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聖書の構成 |
このページは2016年3月に移転しました。
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このページには「聖書を読む前に頭の片隅に入れておいた方が良いことが三つ」書かれています。
「聖書は難しい」。実はこれは当然なのです。なぜってすごく古くて、すごく遠くで書かれていて、私たち日本人のためにではなくほとんどの部分がユダヤ人に向けて書かれた本だからです。
どのくらい古いかというと聖書は「旧約聖書」と「新約聖書」に分かれていて旧約聖書の方が先に書かれたのですが、旧約聖書の一番古い部分は紀元前1500年頃の記述とされています。いまからざっと3500年前です。新しい方の新約聖書で一番最後に書かれた部分は西暦100年頃です。これもいまから1900年前ということになります。では書かれた場所はと言うと、中東、いまのイスラエルのあたりです。どうでしょうか、たとえば今から2000年前のイスラエルがどんなだったか頭に浮かびますか? 人々はどんな町に住んで何を着て何を食べ何を話していたのでしょうか。想定された読者がユダヤ人というのも日本人にとっては聖書を難解にします。ユダヤ人・・・、いったいどんな人たちなのでしょう。
たとえばある日私たちが書店で一冊の小説を手に取り、ページをめくると「そのとき突然、部屋の電話が鳴りだした」と書いてあったとします。これは読者が「電話」が何だか知っていることを想定して書かれているのですよね。だからわざわざ「電話」が何であるかは説明しません。では2000年前にイスラエルにいた聖書の記述者が、ユダヤ人の読者が当然知っているはずと想定していたことは何なのでしょう。それはほとんどの読者が知っているはずの知識なのですから聖書にはわざわざ書かれないということになります。もし私たちがそれを知らないのなら、聖書はきっと難しい本になると思います。
それから同じ観点で逆にちょっと注意した方が良いと思うこともあります。たとえば聖書に書いてあることを読んでそのままなんとなく意味がわかったつもりのことがあったとしても、当時の時代背景や風習を知ると実はもっとずっと深い意味があったとか、実はぜんぜん違う意味だったということもあるかも知れません。たとえば聖書の一節に「彼は突然着ていた服を切り裂いて泣き叫んだ」と書かれていたら、なんとなく情景を目に浮かべることができますが、「着ている服を切り裂く」という行為が時代背景や文化背景の中でどういう意味があるのかはここだけではわかりません。
聖書を読む前に知っておいた方がよいことの一つ目は、聖書は、はるか昔に遠くで他の人のために書かれた本だからわからなくて当然ということです。
聖書が難解な理由をもうひとつ挙げると、それは「わざとわからないように書いているから」というのがあります。これは驚きの理由でしょうか。
イエスは新約聖書の福音書の中でたくさんの「たとえ話(parable)」をします。ズバリ言わないでいつも何かにたとえて話すのです。だからそれが本当は何のことを言っているのか、はっきりとよくわからないのです。聖書の中にそんなたとえ話の後で弟子たちが意味をたずねるくだりがありますが、そのときイエスが次のように「たとえ話の秘密」を明かします。
Luke 8:9-10 [NLT]/ ルカの福音書8章9〜10節 [新改訳]
9 His disciples asked him what this parable meant.
9 さて、弟子たちは、このたとえがどんな意味かをイエスに尋ねた。
10 He replied, “You are permitted to understand the secrets of the Kingdom of God. But I use parables to teach the others so that the Scriptures might be fulfilled: ‘When they look, they won’t really see. When they hear, they won’t understand.’
10 そこでイエスは言われた。「あなたがたに、神の国の奥義を知ることが許されているが、ほかの者には、たとえで話します。彼らが見ていても見えず、聞いていても悟らないためです。
[新改訳]はそのまま[NLT]の対訳になっているわけではないので「so that the Scriptures might be fulfilled」の部分が訳されていません。ここを訳すと「それは次の聖書の言葉が成就するためだ」です。で、その成就されるべき聖書の言葉が「彼らが見ていても見えず、聞いていても悟らない」になります。つまりイエスはまず「聖書の言葉を実現するため」に「わざわざたとえ話を使っている」ということになります。
この聖書の言葉は旧約聖書の中の「Isaiah(イザヤ書)」にあります。イエスの時代から700年ほど前に書かれた本です。預言者イザヤはそのとき神さまを見てしまいます。聖書の中で神さまを見る人はあまりいませんが、神さまを見た人の反応はほとんど同じで、「あぁ、もうだめだ」と思うようです。神さまの存在があまりに気高く神聖なので、自分のような汚れたつまらない存在が神さまを見てしまったら、きっともう生きていられるはずがないと思うからです。
ところがそのとき驚いたことにイザヤは神さまの力で自分の汚れを清められ、その後神さまが「誰かを遣わしたい」と言うのを耳にして「私を派遣してください!」と名乗り出ます。そのときに神さまがイザヤに言った言葉がイエスの引用した部分になります。
Isaiah 6:9-10 [NLT]/ イザヤ書6章9〜10節 [新改訳]
9 And he said, “Yes, go, and say to this people, ‘Listen carefully, but do not understand. Watch closely, but learn nothing.’
9 すると仰せられた。「行って、この民に言え。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。』
10 Harden the hearts of these people. Plug their ears and shut their eyes. That way, they will not see with their eyes, nor hear with their ears, nor understand with their hearts and turn to me for healing.”
