花音伝説-豊紳殷徳の時代の親王家 |
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第二回-純惠皇貴妃 ・純妃-蘇佳氏(スーギャ) |
阿井一矢 |
豊紳府00-3-01-Fengšenhu | ||
公主館00-3-01-gurunigungju |
富察花音(ファーインHuā yīn)
康熙五十二年十一月十八日(1714年1月4日)癸巳-誕生。 |
西六宮 平面図 |
東六宮 平面図 |
純惠皇貴妃・純妃妃(チュンフェイ)-蘇佳氏(スーギャ) |
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純惠皇貴妃 蘇佳氏(スーギャ)-蘇州平民蘇召南之女。 漢族民籍出身,後正白旗包衣第五參領第三旗鼓佐領下人。 子供 乾隆帝三男-循郡王永璋 乾隆帝六男-質親王永瑢 乾隆帝四女-和碩和嘉公主 |
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純妃(チュンフェイChún Fēi) 康熙五十二年(1713年)五月二十一日出生。 雍正十三年(1735年)五月二十五日寶親王第三子永璋誕生。 雍正十三年(1735年)九月二十四日諭內閣詔封格格蘇氏為嬪。 乾隆二年(1737年)十二月四日,純嬪蘇氏正式冊封為純妃(チュンフェイ)。 乾隆八年(1743年)十二月十四日乾隆帝第六子永瑢誕生。 乾隆十年(1745年)正月二十三日詔封純妃為純貴妃。 乾隆十年(1745年)十一月十七日,正式行純貴妃冊封禮。 乾隆十年(1745年)十二月二日乾隆帝第四女和硕和嘉公主誕生。 乾隆二十五年三月二十四日(1760年5月9日)-皇貴妃 乾隆二十五年三月二十五日(1760年5月10日) 四公主和碩和嘉公主(十六歳)が福隆安(十五歳)と成婚式を挙げた。 乾隆二十五年四月十一日(1760年5月25日)-冊封皇貴妃 乾隆二十五年四月十九日(1760年6月2日)-四十八歳死去。 寝宮-景仁宮。
諡号-純惠皇貴妃。 |
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三阿哥 循郡王永璋(ヨンジャン) 雍正十三年五月二十五日(1735年7月15日) 乾隆十五年(1750年),娶和硕淑慎公主之女博尔济吉特氏为福晋。 乾隆二十五年(1760年)四月封郡王, 乾隆二十五年七月十六日(1760年8月26日)二十六歳死去。 追封多羅循郡王。 嗣子-永瑆次子綿懿(ミェンイー)-十一阿哥永瑆次子 父親-十一阿哥-成哲親王永瑆(ヨンシィン) 養父:三阿哥循郡王永璋(ヨンチァン) 母親-嫡福晋富察氏(フチャ)-傅恒の娘。 乾隆三十六年九月二十日(1771年10月27日)誕生 乾隆四十一年正月(1776年)-循郡王第二代。 乾隆五十年十二月三日(1786年1月2日)-婚姻。 沙濟富察氏(フチャ)-與山東巡撫明興の娘。 乾隆五十三年正月(1787年)-貝勒。 嘉慶九年七月(1804年)-降位二等鎮国將軍 嘉慶十年八月(1805年)-賞封貝子。 嘉慶十年(1805年)-散秩大臣。 嘉慶十四年正月十三日(1809年2月26日)三十九歳死去。 恢復-貝勒爵位。 子供-詳細不詳。 一子-貝子奕緒・二子-奕經・三子-奕紀。 |
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六阿哥
質荘親王永瑢(ヨンロン)
母親・純恵皇貴妃・純妃-蘇氏(ソ)
乾隆八年十二月十四日(1744年1月28日)誕生。
乾隆二十五年三月成婚・嫡福晋沙濟富察氏,参将富謙之女。
乾隆五十五年五月一日(1790年6月13日)四十七歳死去
子女六男五女
成人した男子は多羅質恪郡王綿慶(母継福晉鑾儀使達福之女)。
嫡福晋-和琳の娘。
乾隆四十四年(1779年)~嘉慶九年(1804年)二十六歳死去。
子供に多羅貝勒奕綺。
母親-側福晋伊爾根覚羅氏(イルゲンギョロ)德瑞之女。
嘉慶七年五月(1802年)~道光二十二年(1842年)四十一歳死去。
家系は已革貝子載華(貝勒奕綸の十一子)→奉恩鎮國公載鋼(貝勒奕綸の九子)に受け継がれる。
十一阿哥成哲親王永瑆第一子多羅成郡王綿懃→二子-奕綸。 |
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弘暦四女・和碩和嘉公主(ホショイヘジャグンジュ) 母親・純恵皇貴妃・純妃-蘇氏(スー) 乾隆十年十二月二日(1745年12月24日)誕生
