地表60cmちょっとの墓石です。本堂近くにあります。
藝州藩士 加藤善三郎の墓
 戊辰戦争も終了し、西軍兵士は、それぞれ帰途にあった。このとき西軍の物資運搬をしていた、蒜生村(現在の石川郡玉川村)眞弓作左エ門は、加藤善三郎藝州藩士に殺された。
このため長州藩が彼を逮捕し、長藩及び藝藩による取調べの結果、加藤藩士の暴挙であることが判明した。西軍両藩の隊長は、西軍また両藩共に、軍律を正すため藝州隊長若月良信が加藤藩士に切腹を命じた。
明治元年十一月三日当寺の本堂内で切腹し壮烈な死際であったという。戊辰戦争の悲劇がここにもあった。
 辞世 莞爾と笑ひ散りゆく桜花 行年二十五才 
 白河観光協会
年季の入った手書きの看板。内容は。。。?
藝藩 加藤善三郎
案内板が無ければ見落としてしまいそう

藝州藩 加藤善三郎之の墓 
住所 福島県白河市巡り矢65
施設 曹洞宗 万持寺

案内板の通りなのですが、説明不足の感は否めません。
最後を悲劇と締めるのには無理があります。
壮烈な死際というのも一体どんなものなのか(((;゚Д゚)))ガクガクブルブル
戊辰白川口戦争記にはもう少し詳細が記されているようです。
さて会津戦争においては残虐の限りを尽くしたと喧伝されている長州藩ですが、これは眉唾なお話。
会津発信の戊辰戦争情報は非常に被害者意識が高いものなので要注意です。
という自分も元々は会津の悲劇という側面から戊辰について関心を持った身。
非常に贖罪意識が強い日本人にとってはそれが都合のいい事なのかも知れません。
ここでその話が出た理由として、案内板の記述では暴挙をしでかした加藤善三郎を長州藩が逮捕し、芸州藩と伴に裁きを下したという点が挙げられます。
長州藩による虐殺略奪が相次いだと言われる戊辰会津戦争のはずなのに、戦争直後の白河に於いて、農民一人を殺害した咎で、その長州藩に切腹を命じられた武士がいる???
会津は無法地帯、一転白河では綱紀粛正。少し無理があるのでは?
白河では他にもう一人官軍の犠牲になった大竹繁三郎という農民がいます。
官軍はこの誤って殺害してしまったことを深く詫び、官軍大竹繁三郎として弔っています。
官軍憎しの思いでこれを見ると、人一人殺しておいて、官軍という冠一つでごまかそうなんてなんて酷い奴らだ!となりますが、
虐殺略奪を信条としたはずの長州藩だとしたら、さて、農民一人誤って殺害した位で、墓石を立てるでしょうか?
しかも自らが誇りとする官軍の名を一農民に授けるでしょうか?
当時は幕末。士農工商の身分制度はまだ根強く残っている時代、一農民に武士の位を与えるというのは現代の殉職二階級特進どころか、四階級、六階級特進並みの扱いといっても過言ではないと思われます。

なんか長州藩を含めた西軍って軍律遵守が徹底されてるような?
これらの事を勘案すると、大竹繁三郎に対する官軍の扱いは破格のものだったと思われるのです。
墓石一つ立てた位でなどと嘲ることは決して成されてはいけません。それは慰霊碑の存在意義を真っ向から否定する行為です。

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