花音伝説-豊紳殷徳の時代の親王家 |
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第五回-孝儀純皇后 |
阿井一矢 |
豊紳府00-3-01-Fengšenhu | ||
公主館00-3-01-gurunigungju |
富察花音(ファーインHuā yīn)
康熙五十二年十一月十八日(1714年1月4日)癸巳-誕生。 |
西六宮 平面図 |
東六宮 平面図 |
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令皇貴妃-包衣魏氏・満州姓、魏佳氏(ウェイギャ) 父親-魏清泰(追封嘉慶元年四月三等承恩公)。 満州正黄旗→満州鑲黄旗。 母親-嘉慶元年四月追封公妻一品夫人楊佳氏。 雍正五年九月九日(1727年10月23日)誕生。 雍正五年~乾隆十年不詳(長春宮奴婢とも)。 乾隆十年一月(1745年)-封魏貴人。 乾隆十年一月二十三日(1745年2月23日)-封嬪。 乾隆十年十一月十七日(1745年12月9日)-冊封令嬪・ 乾隆十三年五月(1748年)-晋封令妃。 乾隆十四年四月五日(1749年5月20日)-冊封令妃。 乾隆二十四年十一月二十日(1760年1月7日)-晋封令貴妃。 乾隆二十四年十二月十七日(1760年2月3日)-冊封令貴妃・ 乾隆三十年五月九日(1765年6月26日)-晋封令皇貴妃。 乾隆三十年六月十一日(1765年7月28日)-冊封令皇貴妃。 乾隆四十年一月二十九日(1775年2月28日)-四十九歳死去。 乾隆四十年二月十一日(1775年3月12日)-令懿皇貴妃と諡号。 乾隆六十年九月三日(1795年10月15日)-永琰(嘉慶帝)皇太子となり孝儀皇后と追贈・諡号孝儀皇后。 寝宮-儲秀宮(クシュゴン)。 諡号-令懿皇貴妃。 乾隆六十年(1795年)-孝儀皇后。 嘉慶四年九月(1799年)-孝儀恭順康裕慈仁翼天毓聖純皇后。 嘉慶二十五年十二月(1821年)-孝儀恭順康裕慈仁端恪翼天毓聖純皇后。 道光三十年四月(1850年)-孝儀恭順康裕慈仁端恪敏哲翼天毓聖純皇后。 陵墓-裕陵地宮。 子女-四男二女 |
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・弘暦七女・固倫和静公主(グルニフゥヂングンジュ) 乾隆二十一年七月十五日(1756年8月10日)誕生。 乾隆三十五年(1770年)正月-封固倫公主(グルニグンジュ) 乾隆三十五年七月四日(1770年)降嫁 額駙ラワンドルジ(拉旺多爾濟) 乾隆四十年一月十日(1775年2月9日)二十歳死去。 公主府-七公主府・宝鈔胡同府邸(大学士高斌之子高恒跡地)。 額駙-拉旺多爾濟(ラワンドルジ)・成袞扎布之七子。 乾隆二十一年(1756年)頃誕生~嘉慶二十一年五月十六日(1816年)死去。 子女-不詳。 |
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・弘暦十四男・永璐(ヨンルゥ) 乾隆二十二年七月十七日(1757年8月31日)誕生。 乾隆二十五年三月八日(1760年4月23日)四歳死去。 |
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・弘暦九女・和碩和恪公主(ホショイフゥケグンジュ) 乾隆二十三年七月十四日(1758年8月17日)誕生。 乾隆三十六年(1771年)十二月封和碩和恪公主。 乾隆三十七年八月(1772年)降嫁-額駙札蘭泰(ザランタイ)烏雅氏(ウヤ)。 乾隆四十五年一月十日(1780年12月14日)二十三歳死去。 額駙-一等武毅謀勇公札蘭泰(父親-一等武毅謀勇公兆惠ジャフィ)。 乾隆五十三年三月十七日(1788年)死去 府第-和碩和恪公主府・元兆惠府。 子女-乾隆三十八年十月(1773年)一女誕生と伝わるが不詳。 |
