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新しい視点で地域を活動する Nishisaki1・2 ASSOCIATION

自治会の歴史report

私達の町「西崎町1・2丁目」(故後藤孝一氏の話より)

活動報告写真私がこの町に住み始めたのは、昭和23年7月1日のことです。当時は民家もまばらで道路といえば”デコボコ道”。自宅を建築し始めた頃は、その道さえ通っていませんでした。建築と同時に現場から採掘した土や小砂利は、壁土として利用することができました。また鉄パイプを15メートルほど打ち込むと水が湧き出て、長い間井戸水として使うこともできました。

自宅の完成当時、城山八幡宮より眺めると我が家が一軒ポツリと見えていたことから、どれだけ建物が少なかったが伺い知れると思います。当時の自治会は、「川崎町・西崎町連合町内会」と称しており、私の父親も副会長として携わっていました。町内の行事と言えば「祭礼」ぐらいなもので、娯楽の少ない時代、それは盛大に催されたものです。歴史を偲ばせる獅子頭5組はいまも自治会に現存し、祭礼開催の折は子供たちの安全を見守っています。

田代本通りの東側には姫ヶ池より流れ来る「川」がありました。川は整備がされておらず”ガラクタ”だらけ。昭和25年の7月には大雨により氾濫し周辺一帯が水浸しとなりました。その後山崎川のような桜並木を夢に描き、川の東側に桜の木を植えましたが、道路の拡張整備のため川は暗渠となり田代本通りは現在のような道路に生まれ変わりました。

私達の町「西崎町1・2丁目」 (田代公園)

活動報告写真戦後特筆されるのが、名古屋市の都市計画により市内各所にある寺院の墓地が平和公園に移設されたことではないでしょうか。当時の平和公園は、独特の赤土が露出して、遠くからの全景はまさに「赤い山」に見えたものです。

都市計画により各所に公園が造られました。その一つが「田代公園」です。当時の公園は、周囲に銀杏、桜、楠などが30本ほど植樹されていましたが、柵もなく、遊具と言えばすべり台と鉄棒ぐらいで公園と呼ぶにはほど遠いものでした。そんな公園の東側は、昭和24年9月1日に開校した城山中学校のテニスコート予定地になっていましたが、全くの手つかずで雑草が生え放題。大勢の人の手で草取りした思い出がいまでも甦ります。その後、昭和53年頃に公園全体の整備がなされ、公園の東面は広場に、西面は遊具場となりました。周囲に柵も施され、公園らしく生まれ変わりましたが残念なことが一つだけありました。それは子ども会で作った花壇が無くなってしまったことです。

当時は自治会会員で結成された公園愛護会と子ども会、そして西崎女性会(現在、女性会は有りません)が千種土木事務所と連携して公園の維持管理を行っていました。その後、公園愛護会は自治会役員で構成する「田代公園特定愛護会」となり、先人たちの愛護精神を受け継ぎ、千種土木事務所との連携はもとより、地域の皆様の協力を支えに公園の維持管理を行っております。


私達の町「西崎町1・2丁目」(田代公園での盆踊り大会@)

活動報告写真 昭和56年の春、三町内(穂波、西崎1・2丁目、川崎西崎)合同によるラジオ体操の打ち合わせの折、”田代公園で盆踊り”との提案がなされました。
公園東面に舞台となるヤグラを組み、「その周りで踊っては」との内容でした。広さ的に実行可能かを話し合い、特に問題は無いだろうとのことで同年の8月に開催の運びとなりました。実行の中心は当自治会が、他の二町内は協力体制で決定。早速準備に取り掛かりました。しかし、それからが大変。まったく経験が無いので何から手を付けて良いのやら…。最初は右往左往の状態でした。
町内の役員とも相談を重ね、まず電源については公園近隣の三軒に協力をしてもらい(平成6年9月、公園のトイレと併設して分電盤を一箇所設置:千種土木事務所※平成7年より電気を借りることなく実施)踊りの舞台となるヤグラは中日新聞社の持ち回りがあるそうで、上野新聞店にお願しました。そして肝心の踊りですが、指導していただける方が三町内では見当がつかず、星ヶ丘にいる知り合いの近藤師匠に相談し、数名の方を派遣願えることになりました。また子供たちは踊りだけではつまらないだろうとのことで、ジュース券を作って配りました。かくして一応の準備が整ったわけです。

