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聖書のとりこ

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聖書は難しくなかった!

聖書は難しくなかった!

私はこれを書いている時点(2007年2月)で聖書をまともに読み始めてから約5年ですが、いま私は「聖書のとりこ」です(笑)。聖書を読むことが楽しくて仕方ないし、どこへ出かけるときも聖書が一緒じゃないと不安です(ちょっとした時間のすき間に読めるかも知れないから・・・)。・・・聖書中毒かも知れません・・・。

それほどまで聖書を愛する私としてはひとりでも多くの方に聖書について知っていただきたいのですが、かなりハードルが高いですね。「聖書」と聞いただけで引かれてしまったり。また聖書の魅力を一言で説明することも大変難しいです。そこでちょっとでも聖書に興味を持っていただいた方に、できるだけ有効な情報を提供しようというのがこのホームページの趣旨です。自分が聖書と出会った最初の頃にもしこういうページがあったら便利だっただろうな、というホームページを作ろうとしています。

いま読んでいただいている、この「聖書のとりこ」ページには私と聖書との個人的な出会いとつきあいの記録を書きます。聖書そのものについての情報ではありませんから必要ないという方は読み飛ばしてください。


私と聖書の最初の出会い

私が初めて聖書に接したのは小学校三年生のときです。同じクラスに牧師の息子がいて、彼の家つまり教会は私が住んでいたマンションの向かいにあったのです(ちなみにそれは千葉県市川市の「市川三本松教会」という教会で、ここに当時の教会の風景画を見つけました。私はもうこの町には住んでいないのでとても懐かしい絵です)。私はそのとき父親の転勤で初めての転校を経験したばかりで、つまり転入生でした。そんな私を牧師の息子の彼が日曜学校(教会で日曜日の朝、礼拝の前に行う勉強の会)に誘ってくれたのです。

教会に行くと聖書をくれました(なんとまだ持っています)。「新約聖書」だけが収録された子供用の聖書です。でも教会ではあまり聖書を読んだ記憶はありません。よく覚えているのは礼拝で暗唱した「主の祈り」です。それは「天にまします我らが父よ、願わくば御名(みな)を崇(あが)めさせたまえ・・・」と始まる一節で、聖書の中ではイエスが弟子に乞われてお祈りの方法を教える部分からの引用です。三十年以上が経ったいまでもほとんど暗唱できます。しかしこうやって毎週唱えていながらほとんど意味はわかりませんでした。「テンニマシマスワレラガチチヨ・・・」では言葉が難しすぎます。七五調が崩れた感じで何だか呪文みたいです。当時はこれがMatthew 6:9-13(マタイの福音書6章9〜13節)の部分とは知りませんでした。またこれは戦前に翻訳された「文語訳」なのではないかと思います(戦後に出版された訳はもう少しわかり易いです)。

それからもうひとつ決定的な出来事として覚えているのは歯科医の待合室です。たぶん小学校四年生のとき、私は虫歯ができて歯科医に通わなければならなくなりました。あるとき待合室での待ち時間をつぶすために、なんと聖書を持っていったのです。いまから考えるとすごい絵ですね。小学生の子供が歯医者の待合室で聖書を読んでいる・・・。私はもともと本が好きな子供でしたがこのときには多分に周囲の大人に自慢したい気持ちがあったのだと思います。とにかくその日、私は教会の聖書を持って歯科医へ行ったのです。そして最初のページを開きました。新約聖書なのでMatthew 1:1(マタイの福音書1章1節)です。そこに書かれていたのは「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを、ユダはタマルによってペレツとゼラを、ペレツはヘツロンを、ヘツロンはアラムを、アラムはアミナダブを、アミナダブはナフションを、ナフションはサルモンを、サルモンはラハブによってボアズを、ボアズはルツによってオベドを、オベドはエッサイを、エッサイはダビデ王をもうけた・・・」([新共同訳])というイエス・キリストの系図です。これがこの後も延々と続きます。今の私は新約聖書を家系図から始めた意味も知っているし、ところどころに知っている名前を見つけたりしてこれを読むのが結構好きです(聖書中毒だから?)。でも当時の私は「なんだ、この本は・・・。意味不明・・・」でした。これで私は聖書に「難解」のレッテルを貼って投げ出してしまいました。


