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          1877年 (明治10年) 1 

                               
Clara’s Diary-An American Girl in Meiji Japan
訳者
一又民子 ・ 高野フミ ・ 岩原明子 ・ 小林ひろみ

中央公論文庫より 

ご注意くださいませ
 アイの感想文・抜き書きについて、クララの本を読んで自分なりに感じた感想を手短に記しました。
自分で読んでからここを読みたい方は、しばらく続きを読むのはご遠慮くださいね。


1977年 明治10年

 1月 1日 月曜  1877年なんと早く1877年が来たことだろう!とクララはこの年の日記を書き始めました。
この日には50人もの訪問客そして締めくくりはまたも矢田部氏。

 1月 3日 水曜  今朝10時頃、母とわたしは、日本人の友達の何人かに新年の訪問をしに出かけた。
まず旗が華やかにはためき、竹、松、常盤木の小枝を飾った通りを通って勝家の屋敷へ向かった。
どのいえも、正面に、柊と神々しい竹でできた大きなアーチから、松の小枝の小さな藁束にいたるまで、何かそのようなもので飾っていた。
勝家では梅太郎が出てきて客間に案内してくれ、夫人がこられたがお着物は地味だが、素材が大変優雅で事実奥様がこんなにすばらしく装ったのを見たことがないと絶賛しています、普段は地味な方なのかな。
それからお米がいつもよりいい着物を着て現れ続いて勝氏がお逸と、この家の小さい男の子と女の子をぞろぞろつれてはいってこられた、こんな大群衆を見てまごついてしまったと書いています。
続いて麻布の友人杉田家に訪問。
ここでも老先生以外の全員にお目にかかったそうです。
おかしな外国の婦人服を見せられどう思うかと聞かれたが、それを老先生が着ていらっしゃるそうだ!、クララはこの後を書いてありませんが可笑しかったでしょうね、なんせ緑の飾りとガラスの管玉でこの上もなく、くだらない飾り付けをしたものだと書いてるくらいですもの。

 1月11日 木曜  前の日記を書いた後金曜に出かけ月曜に帰宅、横浜のヘップバン夫人のところに泊まっていたそうです。
またも火曜に招待されたが家の仕事と母を置いて出かけることをしたくないということでお断りしたしました。

 1月19日 金曜  この日は滝村氏に招かれて2時に家を出て訪問。
家は永田町(?)の勝家の近くにある、広くはないが清潔できちんとしていると好感、夫人はきれいな方、本当に美しい方でお嬢さんのこまつにとてもよく似ていらっしゃったそうです。
勝家の子供たちも来ていて気楽だったと書いています。
イロイロな遊びを堪能したが印象に残るのはおかめという遊びだったようです。
福笑いのことでどんなにおかしいかは想像ではわからないくらいだと、楽しんだようです。

 1月23日 火曜  「ハライタイ」を起こしひどい痙攣にここ2〜3日苦しんだそうです。
かわいそう何の症状なのかな、アンネ(ちと古い言い方かしら)。
もちろんその頃はそういう風には言うわけないからさ調べて見たら、http://www.lovepiececlub.com/kubosato/kubosato_25.html
ここにそう呼ばれたいきさつが書かれていました。

昨夜の具合が悪く、矢田部氏が来たが会えなかったとも書いてあります、1週間に4度も来たそうですよ。
このところインディアンサマーのような、すばらしくいい天気が続いているようです。
麻布に引っ越しをした富田氏を訪問、夫人は具合が悪かったようですし、ご主人の清国行きが取りやめになったのでがっかりしているし、奥様もあのすばらしい洋服が日本の家では役に立たないので残念がっておられると書いています。
クララは本心で書いてるのか、意地悪で書いてるのか、よくわからないところもありますがまだ16才ではそんなテクニックはないかな。

