ブルートレイン第1号として運転開始した「あさかぜ」も、夜行列車不人気によりとうとう廃止されることとなりました。 僕としてはすでに以前博多〜下関間が打ち切りとなった時点で「あさかぜ」は終わってはいたのですが。 かつて寝台特急が賑わっていた頃の、当時としては豪華な「個室」の旅です。 「博多」あさかぜ。新幹線博多開業前は定期3往復走っていた「あさかぜ」ですが、新幹線の開業により、「博多あさかぜ」のうち14系で運転の1往復が廃止されてしまいました。 しかし残った「博多あさかぜ」(下り1号、上り2号)は、20系のオープンのA寝台車や個室車を博多寄りに連ねた、ブルートレインでは唯一の豪華編成列車です。博多駅を長い15両のフル編成で発車する上り「あさかぜ2号」です。 B寝台車は3段ベッドで、シートピッチ=ベッド幅の狭い20系ですから、今と比べると定員は随分と沢山でした。 特急・寝台券。「あさかぜ」の個室に乗車したのは1975年(昭和50年)11月1日。 新幹線が博多まで開業して半年後です。当時、「あさかぜ」等ごく一部の列車の指定はまだコンピュータに入っていないものがあり、岡山駅で購入した寝台券もご覧のとおり手書きのものです。 それでも、A寝台専用のシートがちゃんと用意されていました。 もっともよく見ると、「6段」というのはちょっと変ですが。 当時の指定席発売日は、列車の発車一週間前。 この切符を購入した10月25日は土曜日で、当時は学校の授業がありましたから、真面目な高校生としては、朝10時の発売開始に駅の「みどりの窓口」に並ぶわけには行きません。 個室は合計12室しかありませんから、売り切れにならないよう事前に岡山駅の旅行センターで予約をしておき、当日高校の授業が終わってからすぐ岡山へ出て、切符を受け取ったと記憶しています。 残念ながら深夜の岡山駅からの乗車で、全運転区間でなく6割ほどの乗車です。 当時は、授業をサボってわざわざ始発の博多まで行って乗車する時間も度胸も小遣いの余裕もありませんでした。 東京駅到着。列車は定刻9時30分に、東京駅12番線に到着です。 当時は何でも写真に撮る、という思想が無く(写真自体が相対的に高い、という理由もあり)、残念ながら途中の記録は残っていません。何かの雑誌に「狭い」と書かれていた記憶がある個室でしたが、入ってみるとさほど狭いとは感じず、むしろ洗面台やテーブル等がコンパクトにまとまっており、さすがに快適でした。 しかし通路幅は極端に狭く、特に車内に入るとオープンのA寝台側から車両後部の個室スペースに入って行くため、余計に狭さが強調されて感じられました。 特急・寝台券(2度目)。さて、高校生の時に「あさかぜの個室で東京に遊びに行く」夢?を果たしたわけですが、残念ながら途中駅岡山らの区間乗車であり、何か消化不良のような感じは残していました。そうするうちに東京ブルートレインも多くが新しい25形に置き換えが進み、とうとうこの2年ばかり後の1978年(昭和53年)初め、最後まで20系で残っていた「あさかぜ」(下り1号・上り2号)も新型に置換えられることになりました。 すでに25形にも新しい個室車両が誕生していましたが、こちらは横に細長く目の前が壁のあまり居心地が良さそうにない部屋で、古い20系の個室のほうがずっと快適そうです。 というわけで、改めて最後の20系個室に乗車することにしました。 当時は高校を卒業してすでに不良大学生の身分になっていましたから、「時間の制約」とか、「平日と休日といった概念」はありません! さらに、十分とはいえないまでも、資金的な余裕は高校生の比ではありません。 改めて、博多から東京までの全線に乗車することとしました。 正月休み、地元の駅で確保した特急・寝台券です。 すでにこの頃は国鉄の全列車の指定券はコンピュータ発券できるようになっていたのですが、唯一の例外が、この「あさかぜ」の個室でした。 