なぜか聖書を買う

次はたぶん中学生の頃だったはずで、私はある日なぜか書店で聖書を買います。私は小学校の五年生の春に再び転校したのでもう教会には通っていませんでした。それなのにどうして聖書を買おうと思い立ったかいきさつは思い出せません。今度は旧約聖書の入った版で、これは「口語訳」という版です(これもまだ持っています)。でもこの聖書は一度も開かれませんでした。

そこから時間は二十年以上流れて、次のシーンは私が36か37才の頃。私たちの家族は二年ほどの海外駐在の仕事から東京へ戻ってきたのですが、息子を編入させた幼稚園がキリスト教系だったのです(これは特にキリスト系でなければいけなかったわけではなくて候補の中にはお寺の幼稚園もありました)。この幼稚園で息子はときどき聖書の言葉(「聖句」と言います)を暗唱させられました。「エペソ人への手紙2章8節」などという響きは聖書をほんのちょっとだけかじったことのある私には懐かしかったですが、私は「エペソ人への手紙」の意味も知らず、聖句そのものにも馴染みがなく、別段何も感じませんでした。息子が卒園のとき、幼稚園ではひとりひとりに園長先生が署名をした文庫版の新約聖書をくれました。版は「新共同訳」です。


最初の英語の聖書

次は私が39才のとき。私の家の近所の教会から「無料英会話教室」のチラシが入り、妻と二人で説明会に行きました。若い頃から「アンチ宗教」で通してきた私は普通だったらこの手のチラシは無視するか警戒するのですが、たまたまその直前にミニコミ誌の記者の仕事をしていた妻が近所のある教会に取材に行く機会があり、そこの牧師さんと子供の教育の話をして「結構いいこと言ってたよ」などと話していた矢先だったので警戒レベルが下がっていたのです。

説明会に行くと、チラシを入れた教会では(これは妻が取材に行った教会とは別です)アメリカのテネシー州から二組の夫婦を招いていて、彼らが聖書を題材に英語を教えるというのでした。私は小学生のときに教会に通っていたこともありキリスト教会への抵抗はあまりありませんでした。その夏私たち夫婦はテネシー州から来た一組の夫婦とペアになり、私は旦那さんの方から妻は奥さんの方から毎週1時間土曜日の午後に英語のレッスンを受けました。

妻は純粋に英会話のレッスンをやっていたようですが、私はある程度英語ができましたので、私たちの方の授業は聖書に関する議論になりました。そのときに私は初めて英語の聖書に接したのです。教材は今回は「Matthew(マタイの福音書)」ではなく、「Luke(ルカの福音書)」の抜粋縮小版でした。たしか三浦綾子さんも著書の中で、「なんで新約聖書の最初はマタイなのか。ルカだったらもっとたくさんの人が読むはずなのに」というようなことを書いていましたが、とにかく今回のルカは、え〜っ、というくらい意外で、読んでいて意味がどんどん理解できたのです。このとき「聖書=難解」という聖書観は崩れました。

当時の私は神さまなどまったく信じていない無神論者でしたので、その先生を論破してやろうくらいの気持ちでした。内容が理解できた分、出てきた疑問を次々と彼にぶつけていきました。すると彼は彼の意見を言うのですが、それに加えて「君はきっと抜粋縮小版ではなくて正式な「Luke(ルカの福音書)」を読んだ方が良いし、旧約聖書も平行で読むのが良い」と言って、そこにあった教会の聖書をその場で貸してくれて、そのときから私は「Luke(ルカの福音書)」と「Genesis(創世記)」を聖書から直接、平行に読み始めました。すると「Genesis(創世記)」の方に書かれていたのはさらに奇想天外な物語の連続で、聖書ってこんなことを書いた本だったの? 本当にこれで良いわけ? もしかして自分が知っていた聖書とは別の本? と、クエスチョン・マークと、はっきり言って失笑(「あははは。ウソだろ」)の連続でした。たいへん興味をそそられながらも当時の私には「ナンセンス」の連続にしか見えなかったので、土曜日の午後になると「あなたはこれを本気で信じているのか?」と質問に質問を重ねました。実はこのとき中学生のときに買った聖書と息子が幼稚園でもらった聖書が役に立ったのです。英語の聖書を読んで意味がわからなかった部分があったので、一度も開いたことのなかった聖書を本棚から探してきて開いてみると、章と節がきっちり対訳になっているので日本語の訳で確認できたのです。結局6回のプログラムを終えてみた時点で、私の疑問は深まるばかり、まったく解決されなかったのですが私は英語の聖書を読み続けたくて仕方なくなっていました。


