1878年 (明治11年) 1 |
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Clara’s Diary-An American Girl in Meiji Japan 訳者 一又民子 ・ 高野フミ ・ 岩原明子 ・ 小林ひろみ 中央公論文庫より |
ご注意くださいませ
アイの感想文・抜き書きについて、クララの本を読んで自分なりに感じた感想を手短に記しました。
自分で読んでからここを読みたい方は、しばらく続きを読むのはご遠慮くださいね。
1878年 1月 1日 火曜 元日!また元日が巡って来た。 でも私は新たな決意はしない。 いくら決心しても、いつも実行できないんのだから。 ただ「主イエスよ、なにとぞわれを完きものたらしめ給え」と祈るだけだ。 クララは、自分自身が弱きものだと言うことを自覚してきましたね。 おやおさんの婚約者の松平康倫さんが金曜になくなったこととおやおさんの行く末を心配していますが、この日10時から新年の挨拶にこられる方の挨拶に忙しい中で、公使夫人より私たちのほうがもっと大勢のお客様だったと自慢、でも私たちのお客様はほとんど日本人だったと反省、そしてさらにこの日外出する外人は少ないとも書いています。 1月 8日 火曜 この日新年の挨拶に勝邸に訪問、アメリカより昨年の暮れに帰ってきていた小鹿さんにもあったようです。 1月 9日 水曜 勝氏が母に高価な羽織を持ってきてくださった、これは紀州公方(徳川家茂)の形見であった。 まさかそれをいただいたように書いて有るけど本当のことかしら、家茂公にあれだけの心酔していた海舟がその形見を人にあげるなんて?法螺を吹かれたんじゃないのかしら。 1月21日 月曜 この年もクララの一家はイロイロな悩みが多いみたいです。 宣教師のかたがたとの言葉の行き違い、お金の問題、etc.。 だって買い物に使うお金が読んでるだけでものすごく使っていますもの、いくら収入があっても追いつくわけが有りませんよ。 この日も毛皮はさすがに「ダンナ」に聞いてからと店を出ましたが骨董屋で花瓶を購入。 新しい料理人がレ雌ーの紹介できました、感じのよい人みたいです。 2月 1日 金曜 モウ新しい料理人と給料のことでもめているようです。 彼は10ドルほしいと言うが8ドルで十分だと思うと書いていますが、よい料理人なので失いたくないとも書いています。 最初に紹介してくれたときにきちんと俸給は話し合うべきなのになぜこの一家はなおざりにして後でもめるのかよくわかりません。 当時は西洋料理の出来る腕のよいコックは取り合いだったようなので最初が肝心ですね。 2月 2日 土曜 またお手伝いさんを一人この家は失ってしまった、どうしてアメリカには裕福な家では執事(イギリスだって居るでしょ)を雇ってそのような仕事の世話をさせるのに、無駄な事ばかりにお金を使ってしまうのでしょう。 2月 5日 火曜 大鳥婦人が亡くなりアンナがお葬式に参列するために出かけたようです。 2月 7日 木曜 午後に小鹿さんが馬に乗って威勢良くこの間の病気見舞いのお礼に見えたそうです。 七福神が一つづつ描いてあるお茶碗のセットを持ってきてくれたそうです。 2月10日 日曜 ガシー・ヴィダーが日曜学校へ行こうと誘いに来た。 お天気がひどかったのでガシーが呼びにこなければサボるところだった。 これこれ〜〜そんなことではいかんでしょ。 礼拝の間に吹雪になったそうです。残念。 2月13日 水曜 小泉氏の案内で松平家のお墓に行く。 小石川白山の浄土寺まで道がひどかったがようやくについたようですね。 松平家の家臣たちと僧侶たちの描写が詳しく描いてあります、松平確堂氏から「お目にかかれてうれしい」とクララ達に挨拶がされました。 おやおさんも出て英語で「お逸さんにもよろしく」とこの上なく上品な口調で言われ、17日から学校に出るつもりだと言われた。 