未得世襲罔替の親王家

第六回-成親王永瑆

阿井一矢

 豊紳府00-3-01-Fengšenhu
  公主館00-3-01-gurunigungju

  富察花音(ファーインHuā yīn

康熙五十二年十一月十八日(171414日)癸巳-誕生。

西六宮
平面図
 東六宮
平面図

1908-最新北京精細全圖-光緒三十四年・内城。

   

成親王府

調べても什刹海(シィチァハィ-后海・ホウハイ)の和珅(ヘシェン)の御花園へ移る前の親王府が何処か分からない。

光緒十四年(1888年)に毓は遷居して西直門内後半壁街へ引き移ったという。

御花園-什刹海(シィチァハィ-后海・ホウハイ)東岸

北京市西城区后海北沿44号 

康熙朝大學士明珠(納蘭明珠・葉赫那拉氏イェヘナラ)納蘭性徳寺町乾隆朝晩-和珅(ヘシェン)花園嘉慶四年(1799年)花園拝領-成親王府(十一阿哥永瑆)光緒十四年(1888年)-醇親王奕譞1951-載灃死去中華人民共和国衛生部1963-宋慶齡(ソン・チンリン)西側庭園(明珠花園)「宋慶齢故居」・東側邸宅部分、国家宗教事務局。

1750-乾隆全図- vol.2-00080009では惟心庵・龍華寺・瑞応寺と寺が並んでいる。

醇王府-1908-iron-11-02.

貝子府-貝子毓は寿荘公主府(壽莊固倫公主-道光帝九公主)跡へ移転。

西直門大街後半壁街-恂郡王府(允)跡を同治二年(1863年)寿荘公主府へさらに光緒十四年(1888年)貝子府。

1750-乾隆全図-vol.3-0011-恂郡王府允-1750-an-iron-08-01

乾隆全図の多羅貝勒弘明府(允次子)は西直門大街の南。

1750-乾隆全図-vol.3-0012-貝勒弘明府西直門-1750-n-iron-13-01

中文のサイトは乾隆五十四年(1789年)成親王拝受の際に明珠府を賜ったかのように書いているところと、和珅(ヘシェン)賜死後に賜ったと書くサイトに分かれている。

それゆえ醇親王府の解説も二分されている、いや更なる混乱を起こしているようだ。

同時期に元の明珠府(納蘭氏)から寺町に為った地区を花園と邸を二分し、和珅(ヘシェン)花園と成親王府として賜るなんてことは妄想だろうか。

和珅(ヘシェン)賜死後に全体を賜り建物を新たにしたは暴論だろうか。

この説を打ち消すように乾隆六十年(1795年)分府出宮、後海(什刹海)北岸龍華寺之西と維基百科は載せている。

baike.baiduも分府を乾隆六十年(1795年)としているが乾隆三十一年(1766年)に婚姻してからも皇城内に住居を与えられていたのだろうか。

毎日頭條は因為永瑆成年後分府住在宮外と載せているが何処かは書いていない。

あるサイトは細かく調べてはいるが「乾隆帝死後十五天,嘉慶帝賜和珅自盡,沒收了和珅的財,並將這座賜給成哲親王永瑆。按照王府的規制將此宅加以重修改建,是為成親王府」との記事の後に乾隆六十年の「内務府奏案」記載として「恭上年十月遵旨在新建王府西邊添建花園一座,奴才等遵即酌定做法、燙樣,並照例約需工料銀五萬二千八百九十兩一錢二座,等因具奏。」と誤謬を招く記事を併記している。

嘉慶四年に賜った邸宅を乾隆六十年に予算を勘案はおかしい、二つに分けて後に合わせるのは慶親王府(恭親王府)でも行われている。

乾隆、嘉慶の代にはそれ以前の大きな邸宅を二分するのは幾たびも行われた手法だ。

あるページに十一阿哥成親王永瑆(ヨンシィン)は乾隆四十年には分府しておらず、自分で邸を建てたと書いていた。

乾隆五十二年(1787年)貝勒綿懿が養子といえ方家胡同に邸を下賜されていて、親が分府していないことに為る。

疑問はまだある、永瑆(ヨンシィン)は吝嗇と云う記事だ。

維基百科には據聞,永瑆為人刻薄吝嗇,富察氏生活艱苦,除了被永瑆沒收嫁妝外,又穿粗衣麻布,吃的也是清茶淡粥,堂堂大學士千金,又是皇子的福晉,竟然吃不飽,穿不暖。

乾隆帝の時代のように書いてあり分府していないとすればありえない記事だ。

話しの大元は禮親王昭が書いた物だという、野史以上に当てに出来ない。

 