教会を探し、聖書を買う。NLTとの出会い

英会話のプログラムが終わると夫婦はアメリカへ帰ってしまい、私の聖書の先生はいなくなってしまいました。私は引き続き英語で聖書を教えてくれるはずの先生が欲しくて、妻も教会に出入りすることには抵抗がないようなので、教会探しを始めました。私の住んでいる町は東京のはるか西の方ですが、アメリカ軍の基地があり、その関係で英語の教会がたくさんあります。ある土曜日の午後に教会を探していると(こういう時間帯に教会が開いているか、などという考えは当時まったくなくて)、二つ目の教会で牧師さんに会えて、いきさつを説明すると「ぜひ、明日から礼拝に来てください」と言うことになりました。教会は伝統的・保守的として知られる「バプテスト派」でしたが、当時の私はキリスト教の教派などまったく知りませんでした。2002年8月の中頃の出来事です。

聖書の方はと言うとアメリカへ帰ってしまった聖書の先生が貸してくれていた聖書はたぶん「NASV(New American Standard Version)」という版だったはずで、これはそちらの教会に返してしまいました。英会話のプログラム中に聖書はどこで買えるのかときいたとき、「amazon.comで『Zondervan社の"Study Bible"』を買うといい」と言われました。当時の私には「Zondervan」も「Study Bible」も意味不明でしたが、そうですか、ということで、さっそくamazon.comで「Zondervan」「Study Bible」などとキーワードを入れて聖書を探しました。そうしたらもうそこには様々な聖書が山ほどあって、どれを買って良いか皆目わかりません。でも売れ筋の聖書の中にはページの体裁まで見られるようにしている聖書があり、おすすめ通りZondervan社のStudy Bibleを一冊と、さらに、amazon.comでは買った人がよく評点や感想のコメントを書いていますが、その中で「NLT(New Living Translation)」の評価がすごく高く感じられたのでこちらの聖書も一冊買いました。「NLT」の出版社はTyndale社です。

amazon.comから聖書が届く前に英語の教会の礼拝に通い始めましたが、まず牧師さんが何を言っているのかサッパリわかりません。牧師さんはワシントン州出身のアメリカ人でもともと早口な方ですし、アメリカ人がアメリカ人に対して話す英語にはまったく容赦がなくてまさに映画みたいに難解です。さらに聖書用語、キリスト教用語が満載ですからまさしく「All Greek」というところでしょうか(笑)。でも教会に集っているアメリカ人がなんだかみんな笑顔でハッピーな人たちばかりで、教会自体はすっかり好きになりました。

礼拝では牧師さんは、参列者に聖書を開かせて聖書の話をしているのですから、まずは聖書の内容を理解すれば良いのだろうと思い、息子が幼稚園からもらってきた「新約聖書」([新共同訳])を読み始めました。小学校のときの決定的な体験から30年を経て、再び同じくMatthew 1:1(マタイの福音書1章1節)の「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを、ユダはタマルによってペレツとゼラを・・・」から開始です。でも今回は「聖書=難解」の先入観が壊れているので辛抱強く読み続けました。一ヶ月ほどで新約聖書を読破しましたが正直なところほとんど理解不能でした。イエス・キリストは独りよがりで傲慢な嫌な男にしか見えず、後半の「手紙」類は難しくて何を言っているのか日本語でもサッパリわかりません。

やがてamazon.comから待望の聖書が届きました。そして「NLT」の聖書を開いてみて、驚き、感動ました。わかりやすいのです。あぁこれなら読める!と思いました。この日から私は熱烈な「NLT」ファンになりました。


子供と一緒に聖書を勉強

せっかく英語の教会に通い始めたのだから、頭が柔らかいうちに息子に英語のシャワーを浴びさせよう、そうしたら息子はすぐに英語が話せるようになってしまうだろうと私たち夫婦は考えました。教会には子供向けのプログラムがいくつかあって、アメリカ軍基地の内外からたくさんの子供を集めていました。さっそく「AWANA」と呼ばれている聖書の勉強にいろいろとアクティブなゲームを組み合わせたプログラム(毎週金曜日の夜)と、「Patch the Pirate」と呼ばれる聖書の勉強に歌を組み合わせたプログラム(毎週水曜日の夜)に参加させました。