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・弘暦十五男・嘉慶帝愛新覚羅永琰(ヨンイェン) 乾隆25年10月6日(1760年11月13日)誕生。 乾隆三十九年(1774年)成婚嫡福晋喜塔腊氏(ヒタラ)。 乾隆五十四年(1789年)-嘉親王。 乾隆六十年九月三日(1795年10月15日)皇太子宣旨。 即位-嘉慶元年一月一日(1796年2月9日)。 乾隆帝譲位(太上皇)後に顒琰(ヨンヤン・仁宗嘉慶帝)と名乗る。 嘉慶四年一月三日(1799年2月7日)-高宗-愛新覚羅弘暦(アイシンギョロ・フンリ)八十九歳死去。 嘉慶二十五年七月二十五日(1820年9月2日)六十一歳死去。 五子九女 皇二子-綿寧(ミェンニィン・旻宁ミィンニィン・宣宗・道光帝) 母親-孝淑睿皇后喜塔腊氏 |
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・弘暦十六男・不詳 乾隆二十七年十一月三十日(1763年1月13日)誕生。 乾隆三十年三月十七日(1765年5月6日)四歳死去。 |
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・弘暦十七男・慶親王永璘(ヨンリン) 乾隆三十一年五月十一日(1766年6月17日)誕生。 乾隆四十五年十月十九日成婚嫡福晉鈕祜祿氏(ニオフル)。 果毅公兼戶部尚書阿里袞第十二女(嘉慶六年七月死去)。 乾隆五十四年(1789年)晋封貝勒。 嘉慶四年一月(1799年)封惠郡王・改慶郡王。 和珅(ヘシェン)府第南側慶親王府賜給。 嘉慶二十五年庚辰(1820年)二月封親王。 嘉慶二十五年三月十三日(1820年4月25日)五十五歳死去。 子女・六子七女。 第三子-慶良郡王綿愍(母親-繼室武佳氏)。 第五子-鎮國將軍綿悌(母親-不詳)。 第六子-不入八分輔國公綿性(母親-不詳)。 |
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慶親王家-世襲罔替鉄帽子王へ 初代-慶僖親王永璘(ヨンリィン)-五十五歳死去 弘暦十七阿哥 二代-慶良郡王綿愍-四十歳死去。 慶僖親王永璘(ヨンリィン)第三子 三代-已革慶郡王奕綵-四十七歳死去。 儀順郡王綿志(八阿哥儀慎親王永璇ヨンシァン長子)第五子 四代-鎮國將軍綿悌-三十九歳死去。 慶僖親王永璘(ヨンリィン)第五子 五代-慶親王奕劻-八十歳死去。 慶僖親王永璘(ヨンリィン)第六子が不入八分輔國公綿性、その長子が奕劻。 弟に宗室奕功。 |
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・愛新覚羅奕劻(アイシンギョロ・イクワン) 道光十八年二月二十九日(1838年11月16日)誕生。 道光三十年(1850年)封輔國将軍。 咸豊二年(1852年)一月封貝子。 咸豊十年(1860年)一月封貝勒。 同治十一年(1872年)九月封郡王・御前大臣。 光緒十年(1884年)三月総理衙門大臣。 光緒十年(1884年)十月慶郡王。 光緒二十年(1894年)慶親王。 光緖二十四年(1898年)に世襲が認められ、十二番目の鉄帽子王となった。 宣統九年・民国六年一月二十九日(1917年)八十歳死去。 |
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「心写治平図巻」には右から乾隆帝、皇后、高貴妃、純妃、嘉妃、令妃、舒妃、慶嬪、穎嬪、忻嬪、惇妃、順妃、循妃が描かれている。 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/0e/Qianlong_Emperor_and_his_consorts.jpg 作画はジュゼッペ・カスティリオーネ(Giuseppe Castiglione) (1688年7月19日~1766年7月17日) 中国名郎世寧 カスティリオーネの亡くなった乾隆三十一年以降の妃嬪は工房の作となった。 ウィキペディア(Wikipedia)には“乾隆帝自ら「乾隆元年八月吉日」と書いた。”と載せている。 妃嬪の作成時期は乗せられていない。 あくまで参考でしかないが、冊封された時期の称号から書かれた時期を推定してみた。 冊封以前に称号は使われていることが多い。 