新幹線開業と同時に開設された地元駅の「みどりの窓口」の最新の端末でも発券は出来ず(登録されていないから当たり前ですが)、電話で下関の管理センターに確認し(下関では手書きの座席台帳により空席を確認して番号を回答し)、手書きの切符を発行する、というはるか昔のやりかたでした。 ところで、この切符を発券した係員は、実は重大な過ちを犯しています。 購入したのは1978年(昭和53年)の1月6日なのですが、よく見ると何と「昭和52年」と記入されています。 まだ新年で頭が切り替わっていなかったのでしょうか。 実は購入した本人も気づかず、最初に「発見」したのはこれを見せた大学の友人でした。 乗車券。こちらは乗車券です。 窓口の端末で発券されたのもですから、日付はちゃんと「昭和53年」となっています。しかしながらこの時代はまだまだコンピュータの能力には限界があり、「広島→博多」+「博多→東京」なんていう連続切符には対応できておらず、肝心の「区間」と「経由」は手書きとなっていました。 というわけで、まずは広島から博多に向け、金曜日の朝の153系「下関快速」に乗車しました。(大学の講義はどうした?) そういえば、この日は「13日の金曜日」でした。 個室内。今回乗車した車両はナロネ22-551号。 2年程前に乗車したのと同じ車両で、隣の部屋です。車両番号からわかるように、2社で製造された20系のうち、日立製の車両です。 乗車した4番、6番の部屋はともに通路北側の部屋なのですが、よく見ると座席の向きが車両形式図のものと違います。 後で外から眺めると、個室部分の窓の間隔も微妙に図面と違うようで、どうやら日車製と日立製で多少違いがあったようです。 もっとも、上り列車に乗車する場合、どちらの部屋も座席(寝台をたたんだ昼間の状態)が進行方向前向きとなったため、私にとっては好都合でしたが。 写真は広島駅停車中のもので、すでに寝台はセットされています。 広島駅停車中。当時の私の活動拠点、広島駅に到着です。 同じ大学の同好の友人が数名、見送り?に駆けつけてくれました。 といってもみんな昨夕に会合で会った連中ばかりですが。写真はそのときに撮っていただいたもので、残念ながらネガは私の手元には存在しません。 「見送り」と書きましたが、真の目的は個室の見学だったようで、わずか3分間の停車中に、私の個室に入り込んで寝台をたたんで元に戻して、洗面台を引き出して元に戻して、水差しの水を飲んで、非常脱出用のハンマーの所在を確認して、写真を撮って、とやりたい放題で、放っておいたらこのまま次の尾道までこっそり乗っていくんじゃないか、と思えるほどの感じでした。 朝の上り「あさかぜ」。今回はゆっくりと全区間乗車出来て大満足の「あさかぜ」でした。しかし、20系廃止、25形化の直前とあって、すでに置換え前から乗客無視の合理化は先行して進んでいました。 上り「あさかぜ2号」東京到着は朝9時30分とかなり遅い時刻で、当然ながら乗客は相当前から起床しているはずなのですが、すでに寝台の解体作業が廃止されていたのです。 2年ちょっと前に乗車した時は、確か7時少し過ぎた頃に作業員が解体にやって来たはずなのですが、今回は寝台をセットのまま東京駅に突入です。 起床後、朝食のために食堂車に向かうと、B寝台の乗客は通路に溢れれ返っています。 通路の折りたたみ補助席は6人に一席の割合しかありませんから、遅れた乗客は寝台に横になっているか通路に立っているしか仕方ありません。 何しろ解体しなければ、下段座席に座ろうにも中段で頭がつかえてしまう3段寝台です。 おまけにまだまだ寝台列車の人気がそれなりにある時代でしたから、車内はほぼ満席の乗客が乗っています。 お陰で食堂車までの往復は、随分と気を遣わされてしまいました。 当然A寝台も寝台の解体作業はなかったのですが、そこは「個室」の強みです。 だいたいの造りはわかっているので、勝手に寝台を解体して昼間の座席の状態にして(といってもリネンをたたんで寝台を持ち上げてロックするだけですが。)、車窓風景を堪能しながら、無事定刻に東京駅に到着したのです。
|
バナーにご利用ください |