10 この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ。自分の目で見ず、自分の耳で聞かず、自分の心で悟らず、立ち返っていやされることのないように。」
ここの部分の解釈は難しいですが、人間の心を鈍(にぶ)らせ理解できないようにしてしまえ、そうやって民が「立ち返っていやされることのないように」と言っています。もしかすると私たちは遠い昔に神さまの怒りに触れて呪いをかけられているということなのでしょうか。だから、私たちの心は鈍くされていて聖書を読んでも聞いても理解できず、結果として決していやされることがないようにされているということなのでしょうか。・・・これは困りましたね。
新約聖書の中にはどうしてイザヤがこれを書いたのかを説明している部分があります。「John(ヨハネの福音書)」の中の一節でまったく同じ箇所からイザヤ書を引用した後でヨハネはこう説明しています。
John 12:41 [NLT]/ ヨハネの福音書12章41節 [新改訳]
41 Isaiah was referring to Jesus when he said this, because he saw the future and spoke of the Messiah’s glory.
41 イザヤがこう言ったのは、イザヤがイエスの栄光を見たからで、イエスをさして言ったのである。
旧約聖書は「キリストを指し示す本」と言われますがこの一節もそれに基づいていて、つまり預言者イザヤは自分の後700年して救世主として世に現れるイエスを見て(そしてイエスが現れる目的や意図や成就することを理解して)言ったというのです。人々がイエスの言葉や奇跡に触れても神さまさまに立ち返り救われるようなことのないように、人々の心を鈍くして理解できないようにしてイエスが聖書が預言した救世主であることに気づかないようにしているということです。・・・う〜ん、いよいよ困りました。
ですがあきらめるのはまだ早い。先ほどのイエスのたとえ話についての説明の続きの中で、イエスが次のように言っている部分があります。
Luke 8:18 [NLT]/ ルカの福音書8章18節 [新改訳]
18 “So pay attention to how you hear. To those who listen to my teaching, more understanding will be given. But for those who are not listening, even what they think they understand will be taken away from them.”
18 だから、聞き方に注意しなさい。というのは、持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っていると思っているものまでも取り上げられるからです。
イザヤ書を引用したイエスの言葉を受けて解釈すれば人々の心は鈍くされ簡単には神さまの言葉が理解できないようにされている、だから注意して聞け、さもないと持っている人にはさらに与えられるが持っていない人からは持っていると思っているものまで取り上げられてしまうぞ・・・。これはひっくり返せば注意して聞けば持っている人にはさらに与えられるということになるでしょうか。
聖書には神さまを追い求める人には道が拓かれ逆に神さまから離れていく人には厳しい結果が待っている、そんな記述がたくさんあります。だから聖書はわからなくて当然、でもわかるまで追い求める、そんな気持ちで取り組むことが必要な本なのです。でも心配しなくても聖書はそもそも十分おもしろいし、読めば読むほど知れば知るほど興味がふくらみます。結局それが追い求めていることになるのです。
最後にもう一カ所、聖書から引用しておきます。
Matthew 7:7-8 [NLT]/ マタイの福音書7章7〜8節 [新改訳]
7 “Keep on asking, and you will receive what you ask for. Keep on seeking, and you will find. Keep on knocking, and the door will be opened to you.
7 求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。
8 For everyone who asks, receives. Everyone who seeks, finds. And to everyone who knocks, the door will be opened.
8 だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。
つまり聖書を読む前に知っておいた方がよいことの二つ目は、聖書は読み手に理解できないように呪いがかけられた本なのかも知れないということです。でもあきらめずに追い求めれば必ず理解できるようになっている、とも書かれているということです。
聖書を読む前に知っておいた方が良いことを書いてきましたが、最後の一つは聖書に記述されているのが「神さまの言葉」だと言うことです。
聖書は英語で「God’s Word(神さまの言葉)」と呼ばれることもあります。日本語では「御言葉(みことば)」と呼んだりします。「聖書は神さまの言葉」の意味は聖書を実際に紙に記述したのは人間ですが、記述者は神さまの言葉を記述したのであって不思議な力に操られるように神さまに動かされて書いたという考えです。これを「預言(prophecy)」と言います。これから起こることを言い当てる「予言(prediction, foretelling)」とは異なり、預言は「神さまの言葉を預かる」のです。
まさか神さまが書いた本だなんて!と思われる方もたくさんいると思います。それを信じるかどうかはともかくとして、聖書という本が少なくともそういう前提で編纂された本だということは知っておいてください。それを知っているだけで理解を助ける部分が多分にあるからです。そしてこれは聖書という本の「前提」なので文句をつけても仕方ないし、逆に言うと別の前提に沿って解釈することには意味がないのです。
神さまの言葉を預かる人を「預言者(prophet)」と言います。また預言者が神さまからの言葉を受け取ることを「Inspiration(インスピレーション)」と言います(日本語にすると「霊感」でしょうか・・・)。預言者の中には預かった言葉を書き物として記述する人もいれば、民の所へ派遣されてメッセージとして伝える人もいます。語る人と書き留める人、どちらも預言者です。また預言者は職業ではありません。預言はある日神さまからの言葉を受け取る形で行われるので、いろいろな職業の人がある日突然預言者になり得ます。またこうして伝えられる「預言」(=神さまの言葉)の中には、「予言」(=これから起こることの予告)もたくさん含まれています。
聖書には66冊の本が含まれていて、記述をした人は40人を越える様々な職業人で、記述された時期にも1600年の幅があります。それなのに聖書全体には驚くほどの調和が保たれていて聖書全体を貫くメッセージがあります。それは聖書を書いた神さまからのメッセージです。