私達の町「西崎町1・2丁目」(田代公園での盆踊り大会A)

活動報告写真 昭和56年の8月11日、12日。第1回「盆踊り大会」の開催です。来賓として、国、県、市会議員や区長などに参加をいただきました。その折に頂戴した寄付金は大会を運営するのに随分と助かったものです。56年から58年までの3回は同じ形式で行いました。しかし、59年春の町内総会で「今のままの盆踊り大会ではつまらない。日泰寺で行っているような”みたらし・かき氷”などの屋台が出せないものか」との要望が出され、検討。他の町内で子ども会が発足したのを幸いに「それでは」と話が進み、三町内の子ども会を中心に若いお母さんたちの力を借り、屋台を出そうという結論になりました。しかし、残念なことにこの年(59年)は、準備を進めたものの公園の改修工事と重なり、急きょ「西崎広場」(旧城山中学校の第2運動場:現在の千種区在宅サービスセンター)に場所を変更。広場の中央に舞台を設置し、屋台は昭和区福原町のさつきフードさんにお願いをして北側と南側に出しました。こうして何とか開催にこぎつけたわけです。屋台は好評で、「これならいける」と確信。翌年からの準備は子ども会を中心とした自前部隊で行うことができました。

昭和60年夏の到来!いよいよ盆踊り大会の季節です。本格的な屋台の準備に入りました。まずはテントを区役所で、次にガス台・ガスボンベなどを仲田の澤田商店さんに相談し、借りることができました。机類は町内で調達。食材はデキスエさんにお願いをしました。そんなこんなで準備が整い、いよいよ本番当日。各々の子ども会から数名ずつ参加してもらったお母さんたちが、慣れない手つきで五平餅、みたらし団子、トウモロコシを焼いたり、かき氷、缶ビール、お菓子などの販売にと大忙し。お母さんたちは大変でしたが、訪れた人たちの笑い声が公園に響き渡っていました。また何かゲーム活動報告写真でもと明道町の問屋で購入した「くじ引き」も大好評でした。2日目終了後、スタッフ一同ビールで乾杯。引き続き反省会を行いました。お母さんたちの感想を聞くと「最初はイヤだったが、やってみたら楽しかった」とのこと。来年は別のお母さんが担当するので、「また、手伝ってみたい」と少し寂しそうでした。その後、平成10年まで18年間続いたこの行事も、田代学区主催の盆踊り大会の始まりをもって幕を閉じることとなりました。

私達の町「西崎町1・2丁目」(祭 礼)

活動報告写真 私達の町内は、戦後直後から城山八幡宮とは縁が深く、昭和32年頃には、町内のお祭りともなると獅子頭を先頭に参加者全員で参拝したものです。子供たちはお祭りを心待ちにしていました。今思えば、当時の楽しみはお祭りぐらいだったのかもしれません。お祭りの当日は、川崎町、西崎町を練り歩き、夜には提灯に火を灯し、役員の家の前で「万歳」と叫びました。また宿の近くには、直径50pほどの「吹き流し」を付けた竹竿を立てたものですが、昭和60年以降、空き地の減少や電線に吹き流しが絡まるなど危険なこともあり、取り止めてしまいました。

昭和53年7月21日、町内に子ども会が結成されました。結成最初のお祭りでは、「お神輿を担いでみたい」と子供たちの声が集まり、圧倒的多数でお神輿が決定いたしました。それに伴い、今まで一ヵ所だった祭りの宿を1丁目と2丁目の二ヵ所に作り、その間を交互に、お神輿を担いで回ることにしました。宿の着くと沢山のお菓子が子供たちを待っています。子供たちは皆、手作りの袋を腰に付けて参加。回数を重ねるごとにお菓子でその袋がふくらんでいきました。話はお神輿になりますが、交互に回るとなるとどうしても2台必要。お母さんと子供たちとの手作りお神輿は、平成15年度で52台(平成29年度で80台)を数えました。またこの間、「名古屋まつり」に4回参加をいたしましたので、作ったお神輿は4台増しということになります。


私達の町「西崎町1・2丁目」(名古屋まつり)

