1877年 (明治10年) 2 |
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Clara’s Diary-An American Girl in Meiji Japan 訳者 一又民子 ・ 高野フミ ・ 岩原明子 ・ 小林ひろみ 中央公論文庫より |
ご注意くださいませ
アイの感想文・抜き書きについて、クララの本を読んで自分なりに感じた感想を手短に記しました。
自分で読んでからここを読みたい方は、しばらく続きを読むのはご遠慮くださいね。
1877年 5月18日 金曜 お休みしていた日記をまとめて書いています。 箱根に遊びに出かけていたそうです。 8日火曜の9時に出発、神奈川から3台の人力車に分乗して出かけました。 前に江ノ島へいった時に寄った端道茶屋(だから其処はどこなの、有名なとこなのかしら) 茶屋の女の人たちは私たちを覚えていて私たちの風采についてたくさんのお世辞を述べたが、アディが私で私はその姉だと思ったと書いています。 成長著しいクララとアディが感じられますね。 2時に江ノ島に到着、橘屋に着くととても喜んで温かく迎えてくれたそうです。 一泊して湯本に向かう1日中車に乗り丘やでこぼこ道は歩いたそうです、途中から籠に乗り湯本に着くと満員なので先にある村に向かう、途中の景色に感嘆し、厳しい道に元気を出すために歌を歌いながら進み旅館の明かりが見えたときにはほっとしたみたいですね。 塔ノ沢・玉の湯旅館と記されていました。 あちこち調べましたら、 明治に開業した玉の湯旅館は福澤諭吉の定宿として知られ、「福住楼」と名を変えて今日に至っています、となっていましたが、福住楼のホームページを開いたら明治23年開業と記されていました。 翌朝さらに上を目指して出かけました、途中の景観についても細かく観察していますよ、お昼に芦之湯に到着一休みしてすぐに出立(硫黄のにおいに耐えることができなかったと記しています)岩に刻んだ大きな地蔵に出会う、其処から芦ノ湖が見えとても美しかったと記しています。 穏やかに澄んだ水が草におおわれたまろやかな丘に囲まれ、その丘が透明な湖上に影を写している。いい文章ですぅ(^^♪。 湖畔にいたり、この夜は鎌倉屋に泊まり翌朝湿気の多いのに耐えられずに、宮ノ下まで降りた様子が書いてありました、奈良屋に宿泊。
天皇陛下が京都にいらっしやる時ご休憩になる、地の利を得たきれいな旅館だった。 陛下のお泊まりになる部屋は誰も使ってはいけないので、私たちはその隣の部屋に泊まった。 などと書いて大分ここが気にいったらしく細かく見て書き入れています。 帰り道で何人かの女の人のそばを通るとアディが「クララ私美しいんですって」それで私が「ああ、あれは日本人のお世辞に過ぎないのよ」と言うと、アディは「そうね、たぶんそうね」とため息をついたが、少ししてから、「でも私、まんざらうそじゃないと思うわ」と言ったのだ。 クララもやきもち焼いたのかしら、妹だけ褒めていたのが気に入らないのよね。 藤沢で泊まった夜、若者がブリキのやかんに紐をつけて地面を引きづりまわしていた。 別の一人が鉄の輪をたくさんつけた棒を、もう一人は先を箒のように割いた竹竿を持っていて、それを引きづるとひどく変な音がするのだった。 この3人はこの騒音に加えて、まるで敵の軍隊が攻め寄せてくるときのような恐ろしい叫び声をあげていた。 女中は、なんでもありません、あれは藤沢消防団ですよと言った。 うちのババ様に確かめたら「火の用心さっさりやしょう〜」とえど弁でこういう風に言ったんだよと、昔の火の用心の夜回りのときの掛け言葉を教えてくれました、藤沢も同じじゃないかいともいうとりました、「ひのよ〜〜じん♪、さっさりゃしょ〜〜ぅ」てかんじね。 5時に神奈川から汽車に乗り帰宅。 人力車の車夫たちが待合室に別れの挨拶に来たそうで親しみが沸いていたクララ達は残念だったと書いています。 東京駅で父が待っていてくれ、家に着きテイとウメが迎えに出てきた。 万事めでたし。 本当にありがたい。 と結んでいます。