2月16日 土曜 何日か滞在していた大鳥氏の娘のお菊ちゃんを送っていく。 帰りに福沢氏の家によりお昼をご馳走になる。 午後に散歩に出てペールーの大使館が開いていたので中に入ると、まるでおとぎの国のように素敵だとかいています。 この日またこの間来たばかりの料理人に去られてしまいました。 2月23日 土曜 前日行う予定だったジョージ・ワシントンの誕生日のお祝いの集まりを、大久保氏らの都合でこの日に行ったようです。 松平おやおさんとおすみ、小鹿さんとお逸・二人ともとても立派な服装で背が高く、咲き誇るバラの花と形のよい杉の木のようだった。美しい娘と教養の高い息子を見送る勝夫人の目が誇らしげであったとしても許されるであろう・とクララは絶賛しています。 大久保氏も小鹿さんのように立派な服装で現れ、いつものようにぎこちなく始まったがすぐに打ち解け9時頃まで楽しく過ごしたそうです。 3月12日 火曜 今日は特別な日・村田一郎氏の結婚式の日なので詳しく記録しておかなければならない、と始まりました。 その結婚式の様子もいつものように詳しく書いているクララですが、最後に1890年11月追記として記事が差し込まれています。 12年の結婚生活と5人の子供を残して、奥様は10日ほど前に、悪性のコレラで急逝された。 1ヶ月ほど前にお会いしたのだったが昔と少しも変わらず若く美しかった。・・・・・ 衝撃的な友人の死亡にクララの悲嘆がこの差し込まれた文章に伺われます。 3月15日 金曜 私たちの生活はとても華やかになってきた、という書き出しではじまるこの日の日記は、週内の事を書いたあと、松平定敬氏の家に招待されたことを書いています。 湯島の近く中坂の上の松平定次郎と書いた板が下げてある青い門の家を訪れます。 お茶を一服いただきあちらこちらを案内され、音楽会を催す部屋で10時まで楽しんだ様子が描かれています。 3月20日 水曜 東京府が畳替えをしてくれるという話だったが矢野氏が来てせっかくはがした畳を元に戻すように言いつけ、新しい畳を入れるわけにはいかないといい、その上マイヤーズという新しい外国人教師を連れてくるといわれ、クララの矢野氏への憎しみはさらに募ったようです。 3月25日 月曜 アディと私は今日が母の誕生日だと勘違いして銀メッキのテーブル用のベルを買ったが、本当は4月25日だった。1年に2度誕生日があるのはずるいとアディがいった。がとにかくベルは母にあげて、間違いの誕生祝いとしたと記しています。 家族でこれだものイロイロな記録に齟齬があっても不思議はないですね。 でも不思議なことに前年も前々年もそのことに関する日記の記事はないのです?。 新しい女中さんが来たようです京都弁を話すチヨさん、よく理解できない言葉が多いみたいです、アイの家はいつの間にか京都弁が混じり普通に話している言葉が京都弁だってりして友達に指摘されて驚いたりしてしまいます。 3月28日 木曜 お逸が具合が悪くクララはとても心配しています。 体がとても痛むらしくクララの知り合いの日本の女性がこの病気にかかる人が多いみたいです、お逸もお姉さまたちに体をマッサージされているそうですがみているのもつらいと書いています。 何人もの医者が呼ばれて来て、手を尽くしたそうです。 4月4日 木曜 万愚節 お逸の病気全快のお祝いに行く、その後福沢先生のところと、大鳥家に出かけたそうです。 お雛さんは5月15日に結婚なさるそうだが嬉しそうではなかったと書いています。 4月20日 土曜 水曜日に前に勝夫人に招待されていた、向島に出かける。 桜を見て食事をして夜に月明かりの中を帰ってきたそうです。 木曜日にも小鹿さんとお逸が遊びに来て、木挽町の花市に出かけ、どんどん値段を下げる交渉をして椿を買いました、10時までいたそうです 4月22日 月曜 クララはイロイロな心配事をまた日記に書いています。 