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 垣根のはなし......




娘時代に読んだ小説にこんな場面があった。
日本人と結婚した日本に住むヨーロッパ人の女性が、ある日出かけている間に、雨が降った。 帰ってみると、隣家の奥さんが親切そうに
「洗濯物、とり込んでおいてあげましたよ」
と言う。見ると、洗濯物がきれいにたたんで置いてある。 ムッとした彼女は夫である日本人男性に向かって言う。
「これはファッショだわ」
これを読んだ時に、この女性の気持ちがとてもよくわかった。 当時、ちらかし魔の私は整理魔の母に机の上を無断で整理されては、 しょっちゅうムッとしていたからだ。
確かに、洗濯物をとり込んであげたり、きたない机の上を整理してあげたりする方は、 親切でしているのだから、された方は「ありがとう」と言うべきなのかもしれない。 だが、どうしてもそういう気持ちになれない。これは日常、とてもよくあることだ。 だが、私はこの小説を読むまで、そういう不快感と“ファッショ”という言葉を結びつけて考えたことはなかった。
“ファッショ”とは、国家権力が個人の自由を奪うこと、と多くの人が考えていると思う。 だが、ファッショから守るべき個人の自由のことを具体的に感じている人は案外少ないかも知れない。 私はこの小説を読んで初めて、個人の自由を守る、とは「私の垣根の中に無断で入らないでちょうだい」ということであり、 これをおかそうとするものは、国家権力だろうと隣のおばさんであろうと、ファッショになり得るのだ、ということに気づいた。
自分と他人の間に、しっかりした垣根を持っていること、これが他人と共に生きてゆく上での基本だろう。 なぜなら、この垣根で囲った領域が“個”であり、「自由」や「権利」の基本だからだ。

もうひとつ、他人との間にちゃんとした垣根を持っていないと、 本当の話し合いができない、という事がある。 垣根がない、ということは、自分と地続きに世界がある、ということであり、 したがって、他人に当然のこととして自覚なしに自分の流儀や考えや意見を押し付けてしまうことになる。
そして逆に、自分と違う考え方や意見をきくと、それはイコール自分を脅かすもの、 自分の存在を危うくするもの、と感じられて過剰に反応し、 その意見や生き方を封じ込めようとする。つまり、そのつもりはなくても、 他人の囲いにずかずか入り込んでゆくヒットラーのようになってしまう、ということだ。 これでは複数の人が、違う意見を持ち寄ってひとつの結論を共有するための話し合いはできない。
しっかりした垣根に囲まれた自分を持っていて初めて、 他人の、自分と違う生き方がその人の垣根の中のことであって、 自分と違うのは当たり前、と思えるのであり、そこからしか、 本当の話し合いや助け合いは始まらないだろう。
お互いの囲いの中に踏み込まず、他者のありのままを受け入れ合い、 どんなに少数派の人であろうと安心して他者と共にいることが出来、 色々な違う意見や生き方が心地よく共存できること・・・これが私の夢見る共同体である。
      

1989年1月 草の実 1月号(’03一部改)......
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