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 虫の棲み家......

 まな板にのせたピーマンにサクッと包丁を入れると、中で汚い糞にまみれて青い虫がうごいていた。 見ないようにしてピーマンをつかんで紙袋に放り込み、さらにビニール袋に入れて口をしばり、 外のポリバケツに捨てに行った。
 もうひとつ、新しいピーマンをとり出して、そおっと包丁を入れる。今度は大丈夫。 きれいな白い種がびっしり並んでいる。種をとってから細かく刻む。今頃になって冷や汗が出てきた。 口の中が苦くなる。とにかく青虫は嫌いだ。  瑞々しい細胞が緑色に透きとおって、新しいピーマンは刻む度にぷつぷつと音をたてているようだ。 ピーマンってこんなにきれいなものだったのか、と思う。きれいなだけに、中にあんなものがいたことが、 吐き気がするほどいやだ。

 外形の整ったものの中味が剥き出しになるのは怖い。勤めていた頃、朝のホーム
の 階段を昇っている時に、私の横でつまずいた人の顔を、怖い、と思ったことがある。
無表情のままで黙々と昇り続ける人々の中で、その人だけが不用意に中味をさらけ
出してしまったようで、思わず目をそらしてしまった。次の瞬間、チッと舌打ちをした 時
の表情も、ズボンの裾の汚れを気にしながらのしかめ面も、少しも怖くはなかった。
つまずいた瞬間の、あっ、と声を呑んだその顔だけがひどくなまなましく、見てはな
らないものを見てしまったような、いやな気持ちになったのだ。
 そういえば私は、理性を失うほど怒っている人の顔や、咳込んでいる人、嘔吐して
いる人の顔を正視できない。普段は知らずに繕っている外形に一瞬裂け目ができて、
人に見せてはならない中味が見えてしまうような気がするからだ。だから自分でも、
外形を整えることを忘れるほど、人前で感情をあらわすことができない。最後のとこ
ろでいつも醒めていて、自ずとブレーキをかけてしますのだ。私の中には何があるの
だろう。自分でも目をそむけたくなるようないやなものが、ぎっしりつまっているの では
ないだろうか。
 ポリバケツに捨てた虫のことを思い出す。一体何故、こんなにも青虫が嫌いなのだ
ろう。嫌いなものなら他にもある。蛇やとかげ、ゴキブリだって、気味が悪くて、触
るどころか見ているのがやっとだ。だが、青虫の気味悪さはちょっと違う。蛇やとか
げはまだ、自分の知っている世界のもの、という気がする。けれど、青虫には、何を 考えているのかわからない不気味さがある。異界の生き物のようで、どう扱ったらい いのか途方に暮れてしまう。青虫に目があるのかどうか知らないが、たとえあったと しても、目を見合わせて何か通ってくるものがあるとは思えない。しかも相手は、私 には通じない自分なりの理屈で、 したたかに生きているように見える。そこが不気味だ。ありふれたピーマンの中に、 そんな見知らぬ世界の生き物がぬけぬけと我がもの顔で住んでいたことが、何とも気持ち悪い。
 そうか、もしかしたら私の中身は、いやなものがつまっているのではなくて、 ぽっかりあいた空虚な穴なのではないだろうか。そしてそこに、私にさえ言葉の通じないうつろな目をした虫が、 長々と体を伸ばして棲みついているのかも知れない。
そんなことを思って見廻せば、馴染み深い台所の壁も、棚も、白々と遠のいて見えてくる。
                                                                   1980年
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