【廃墟マニヤ File038】

H立鉱山(茨城県)

(その1)

選鉱場跡

H立鉱山(おわかりだとは思いますが、Hは日ですね)は、日本を代表する銅鉱山のひとつであり、日本の近代産業史の中でも重要な位置を占める鉱山でした。みなさんご存じのH立製作所も、この鉱山で使用する機械の修理製造部門から誕生した会社です。

 

いつものごとく簡単に歴史を紹介しておきましょう(説明を飛ばしたい方は、この頁末へ)。

H立鉱山の前身、赤沢鉱山は16世紀末、金の発見により始まり、19世紀中頃には赤沢銅山として開発されます。しかし近代的な鉱山に変わっていくのは、1905年(明治38年)久原(くはら)鉱業が買収、H立鉱山と改名してからです。

買収後すぐに巨額の投資が行われ、大雄院(だいおういん)に大型銅精錬設備も建設され、数年にして足尾、別子、小坂にならぶ銅山となります。1928年(昭和3年)久原鉱業は日産コンツェルンに改組。その鉱山部門は日本鉱業に引き継がれ、太平洋戦争時代には人員不足に悩まされたりもしますが、朝鮮戦争による特需で大きく発展していきます。

しかし1960年代より貿易自由化、世界不況などによって次第に経営が厳しくなり、1973年(昭和48年)には鉱山部門はH立鉱山株式会社として独立。精錬部門はN本鉱業株式会社H立製錬所となります。

そして1981年(昭和56年)H立鉱山は鉱石を掘り尽くして閉山。一方、N本鉱業株式会社H立製錬所は、1993年(平成5年)に社名をN鉱金属H立工場と変更し、現在も銅の第二次精錬を行っているようです。

なおH立鉱山の本山には「日K記念館」という鉱山資料館が作られ、一般公開されています。


満足度:★★★

 


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