朝、母にしかられて惨めな一日を過ごしたが夕方帰宅したらやさしく迎えてくれたので、胸で泣いてしまったと書いています、ソウソウそれが親子ですもんね。 4月25日 木曜 母の誕生日 おいしそうな料理が出来て母がたくさん食べてくれてうれしいとクララは書いています。 4月28日 日曜 クララはこの日ラブレターを渡されますがアンナに渡してしまいます、アンナが返事を書くといっているのでクララは、ほっとしています。 5月 2日 木曜 家中ひっくり返るような大混乱。そのわけはほかならぬアディ嬢のパーティなのだ。 こう書き出したクララはこの日に来たお客について観察を密にしています。 5月11日 土曜 満開のボタンを見に目黒に行く。 皇后様の侍女が奇妙な衣装をまとい奇妙な髪型して4人きていたと書き、衣装の色取りにも目が届いています。 不動様にもおまいり、いろいろな押し花の材料を持って帰り、根の付いたのまでチャッカリと持って帰りました。 5月14日 火曜 上杉氏とお雛さんの結婚式に、ウイリィが出席、留守中にチヨが癪を起こしとこの上をのた打ち回り抑えるのに苦労したと書いています。 ただの癪というよりほかの病気のような症状だけどね。 熊倉先生のお弟子が来てモルヒネを打ってくれて収まったようです。 このことでもうこの子に愛想が尽きたように書くクララは本当の伝道者として日本に根付くつもりがないように捕らえてしまうのは私だけでしょうか。 特にこの人たちは下の身分の人たちにつらく当たるようです。 ウイリィが絶望の谷間に沈み、私が時々するような無愛想な態度をしていると書いています、人を観察し自分と比べることはよくクララはしますね。 5月16日 木曜 今月の14日に朝に恐ろしい暗殺事件があったと書き始めています、大久保利通氏が襲撃された事件です。 細かく事件の内容を書いていますが、詳細は歴史の本を開いてくださいね。。 ただこのことで教授に前に聞いた話はクララが、知ることはありませんでした。 それは急を通知しに役所に駆けつけ助かった別当は、あの滝廉太郎さんのお父さんだったことです。 滝廉太郎 1879年8月24日〜1903年6月29日 1901年、ドイツのライプチヒ音楽院に留学しましたが、肺結核となり帰国、23歳で夭折しました。妹トミさんはジャーナリスト・筑紫哲也の祖母にあたります。
5月29日 水曜 ついにクララたちが恐れていた事態が起きました。 父親のWhitney氏が矢野氏により解雇を通知されたのです。 6月 1日 土曜 6月1日は父の解雇される日だ母の嘆きは見ていることが出来ない、とつらい胸のうちを書いています。 6月11日 火曜 森夫人が訪ねてこられ自分の持ち家に入るようにお話に来たと書き出しています。 きれいではないが健康的な土地にあると書き家賃の代わりにピアノを教える様にと申し出てくれたと書いています。 YMCAの会合に行きまたラブレターを渡されたが母に渡し、これからもそうするつもりだと書いています。 6月18日 火曜 日記はこの日、富田夫人に赤ちゃんが生まれがびっくりしたのは、昨夜一緒に庭を散歩した、と書いています。 昼間はお別れ会に近く帰国される方たちとピクニックに行ったと記しています。 7月 4日 木曜 朝 栄光の日 輝かしい独立記念日にしては外は惨めな陽気であるし、部屋の中はさらに惨めである。 引っ越しのための荷物でごった返している。 7月 7日 日曜 悪天候が続く中引っ越しのごたごたがまだ続いているようです。 7月 8日 月曜 また問題発生ウイリィが銀行に預けたお金の領収書を紛失。 この後どうしたのかしら。 7月14日 日曜 昨日勝家に訪問、夫人に優しくしていただく。 この日は両国に花火の見物。 クララの観察眼は花火の色とりどりの美しさをよく表しています。 |
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