>>>写真をクリックしてください。>>大きな写真へ ![]() 福塩線の電化区間の終点・府中駅です。 ローカル線ではありましたが、府中までの列車本数は毎時1本以上は確保されていました。 列車本数を増やそうにも、福山をでてすぐの備後本庄〜神辺の駅間の長い区間がネックでした。 当時は備後本庄が交換駅で、次の横尾には交換設備はありませんでした。 ![]() 70系の基地・府中電車区です。 府中駅のホームのすぐ南側、駅本屋と反対側に位置していましたが、福塩線の電車専用の基地のため、それほど広いスペースではありませんでした。 ![]() 何となくのどかな感じの漂うお昼過ぎの府中電車区ですが、御覧のとおり人海戦術ですので、働く人にとっては大変です。 当時は手入れもよく行き届いており、古い電車ながら塗装も傷んでおらず、わりあい綺麗に掃除もされていました。 とはいえ一部を除き人間の手作業、客室窓の隅などには、長年の汚れもみられました。 ![]() 府中駅の片隅で通常は休んでいる、さらに旧型国電のの残党、クモハ32です。 日ごろは出番はありませんが、電車区内の牽引に、さらにごくまれには、検車車両を率いて岡山まで出張する姿も見られました。 こちらも比較的手入れがよく(というよりほとんど出番がないためか)車体のマルーン塗装、床下機器の黒色や電気配管の肌色等、非常に状態の良い車両でした。 ![]() プロポーションの良い湘南スタイル、クハ76です。 当時の国鉄車両(ローカル用)は153系に始まる東海型の運転台が主流で貫通扉・折りたたみをベースにしていましたが、70系や80系の運転台は非貫通の全室運転台のため非常に広く、後ろから覗き込むと実にゆったりした感じでした。 ![]() 湯田村付近を走る70系です。 備後・山陽地区の列車は、広い田んぼの中を走る風景が一番自然な感じがして好きです。 瀬戸内の冬は明るく、暖かいイメージが強いのですが、さすがにこの日は北風が強く、後ろの山には明け方の雪がうっすらと残っていました。 ![]() 単線のローカル線ではありますが、電化区間は交換設備のある駅も多く、70系同志の交換風景はよく見られました。 福山〜府中間では併走する中国バスと微妙にルートが離れており、やや遠回りで時間がかかり、本数で不利な福塩線と住み分けが出来ていたようです。 ![]() 当時は非電化区間から直通で、気動車が芸備線の三次から福山まで乗り入れる運用がありました。 朱色一色塗りに変更されていますが、初期のバス窓の車を従えた、キハ20系編成です。 ![]() 神辺駅北方、高屋川鉄橋を行く70系です。 しかし鉄橋右隣の橋脚の方が気になる方が多いかも。 改めて言うまでもありませんが、井笠鉄道神辺支線の廃線跡です。 現在では井笠の神辺支線廃線跡は、ほとんどが第3セクター井原鉄道のコンクリート高架橋に生まれ変わっています。 ![]() 福塩線は芦田川に沿って上って行きますが、電化区間ではその本流を跨ぐことはなく、あまり長い橋梁はありません。 この高屋側橋梁から左側、神辺駅までが、井笠鉄道との併走区間でした。 ![]() 福山駅8番線で出発を待つ70系です。 7・8番線ホームは辛うじて新幹線の2重高架を外れていますが、日中は高架の日陰になり、日が回るのは夕方くらいです。 当時は後ろの新幹線もすべて0系でした。 ![]() 末期は先頭の行き先票も手書きの文字のものが殆どでした。 山陽線6番ホームからの撮影ですが、天守閣を頭まで入れるには、周囲の視線を気にせずホームに腹ばいになってこれがほぼ限界です。 ![]() 福山駅7番線に到着する70系です。 後ろの福山城址は、ちょうど写真の付近の石垣がその後改築されたため、現在とは多少姿が異なります。 ![]() 当時としては珍しい、在来線と新幹線3層構造の福山駅付近。 コンクリートの柱の下の在来線は写真に不向きですが、福塩線ホームは何とか大丈夫。 とはいえ、やはり暗くて撮影しにくい福山駅でした。 ![]() ドアを手で開ける電車、というのは当時随分とローカルな感じがしたものでした。 今では、季節によっては本線のターミナル駅でも実施してはいますが。 ![]() 横尾駅、この当時は線路は1本だけでした。 もともと交換駅だったのですが、レールだけが外されていました。 現在は、備後本庄の代わりに横尾が交換駅に復帰しています。 ![]() 横尾駅付近を福山に向かう上り電車です。 福塩線の70系は短い配置期間に増減がなく、全金車と旧型が混在していましたが、この編成は珍しく4両とも全金編成です。
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