 2月 1日 木曜  昨夜ひまし油を飲んであまり気分がよくないとクララは書き出しています。
この日勝夫人に引田夫人(孝子)二人の子供(玄亀・保爾)が来宅。
皆がたくさんのお土産を下さった!!そのリストを書き出して有ります。
母には口紅などを入れる素敵な漆塗りの化粧箱。
父には卵一箱と棒砂糖をたくさん<とても役に立つものである>。
(でもこれって主婦にあげるもののような気がする・アイ)
アディにはきれいな着物を着た人形。
私には最上の縮緬の着物を着て、蝶形の髪型に結った若い人の人形。
これらのほかにみかん、卵をもう一箱、私たちの大好物であるカステラを一箱いただいたが、私は人形が気に入った。去年の雛祭り以来こんな日本の人形がほしかったのだ。
あの日このような人形の値段を聞いたら、
4ドルか5ドルしたので買えなかったのである、
と結んでいます。

このような人形かしら、でもお一人ではなんかかわいそうにも思えるので違うかも。
この日コクラン夫人とモードが、コレル夫人とお子さんたちと一緒に来訪。
勝夫人は大勢のお客になれておらるに違いない。
たいていの日本の女の人と違って、外国の紳士や夫人の前でも、とてもくつろいでいらっしゃると書いています。

 2月 2日 金曜  昨日から7件の火事が続き、役所や外務省が消失。
お逸がゲキン(月琴)の弾き方を教えてくれたそうです。

 2月 5日 月曜  昨夜激しい吹雪が吹き荒れ、向かい側の公園の庭はおとぎの国さながらと書き出しています。
夜に矢田部氏が来たが具合が悪く早く休んだので相手が父だけだったので8時半!にかえったと締めくくっています。
マークにクララの気持ちが表されています。


 2月17日 土曜  クララはハシャイデいます、日記も弾んだ気持ちを抑えきらないように書き出されていますよ。
ああ、今日はなんとすばらしい日だったことだろう!日記さん、前に私たちが将軍のお屋敷へ招待されたのを覚えている?え、忘れたって、それならペンでつっついて思い出させてあげよう。
普段のクララより弾んだ気持ちを抑えきれない様子が覗えますね。
サンミサマの屋敷に伺ったクララ達は細かい観察眼で邸内の様子を書き出しています。
あんまりも多くの記事にアイはどれを書き出してよいやら見当も付かないのでやめにしました。


 2月27日 火曜  ああ、とうとうやってしまった!矢田部氏が昨夜見えたが、怒って帰っていったのだ。
悲しいやらうれしいやら。うれしいのはもうじゃましにおいでになることはないだろうから。悲しいのは、私たちは日本人のためになることをしに来たのであって、怒らせるために来たのではないのに、私たちに対して腹を立てたということである。
クララは自分の感情を正確に表現できていると思いますが、原因はなんだったのか正確にいえないとも書いています。
母はウィリイと私が悪いのだと言う、とも書いています。

 3月14日 水曜  父はチキンサラダの食べすぎで具合が悪くウィリイが代理で学校で教えたが、矢野氏が来て父が明日までによくならなかったら森島氏に父の代わりをさせる、という侮辱的な伝言をおいていった。
クララの怒りんぼがまた現れています。前年矢野二郎(講習所から一橋設立までの功労者)氏が理事になったときとは打って変わりこの後ホイットニー家とだんだんと敵対関係になってゆく様子がクララに拠って書かれてゆきます。
この日もお逸が来てイロイロの話をしてクララの気持ちは落ち着いたようですね。

 3月22日 水曜  前日の日記でお逸が来たが天気が悪く泊まったそうです。
お逸についてとてもいい人で好きだが、大変悲しいことに異教徒で、狐の話だのお化けをだのを信じ、雲の中に大きな竜がいて雨を降らせるのだなどという、と書いています。
現代でもお化けを信じている人は大勢いますから、この時代の日本人ならそれくらい仕方ないと思いますね。

