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          1877年 (明治10年) 3 

                               
Clara’s Diary-An American Girl in Meiji Japan
訳者
一又民子 ・ 高野フミ ・ 岩原明子 ・ 小林ひろみ

中央公論文庫より 

ご注意くださいませ
 アイの感想文・抜き書きについて、クララの本を読んで自分なりに感じた感想を手短に記しました。
自分で読んでからここを読みたい方は、しばらく続きを読むのはご遠慮くださいね。

1877年

 8月 1日 火曜  高木氏が見えてお別れを言いに見えた、松平氏についていかれるそうだ。
九州にもお寄りになる予定なので高木氏は西郷さんの首をお土産に持ってきますよ、などといわれたそうです。
そういえばこの年は西南戦争のあった年だったね。
明治10年2月15日〜明治10年9月24日 約半年の間の騒乱はクララたちには影響がなかったのだろうか。
この間、本を続いて借りたときにも、教授たちを交えて話したときに、クララの一家はいわば徳川家ゆかりの方々の援助の下に日本での生活が成り立っていると言う話をしたので、政府関係の問題はそれほど影響がないだろうか。
呼んでくれたのは確かに森有礼(薩摩)だけど、富田氏は(仙台)で勝のお弟子さん、当時の東京府知事は大久保一翁(徳川・旗本)で、大鳥・榎本氏はともに徳川の海軍と陸軍の指導者だったし、東京会議所自体が渋沢栄一が主な出資者の一人でどう見ても東京の元幕府関係者の庇護の下にホイットニー家はあったようです。
クララたちと敵対関係が有るように書かれる、商法講習所の矢野二郎氏はどこの人かはよくわからないのですが、森有礼の信奉者で、政府関係者と見ると、木戸孝允(長州)がなくなり(明治10年5月26日)大久保利通が暗殺され(この翌年の明治11年5月14日)、この年の西郷の役で西郷隆盛が自刃(明治10年9月24日)して薩摩の影響力が小さくなれば当然勝たちへの風当たりも強くなろうさと皆の意見も其処に落ち着きました。
今のところは、大村藩関係者の援助も見込まれ(東京府知事・楠本氏など)松平氏(桑名)
など勝の関係者が多く援助の手を差し出しています。

 8月21日 火曜  ミカド、皇后両陛下と内閣の主催する東京博覧会(内国勧業博覧会)の開会式の日と書き出しています。
クララ達は其処には出かけなかったみたいです。

 8月23日 木曜  この日にクララ達は博覧会に出かけています。

 8月31日 金曜  この日まで1週間横浜のヘップバン夫人のところに出かけていたそうです。
昨日は私の17才の誕生日と言うことでこの週の日記を締めています。

 9月 4日 火曜  1週間の気晴らしをした後またすっかり家に落ち着いていると書き出し、土曜日の日のことを書いています。
母とアディと梅太郎と私とで博覧会に行った(当日は入場料が3セントの日なので)と書いています。
梅太郎は4日泊まっていった、我が家に彼が居るととても楽しいと言うことがわかった、とここにも書いています。

 9月13日 木曜 この日静寛院宮が2日に薨去されその葬儀が仏式で行われたとしるし、葬列を見送りに出かけました、クララ達は見に行くと言う表現を使っています。
細かい観察はいつものクララで微にいり細にいり詳しいですネ。

     
家茂は写真はありません、和宮はこれ一枚だけのようです。
和宮のは15歳のときらしいです家茂に比べると少し年が違いすぎるように見えますね。
実際には家茂より14日ほど早く生まれてるのよね、でもそれは和宮があまりにも年上だと釣り合いが取れないので年齢を書き換えたと言う説がありますが(でもこれは明治天皇の時の昭憲皇后のときの話と混同してるようですね)、資料よっては家茂は閏5月より一月前の5月と言う記事もありました。
 皇女和宮
仁孝天皇の第八皇女で、生母は典侍橋本経子。 孝明天皇は異母兄
和宮 親子内親王(かずのみや ちかこないしんのう、弘化3年閏5月10日(1846年7月3日)生誕 〜明治10年1877年9月2日薨去、江戸時代後期、江戸幕府将軍徳川家茂の室である。号は静寛院宮(せいかんいんのみや)。
家茂は側室は作らず、親子だけを生涯の伴侶としたが、子はいませんでした。
教授が好きな歌と言うか子供の頃から何度も下手な節で歌うのを聞かせられました。
家茂公が京都でのお土産に買われた衣が死後に届けられた時の歌です。
空蝉の 唐織ごろも なにかせむ 綾も錦も 君ありてこそ
うつせみの からおりごろも なにかせむ あやもにしきも きみありてこそ
【通釈】おみやげに所望した西陣織の衣も、最早なんの役に立つでしょう。綾や錦の美しい織模様も、あなたが生きておられればこそのものでしたのに
一説に次のようにも歌われると教授が言うとりました。
着るとても 今は甲斐なき 唐ごろも 綾も錦も君ありてこそ
だけど教授は時々錦も綾もと順序を取り違えるのでそのたびに指摘してあげることにしていますほど何度も聞かされたんです。

