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  シクラメン 虫の棲み家 早春日記 あかつきの夢
 シクラメン......

 四月の雨と月曜日とが重なって、今朝のラッシュはいつもよりひどかった。外の冷気 に曇ったドアに、へばりつくようにして灰色の景色を眺めている頭の隅に、「嫌いです」 と言った昨夜のTの声が繰り返し聞こえていた。
 わずか二ヶ月足らずのつきあいとは言え、一度でもお互いの心が通じたと感じそれ を確かめ合った人から、いきなり一方的に結論を宣告されたのは、昨日だった。あの 時から、また心が閉ざされてしまったようだ。
 多くを語らないのがその人のいたわりなのだということは知っている。こうなるまでに その人が私の知らないところで苦しみ続けていたということもわかっている。それでも なおぐずぐず恨み言を言い続ける自分になおさら惨めになって、「はやく諦めたいから、 私のことを嫌いだと言って下さい」と言ってしまったのだ。心と関わりのないところ で言おうと思えば言えるこの簡単な言葉を、本気で苦しみながらようやく口にしたあ の人。
 唐突に、「嫌いです」とつらい眼をして言ったその声に、答えようもないまま私は、その 人のライターをしっかり握り締めた。何度も何度も灰皿に吸殻をこすりつけている力の 入った指先の動きを眼で追いながら、「そういえばこの人は、今までにこんなことをし たことがなかった」と思っていた。
 だが、今まで、といってもたったの二ヶ月である。そんな短い間にどれほど相手がわ かるというのだろう。理解しあった、心が通じた、と思ったことだって錯覚だったかもし れない。否、本当に理解し合えていたとしても、こんな風に一方的に結論を出された 今、そのことになんの意味があるというのだ。せめて一緒に苦しんだ後で結論を出し てほしかった。
 ライターを手の中で弄びながら、その人と自分との関わりが、このライターで煙草に 火をつけてあげる、その程度の重さしかないような頼りなさに襲われた。これを返して しまえば、もうなんの関係もなくなる、そう思って、もう一度ライターを握り緊めた。

 都会的な会話の旨さはTにはなかった。東北の農家の次男であるTの語り口には、 人のよさと不器用さと、そして素朴な温かさが溢れていた。一流大学、一流企業、と 出世コースを歩みながら、そのことと自分の本質とのジレンマに陥って悩んだという 話や、「結局俺には東京のカッコよさは似合わないんだと思ったら急に楽になってね、 俺は俺のままでいこうと思ったんです」という飾らない言葉を聞いて、私は、自分が 見失っていた大切なものを、ようやく見つけ出した、という気持ちになった。決して 話し上手ではないのに会話が少しも不自然でなく、まっすぐこちらの眼を見て話すT の前では、何も格好をつける必要がなかった。話していても黙っていてもこちらを安 らかな温かい気持ちにさせてくれる、不思議な人だった。周囲の眼や枝葉のことに とらわれてうろうろしてしまう自分に嫌気がさしていた私には、Tは、そこへ帰って いけば休ませてくれそうな、そんな人に見えた。一緒にいて楽だ、と思った。

  ある時、喫茶店でお茶を飲みながら、そこにかかっていたポスターの花が話題になった。正月ごろよく見かける花だけど、というTに「シクラメン」という名を教えると、それ なら知っていた、と笑い、「きれいな名前だけど、都会的な花だね」と言った。確かに、美しいけれど咲かせるのが難しい。弱そうで強い、 気難しい都会の女のような花だ。そんな感想のついでに、私は、自分の会社の窓辺に置いてあるシクラメンの話をした。
 私が入社したのは春になってからだったので、そのシクラメンは大きな鉢の割に、もう小さな株になっていた。花も葉も茎も、気弱そうに ひっそりとしていた。毎朝水を遣ったほうがいい、という人もあれば、水を遣り過ぎるとよくない、という人もいた。一応私にまかされた その鉢が、時折皆の話題になった。だが、そんな皆の気持ちにもかかわらず、うすいピンクの花はひとつ枯れ、ふたつ枯れして、とうとう 数枚の葉と、それまで茎の間に小さく顔をのぞかせていた固い蕾ふたつだけになってしまった。私は自分の気持ちの入れ方が足りなかった のかと心細くなり、できればその鉢を、どこかの隅にしまいこんでしまいたい、と思い始めた。その頃からシクラメンのことは皆の口にの ぼらなくなった。
「今もその花、私の机のすぐ脇にあるんですけど、もうずっと蕾のままで、毎朝水を遣るのもつらいような気がして・・・。 でもまだ枯れないんです」「ずいぶんしぶといんだね。本当に東京の女みたいだ」そう言って私たちは笑いあった。

 その日のTは、あとから考えれば確かに最初から元気がなかった。あまり笑わず、な げやりとも言える様子で喫茶店を決め、座ったと思うと話を切り出した。とにかく白紙に 戻してほしい、自分から申し込んでおきながら親の反対ぐらいで覆すのが失礼だとは 承知しているが、親をとるかあなたをとるかと言われれば、やはり親がかわいいと言わ ざるを得ない。そのようなことを口早に語って、ふいにTは沈黙した。私もあまりに突然 のことで言葉が無く、しばらく押し黙った後、二人とも重い気持ちを抱えたままその店を 出た。
 どんよりと重苦しい空から、今にも雨が降り出しそうだった。休日の繁華街は人が多 く、さざめきやレコードの音が低い空に閉じ込められて淀んでいた。気をとり直して最後に おいしいものを食べよう、ということになり、肉料理の店に入った。何ごともなかったよう に談笑するうちに、どうにも処理しようのない感情が私の内にくすぶり始めた。このまま スマートに別れてしまえば、それはそれで済む事かも知れない。しかし、ここでもうひと こと言っておかなければ、或いは言ってもらわなければ後々まで尾をひいてしまうだろ う、という思いに負けて、私は、もう少し丁寧な説明を求めた。聞いてみれば、私の死ん だ両親の離婚と、母の白血病という死因が調査でわかった、というだけの、私にとって はあまりにもつまらない理由だった。世間とはそんなことを気にするものなのかと、半ば 気抜けし、半ば呆れてTの顔をみつめた。あなた自身には問題は無いのだけれど、と 言いたげなTの口ぶりに、今度は軽い憤りを覚え、ライターで火をつけるのをきっかけに 「私のことを嫌いだと言ってください」と言ってしまったのだった。

 雨の中を会社に向かう足が重い。昨夜の睡眠不足のせいだろうか。かじかんだ手には、 Tから借りていた本を数冊、小包にして抱えている。濡れた足が冷たく、心はまだくす ぶっている。着くまでに気持ちを整理しなければ、と思う間もなく、会社のビルが私を 迎えた。おそらくまだ誰も来ていないだろう、と思いつつ扉を開けると、薄暗い部屋に 湿った臭いが満ちている。あぁ、いやだ、とつぶやきながら窓を開けようとした途端、 私は思わず「あっ」と声をあげた。窓辺には胸をつかれるような可憐さで、シクラメンが ふたつ、ピンクの花を開いていた。

1977.6.......
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