十一阿哥和碩成親王永

 

・和碩成哲親王永瑆(ヨンシィン)-弘暦(フンリ)皇十一子。

十一阿哥・五福堂阿哥。

父親-乾隆帝-高宗純皇帝愛新覚羅弘暦(アイシンギョロ・フンリ)。

母親-嘉妃淑嘉皇貴妃金佳氏(ギンギャ)・上駟院卿三保之女。

乾隆十七年二月初七日(1752322日)誕生。

乾隆三十一年(1766年)-婚姻-富察氏・大學士傅恆之女。

乾隆五十四年十一月(1789年)-封和碩成親王。

乾隆六十年九月(1795年)-授総諳達・授鑲藍旗満洲都統。

嘉慶四年正月(1799年)-授軍機大臣・総理戸部三庫事務。

嘉慶四年正月(1799年)-授閲兵大臣・調鑲旗満洲都統。

嘉慶四年正月(1799年)-賞戴紅絨結頂冠

嘉慶四年六月(1799年)-授領侍衛大臣・総理行營大臣。

嘉慶四年七月(1799年)-辭退戸部三庫事務。

嘉慶四年十月(1799年)-旨不必在軍機處行走。

嘉慶四年十二月(1799年)-奉旨著在廷行走。

嘉慶五年十一月(1800年~1801年)-授宗人府左宗正。

嘉慶五年十一月(1800年~1801年)-管理正紅旗覺羅學事務。

嘉慶十一年十一月(1806年)-玉牒館副総裁。

嘉慶十四年三月(1809年)-解領侍衛大臣。

嘉慶十四年十一月(1809年~1810年)-旨不必在総諳達上行走。

嘉慶十七年四月(1812年)-奉旨不必総理行營事務。

嘉慶十八年九月(1813年)-癸酉の変・罰俸免除

嘉慶二十四年閏四月(1819年)-解去閲兵大臣。

嘉慶二十四年五月(1819年)-解去各項差使。

嘉慶二十四年七月(1819年)-奉旨召對宴賚・毋庸叩拜。

嘉慶二十五年十一月(1820年)-奉旨著在廷行走。

道光三年三月三十日(1823510日)七十二歳死去。

諡号-哲。

・癸酉の変-白蓮教結社・八卦教・天理教の乱。

指導者-林清(天王・1770年~1813年)と李文成(人王・不詳~1813年)。

信者を八の集団(八卦)に分け準備。

嘉慶十八年九月十五日(1813年)同時蜂起予定。

九月二日に河南省滑県で李文成を逮捕したが信者によって奪還される。

林清は紫禁城攻撃を指揮したが紫禁城襲撃に参加していない。

綿寧(後の道光帝)が戦闘に参加マスケット銃で応戦。

反乱軍三十一名死亡、反乱失敗。

儀親王永璇の指揮により、成親王永瑆・郡王綿志(永璇の長男)・皇子綿寧が追討。

林清は捕えられて九月二十六日凌遅刑に処される。

李文成は輝県に籠城、清軍に包囲され焼身自殺。

 

・・・・・

成親王家

十一阿哥永瑆⇒長子綿懃⇒長子奕綬⇒長子載鋭⇒長子溥莊⇒継嗣毓三子恆燕

十一阿哥永瑆⇒長子綿懃⇒長子奕綬⇒長子載鋭⇒七子溥蓁⇒長子毓↑。

十一阿哥永瑆→長子綿懃→次子奕綸(履郡王綿惠継嗣)。

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成親王歴代

1789年~1823-成哲親王永瑆(ヨンシィン)

