かいもん4号のホームページ TRAVEL 西ドイツ1985
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1985年夏の西ドイツです。 はじめての海外の旅でした。 仕事で出かけたわずか1週間の日程のためスケジュール調整もままならず、鉄道旅行を満喫する、というわけには行きませんでした。 それでもわずかの機会に出会えたいくつかの鉄道の姿には感動しました。

成田出発。

成田から西ドイツ・フランクフルトまで往復のキャリアはルフトハンザ航空、機材はDC10でした。
1985年当時、シベリアルートはモスクワ便等ソ連発着便を除いてほとんどオープンにされておらず、航続距離の制約でノンストップ便はなし。
日本から西ヨーロッパ方面へは殆どがアラスカのアンカレッジを中継する北極ルートが主流でした。
このルフトハンザの便は、ヨーロッパ線では当時唯一残った南回りルートで、途中給油を兼ねてパキスタンのカラチを経由していました。
この1年後にはルフトハンザ便も北回りとなり、日本発の南回りルートは終焉を迎えます。



機内食。

成田からフランクフルトまでは、カラチ中継の1時間を含めて17時間。
現在とは異なり、往きの便も夜行便となります。
夕方成田を出発し、長い夜が続いた後、早朝の到着となります。
国際線ではおなじみの機内食。エコノミークラスですから、どこの航空会社でもまあ大差はありません。
パンの種類にお国柄が表れるのが一番の違いでしょうか。
エコノミーの機内食なんて、とよく言われますが、ごらんの通り一通りのものは揃っています。 このときは仕事でしたが、個人の旅行の際は海外の旅でも粗食(?)の連続で、機内食のグレードは相対的に高いものとなります。
ところで、飛行時間が6〜7時間の長距離フライトともなると、食事も離陸後と到着前に2回出てきます。(最近は各社とも縮小傾向ですが。) この便ではちょうど中間でカラチに寄港、前後それぞれ8時間のフライトとなり、狭い座席に貼り付いたまま運動もなしに合計4回! 同じような食事が出てくるのにはさすがにちょっと参りました。 尚、両脇を偉い上司に固められており、この時はテーブル上にアルコールは載っておりません。



ルフトハンザエクスプレス。

早朝のフランクフルト到着後、列車に乗り継いでデュッセルドルフまで2時間少々。
フランクフルト空港駅から乗った列車は、ルフトハンザエクスプレスことET403型電車でした。
当時の西ヨーロッパでは少数派の電車方式の長距離列車で、固定編成の電車だけに思い切ったスタイルです。
丸い目玉の飛び出したヘッドライトが時代を感じさせますが、ドイツの自動車のデザインと通ずるところがあります。
大きく傾斜した正面に比べて車体側面は比較的おとなしいデザインですが、塗装は御覧のとおり、ルフトハンザエクスプレス専用の派手な色に塗り替えられています。


フランクフルト発車前。

このホームページに自分の姿形を現すことはあまりしないつもりなのですが、20年近く前ということで、今回は大目に見てください。 さて、はじめてのヨーロッパではじめての列車です。といってもちょっと特異な列車でした。 前の写真で電車の正面にドイツ国鉄DBのマークが大きく表示されていますが、この列車、名前の通り、運行するのはDBではなく航空会社のルフトハンザです。
同社の国内線の一部としてフランクフルト〜ドルトムント間を運行しており、チケットもDBのキップではなくルフトハンザ航空の搭乗券が必要です。
この列車を選んだのは多分に、航空機の乗り継ぎ扱いなので、別に列車のチケットを手配するより安いという同行者のコスト意識が働いたようです。 そのかわり成田で預けた荷物もホームまで運んでくれるし、予約を持たない飛び込み客で混むこともない、快適な列車でした。
フランクフルト空港地下駅発車前のひととき。御覧の通り、客室に乗務するのもルフトハンザのスチュワーデスです。 飛行機と違って発車前もどこかゆとりがあるようで、笑顔で写真に応じてくれました。 これが海外で最初に使った外国語だったようです。


運転席。

航空会社の運行と言っても線路の上を走りますから、実際に運転しているのは国鉄DBの職員です。 列車は日本と違い右側通行、幅の広いスタンダードゲージの真っ直ぐな線路の上を快適に走ります。
速度は160キロ。少々古めの電車ですが、揺れの少ない快適な走行でした。


