花音伝説-豊紳殷徳の時代の親王家

 

第三回-孝賢純皇后
・富察皇后(フチャファンホウ)
沙濟富察氏(シャジフチャ)

阿井一矢

 豊紳府00-3-01-Fengšenhu
  公主館00-3-01-gurunigungju

  富察花音(ファーインHuā yīn

康熙五十二年十一月十八日(171414日)癸巳-誕生。

西六宮
平面図
 東六宮
平面図


       
   

朝服像・ウィキペディア(Wikipedia

 

孝賢純皇后・富察皇后(フチャファンホウ)-沙濟富察氏(シャジフチャ)

康煕五十一年五月四日(1712328日)誕生。

父親-リルンバオ(李栄保)。

母親-ギョロ(覚羅)氏。

雍正五年六月十二日(1727730日)八旗選秀。

雍正五年七月十八日(1727年)-成婚・嫡福晋。

雍正十三年九月三日(17351018日)-高宗即位・皇后。

乾隆二年十二月四日(1738年)-冊封皇后。

乾隆二年十二月十一日(1738年)-冊立皇后礼。

乾隆十三年三月十一日(174848日)三十七歳死去。

寝宮-長春宮。

諡号-孝賢誠正敦穆仁惠徽恭康順輔天昌聖純皇后。

陵墓-裕陵地宮。

子女-二男二女

 

弘暦長女

長公主・未封。

父親-寶親王弘暦(乾隆帝)。

母親-富察氏(孝賢純皇后)。

雍正六年十月二日(1728113日)誕生。

雍正七年一月十七日(1729214日)死去。

 

弘暦次男(嫡子)・皇太子永璉。

愛新覚羅(アイシンギョロ)永璉(ヨンリェン)。

父親-寶親王弘暦(乾隆帝)。

母親-富察氏(孝賢純皇后)。

雍正八年六月二十六日(173089日)誕生。

乾隆三年十月十二日(17381123日)九歳死去。

墓葬-端慧皇太子園寢

 

弘暦三女

三公主・固倫公主(グルニグンジュ)

固倫和敬公主(グルニヘジィングンジョ)

父親-寶親王弘暦(乾隆帝)。

母親-富察氏(孝賢純皇后)。

雍正九年五月二十四日(1731628日)誕生。

乾隆十二年三月(1747年)-降嫁。

-セプテン・バルジュル(色布巴勒珠爾

乾隆四十年(1775年)因征金川有功又被復爵。

乾隆四十年(1775年)死去。

乾隆五十七年六月二十八日(1792815日)六十二歳死去。

住居-和敬公主府(北京貝勒府脇)

公主府建築費用・用銀二万九千八百八十両余。

 

-セプテン・バルジュル(色布巴勒珠爾)

乾隆八年(1743年)輔国公(トサラフグン)。

乾隆十七年(1752年)晋襲親王。

乾隆二十年(1755年)被削爵。

乾隆三十三年(1768年)被封和碩親王(ホショイ・チンワン)。

乾隆三十七年(1772年)被削爵。

乾隆四十年(1775年)因征金川有功又被復爵。

乾隆四十年(1775年)死去。

 

固倫和敬公主(グルニヘジィングンジョ)・公主府

長女(大格格)乾隆十二年誕生

乾隆長孫(永璜長子)貝子綿德嫡夫人。

乾隆二十六年成婚-福晋・乾隆二十八年十七歳死去。

 

次女・不詳

 
三女(三格格)・嫁敖漢固山貝子桑濟扎爾長子公品級濟克濟扎布

(皇太極長女敖漢固倫公主後裔)

 

四女(四格格)・嫁和碩和嘉公主長子豊紳濟倫。

(長子-富勒琿凝珠乾隆四十六年(1781年)~道光九年(1829年))

 

長子・科爾沁公品級固山額駙鄂勒哲特穆爾額爾克巴拜。

博爾濟吉特·鄂勒哲特穆爾額爾克巴拜

1747年?~1793年)。

-尚恆親王允祺(胤祺)之孫永雄次女縣君

初襲多羅貝勒

乾隆四十七年(1782年)多羅郡王・鑲黄旗蒙古都統。

乾隆五十八年(1793年)死去。

嗣子-鄂勒哲依圖(鄂勒哲図・オルジェイトゥ)

 

 
 

和碩哲親王永琮


弘暦七男(嫡次子)

愛新覚羅(アイシンギョロ)永琮(ヨンツォン)・敏皇子。

父親-乾隆帝弘暦。

母親-孝賢純皇后(富察氏)。

乾隆十一年四月八日(1746527日)誕生

乾隆十二年十二月二十九日(1748129日)二歳死去。

諡号-悼敏。

嘉慶四年(1799年)三月-嘉慶帝追封哲親王。


 

「心写治平図巻」には右から乾隆帝、皇后、高貴妃、純妃、嘉妃、令妃、舒妃、慶嬪、穎嬪、忻嬪、惇妃、順妃、循妃が描かれている。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/0e/Qianlong_Emperor_and_his_consorts.jpg

 

作画はジュゼッペ・カスティリオーネ(Giuseppe Castiglione)

1688719日~1766717日)

中国名郎世寧

カスティリオーネの亡くなった乾隆三十一年以降の妃嬪は工房の作となった。

ウィキペディア(Wikipedia)には“乾隆帝自ら「乾隆元年八月吉日」と書いた。”と載せている。

妃嬪の作成時期は乗せられていない。

 

あくまで参考でしかないが、冊封された時期の称号から書かれた時期を推定してみた。

冊封以前に称号は使われていることが多い。

皇后・乾隆二年十二月四日(1738年)-冊封皇后。

乾隆二年十二月十一日(1738年)-冊立皇后礼。

高貴妃・乾隆二年十二月四日(1737年)-冊封貴妃。

“雍正十三年九月二十四日(1735118日)-招封貴妃”