5月21日 月曜 この日木挽町で海軍が気球を上げ大勢の人が集まり、兵学校の生徒がかわるがわる乗り降りし6時まで大勢の人が見ていたそうです。 ホイットニー家で見ていたお客も帰りおしまいに矢田部氏も見えて10時までいたそうです。 そして梅太郎が泊まっていったがいたずらばかりしていたそうです、特記すべきは、梅太郎に対してこう書いています。 <私の魔術師・チャーマー・> チャーマーってなんでしょう本では魔術師にルビとして記入してありましたけど? 情報をいただきましたので掲示板よりコピーいたしました。 Re: クララー3 M - 2004/12/31(Fri) 01:10 No.445 ヒサシブリって昨日あったね。 チャーマーは今は精神科医がよく使う言葉で次のことを表しています。 チャーマーとは、ユーモアを使っていつも家族を楽しませる役割のことです。家族を明るく、楽しませることで家族の重荷を解放しようとしています。だから、それができないときには大きな痛みを感じます。表面的には楽しんでいるようでも実はすごく気を使っていたりします。楽しませてない自分はダメだという感覚があります。 デ・この当時の言葉の使い方としてピエロ(フランス語)もしくはclownということでしょう、crownではないよ(笑)。 6月16日 土曜 明日はアディの誕生日なので今日お浜御殿に行って祝う予定だったが大雨だった。 使用人との間の揉め事がホイットニー家の大きな問題となり帰国まで何度ももめることになります。 アイの考えでは普通の家と違い来客の多いこの家では働くものへのケアーも十分ではないほどアンナもクララも使用人に対する思いやりがかけているようです、それはこの本の随所に見られる上流意識と、下層階級とは違うという考えが根底にあるように思います。 伝道者としてクララたちの思いやりは見られないのです。 7月3日 火曜 手紙が来て「R・・・」と言う署名が目に入った。 内容は愛情の告白なので、たまげてしまった。 クララは自分で処理しないで母親に見せて処理してもらうことにしたようです。 7月16日 月曜 ちょうど2年前の今日はサンフランシスコにいた、と始まり、その当時も恋愛遊戯をしていて同じような揉め事を起こしていたと記しています。 ウ〜〜ン思春期の乙女はいつの世も揉め事を起こしやすいですね。 7月17日 火曜 杉田家での話でお茶目なのか本心なのか、杉田家は八百年続く家柄でもとは佐々木と言ったと言う話を受けて、うちは6千年さかのぼれて祖先の名はアダムだったが、ホイットニーに変えたのだと言ったそうです、本心かもね。 祖先のリチャードホイットニーがメイフラワー号で渡って来て250年とも書いています。 Whitney databaseで確認できます・アイ。 7月26日 木曜 おふでさんが福岡においでになるのでお別れを言いに来たそうです。 楠本東京府知事がWhitney氏のために晩餐会を開いたと言う新聞記事が出たそうです。 この人もおふでさんのお父様と同じ大村藩の方です、大久保一翁氏の後の府知事になられた様ですね。 楠本正隆・長崎に生まれる。 大村藩の藩校の監察を務め、尊攘・倒幕運動の高まりの中で藩の中老として活躍。 1872年明治5年新潟県令となり、県会開設、地租改正事業推進等の改革に努め、名地方官といわれた。 地方官会議の幹事、内務大丞を経て、1877年明治10年には東京府知事となり、市区改正等を行う。 1879年明治12年元老院議官、その後副議長。 1890年明治23年第1回総選挙で衆議院議員に当選(以後当選4回、進歩党等に所属)、1893年明治26年星亨の後を継いで衆議院議長に就任。 都新聞社主、社長も務めた。 1896年明治29年男爵。 7月30日 月曜 クララの嘆きが聞こえます。 笠原さんは今日も来なかった。ウィリイが来るなと言ったのかではないかしら。ああ私が好きな人は皆去って行ってしまう。 恋に恋する乙女心は複雑でヤンスネ。 7月31日 火曜 6時頃お逸が来て泊まることになった。 お逸は雨を降らす竜が本当に居ると信じている。 実際に竜を見た人のことを真顔で話すので私は衝撃を受けた。 それから狐や猫の精が人に乗り移ると言うことも信じている。 尾の3本ある大きな黒猫に取り付かれたご隠居の本当にあった?話をしてくれた。 etc. 勝家の皆さんはいろんな話を家族でして居ることがこの話だけでもよくわかりますね、怪談話も好きみたい、謹厳な侍の家という感じではなく、明るい家族の集まりと言う感じがよく感じられます。 お逸と居るときのクララは明るい少女になれるようですね。 |
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クララの明治日記 3 1877年・明治10年 ・3へ続く |
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