乾隆二十五年三月二十五日降嫁-夫・福隆安(父・富察傅恒)
乾隆三十二年九月七日(1767年10月29日)二十三歳死去。 子女-二男 長子・豊紳済倫(フェンシェンジィルン) 丰绅济伦-豐紳濟倫-豊紳済倫 乾隆二十三年(1763年)誕生。 妻博爾濟吉特氏,固倫和敬公主第四女。 嘉慶十二年二月五日(1807年3月13日)四十五歳死去。 有四子:富勒琿凝珠、成勳、圖敏、德銘。一女富察氏。 次子・豊紳果勒敏(豐紳果兒敏) |
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「心写治平図巻」には右から乾隆帝、皇后、高貴妃、純妃、嘉妃、令妃、舒妃、慶嬪、穎嬪、忻嬪、惇妃、順妃、循妃が描かれている。 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/0e/Qianlong_Emperor_and_his_consorts.jpg 作画はジュゼッペ・カスティリオーネ(Giuseppe Castiglione) (1688年7月19日~1766年7月17日) 中国名郎世寧 カスティリオーネの亡くなった乾隆三十一年以降の妃嬪は工房の作となった。 ウィキペディア(Wikipedia)には“乾隆帝自ら「乾隆元年八月吉日」と書いた。”と載せている。 妃嬪の作成時期は乗せられていない。 あくまで参考でしかないが、冊封された時期の称号から書かれた時期を推定してみた。 冊封以前に称号は使われていることが多い。 皇后・乾隆二年十二月四日(1738年)-冊封皇后。 乾隆二年十二月十一日(1738年)-冊立皇后礼。 高貴妃・乾隆二年十二月四日(1737年)-冊封貴妃。 “雍正十三年九月二十四日(1735年11月8日)-招封貴妃” 純妃・乾隆二年五月十一日(1737年6月19日)-冊封純妃。 嘉妃・乾隆六年二月十三日(1741年3月29日)-冊封嘉妃。 令妃・乾隆十四年四月五日(1749年5月20日)-冊封令妃。 “乾隆十三年五月(1748年)-晋封令妃” 舒妃・乾隆十四年四月五日(1749年5月20日)-冊封舒妃。 “乾隆十三年七月一日(1748年7月25日)-晋封舒妃” 慶嬪・乾隆十六年六月八日(1751年1月28日)-冊封慶嬪。 “乾隆十六年正月二日(1751年1月28日)-招晋慶嬪” 穎嬪・乾隆十六年六月八日(1751年6月30日)-冊封穎嬪。 忻嬪・乾隆十九年閏四月十一日(1754年)-冊封忻嬪。 惇妃・乾隆三十九年十一月十六日(1774年12月18日)-冊封惇妃。 “乾隆三十九年九月八日(1774年10月12日)-晋封惇妃” 順妃・乾隆四十四年十月八日(1779年11月15日)-冊封順妃。 “乾隆四十一年六月二十五日(1776年8月9日)-晋封順妃” 循妃・乾隆五十九年十二月二十九日(1795年)-冊封循妃。 “乾隆五十九年十月二十二日(1794年)-晋封循妃” |
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花音伝説-豊紳殷徳の時代の親王家 |
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功績を認められないと代替わりに位階がさがった。 ・和碩親王(ホショイチンワン) 世子(シィズ)・妻-福晋(フージィン)。 ・多羅郡王(ドロイグイワン) 長子(ジャンズ)・妻-福晋(フージィン)。 ・多羅貝勒(ドロイベイレ) ・固山貝子(グサイベイセ) ・奉恩鎮國公 ・奉恩輔國公 ・不入八分鎮國公 ・不入八分輔國公 ・鎮國將軍 ・輔國將軍 ・奉國將軍 ・奉恩將軍 ・・・・・ 固倫公主(グルニグンジョ) 和碩公主(ホショイグンジョ) 郡主・縣主 郡君・縣君・郷君 ・・・・・ 満州、蒙古、漢軍にそれぞれ八旗の計二十四旗。 ・上三旗・皇帝直属 正黄旗-黄色の旗(グル・スワヤン・グサ) 鑲黄旗-黄色に赤い縁取りの旗(クブヘ・スワヤン・グサ) 正白旗-白地(多爾袞により上三旗へ)(グル・シャンギャン・グサ) ・下五旗・貝勒(宗室)がトップ 正紅旗-赤い旗(グル・フルギャン・グサ) 正藍旗-藍色(正白旗と入れ替え)(グル・ラムン・グサ) 鑲藍旗-藍地に赤い縁取りの旗(クブヘ・ラムン・グサ) 鑲紅旗-赤地に白い縁取り(クブヘ・フルギャン・グサ) 鑲白旗-白地に赤い縁取り(クブヘ・シャンギャン・グサ) ・・・・・ |