追封-成郡王綿懃。

追封-成郡王奕綬。

1823年~1859-成恭郡王載鋭。

1859年~1872-郡王銜貝勒溥莊。

1872年—1918年~貝子毓

1922年~不詳-奉恩鎮國公恆燕。

・・・・・・

 

・追封多羅成郡王綿懃(ミェンチィン・綿勤)-永瑆長子。

父親-和碩成哲親王永瑆(ヨンシィン)。

母親-嫡福晋富察氏(フチャ)・大學士忠勇公傅恒之女。

乾隆三十三年九月六日(17681016日)誕生

嘉慶四年(1799年)-封不入八分輔国公・授散秩大臣。

嘉慶七年十二月(1802年)-封多羅貝勒。

嘉慶十七年十二月(1812年)-大臣。

嘉慶二十四年正月(1819年)-賞郡王銜賞戴三眼花翎。

嘉慶二十四年五月(1819年)-大臣。

嘉慶二十五年六月十一日(182083日)五十三歳死去。 

嘉慶二十五年六月(1820年)-追封多羅成郡王。

 

・追封多羅成郡王奕綬-綿懃長子。

父親-追封多羅成郡王綿懃(ミェンチィン・綿勤)。

母親-嫡福晋烏密氏・副都統果毅伯烏密武遜之女。

乾隆五十一年八月二十七日(1786年)誕生。

嘉慶十七年十月二十一日(1812年)二十七歳死去。

追封不入八分輔國公。

道光三年(1823年)-追封多羅成郡王。

 

・貝勒奕綸-綿懃次子。

父親-追封多羅成郡王綿懃(ミェンチィン・綿勤)。

継父-履郡王綿惠。

母親-妾趙氏。

乾隆五十五年六月十七日(1790728日)誕生。

嘉慶元年八月(1796年)-過継為嗣。

嘉慶元年十一月(1796年)-襲固山貝子。

嘉慶十四年正月(1809年)-晋封多羅貝勒。

嘉慶十八年八月(1813年)-賞戴三眼花翎・乾淸門行走。

嘉慶二十五年二月(1820年)-退出乾淸門。

道光五年四月(1825年)-乾淸門行走。

道光十四年四月(1834年)-授正白旗総族長。

道光十五年五月(1835年)-授散秩大臣。

道光十五年七月(1835年)-管理覺羅學事務。

道光十五年八月(1835年)-縁事(因事)降為貝子。

道光十六年丙申四月二十六日(183669日)四十七歳死去。

追封-貝勒。

 

多羅成恭郡王載鋭-奕綬長子。

父親-追封多羅成郡王奕綬。

母親-嫡福晋瓜爾佳氏(グワルギャ)・参領德喜之女。

嘉慶十年正月二十一日(1805220日)誕生。

嘉慶十八年二月(1813年)-封鎮國將軍。

嘉慶二十五年十月(1820年)-襲多羅貝勒。

道光二年六月(1822年)-授散秩大臣。

道光三年七月(1823年)-襲成郡王。

道光十一年正月(1831年)-賞戴三眼花翎廷行走。

道光二十一年十一月(1841年)-管理正藍旗覺羅學事務。

道光二十六年正月(1846年)-授正旗蒙古都統。

咸豊二年九月(1851年)-大臣。

咸豊三年九月(1853年)-管理健營事務。

咸豊四年十一月(1854年~1855年)-旨毋庸管理健鋭營事務。

咸豐九年四月二十日(1859522)五十四歳死去。

諡号-恭。

 

・郡王銜貝勒溥莊-載鋭長子。

父親-多羅成恭郡王載鋭。

母親-側福晋郭佳氏・八品官慶山之女。

道光十年閏四月(1830615日)誕生。

咸豊四年(1854年)-二等侍衛。

咸豊七年十二月(1858年)受封三等鎮國將軍。

咸豊九年(1859年)-御前大臣・正旗総族長。

咸豊九年八月(1859年)-封爵多羅貝勒。

咸豊十年正月(1860年)-朝廷賞賜他郡王頭銜。

同治五年(1866年)-前引大臣。

同治十一年四月(1872513日)四十三歳死去。

 