運転席。

ずいぶん前の設計とは思えないような、コンパクトな造りの運転台です。2人乗務で何やら話しているようですが、真っ直ぐな線路をひたすら走って行くだけで、あまり忙しそうな運転ではありません。
客室出入り口通路を一番前まで来ると、そのまま御覧のように運転台が見渡せます。通常の高さの運転席に高い正面窓。特別な仕切がないため、後ろからでも正面の眺めは抜群です。 写真を撮っても良いか、と聞くとOKと一言。


車内(機内?)サービス。

航空機扱いですから、車内(機内)サービスも航空機と同じです。唯一違ったのは、発車直後にチケットのチェックがあったことくらいでしょうか。これだけは列車に準じています。
客室乗務のスチュワーデスが、プログラムに従って新聞のサービス、飲み物、食事と手際よくすすめて行きます。 車内は御覧のように昔ながらのコンパートメントとオープン客室の合造で、ルフトハンザ仕様になって少し改造されているようですが、DBのファーストクラスと同等の造りとなっています。
ところで、ここでもまたまた食事が出てきたのです。メニューは当然ながら、例の機内食と全く同じ物。というわけで、飛行機内から引き続き、5回連続の機内食となりました。
成田出発前に寿司と蕎麦を食べながら、「しばらく口に出来ない日本食」と言っていた上司がデュッセルドルフ到着後一番に目指したのは、ホテル日航デュッセルドルフ内にある日本食レストランでした。


ライン。

航空会社の運行とは言え、乗っている分にはサービス以外DBと変わるわけではありません。車窓も同様です。
フランクフルトからデュッセルドルフ間、途中マインツからコブレンツ〜ボンの間はライン川に沿って走ります。
なだらかな丘陵地にラインの流れが一筋の谷を刻み込んだライン谷は、ローレライの伝説で有名な急な流れと数多くの古城が連続して点在する、ヨーロッパでも有数の美しい車窓の楽しめる路線です。
急な流れ、とはいってもそれは御覧のような大きな貨物船にとってのこと。 車窓から見た目には、水量の多い川が大きくうねりながら、悠々と流れて行く景色が連続します。 ラインは国際航路ですから頻繁に追いぬき、すれ違う貨物船や客船には各国の国旗が掲げられています。


デュッセルドルフ。

デュッセルドルフは日本人が多く在住している都市で、町を歩くと日本企業の看板も多く目立ちます。
フランクフルトから到着後、早速(ただし前に書いたように日本食レストランで食事の後)市内の散策です。
市電が発達していて、大きな通りでは短い間隔でひっきりなしにやって来ます。 このスタイルの車両が当時のデュッセルドルフで多く使われていた標準的なもののようで、3車体の連接、またはこれの重連が一番よく見かけた編成でした。
さらに、同じカラーながらもう少し斬新なデザインの車両も走っており、こちらは走行音から推測するに、インバータ制御の交流モーターだったようです。
当時すでにヨーロッパでは、車両用の大出力インバータの技術が確立されていました。
今回のスケジュールではもう列車に乗る予定が無い!というわけで、せめてしばらくトラムの観察です。


デュッセルドルフ2。

デュッセルドルフ市内の目抜き通りの交差点。路面電車のターミナルでもあります。
大きなパンタグラフを揺らしながらやって来る、やや旧式の左側の電車が、以前の標準タイプのデザインとカラーのようです。 このスタイルもドイツのいくつかの都市で見かけるものです。
このターミナルでは何系統もの電車が入ってきては別の方向へわかれて行く、複雑な運用がされていました。 また、市内のバス路線とも連携しており、同じカラーの電車とバスが並んで停まっている景色がたびたび見られます。


ドルトムント。

同じくルール地方の工業都市、ドルトムントです。
どこかで見たような電車。それもそのはず、1982年にはこの街から広島電鉄が2編成の車両を購入しており、色違いながら日本でもお馴染みのスタイルなのです。
これはドルトムント中心部やや外れの、とある終点の風景です。
ホテルの前を走る電車を見ていると無性に乗ってみたくなり、予定外ではありますがとりあえず飛び乗って15分ほど(もちろん単独行動です。)。着いた終点がここで、駅の名前は覚えていません。 ヨーロッパの多くの都市の路面電車に見られるように、終点は大きなループ線となっており、そのままぐるりと回って向きを変え、市内へ戻って行きます。


