5
          1879年 (明治12年) 1 

                               
Clara’s Diary-An American Girl in Meiji Japan
訳者
一又民子 ・ 高野フミ ・ 岩原明子 ・ 小林ひろみ

中央公論文庫より 

ご注意くださいませ
 アイの感想文・抜き書きについて、クララの本を読んで自分なりに感じた感想を手短に記しました。
自分で読んでからここを読みたい方は、しばらく続きを読むのはご遠慮くださいね。



1879年

1879年 元旦 「新年おめでとう」
美しい朝日の輝きとともに新年はやって来た。これほどよく晴れた美しい元旦は初めてだ。目を覚まして霜の降りた地面や、澄み切った青空、それは日本の空でもなくヨーロッパの空でもなく、アメリカの空でもなく、普遍的な空であって、銀色に輝く富士山がくっきり浮かんでいたが、それを眺めたときに、私は喜びを抑えきれず、神の中の神、光の中の光、卑しいはしためを蔑まれることのない神をたたえる歌を歌った。
クララは機嫌のよい元旦を迎えて浮かれた気持ちを抑えきれないようです。
勝邸に新年の挨拶に出向く、戻ると梅太郎がすっかり一人前の紳士のように、16才にしては最上の足取りで、姉上のおゆめさんの家に行き新年の挨拶を厳かに行っているのをみてクララは不思議に思ったのです、それは梅太郎が普段はこの家でいつも寝泊まりしているからでした。
日本では今でもそういう風に家族間で挨拶をしている家があるのですもの、その当時は今より厳しく躾けられていて当たり前ですね。

 1月 6日 月曜  新年早々また雇い人ともめているのを察した勝夫人が、ケライだかカロウを(家扶・もしくは家令というのだと思います)よこしてくれたと記しています。
家扶
もと皇族・華族の家で、家令を補佐した者です
家令
明治以後、皇族・華族の家で、家務会計を管理し、他の雇い人を監督した人。執事。

 1月10日 金曜  今日はウイリィが金沢に出発する日だと、家族が別れて暮らす寂しさを書いています。

 1月11日 土曜  今日もお逸のところに行ったとしるし、訪問の仕方も書いています。
まず戸口に行って「ゴメンナサイマシ」あるいは「オ頼ミ申シマス」と言って、誰かが中からお入りくださいというのを待つ。
この日海舟から「すっかり日本人におなりですな」と言われたそうです。

 1月16日 木曜  ウイリィから葉書と電報と小包みが届いたそうです。
梅太郎が工部大学校に入りたいと言うが頭がよいのに怠けるので思うように進歩しないと書いています。

 1月31日 金曜  勝氏のためにパンを焼いて届けたがお逸から手紙が来た。
「親愛なるクララさんへ、あなたのすてきなパンはとてもおいしくいただきました。父は留守だったので母と兄が皆頂戴してしまいました。其処へ父が帰ってきたのです。もし出来たらどうかもう少し届けてください。   逸より」
もちろん届けたそうですが、このやり取りに可笑しさを堪えきれないのは、アイだけでしょうかしら。

 2月26日 水曜  前日アンナが具合が悪く勝夫人がお見舞いに来ていろんな話をしてくれたそうです。
町の噂話など雑談と、心配事はあまりしないようにと優しい心遣いがしのばれます。
20日の新聞(金沢新報の編集者が書いた記事で掲載誌は不明)にウイリィのことが出ていてお逸が読んでくれたそうです、大変褒めて書いてあるので家族で喜んだ様子が書いてありました。
クララも2月は日記を書くのが少ない様子です、この日を含めてわずか4日分です、そしてそのなかにほかの日の出来事を記入しています。

 3月8日 土曜  勝夫人に木下川(きねがわ)の梅見に招待される。
ではクララの文章で、今朝は非常に寒く風も強く、雲が垂れ込めていたが、梅見に行くことを決めた以上、私たちは何が何でも行くつもりであった。
勝夫人と母と私のほかに、内田夫人、お逸、おせき、七太郎の7人が私たち梅見の一行であった。
そしてあっけに取られてみている町の人々の中を勇ましく突っ切って進み、不動の山のように聳えている古いお城の内陣に入っていった。賑やかな浅草を通り、両国橋を渡って、砂地の川床にさらさらと水が流れ遊覧船が集まって来る隅田川に沿って進んでいった。
そのうちに道が悪くなって萱葺きの屋根が多くなり、田舎に近づいていることがわかった。
亀戸を過ぎてからは道がさらにひどくなった。車一台が辛うじて通れる狭い道が水田の間を通っている。私たちは、この道の大半を歩かなければならなかったが、それが大変だった。しかしこの苦労もやがて終わって、私たちは木下川に着き、土手を歩いていくうちに将軍の梅屋敷の大きな門に着いた。
本当にご苦労様ですね、この様にクララはいつものように詳細に、この一日の出来事を記しています、そして帰りの文章です。
月明かりの中を賑やかな浅草を通り抜け、荘厳な宮城 (昼間見るときよりも一段と力強く見える) を通り過ぎて家に帰った。とても楽しい一日であったお友達に感謝するばかりでなく、天の神様にも感謝したい。
クララはどこに居ても神への感謝を忘れないようにしています。
この日は小鹿さんも梅太郎君も同行していないのでごくまじめに梅をみて庭園の様子を描いてあります。
残念なことにこの近くのいずれの梅園も、明治43年の大洪水で、梅樹のほとんどが枯れてしまい、廃園となってしまいました。現在は跡地の整備事業のためわずか梅の木を植えた公園が残るだけになって居るそうです。