お逸が2時に帰ってから買い物に出かけたが1.75ドルの絵本を1ドルに負けさせたそうです、ウ〜〜ンしっかりしてます。
上野公園にも行き桜はまだ咲いていなかったが草木はいつも青々としていたと書き、矢田部氏に会ったら、笑ってお辞儀をなさったと記しています。

 3月30日 金曜  またも火事、朝の4時ごろに2街区もはなれていないとろに大火があって我が家も危機に瀕したが、消防隊の活躍で6時前に収まったそうです。
よかったね

 4月 3日 火曜  徳川公(家達)を晩餐に招待。
お逸も泊まりがけで手伝いに来て仕度、人力車の一隊が角を曲がってくるのが見えた。
そのうち徳川公の姿が見えみんなうちの門の前で止まったとしるし,随伴の人たちの名も全員の名前を記しています。
大久保(三郎)氏、竹村氏、滝村氏、須田氏、大久保氏の弟(業)
その後ウィリイが梅太郎を連れてきたそうです。
9時半頃まで楽しい時間をすごした様子が克明に書かれています。

 4月10日 火曜  昨日新しい生徒が増えたことから書き出されています。
渡辺おふでさん、17才だが結婚していると記されていますが、婚約で2年後の19才の時にフランス留学の直前に仮祝言を挙げています。
クララはいいなずけが居るということと結婚しているという事を誤解していたみたいですね。

渡辺ふで(父・渡辺清・「渡辺清左衛門」・福岡県令)筆子は、東京女学校を卒業後(同級生に穂積歌子、鳩山春子)、皇后の命により欧州に留学する。
1880年・明治13年、筆子は一年十カ月に及ぶフランス留学に向かう。
帰国した筆子はクララと再会し、日本女性を永続的に助けるためには教育が必要だと熱弁する。筆子は自分の使命を見つけたのだ。
帰国後、筆子は華族女学校の教師となり、フランス語科目の授業を受けもったのです、そのときの教え子に、貞明皇后がいて筆子の生涯にわたる後援者となりました。
筆子と津田梅子の交友については機会があればお話を載せる予定です。
42才のときに石井良一と再婚、石井筆子として滝乃川学園の経営に参加。
滝乃川学園(たきのがわがくえん)は、東京都国立市に所在する日本最古の知的障害者の養護施設。聖公会系(プロテスタント系)の社会福祉法人です。
詳しく知りたい方は訪れてね。
滝野川学園のホームペーが変更されましたので新しいリンクをつけ直しました。



教授に教えていただきましたが2年ほど前にNHKのそのとき歴史が動いたでも、渡辺清さんの史談会速記録を元にしたそうです。
お父さんの清さんは江戸開城のときの、勝と西郷の談判のときに西郷の副官として立ち会った関係で海舟とも付き合うようになったそうです、弟の渡辺昇(のぼり)のほうが有名かも知れませんねというとりました、アイは残念ながらどちらも知りませんでした

おふでさんは英語を読むのがとても上手で、最初からの生徒である令嬢たちも急速に進歩していると褒めちぎっています。

 4月17日 火曜  勝夫人に向島の桜祭りに招待される。
今年のお花見はお逸が一緒で楽しめたようです。
ではクララの文章で向島の桜見物といってみよう。
さて私が眺めた情景をどのように描写したらいいだろうか。頭上のピンク色の桜の花のアーチ、木の間を漏れる暖かい陽光、それに加えて、きらきら輝く川の波の上に時々花吹雪が解けない雪(溶けない雪の誤植かしらね?)のように散るさまは、美しい一枚の絵の背景となり、その背景の前に晴れやかに装った群衆が浮かれ気分で群がっているのだった。
etc.
クララは去年と違って十分楽しんだ様子がうきうきした文章に表されています。

    クララの明治日記 3
1877年・明治10年 ・2へ続く

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クララの明治日記・1877年・明治10年ー3