・貝子毓-溥蓁長子

父親-閒散宗室溥蓁。

継父-郡王銜貝勒溥莊。

母親-郭氏・郭大之女。

咸豊八年五月(1858622日)誕生。

同治十一年四月(1872年)-郡王銜貝勒溥莊嗣子。

同治十一年十一月(1872年)-封爵貝子。

光緒十五年(1889年)-散秩大臣・内大臣

光緒二十年(1894年)-鑲紅旗総族長。

民國七年十一月(19181219日)六十一歳死去。

貝子府。

西直門内大街後半壁街-恂郡王府(允)跡を同治二年(1863年)寿荘公主府へさらに光緒十四年(1888年)貝子府。

 

・奉恩鎮國公恆燕-三子

父親-貝子毓

母親-妾張氏・張喜之女。

光緒十九年二月(1893年)誕生。

民國十年三月(1922年)-封爵奉恩鎮國公。

以下詳細不詳。

  2024-01-10 ・ 第六回-成親王永瑆

 花音伝説-豊紳殷徳の時代の親王家

第一回-淑嘉皇貴妃・嘉妃-金佳氏(ギンギャ)

第二回-純惠皇貴妃・純妃-蘇佳氏(スーギャ)

第三回-孝賢純皇后・富察皇后-沙濟富察氏(シャジフチャ)

第四回-清高宗継皇后-烏拉那拉氏(ウラナラ)

第五回-孝儀純皇后・令皇貴妃-魏佳(ウェイギャ)

第六回-哲憫皇貴妃・哲妃-噶哈里富察氏(フチャ)



 鉄帽子王・世襲罔替

第一回・礼親王代善(ダイシャン)

第二回・睿親王多爾袞(ドルゴン)

第三回・豫親王多鐸(ドド)

第四回・粛親王豪格(ホーゲ)

第五回・承沢親王碩塞(ショセ)

第六回・鄭親王済爾哈朗(ジルガラン)

第七回・克勤郡王岳託(ヨト)

第八回・順承郡王勒克徳渾(レクデフン)

第九回・怡親王胤祥(インシャン)

第十回・恭親王奕訢(イヒン)

第十一回・醇親王奕譞(イフワン)

第十二回・慶親王奕劻(イクワン)

 

鐵帽子王是世襲罔替的王爵。

和其他親王相比享有的特權主要有三項。

“世襲罔替” 隔代不降爵。

俸祿優厚・歳俸銀一萬兩・祿米一萬斛。

賜予世襲罔替王府・又叫鐵帽子王府。

   

功績を認められないと代替わりに位階がさがった。

・和碩親王(ホショイチンワン)

世子(シィズ)・妻-福晋(フージィン)。

・多羅郡王(ドロイグイワン)

長子(ジャンズ)・妻-福晋(フージィン)。

・多羅貝勒(ドロイベイレ)

・固山貝子(グサイベイセ)

・奉恩鎮國公

・奉恩輔國公

・不入八分鎮國公

・不入八分輔國公

・鎮國將軍

・輔國將軍    

・奉國將軍

・奉恩將軍    

・・・・・

固倫公主(グルニグンジョ)

和碩公主(ホショイグンジョ)

郡主・縣主

郡君・縣君・郷君

・・・・・

満州、蒙古、漢軍にそれぞれ八旗の計二十四旗。

・上三旗・皇帝直属

 正黄旗-黄色の旗(グル・スワヤン・グサ)

 鑲黄旗-黄色に赤い縁取りの旗(クブヘ・スワヤン・グサ)

 正白旗-白地(多爾袞により上三旗へ)(グル・シャンギャン・グサ)

 

・下五旗・貝勒(宗室)がトップ

 正紅旗-赤い旗(グル・フルギャン・グサ)

 正藍旗-藍色(正白旗と入れ替え)(グル・ラムン・グサ)

 鑲藍旗-藍地に赤い縁取りの旗(クブヘ・ラムン・グサ)

 鑲紅旗-赤地に白い縁取り(クブヘ・フルギャン・グサ)

 鑲白旗-白地に赤い縁取り(クブヘ・シャンギャン・グサ)

・・・・・

   


1750-乾隆全図-vol.3-0011-恂郡王府允-1750-an-iron-08-01







カズパパの測定日記