 3月16日 日曜  日曜学校の帰り道、クララは道で町の子達と親しく話をしています。珍しく機嫌がよい日みたいです。
数人の子が立っていて中の一人が「異人」と言うのでクララが振り向いて見つめると「どこへ行くの」ときき「市兵衛町」とクララが答えると「一緒に行ってもいい」ときかれクララがいいと言うと子守をしている子達が数人ついて歩いてきたそうです。
「おいつ」「じろう」「おとく」と言う子達で丘の上でこの子達と別れるまでイロイロとおしゃべりをして歩きました。
しかしクララは機嫌の悪いときにうるさい子供に後をつけられるほど腹立たしいことはないと書いています、どうしてもこの気持ちは直せないみたいですね。

 3月30日 日曜  昼間は教会と日曜学校、夜は津田氏と学生に勝家の人々が来宅。
津田氏が「文明に触れる前はシャツを着ないで風邪を引かなかったが、今ではシャツを着ないと風邪を引く。昔は靴でなく下駄を履いていたが、今では下駄を履くと転んでしまう、昔は帽子をかぶらなかったが、今では帽子を忘れると頭痛がする。これが進歩なのでしょうが私には不便なことです」と言った。すると学生の一人が、「先生それは違いますよ。帽子をかぶらないと頭痛がするのは進歩のせいではなく、先生は髪の毛がおありにならないからですよ」と言ったのでみな大笑いだった。
来客が多いと大変ですね、しかし神への奉仕とクララたちは尽くしているようです。

 4月1日 火曜  今日がエープリルフールだと言うことをすっかり忘れていたとクララは書き出しています。
掛け取りの商人との応対に疲れたと書き、サムライの田中について安い給料で飾り物でないことは確かだが短所もあると書いています。

 4月 7日 月曜  土曜日の午後ヘップバン夫人に、小鹿さんが今がよい花見時というので月曜に行きませんかと手紙をだしたが、何の返事もなく心配していたら、10時にシモンズ夫人とこられたそうです、昨日夕方に手紙が来たので、すぐ電報をうったそうですが、二人がついて1時間してから電報が到着、クララは憤慨しています。
12時に出発参加人員は8名(5台の人力車に分乗)とシュウという雇い人がお弁当持ち。
向島についた頃雨がひどく振り出したが、勝家の別荘に着いたときには、青い空は美しく晴れ、日が出ていて、楽しいひと時を過ごしました。

 4月10日 木曜  音楽界の仕度の途中でアンナが階段から落ち大騒ぎになります。
滝村氏が東儀氏に「冬の猿橋」を弾いてほしいと頼んだと出ています。
「冬の猿橋」はとてもよかったがテンポが遅すぎたとも書いています。

 4月16日 水曜  アンナはこの間の後遺症であんまにかかっています。

 4月18日 金曜 この日も来客が多く一日中ドタバタしていました。
水曜木曜とに火事があり、火の見やぐらに上がり火事を見たそうです、屋根々の向こうに富士が見え綺麗だったと書いています。
今みたいに高層ビルのない時代の東京からはよく見えたんでしょうね。

 4月22日 火曜  シモンズ先生が横浜から診察にはこれないのでベルツ先生に来ていただきアンナの診察をしていただきました。
蛭での治療を進められ、勝夫人に手助けしていただきました。
テレビで見たことが有るけどすさまじいものですよね。

 4月26日 土曜  昨日は母の誕生日なのでアディとプレゼントを買ってきたそうです。
外はひどい雨だったが家の中は楽しい一日だったと書き、母はありがたいことに、蛭がよく効いてずっとよいとも書いています。

 5月 2日 金曜  この日早朝に地震、夜中に起きたため眠かったが、父が早く起きるので7時にはみなきちんとおきたそうです、そりゃ起きなきゃいけませんわよ、決して早い時間じゃないですよね。 
8時にはお逸が越後屋から反物を持ってきたから見にいらっしゃいと呼びに来たと書いてあります。
宮内省の雅楽稽古所の春の演奏会に出かけます。
いつもの通りに詳しい解説が書いてあります。
幕間には楽屋裏まで見て一日を楽しくそして疲れたと書いています。