純妃・乾隆二年五月十一日(1737619日)-冊封純妃。

嘉妃・乾隆六年二月十三日(1741329日)-冊封嘉妃。

令妃・乾隆十四年四月五日(1749520日)-冊封令妃。

“乾隆十三年五月(1748年)-晋封令妃”

舒妃・乾隆十四年四月五日(1749520日)-冊封舒妃。

“乾隆十三年七月一日(1748725日)-晋封舒妃”

慶嬪・乾隆十六年六月八日(1751128日)-冊封慶嬪。

“乾隆十六年正月二日(1751128日)-招晋慶嬪”

穎嬪・乾隆十六年六月八日(1751630日)-冊封穎嬪。

忻嬪・乾隆十九年閏四月十一日(1754年)-冊封忻嬪。

惇妃・乾隆三十九年十一月十六日(17741218日)-冊封惇妃。

“乾隆三十九年九月八日(17741012日)-晋封惇妃”

順妃・乾隆四十四年十月八日(17791115日)-冊封順妃。

“乾隆四十一年六月二十五日(177689日)-晋封順妃”

循妃・乾隆五十九年十二月二十九日(1795年)-冊封循妃。

“乾隆五十九年十月二十二日(1794年)-晋封循妃”

 

 
花音伝説-豊紳殷徳の時代の親王家

第一回-淑嘉皇貴妃・嘉妃-金佳氏(ギンギャ)

第二回-純惠皇貴妃・純妃-蘇佳氏(スーギャ)

第三回-孝賢純皇后・富察皇后-沙濟富察氏(シャジフチャ)

第四回-清高宗継皇后-烏拉那拉氏(ウラナラ)

第五回-孝儀純皇后・令皇貴妃-魏佳(ウェイギャ)

第六回-哲憫皇貴妃・哲妃-噶哈里富察氏(フチャ)


 

第一回・礼親王代善(ダイシャン)

第二回・睿親王多爾袞(ドルゴン)

第三回・豫親王多鐸(ドド)

第四回・粛親王豪格(ホーゲ)

第五回・承沢親王碩塞(ショセ)

第六回・鄭親王済爾哈朗(ジルガラン)

第七回・克勤郡王岳託(ヨト)

第八回・順承郡王勒克徳渾(レクデフン)

第九回・怡親王胤祥(インシャン)

第十回・恭親王奕訢(イヒン)

第十一回・醇親王奕譞(イフワン)

第十二回・慶親王奕劻(イクワン)

 

功績を認められないと代替わりに位階がさがった。

・和碩親王(ホショイチンワン)

世子(シィズ)・妻-福晋(フージィン)。

・多羅郡王(ドロイグイワン)

長子(ジャンズ)・妻-福晋(フージィン)。

・多羅貝勒(ドロイベイレ)

・固山貝子(グサイベイセ)

・奉恩鎮國公

・奉恩輔國公

・不入八分鎮國公

・不入八分輔國公

・鎮國將軍

・輔國將軍    

・奉國將軍

・奉恩將軍    

・・・・・

固倫公主(グルニグンジョ)

和碩公主(ホショイグンジョ)

郡主・縣主

郡君・縣君・郷君

・・・・・

満州、蒙古、漢軍にそれぞれ八旗の計二十四旗。

・上三旗・皇帝直属

 正黄旗-黄色の旗(グル・スワヤン・グサ)

 鑲黄旗-黄色に赤い縁取りの旗(クブヘ・スワヤン・グサ)

 正白旗-白地(多爾袞により上三旗へ)(グル・シャンギャン・グサ)

 

・下五旗・貝勒(宗室)がトップ

 正紅旗-赤い旗(グル・フルギャン・グサ)

 正藍旗-藍色(正白旗と入れ替え)(グル・ラムン・グサ)

 鑲藍旗-藍地に赤い縁取りの旗(クブヘ・ラムン・グサ)

 鑲紅旗-赤地に白い縁取り(クブヘ・フルギャン・グサ)

 鑲白旗-白地に赤い縁取り(クブヘ・シャンギャン・グサ)

・・・・・

 

妃嬪の定員-乾隆帝の時代は妃・嬪の定員は流動的。

皇后(ファンホウ・Huáng hòu)(一人)

皇貴妃(ファングイフェイHuáng Guì Fēi)(一人)-皇后代理

貴妃(グイフェイGuì Fēi)(二人)-側室最高位

妃(フェイFēi)(四人)

嬪(ピンPín)(六人)

貴人(グイレンGuì rén)(制限ナシ)

常在(チャンザイCháng Zài(制限ナシ)

答応(答應・ダァイ・ダァインDá yīng)(制限ナシ)

皇貴妃が居るときは貴妃一人の、合わせて二人と云う説もある。

 

裕陵(清東陵)

裕陵の棺は向かって中央に乾隆皇帝。

左側(西側)に孝儀純皇后-包衣魏氏・満州姓、魏佳(ウェイギャ)と哲憫皇貴妃・哲妃-富察氏(フチャ)。

右側(東側)に孝賢純皇后-富察氏(フチャ)と慧賢皇貴妃・高貴妃-高佳氏(ガオギャ)。

手前左に淑嘉皇貴妃・嘉妃-金佳氏(ギンギャ)の棺も置かれている。

継皇后-烏拉那拉氏(ウラナラ)“輝発那拉氏ホイファナラ”の棺はおかれなかった。

純恵皇貴妃の園寝には継皇后も皇貴妃の扱いで眠っている。



カズパパの測定日記