@神代三山陵とは? 神代三山陵伝承地マップへ |
古事記・日本書紀によると、天照大神(アマテラスオオミカミ)の孫である瓊瓊杵尊 (ニニギノミコト)が高天原から高千穂に天孫降臨し、以後、三代(いわゆる日向三代、 神代三代)は日向で過ごし、曾孫の神武天皇が日向から東征して大和に遷られたと している。尚、笠沙の御前で木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)と出会い、一目で心を 奪われた瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)は、木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)の父である 大山祇神(オオヤマツミ)に木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)との結婚を申し出、大山 祇神(オオヤマツミ)も天から降ってこられた御子に娘を乞われたことを大変喜んで、 木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)とその姉の磐長姫(イワナガヒメ)を差し出した。 しかしながら瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が容姿の醜い磐長姫(イワナガヒメ)だけを 送り返すと、大山祇神(オオヤマツミ)から「磐長姫(イワナガヒメ)をお召しになれば、 生まれてくる御子の命は岩のように永遠のものとなる。木花咲耶姫(コノハナサクヤ ヒメ)をお召しになれば、生まれてくる御子の命は、花が咲きやがて散るように、限り あるものとなってしまう」といわれ、以後、瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の子孫(二代目 彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)、三代目鵜葺草葺不合(ウガヤフキアヘズ)には 寿命があることになった。寿命があるということは死んだという意味であり、瓊瓊杵尊 (ニニギノミコト)を含む三柱が南九州で亡くなったとすれば、その墓も当然南九州に 残っていなければならない。この考えで探索された墓のことを神代三山陵という。 |
A神代三山陵の治定作業 |
神代三山陵の治定作業は明治の初期に開始された。といっても明治になるまで放置 されていたわけではない。本居宣長らが活躍する江戸時代の頃から研究されていたが、 確定するまでに至っていなかったのである。しかし江戸時代から明治時代になると、 事態が急変し、武士中心から天皇中心の社会へと移り変わり、神代三山陵の治定は 国策となり、急を要する作業となった。尚、もともとの日向国とはのちの薩摩国・大隅国 を合わせたものであったため、三山陵は当然、薩摩国・大隅国・日向国のいずれかに 存在していることになる。以下、神代三山陵の治定までの様子を、時代的背景や南九州 (鹿児島県と宮崎県)の置かれた政治状況を軸に概観してみる。結論からいうと治定 されたのは明治7年である。廃藩置県がなされたのが明治4年。鹿児島県がただ薩摩藩 を鹿児島県とするだけでよかったのに対し、小藩乱立だった宮崎県は困難をきわめた。 都城の薩摩藩、日南の飫肥藩、延岡藩、高鍋藩、佐土原藩の他に椎葉地区と米良 地区には熊本県が入り込み、それに加えて幕府直轄の天領が十数ヶ所もあったからだ。 まず6つの県で出発するが失敗。次に耳川から北を美々津県、南を都城県とするが、 これも失敗。結局、県央にある宮崎という小さな漁村を県名に決めて、県庁所在地と した。神代三山陵が治定されたのは翌年の明治7年で治定地はすべて鹿児島県内で あった。実際のところ宮崎県は神代三山陵どころではなかったのだろう。多くの資料は 当時の政治力の差を指摘する。明治政府に要人が多かった元薩摩藩の意向や政治的 圧力があったのではないかというのが通説である。(余談になるが、明治9年から明治 16年までの間、宮崎県は鹿児島県に吸収合併されてしまう時期もあるのである。) |
B神代三山陵の治定地 神代三山陵伝承地マップへ |
可愛山陵→鹿児島県薩摩川内市宮内町 高屋山上陵→鹿児島県霧島市溝辺町麓 吾平山上陵→鹿児島県鹿屋市吾平町上名 |
C宮崎県側の反論と陵墓参考地 |
宮崎県が黙っていたわけではない。宮崎県こそ「日向神話の地で皇祖発祥の地」で あると自認しているにも関わらず、三山陵をすべて鹿児島県に取られたのでは面子が 立たない。そのような反論を宮崎県の古代史研究の草分け的存在だった日高重孝氏の 著書「日向の研究」からうかがい知ることができる。文面からは憤懣やるせないという 苛立ちが目にするように感じ取れる。 「日本書紀には三陵の所在地を日向國と明記してゐるのである。只、右にいふ日向國が 現時の日向國と限るか、將た薩隅二國の未だ分離しない以前の日向國を指すかが、 古來問題とせられてゐる。前説を主張する學者は曰く、大隅が日向から分離したのは 和銅六(713)年で、薩摩が日向から分離したのは更にそれより數年前(恐らく大寶 二年か)であるから、何れも日本書紀が編纂せられた養老四年より七年以上も前の事で ある。さすれば日本書紀にいふ日向は、當然薩隅二國分離後の日向、即ち現時の日向 を指すものであることは疑いを挟む餘地がない。延喜式にも、同じく三陵は日向國に 在りと明記してゐるのである。延喜式は延長五(927)年の完成で、薩隅二國が日向から 分離後二百年後に出來たこの延喜式に、日向國に在りと明記してあることは最も注目 すべきである。然るに論をなすものは、延喜式にいふ日向をさえ矢張薩・隅二國を含む 時代の日向であると主張するのであるが、これは全然肯首され難い。」 彼の怒りは当然と思える。ここで問題となるのは「日向國が現時の日向國と限るか、 將た薩隅二國の未だ分離しない以前の日向國を指すかが、古來問題とせられてゐる」 である。これこそ「二つの高千穂論」にもつながる大本であり「古來問題とせられて ゐる」のも当然である。どちらが正しいかはさておき、その後どうなったかを見てみると、 旧宮崎県では鹿児島県からの分離独立運動が起こり、それが認められたのは合併 から七年が経過した明治十六年のことだった。また神代三山陵についての政府見解が 出たのは、さらに十三年後の明治二十九年である。それは「陵墓参考地」という名目 だった。つまり参考程度、または伝承地として認める「陵墓参考地」という名目である ため、宮崎県にとっては極めて不本意な決着で、まさに憤懣やるせないという措置 だったといえる。 |
Dまとめ |
神代三代は神と人間の中間にいるという設定であるので、史実性はない(または低い) という考え方も当然にある。もともと神話は作り話なので「神代三山陵」などは存在 しないはずだという考え方は至極当然で最もだとも言える。しかしながら、史実性は ない(または低い)とはいえ、古事記・日本書紀や延喜式に神代三山陵の所在地が 明記されている以上、神代三山陵(可愛山陵、高屋山陵、吾平山陵)とされるものが 「存在」していたのは『事実』ではないかと思われる。またその所在地も薩隅二国が 日向から分離後二百年後に出来た延喜式にも日向国に在りと明記されている以上、 やはり「宮崎県に存在していた」と考えるのが最も合理的な考え方ではないかと思わ れる。興味深い資料が残っている。先に引用した日高重孝氏の研究によれば、神代 三山陵の候補地は宮崎、鹿児島県を合わせて二十二ヶ所もあるという。その内訳は 可愛山陵が六ヶ所(宮崎3、鹿児島3)、高屋山上陵が十ヶ所(宮崎4、鹿児島6)、吾平 山上陵が六ヶ所(宮崎5、鹿児島1)である。今さら |