とは言っても最初のうちは息子の英語理解力はゼロだったので、テキストを翻訳して意味を教えて英語の課題(主に聖句の暗唱)で良い成績を残せるようにしてあげたり、何とか英語環境の中でもプライドが保てるようにとサポートしました。すると子供がプログラムに慣れて予想以上に好成績を残していくに連れて、教えている私にも聖書の基本知識が身に付いていきました。これらのプログラムは子供に聖書とは何かを教えようとして作られているので、聖書の基本となる教えや聖書の構成などが理解できるように、あるいは覚えてしまうように意図されていたのです。キリスト教をまったく知らない私には小学生向けの教材がピッタリだったのですね。


聖書の通信ビデオ講座に参加

そんな風にして一年以上が経った頃(2003年の12月です)、教会でできたアメリカ人の友人から「FBI(Faith Bible Institute)」と言う聖書の通信ビデオ講座に誘われました。私はこの頃までに「NLT」で旧約聖書と新約聖書をひととおり読み終えていたはずです。聖書の中には66冊の本があって中にはどんなことが書かれているか、表面的にはだいたい理解していましたが、だから何なのか、それはまったくわかっていませんでした。

「FBI」は、アメリカのルイジアナ州の教会が提供するプログラムで、3年のコースを完了すればカレッジ(専門学校)の履行単位として数えることもできるという「本格的」と感じさせる触れ込みでした。世界中どこの教会でも参加者を10人以上集めれば、ルイジアナ州の本部にサテライト校として登録してビデオ(最近はDVD)の送付を受けて本部と同時進行で履行できるのです。私たちの教会では毎週月曜日の夜18:30〜21:30に教会に集まってビデオを見ていて、ちょうど翌月の1月が3年コースの最初の月にあたっているそうで、入会は3年のうちいつでも始められるシステムなのだけれどこれは最初から始めるのが一番良くて、3年に一度しかないビッグ・チャンスだからとにかく一度見に来い、と大変熱心に誘うのです。

これはハードル高そうです。何しろアメリカ人向けのカレッジだし、聖書の専門教育だし、しかも平日の18:30からだし(ということは会社を17:30には出なければ間に合わない・・・)、いやぁどうなんだろう・・・、と大変消極的ではあったのですが、1月のある月曜日、たまたまその日が祝日で家にいたこともあって私は「無料お試し期間中」の講座をのぞきに行きました。そうしたらわざわざそんな講座を受けてやろうという高尚な向学心を分かち合う同士たちの集まりということもあって、教会の二階のその部屋の雰囲気がとてもアットホームで、さらにアメリカンな感じで熱烈に荒々しく抱きしめられて歓迎され、「まずは食べなさい」とみんなが持ち込んだ料理の大皿から山盛りを私のために紙皿に盛ってくれて、ようやく料理と飲み物を前に席についてさっそくそのビデオを見始めました。

するとまぁ早い早い、ビデオの中の先生は牧師さんを上回るマシンガン・トークです。が、何だかすごいことを言ってます。先生によると聖書には66冊の本が含まれていて、最初が「Genesis(創世記)」で最後が「Revelation(黙示録)」となっている、つまり最初に「始まり」が書いてあって最後に「終わり」が書いてあるのだから、きっとこの本は時系列に古い順に編集された本なのだろう、と普通の人は思いこむ・・・、ところがどっこい聖書は実は「テーマ別編集」で、最初の五冊が律法書、次の七冊が歴史書・・・、という具合になっている。このコースは3年をかけて聖書の66冊を全部勉強するのだが、最大の特徴はそれを時系列にしかもわかりやすい「10のステップ」に分けてやろうというもので、10のステップの時代背景を頭に入れて66冊の各本を読んでいくと聖書は驚くほどわかりやすいのです! みたいなことをそれはもうものすごいスピードで言っている、ように聞こえるのです。