 5月 8日 木曜  松平氏が見えられ筑前の殿様の黒田氏の家(赤坂福吉町)に案内される。
ヨーロッパ風に作られた家の中を案内され、野鴨を捕まえる場所も見学します。
なんと団琢磨さんにも紹介されています。


団琢磨 (だんたくま)(1858〜1932) 実業家、三井財閥の指導者

福岡藩士馬廻役の四男として生まれました。寺子屋に通い漢籍を習い、12歳のとき福岡藩海外留学生だった米国帰りの平賀義質に英語を習い始め、そのころ上級武士の家格のある団尚静の養子になっています。その養父について上京し、藩邸で金子堅太郎と出会いました。
そして、13歳のとき、岩倉具視ら特命全権大使の欧米視察団に同行。そのままアメリカに在留し、琢磨はマサチューセッツ工科大学(MIT)で鉱山学を学び、1878年大学を卒業し米国から帰国しました。
1932年3月5日、三井銀行本店の玄関前で三井財閥の中心人物(三井合名理事長)である団琢磨(だんたくま)が射殺された。三井財閥がドル買いによって利潤を上げていたことが、井上日召(血盟団)の反感を買ったものと考えられる。
実行犯は井上前蔵相暗殺と同じく、小沼正と菱沼五郎。


 5月15日 木曜  杉田家の招待で、竹長稲荷のお祭り見物に出かけます。
ではクララの文章の一部を「そろいの着物を着て、青い布を頭に乗せた六人の男の人が門の前の私たちのところに大またで近づくと深々と呼んでくれたお礼を言った。それからごろごろいう音がして、大きな山車が現れ、衣装を着けた四人の女の子と踊りの師匠、弟子たちが乗っていた。つぎに来たのも同じ作の乗り物ではやし方が大勢乗っていた。」
デ大騒ぎのうちに山車と踊り子たちが去り、クララは聞いた話のうち悲観的なことばかりが心に残るようですし、またこのような女の子たちのことについて聞いた悲劇的な行く末を当然のことだと突き放しています、やはり身分と言う言葉から離れることが出来ないこの時代の意識から、クララも開放はされないのですね。

 5月26日 月曜  今日は五月にふさわしい晴々とした朝だった、この日お客に出すイチゴを津田氏の農園に20ポンド注文したそうです。
この日のお客は同人社の生徒に付き添いの先生たちです。
  同人社
 中村正直 1832〜1891(天保3年〜明治24年)明治の教育家・啓蒙学者。幼名を訓太郎。通称を敬輔。号の敬宇でもよく知られる。
江戸で幕臣の家に生まれ,昌平黌(しょうへいこう)で学んだ。佐藤一斎に儒学を,「桂川甫周(かつらがわほしゅう)」(国興)に蘭学を,箕作奎吾(みつくりけいご)に英語を習う。1855年(安政2年),昌平黌教授。のち儒官。
1866年(慶応2年),幕府留学生取締としてイギリスに渡り,1868年,帰国して静岡学問所教授。
1873年,明六社同人として啓蒙活動をする一方,私塾同人社を開いて教育にあたった。
ミス矢沢と言う方がでしゃばり振りを発揮した様子が描かれていますが、富田夫人が「ほんとに師範学校出らしいわ」といっています、有名人みたいですが、わかりませんでしたがまたまたクララが書いたことが気になりました。
女学生たちのことを量産品と書き自分たちと違うがここに居る目的はこういう人たちに善をなすためだと、高所から下を見る態度は直りませんね。

 5月29日 木曜  この日梅太郎から自分の生い立ちのことを教えられ勝家の内情も聞いたクララはショックを受けました。
やはり気が付いていなかったのですね。

 6月 7日 土曜  この日お逸から縁談があるという話を聞きました。
ひとつは立花家あとおひなさんと別れた上杉氏ですがお逸は憤慨して、結婚なんかしないといっているが、それは怪しいとクララは推理しています。

 6月11日 水曜  村田氏のピクニックへの招待に大勢の外国人と日本人が集まり、目黒に出かける。
三田の製紙工場に集まり人力車に分乗して目黒の内田屋に向かう。
サンドイッチにしょうが入りクッキー、和食のご馳走もあり堪能したそうですね。
家に帰り着いたのは10時になったそうです。

 6月21日 土曜  梅太郎が長崎に出発し、二,三ヶ月滞在予定なので私たちはみな残念がっている、と書いています。



クララの明治日記 5
1878年・明治12年・2に進む


クララのトップに戻りますか?。
明治9年の最初に出かけますか?。
明治10年の最初に出かけますか?。
明治11年の最初に出かけますか?。
明治12年の最初に出かけますか?。  
明治13年の最初に出かけますか?。

j