上必要だったといえばそうかもしれませんが、じゃ奪取後の戦いに戦略の長はあったかと言うと、刀対機関銃ですので。白河での戦死者の大部分は列藩同盟軍。
いつの世の戦争もそうですが上層部の混迷は配下の家来の命に直結します。(;つД`)
さて大平八郎氏ですが、西軍にとっては戦果の功労者。新政府樹立の為に一役買った意義は非常に大きく、重用されるのはごく当然のコト。殺害されるいわれは無いのでは、と。というのも戊辰戦争は既に終わり新制日本に向けて世の中が変わっていく時代なのですから。
あ、あと、夜な夜な軍次が夢枕に立ったからっていう理由もちょっと小耳に挟んだり。(ノ゚ー゚(; ̄□ ̄)ナヌッ? 真相は誰にも分かりませんが。