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Clara’s Diary-An American Girl in Meiji Japan
訳者
一又民子 ・ 高野フミ ・ 岩原明子 ・ 小林ひろみ

中央公論文庫より 

ご注意くださいませ
 アイの感想文・抜き書きについて、クララの本を読んで自分なりに感じた感想を手短に記しました。
自分で読んでからここを読みたい方は、しばらく続きを読むのはご遠慮くださいね。



1976年(明治9年)

1月 1日 土曜  新年の挨拶に来た方がなんと40人も、早くも日本の多くの知り合いと主にアメリカ人が多かったようです。
イギリスの人は新年のあいさつ回りに出かける人はあまりいなかったようです。
最後のお客は10時までいたらしくクララはへとへとになって寝てしまいました。。

2月9日 水曜  この日赤坂氷川町の海舟の屋敷を訪問(2500坪もあったそうです)に出かけました。
夫人の民さんは眉をそり歯を黒く染めていたと書かれています、鉄漿に驚かないところを見るとモウ慣れているんですね。
長女の内田ゆめはきれいな物腰の柔らかい人、そして大の仲良しとなる三女の逸子(お逸)
本当にきれいで18才というがとても若く見える。やや上を向いた鼻、半月形の眉、赤い(塗った)唇、真珠のような歯そしてばら色の丸顔にお化粧をしていた、と描写も丁寧ですね。

だってまだホントは16才だもの(日本式の数えの年齢を聞いたのかもね)若く見えて当たり前ですね。

次女の疋田孝子はこのとき印象が薄かったみたいです。
4人の男の子と書いているが、小鹿さんはアナポリスだし、梅太郎と七郎以外の思い当たる人物がいませんが、孝子さんの子供の玄亀君はまだ3才位だと思うしね。

 参考資料

弘化3年 9月15日 長女夢子誕生 (1846年)

嘉永2年10月29日 次女孝子誕生 (1849年)

嘉永5年 2月17日 長男小鹿誕生 1852年)

安政1年12月18日 次男四郎誕生 1854年)慶応2年死去

万延1年 8月 3日 三女逸子誕生 1860年)(生母,増田糸)

*****      4女八重誕生 (     )(生母,いと) 

元治1年12月 6日 三男梅太郎誕生(1864年)(生母,梶久子)

慶応2年10月10日 四男七郎誕生 (1866年)(生母,小西かね)
                後に義徽 ( よしあき )   

(注)上記の西暦はその年の平均年のためずれていることもあります。

明治18年 3月5日 五女 妙子誕生(1885年)(生母 香川とよ)

この年海舟62才だよ。

 


 3月14日 土曜  暴風夜中に家が揺れるほど激しく吹き荒れたため驚いた様子と、この日は地震もあったそうです。
この日から日曜が休みとなりそれまでの一、六の日の休みから今のスタイルに変更となりました。
土曜日の半ドンというのもこの後の言葉だったのでしょうか。
クララは、神の栄光により日曜を休むということになったと書いております。
オオ信仰厚き者よ・クララの母の影響は大きいですね。
前教授から聞いた話では、外国公使館等にあわせるということと、勤勉日本の始まり?なんていうておりやした。

 4月 1日 土曜  上野にお花見・桜見物となっています。
小野氏(役人ということと、アンナ夫人の日本語教師くらいしか情報がありません)が誘いに来て、人力車でアンナ夫人、富田夫人・杉田夫人、クララ・小野氏、アディと3台に分乗して出かけました。
木挽町14番地からだと30分くらいで付くかしら、歩くと教授の話で1時間では無理ということでした。
でもこのころの人は今の現代人とは格段に違いますものね。
木挽町は今の銀座4丁目あたりで、歌舞伎座の近所ですね。

クララは寛永寺大仏に批判的、異教徒の拝むものに嫌悪感をあらわにしました。
上野東照宮では建物に興味を示しました。
その後浅草に回り夕食をご馳走になり帰宅。
どこに行っても好奇な目に見つめられ閉口したようですわ。
それと花を観賞した記述がないということは花の観方が根本的に違うからでしょうか?
私たちのサリ先生もお花見といっても人が多くていやだといってましたから、でも昨年あたりには段かずらなどへ、人にもまれて夜桜見物に出かけてというとりましたエ