皇后・乾隆二年十二月四日(1738年)-冊封皇后。 乾隆二年十二月十一日(1738年)-冊立皇后礼。 高貴妃・乾隆二年十二月四日(1737年)-冊封貴妃。 “雍正十三年九月二十四日(1735年11月8日)-招封貴妃” 純妃・乾隆二年五月十一日(1737年6月19日)-冊封純妃。 嘉妃・乾隆六年二月十三日(1741年3月29日)-冊封嘉妃。 令妃・乾隆十四年四月五日(1749年5月20日)-冊封令妃。 “乾隆十三年五月(1748年)-晋封令妃” 舒妃・乾隆十四年四月五日(1749年5月20日)-冊封舒妃。 “乾隆十三年七月一日(1748年7月25日)-晋封舒妃” 慶嬪・乾隆十六年六月八日(1751年1月28日)-冊封慶嬪。 “乾隆十六年正月二日(1751年1月28日)-招晋慶嬪” 穎嬪・乾隆十六年六月八日(1751年6月30日)-冊封穎嬪。 忻嬪・乾隆十九年閏四月十一日(1754年)-冊封忻嬪。 惇妃・乾隆三十九年十一月十六日(1774年12月18日)-冊封惇妃。 “乾隆三十九年九月八日(1774年10月12日)-晋封惇妃” 順妃・乾隆四十四年十月八日(1779年11月15日)-冊封順妃。 “乾隆四十一年六月二十五日(1776年8月9日)-晋封順妃” 循妃・乾隆五十九年十二月二十九日(1795年)-冊封循妃。 “乾隆五十九年十月二十二日(1794年)-晋封循妃” |
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花音伝説-豊紳殷徳の時代の親王家 |
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功績を認められないと代替わりに位階がさがった。 ・和碩親王(ホショイチンワン) 世子(シィズ)・妻-福晋(フージィン)。 ・多羅郡王(ドロイグイワン) 長子(ジャンズ)・妻-福晋(フージィン)。 ・多羅貝勒(ドロイベイレ) ・固山貝子(グサイベイセ) ・奉恩鎮國公 ・奉恩輔國公 ・不入八分鎮國公 ・不入八分輔國公 ・鎮國將軍 ・輔國將軍 ・奉國將軍 ・奉恩將軍 ・・・・・ 固倫公主(グルニグンジョ) 和碩公主(ホショイグンジョ) 郡主・縣主 郡君・縣君・郷君 ・・・・・ 満州、蒙古、漢軍にそれぞれ八旗の計二十四旗。 ・上三旗・皇帝直属 正黄旗-黄色の旗(グル・スワヤン・グサ) 鑲黄旗-黄色に赤い縁取りの旗(クブヘ・スワヤン・グサ) 正白旗-白地(多爾袞により上三旗へ)(グル・シャンギャン・グサ) ・下五旗・貝勒(宗室)がトップ 正紅旗-赤い旗(グル・フルギャン・グサ) 正藍旗-藍色(正白旗と入れ替え)(グル・ラムン・グサ) 鑲藍旗-藍地に赤い縁取りの旗(クブヘ・ラムン・グサ) 鑲紅旗-赤地に白い縁取り(クブヘ・フルギャン・グサ) 鑲白旗-白地に赤い縁取り(クブヘ・シャンギャン・グサ) ・・・・・ |
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裕陵(清東陵) 裕陵の棺は向かって中央に乾隆皇帝。 左側(西側)に孝儀純皇后-包衣魏氏・満州姓、魏佳(ウェイギャ)と哲憫皇貴妃・哲妃-富察氏(フチャ)。 右側(東側)に孝賢純皇后-富察氏(フチャ)と慧賢皇貴妃・高貴妃-高佳氏(ガオギャ)。 手前左に淑嘉皇貴妃・嘉妃-金佳氏(ギンギャ)の棺も置かれている。 継皇后-烏拉那拉氏(ウラナラ)“輝発那拉氏ホイファナラ”の棺はおかれなかった。 |
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妃嬪の定員-乾隆帝の時代は妃・嬪の定員は流動的。 皇后(ファンホウ・Huáng hòu)(一人) 皇貴妃(ファングイフェイHuáng Guì Fēi)(一人)-皇后代理 貴妃(グイフェイGuì Fēi)(二人)-側室最高位 妃(フェイFēi)(四人) 嬪(ピンPín)(六人) 貴人(グイレンGuì rén)(制限ナシ) 常在(チャンザイCháng Zài(制限ナシ) 答応(答應・ダァイ・ダァインDá yīng)(制限ナシ) 皇貴妃が居るときは貴妃一人の、合わせて二人と云う説もある。 |