活動報告写真 平成16年で記念すべき50回(平成29年度で63回)を迎えた「名古屋まつり」とは、祭礼や子ども会を通じて関連が深く、昭和55年の26回開催では、千種区の各学区がお神輿2基を持ち寄り、千種区役所、今池、覚王山を参加の子供たち全員でパレードいたしました。昭和59年と60年には千種区の選抜として田代学区が、そしてその代表として「名古屋まつり子ども会ミコシパレード」にも参加しました。
しかし、「なぜ田代学区だけが連続で」との不満も上がり、学区連で協議の結果、今後については各学区7年に一度の参加と決まりました。

平成4年10月、その7年に一度の参加がやって来ました。この年は、千種区の体育祭も開催されるため連合会長からの申し出もあり、特別大きな神輿を作ることになりました。
早速、中区高岳の交差点にある「シャチホコ像」のスケッチを子供たちと行い、左右の鯱の間に東山タワーをイメージした、高さ3メートルの神輿を製作いたしました。名古屋まつりの規模からして、小さいものでは全く目立ちません。当日は、神輿を担いで市役所、南大津通、栄と歩き栄の交差点で左折。なんと言っても市役所本部、栄交差点は一番盛り上がるところ、全員が胸を張って力強くパレードいたしました。このパレードに参加できる子供たちは、子ども会のジュニアリーダーだけ。参加の年にあたった子供たちは幸せだったと思います。いつまでも心に残ることだろう。同年10月の末には、千種区の体育祭が開催されました。千種公園に15学区が勢揃い。田代学区も慣れない衣装を身につけて参加をしました。体育祭の終了後、田代小学校の校庭を大人たちが神輿を担いで回り、締め括りは神輿を校庭中央に置いての20発の落下傘花火。参加者全員が、満面の笑顔をうかべていました。

私達の町「西崎町1・2丁目」(子ども会)

活動報告写真 「西崎町1・2丁目子ども会」は、昭和53年7月21日の発足以来、6年生のお母さんを中心に色々な行事を行って参りました。また、学区が主催する運動会、ドッチボール大会、綱引き大会などにも毎回参加。6月(現在は10月)に行われる運動会では、過去に優勝した経験もあります。ソフトボール大会も以前は盛んで、多いときには学区内で28チームの参加がありました。しかし今では、西崎町チーム(現在は有りません)が平成16年に復活してもわずかに4チーム。これも時代の流れか!

ラジオ体操は今も続いている夏の行事ですが、その他季節ごとに行った思い出深い行事を紹介いたします。まずは田代公園で行った「デイキャンプ」。テントを張るのに苦労したことやブロックを積み上げての飯ごう炊飯、お寿司、カレーライスを作って食べたことなど、子供たちにとって貴重な体験ができたと思います。55年、56年、57年頃は花火大会や映画観賞会などを行い、夏の夜を満喫いたしました。秋の「芋掘り」は、9回ほど行いました。ほとんどが長久手方面でのサツマイモ掘りですが、一度だけ「長いも」を掘りに出かけたことがありました。江南市で畑作りをしている友人からの誘いがあり、「それでは」と子供たちを引き連れ押しかけることにしました。この地域の地面は土が柔らかいのが特徴で、菜園用のスコップでも簡単に掘れるため子供たちも大喜び。5、60センチの長いもを50本ほど収穫いたしました。帰りに地主さんからトウキビや野菜などをもらい、最高に楽しい1日を過ごすことができました。また、愛知青少年公園より北へ1キロほどの場所にある陶磁器センターには3回ほど出かけ、粘土から陶器を作りました。あのときの作品!皆さん持っていますか。
活動報告写真
12月になるとクリスマスの季節です。平成元年には、田代本通り沿いの今は無きシントーさん(現在はマクシス・エンジニアリング)が自社の敷地に大型のクリスマスツリーを飾り付け、12月23日に点灯式を行いました。タレントのジョン・ギャスライトさんをゲストに迎え盛大に開催。子供たちも大勢招待され、お菓子をプレゼントしていただきました。翌年から他の企業5社からの協賛も得て、点灯式を行いましたが、平成4年12月20日で終止符。僅か4年でしたが、思い出の凝縮した点灯式でした。

平成2年には、「きんサンぎんサン」の”きん”サンをゲストとして招き喝采を浴びたことや、最後の年には、トヨタカローラの社内でジョン・ギャスライトさんと記念写真を撮ったことが懐かしい思い出となっています。また、シントーさんには、2017年で24回目を迎える名古屋YMCAチャリティーランにも第1回〜第3回までご協力をいただき参加することができました。このように地域の皆様の協力や支えがあっての子ども会です。今後とも宜しくお願いいたします。

