その時私は、夜の電車の座席に座って本を読んでいた。
何の本だったかは覚えていないが、とにかくかなり夢中になっていたようだ。
頭のどこかで「今どのへんを走っているのだろう」と思いながら読み続けていた。
車内のアナウンスにも気づかず、どの駅を出たところなのか、わざわざ顔を上げて見る気もしなかったのだから、
よほど熱心に読んでいたらしい。まわりの人のことや車内の雑音が、夢の中のことのようにぼんやり遠のいていた。
聞き慣れたロマンスカーのあの音が遠くから響いてきた。だが、その音も私の夢を破りはしなかった。
あの音色と車輪のリズムとが調和して不思議な音楽になっていた。快い速度で音は近づいてきた。
そしてその音は、私の意識の網の目を通り抜けて、また遠くに走り去ってゆくはずだった。
その時である。その快い音が、快く遠のいてゆくはずの音が、ぷつりと途切れてしまったのだ。
私はハッとして思わず顔を上げた。見回した車内に何も変わったことはなく、いつもの通りの眠そうな淀んだ空気が
流れているだけだった。
「機械の故障かしら。それとも私の錯覚だったのかしら」耳を澄ましても別に変わったことはなかった。
「何でもなかった・・・」そう思いながら再び本に目を落とした。しかし頭の隅が醒めてしまって、
もう本に没頭できなくなっていた。目は文字を追っているのだが、さっき突然途切れたあの音のことが
何処かにひっかかって、もう何も頭に入らなかった。仕方なく本を閉じて窓の外に流れる灯を眺めているうちに、
底知れないこわさが私を襲い始めた。何だか頼りなく、どこに自分がいるのかわからないような、
今まで自分がつかまっていたものを突然もぎ取られたような不安、そんな感じだった。
それは、こんなちょっとした出来事で感じ始めたこわさだったけれど、実は私のよく知っている
「例の」こわさ、なのだ。
今私が電車に乗っているということ、J大学の学生だということ、そして○○○子という女である、ということまでが
現実感を失ってしまい、全く知らない国に迷い込んでしまったような、あの何とも頼りない感じ、と言ったら
わかって貰えるだろうか。
「こわい」というのが私の口癖だそうである。小さい時、私は暗い所がこわかった。
友達とふざけていて真っ暗な部屋に閉じ込められた時、どうしたら良いのか、
どこへ向かって歩いてゆけば良いのかわからず、声を出すことも、足を踏み出すことも出来なかったことがある。
暗い中におばけがいるから、とか、何かこわいものがいるから、ではなくて、何もないからこわいのである。
電気がついていた時には確かにあそこには椅子があったしテーブルもあった、と思ってみたところで、
子供にとっては真っ暗でなにも見えない、ということは、何もないのと同じことなのだ。
その応接間の中で私は、闇夜の海原の真ん中に、あるいは見知らない宇宙空間に、
たった一人置き去りにされたのと同じ不安、同じ孤独感に襲われたわけである。