ドルトムント2。

上の電車のホームの反対側です。
ここでも電車とバスのリンケージが取られており、電車から降りた乗客の多くがバスへと乗り換えて行きました。
日本では道路交通法上の制約があり殆ど見られない、連接車体のバスです。


ドルトムント3。

同じ電車で市内へ引き返します。 車内にはそこそこの乗客がいます。
どこの町の路面電車も、通勤時以外はたいした混雑は見られず、かといってガラガラという訳でもありません。 一体どのくらいの乗客で採算ベースに乗るのでしょうか。
3連接車体の車内はひとつになっており、端から反対側を見渡すと、随分と長い感じがします。 木製の椅子はシンプルな造りですが、少しの間腰掛ける分には意外と楽な感じで座れます。
外から眺めた感じではよくわかりませんでしたが、大きな窓と細い柱は視界が広く、車窓からの眺めは抜群です。
飛び乗ってみて良かった、と思わずにはいられません。 もっとも、元の場所にちゃんと戻れるか少々不安ではありましたが。


ボン。

ボンは、1985年当時は西ドイツの首都が置かれていた町でした。といっても写真は市街地ではなく、街の外れにある古城跡です。
御覧のように2本のレールの中央にラックレールがあり、ライン川のそばにある乗り場から歯車に助けられて急勾配を一気に小高い丘の上の古城跡まで駆け上がります。
同行者の「古い城跡が見たい」という希望と私の「電車に乗りたい」という要求?を聞き入れて訪問先の方が案内してくれたのがこの場所でした。 途中の電車も、丘の上からの眺めもすばらしかったのですが、これまた名前を覚えていません(登山電車のチケットが行方不明につき)。 場所ははっきりと覚えているのですが・・・。


ライン2。

古城の上からラインを眺めたところです。
狭い(と言っても先の写真にあるような大河ですが)ライン谷を延々流れてきた川は、ボンまでくると一気に平地に出ます。
写真奥側が上流・コブレンツ側で、右手にはボンの大きな町がすぐ目の下に広がっています。
ラインの流れに沿って川岸を走ってきた列車も、ちょうどこのあたりで川と別れを告げます。
というわけで、判りにくいでしょうが、写真の平地と山の境あたりで、DBの上下インターシティがすれ違っているところです。 当時の客車は、クリーム色の窓まわりに、腰の部分は1等が赤、2等が紺のカラーでした。


フランクフルト。

フランクフルト中央駅です。朝の散歩の途中で、残念ながら列車に乗ったわけではありません。
大きなドームの下はやや薄暗いのですが大勢の人で混雑しており、さすがドイツの大都市です。
7番線に入線してきたのはシュツットガルトからのインターシティ。 牽引機は当時の標準型電気機関車、103形。DBの1等客車に合わせた、赤とクリームの今では懐かしい塗装です。
この時間帯は通勤のSバーンに加え、各地へのインターシティの発着、さらに夜行列車の到着、ととにかくにぎやかなフランクフルト中央駅でした。


フランクフルト2。

こちらは市内の観光です。
大きな都市ですが、有名な観光スポットは中心部に集中しており、半日弱でフランクフルト中央駅から歩いてゆっくり散策できます。
その中心部、旧市役所を中心とするレーマー広場。さらに奥には教会の大きなゴシック調の尖塔がそびえています。 ショッピング街もすぐ隣と言っていい場所にあり、泊まるのにも何かと便利なフランクフルトです。


フランクフルト3。

フランクフルト中央駅の大きなドームをバックに、朝の市電が駆けぬけて行きます。
当時のフランクフルトの市電の標準カラーは御覧の3色塗装。ただし広告電車も多く、車体全体を原色の派手派手しいカラーに塗られた編成も随分たくさん走っていました。
写真奥に高層ビルが見えますが、フランクフルトは有数の商業都市。今では中心部の古い建物を取り巻くように斬新な超高層ビルがたくさん立ち並び、新旧合わせて不思議な空間が見られる町になっています。
さて、あとはホテルに戻って朝食、そしてフランクフルト国際空港から帰国の途へとつくだけです。
もちろん、途中、また4回の機内食が待っているのです。

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