 4月 3日 月曜 神武天皇祭で授業を休む。
クララは何人もの生徒を抱え根気良く英語を教えているようです、言葉が双方よく理解できない中で、大したもんだと思います。
この日おやおさんがおすみと訪問するもアディと遊んで帰宅。
おやおさんは松平確堂(松平斉民・家達公後見人)の養女と下巻の資料に書いてありますが、どの方を指すのか不明です、養女としては春嶽公の娘の節子さんがいますがこの方とは違うのかしら。

(松平確堂・1841〜1891 父 征夷大将軍 徳川家斉)
(松平春嶽・1828〜1890 父 田安 徳川斉匡 )

ヘップバン夫人クララさんが訪問(例のヘボン氏のことです)横浜へくるように誘われる。
ベシャインスミス夫人も訪問。
中原氏より花見に誘われてお礼を言うが、モウいく気がしないと感想を書いています。
日本式の直接断らない方式にもなれたようだす。

 4月13日 火曜 初めて芝居見物に出かける。
この当時、朝から夜までの通しで見る事に驚いた様子が書かれています。
なんと13時間半今ではそんな人いないでしょうね。
芝居茶屋から劇場に入る様子など事細かに書かれています。
当時は今相撲で見られるような升席が常識で、その仕切りの上を人が歩くのに驚く様子が長い描写で書かれていて興味があります。
最後に衣装とよろいの豪華さに驚いたと締めくくられています。
文章の才能もすばらしいですぅ。

 5月16日 火曜 家の中の模様替えも終わりご機嫌な日のようです。
中原氏が母親と妹を同伴して来て、吹き上げ御所にクララ達とともに出かけました。
いつものように富田夫人・クララ・アンナ夫人・アディが人力車に分乗ですぅ。
野いちごを摘んだり花を摘んだりゆっくりできたようですね、上野の花見と違い本当に楽しそうに書かれています。
4時間ほどかけて散策してアンナ夫人の知り合いの築地の教会の夫人に遇い楽しくおしゃべりもし楽しい一日の締めくくりに両国橋際の茶屋に出かけ有名な日本料理をいただいたとさ。


 5月22日 木曜
 裏手の川べりに新築中の家を作る職人たちの歌が聞こえ意味はないが人の心を惹きつける野性的な響きがあるとの感想。

 5月24日 水曜 津田氏の招待で庭園までイチゴ摘みに出かける

津田仙(1837〜1908)学農社主幹・津田塾で有名な津田梅子の父親

途中アメリカ公使館に公使婦人のビンガム夫人に会いに出かけるが昨晩の夕食会の疲れでまだ起きられないとのことで、次にハイパー夫人の家に行き約束の子猫をいただく。
1時半からアンナ夫人・アディとともに麻布の学農社に出かけお菓子とお茶でご接待を受け、イチゴ摘みに出かける。
バラをもらうが明るく華やかなものは見たことナイト絶賛、しかし香りがよくないとのことで、これは日本に輸入して2〜3年たつと色が鮮やかになるが香りがなくなってしまうとの話を聞く。
イチゴ園で好きなだけお摘みくださいと、籠を渡されたが遠慮なんかするアメリカ人と違うでしょうと思います。
農場で蚕を見たりミス・スクンメーカ(女子小学校を開く・後の青山女学院)にあっていたりしました、イチゴに花束をお土産に帰宅。

 5月30日 火曜 この日富田夫人といさかいが続いていることを書いています。
日本特有の仲人という習慣がよく理解できないみたいです。
アメリカ人にとって結婚仲介人とは恥ずべき行為であると自分たちの理論で押し切るまだ若さが現れています、などとアイもいっぱしに意見を言うて見ました。




D・E・スクーンメーカー 

Dora E.Schoonmaker (1854〜1934) 
  

この女子小学校は麻布本村町、築地居留地、そして明治21年に青山の地に移転します。

名前も救世学校、海岸女学校、そして東京英和女学校と変わっていくのでした

明治28年には青山女学院の名前になりました
現在は青山学院・分離と合同など詳しいことは自分で調べてね。



クララの明治日記 2
1876年
  
(明治9年) 2へ続く 


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