この後11月18日まで日記なしです。

11月19日 月曜  この間クララたちにはイロイロ問題が多発しているようです。

11月23日 金曜  まだイロイロと使用人について悩み事が多いみたいです。

11月24日 土曜  パイやケーキを焼きクリスマスの贈り物の準備を始めたようです。
今と同じでこの頃でもクリスマスの話題で(マァ今はクリスチャンでもクリスチャンについての話に無関心の方でもはしゃいでいますけどね)もちきりになるのが早いです。

11月26日 月曜  村田氏が新しい料理人をよこしてくれたので、明日から金三郎が習え覚えるまで居てくれると喜んでいるようです。

11月27日 火曜  「兵兵衛」さん・新しい料理人・が人力車いっぱいの荷物と一緒に到着し早速おいしい料理を作ってくれ、私たちはみんな喜んだ。
やはりいつの世も幸せはおなかからと言うのは真実です。

11月29日 木曜  しばらく休んでいた学校を再開、食事の心配がなくなり母も教えられるようになったとよいことから始まりますが、やっと昨日来たばかりの新しいお手伝いが、肉やバターのにおいに嫌気がさしてやめてしまいます。
今まで味噌しょうゆ位の匂いしかしていない家から来れば大変なのよね。

11月30日 金曜  上野の博覧会の最後の日、ウィリィが率いてアンナ・クララ・お逸で天皇陛下の御通りになるのを見に行くのでした。
イロイロ面白おかしく閉会式の様子を描くクララです。
帰りに大事件発生、アンナが足を滑らせ、どぶに転落、真っ青になって帰る家族の様子が描かれています。

12月6日 木曜  遅れていた感謝祭を行う。
お客に富田氏・牧山先生・杉田先生・勝安房氏・大鳥氏・楠本知事閣下。
クララは知事に心を惹かれたがはじめのうちは目もくれなかったと書いています。

12月15日 土曜  昨日と書き始めています、クララ・アディ・アンナの3人でシモンズ先生の抜き打ちの誕生祝いに、横浜まで出かけました。
ヘップバン先生に祖父がするように腕に抱いてキスしてくださったと書いています、クララはこの夫婦に本当にかわいがられていますね。

12月24日 月曜  この年はイブに行ったように捕れる日記ですが、26日にクリスマスのお祝いも終わったと記し、25日の日記がないのでやはり25日のことを書いてあるみたいです。
この年は贈り物も多く、いつもはクララに気のあるような大久保氏もお逸に気が向いているなどと書いていますが、田安公まで見えてにぎやかさは、例年以上のようです。
イロイロな遊びをしてたいそうな盛り上がりをみせ、クララ達は興奮が2〜3日続いたようです。

12月28日 金曜  数人のお友達を招待したので仕度が急がしかったようです。
大鳥家のお嬢さん二人が来たが、招いていないお友達を連れてきたのでクララは相当気を悪くしたようです。
来た記事がないのですが帰りに矢野氏がたいそうご満悦で、こういう集まりは申し分ないと褒めたそうです。
クララ達は好き嫌いではお客を差別しない寛容さは持っていますが、こうお客好きでは経済的に大変でしょうね。


やっと約束どおりに2004年の大晦日までに(今7時45分・年忘れにっぽんの歌「第37回…昭和の名曲全84曲93人が大熱唱」)を家族5人そろってみながら、教授宅から来ているノートパソコンで明治10年の分を書き入れ終わりました。
後で訂正箇所も出るでしょうがそれはいつものご愛嬌と言うことでお許しくださいね。
     2004年12月31日  アイ


クララの明治日記 4
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