私はこれを聞くと口が「あんぐり」と開いてしまいました。そしてきっとニヤニヤ笑いました(笑)。あぁこれだったのだ、これを教えて欲しかったのだ、だから自分はこれを受講しなければいけない、という気持ちで一杯になりました。あの夏に英語の聖書に出会い、この教会を見つけ、子供のプログラムを手伝い、自分なりに聖書への理解を深めてきたのはすべてこの日のための準備だったのだと思いました。もちろんその日に「FBI」への受講申し込みを済ませ、三年後の2006年の12月に私は3年のコースを修了しました。このホームページの中で聖書の構成などを説明した部分は、私が「FBI」で習った内容に基づいた情報が大半を占めています。


日本語の聖書を読む。聖書中毒への道

3年のコース履行中に私は日本語の聖書を買っています。教会で知り合った人たちに聞くとおすすめの日本語聖書は「新改訳」のようで、私はこれを買ったのですがどうもしっくり来なくてずっと開かれずに置いてありました。読んでいたのはいつもお気に入りの「NLT」です。

ところが2005年の12月、コースも2/3を終える頃、私は何を思ったか「新改訳」を手に取り「Genesis(創世記)」を読んだのです。そうしたら何だか良いじゃないですか(笑)。でもこの「良さ」は伝わらないだろうな・・・、と思いました。その頃には私は「聖書とは」がほぼわかりかけていて、だからこそずっと英語の聖書に親しんできた私には日本語で語られる聖書が新鮮に感じられ、母国語という意味で自然で何というか「心に染みた」のです。結局そのままズンズンと最後まで読んでしまいました。特に「イザヤ書」などの預言書は日本語で読むと「染みるなぁ・・・」と思いました。

ちなみに私は「旧約聖書」と「新約聖書」はいつも交互に読みます。旧約が36冊、新約が29冊という構成もあり、また旧約はページ的にも新約の3倍くらいあるのでいつも新約を先に読み終えてしまいます。最後は旧約聖書の預言書をだだ〜っと読み終えて完了という具合です。だから最後に読む本はいつも「Malachi(マラキ書)」です。

次に手に取ったのは「新共同訳」の新約聖書だけの本で、読み始めたときの印象は「新改訳」よりも難易度が低くて読みやすく、なんだか流れるように読めてしまってこれもまた結局最後まで読んでしまいました。このあたりから聖書中毒の自覚が出てきました(笑)。

再度手に取ったのは「新改訳」です。また全部読みました。今回はなんだか聖書を貫くいくつかのテーマみたいなものが見えてきて、やたらラインマーカーで線を引きながら読みました。私はいつもどんどん線を引いたり書き込みをしたりして聖書を汚しながら読む方です。それから今回違ったのは「Psams(詩編)」。実はこの回までは退屈で嫌いでした。長いなぁ・・・、早く終わらないかなぁ・・・、と読んでました。ところが今回は「Psams(詩編)」が染みて染みて・・・。完全に中毒でしょうか(笑)。

なんだかすっかり日本語訳の聖書のファンになってしまった私は、これでもう英語の聖書は読まないのかなぁ・・・、とも思いました。なんだかんだ言っても母国語ではありませんから英語で読むのは面倒くさくて苦痛なのです。ところが手元には「NLT」の2004年版がありました(この頃の私は暇があると、amazon.comをウロウロして次はどの聖書を買ってやろうかと物色していました・・・)。「NLT」は1996年版が改訂されて新しい版が出ていたのです。「ん? どうなのよ、2004年版は?」といつものように何気なく「Genesis(創世記)」を読み始めます・・・。するともう止まりません・・・(笑)。やっぱ英語の聖書は良いなぁ・・・。わかりやすさが全然違うもんなぁ・・・。で、いまこれを書いている時点で「NLT」読んでます。日本語みたいに早くは読めませんが「堪能」です。今回はラインマーカーだけではなくてテーマ別のノートが取りたくて仕方なくなり、ノート片手にメモをツラツラ取りながら読み進めています。

たぶん次は「新共同訳」で旧訳と新約両方の読破になると思います。その後は英語で何か違う版が読みたいのです。いつまで続くのかわかりませんが読みたくなくなるとか、読む必要を感じなくなるまで私は聖書の通読を日本語と英語で繰り返すのだと思います。・・・聖書中毒バンザイ(笑)。






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