私達の町「西崎町1・2丁目」(西崎広場:現在の千種区在宅サービスセンター)

昭和57年夏のことです。西崎町二丁目4番地、34番地に所在する営林局の官舎8棟(敷地面積1445u[437坪])の処分が名古屋市に要請されたと、当時の市会議員真野清和氏より聞きました。当初名古屋市は、警察職員の独身寮として考えていたそうですが、10mの高さ制限により3階以上の建物を建てることができないとの理由で、一般への売却も視野に入れているとのことでした。そんな折、田代学区の役員会が公職会の決定を踏まえ、真野市会議員を通じて名古屋市に、この土地を城山中学校の第2運動場として使用できないものかと要望いたしました。
当時の城山中学校は、「マンモス校」と呼ばれるほど生徒が多く、そのせいで運動場が非常に狭くなり、体育祭などはわざわざ瑞穗運動場まで出かけて行っていました。そのようなこともあり、名古屋市は役員会の要望を聞き入れ、結果この土地は、名古屋市教育委員会が所有することとなりました。

昭和58年の5月には官舎の取り壊し工事が始まり、あっと言う間に437坪の更地となりました。その周囲に4mの鉄柱を立て、網のフェンスを張り、北側と南側に鉄製の出入口を設け運動場の完成です。運動場は、主に城山中学校のテニス部、ハンドボール部が使用しておりましたが、空いてる日や時間帯は田代学区子ども会のソフトボールの練習や老人クラブのゲートボール、そして子供たちの遊び場としても利用させてもらいました。ソフトボールの練習ともなると、打球が4mのフェンスを越えて行くことも度々で、当然近所迷惑。名古屋市教育委員会にお願いをし、フェンスの高さを7mにしてもらいました。また、昭和59年8月には「盆踊り大会」を開催したこともあり、地域とは密接な関わりもできました。運動場はいつしか、誰からともなく「西崎広場」と呼ばれるようになりました。

その後、東山学区と星ヶ丘学区を中心に「東星中学校」が完成すると、城山中学校に集中していた生徒が分散。それにより名古屋市教育委員会では、城山中学校において、体育館を撤去することで生徒数に見合った広さの運動場を設けることが可能と判断し、城山中学校第2運動場(西崎広場)を名古屋市に返還いたしました。そして役目を終えた西崎広場の管理につきましては、千種区役所の指示により田代学区連絡協議会の預りとなりました。


私達の町「西崎町1・2丁目」(名古屋市千種区社会福祉協議会)

活動報告写真 名古屋市社会福祉協議会が、社会福祉法人となったのは昭和39年のことです。それから10年が経過した昭和49年、千種区の福祉事務所では3人ほどがその業務に当たっているだけのものでした。その後、社会福祉事業の拡大により事務所は池下のファースト池下ビル2階に移転し、人数も18名ぐらいになりました。現在では、平成11年4月に千種区西崎町二丁目4番、34番(旧城山中学校第2運動場:西崎広場)に建築された「千種区在宅サービスセンター」内で、名古屋市千種区社会福祉協議会として約65名の職員が業務に当たっています。

ではなぜこの地に建築されたのか、その経緯を少しお話させていただきます。名古屋市では、民政局を中心として、市内全区に在宅サービスセンターの建設が決定(平成6年頃)され、まず第1期として6ヵ所を予定しておりました。千種区の候補地として「西崎広場」も名を連ねていましたが、皆それぞれの思惑もあり、「区役所から遠い」「区の中心ではない」「高層建築ができない」などの反対意見も多く、決定には微妙なところでした。そこで社会福祉協議会の理事会に働きかけるべく、平成7年3月、田代学区の中学校区に「福祉センターを創る会」を発足させ、名古屋市に陳情をいたしました。結果、守山区と共に名古屋市で第1号となる「千種区在宅サービスセンター(千種区社会福祉協議会)」の建築が決定。平成10年に着工され、翌平成11年4月に竣工いたしました。「人に優しい福祉のまちづくり」の始まりです。

西崎町1・2丁目自治会(広報担当室)

〒464-0827
名古屋市千種区田代本通三丁目20番地
      ダイアパレス覚王山203号

        TEL 052-752-8837
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