脳死と臓器移植法
中島 みち著
文春新書 文芸春秋 (2000-11-20出版) 214p 18cm [新書判] NDC分類:490.15 販売価:\680(税別)
ISBN:4166601407
脳死移植はどこへ行く?
向井 承子著
晶文社 (2001-01-30出版) 317p 19cm(B6) [B6 判] NDC分類:490.15 販売価:\1,800(税別)
ISBN:4794964749
向井承子著「脳死移植はどこへ行く?」(2) 投稿者:てるてる 投稿日: 2月 7日(水)00時01分36秒
向井承子著「脳死移植はどこへ行く?」(晶文社)では、中山案、町野案などの、
脳死を死とする法案が、臓器移植だけでなく、末期医療全体に与える影響を懸念しています。
中山案が提出された頃も今も、脳死患者を診る医師たちにとって、人工呼吸器をいつ切るか、
ということのほうが、臓器移植よりも現実的な問題である、ということです。
杉本健郎さんのホームページでも、こどもの臓器移植に関して、やはり、現場では、
人工呼吸器をいつ切るか、というほうが大きな問題になっている、と述べています。
向井承子著「脳死移植はどこへ行く?」(3) 投稿者:森岡正博 投稿日: 2月 7日(水)15時59分11秒
いま著者から送っていただきました。いい本です。とくにアメリカでの現地取材の箇所は勉強になります。
貴重な情報だと思いました。中島みちさんの本もそうですが、97年の臓器移植法成立の内部過程を文字化したものが出版されて、
当時のことがよく分かるようになったのもいいことだと思います。
森岡正博さんの「脳死・臓器移植」専用掲示板過去ログハウス 2001年06月03日〜06月24日
移植コーディネーターと「脳死」 投稿者:てるてる 投稿日: 6月15日(金)08時09分39秒
日本の移植コーディネーターが、現行の臓器移植法が、脳死を死としていないことによって、 臓器提供者の家族が苦しむ、というのは、USAのドナーコーディネーターが、脳死の患者の主治医が、 本心から脳死を死と思っていないと、患者の家族も脳死を死として受け入れられない、というのと、 似ているなあ、と思います。 向井承子の「脳死移植はどこへ行く?」(晶文社、2001年)のなかでは、USAのコーディネーターは、 患者の家族が、脳死を死と思っていなくても臓器を提供することに、ショックを受けていて、 コーディネーターの立場からは、脳死が死であることを論理的に説明すると、言っています。
>「問題は家族ではない。脳死を昏睡と頑固に考えている医師がまだいる。医師の
>間にも誤解や混乱があるのです。そんな医師が家族に接触するので家族もますます
>混乱するわけです。
>「論理的な説明をしています」……「……心臓は肺は器械で動かすことができる
>が、なぜか脳だけはそうはいかない。心臓と肺は動いているのに脳だけが死んで
>しまうことがあるし、逆に血液の流れを止めて心臓の手術をする時でも、脳が
>生きていればその人は死なない。だから、生命の本質は脳にある。」と
>「論理的に、懇々と説明して、判ってもらうようにしている」
(p.201)
「脳死を昏睡と頑固に考えている医師がまだいる。」とういところを、日本の臓器移植法は、とか、 日本の固有の文化は、とか、日本の社会は、とかの、よく使われるフレーズに変えると、 日本のコーディネーターや移植医や移植患者団体などの発言とほとんど同じような気がします。
USAの場合 投稿者:森岡正博 投稿日: 6月15日(金)10時39分17秒
てるてるさんが紹介してくださっているUSAの例で、脳死が死であることを論理的に懇々と説明する、 というあたりに、以前萩原優騎さんがおっしゃっていた「画一性の暴力」を見る思いがしますね。 彼らの確信は、もう揺るがないくらい強いのでしょう。これから、英語で、彼らと渡り合うことになるのかと 思うと、しんどいなーっていう気になります。
あぁ、タ−君は生きていた〜15年待ち続けた息子との“命の約束”〜
吉川隆三著
河出書房新社 2001/03出版 20cm 198p [B6判] NDC分類:916 販売価:\1,300(税別)
ISBN:4309251374
RE:命 投稿者:てるてる 投稿日: 5月21日(月)18時06分12秒
>ここに心臓だけでは生きていけないAという命があります。
>一方には心臓なしでは生きていけないBという命があります。
>今、AとBを一つにしてCという命を存続させた場合、CはAなのかBなのか。それと
>も両方なのか、どちらでもないのか。
>
>AにもBにも親がいたとすれば、どちらの親も、自分の子供の命は生き続けていると思い
>たいわけでしょう。
>なぜAの親だけが、自分の子供は死んだと思いこまなければならないのでしょうか。この「どちらの親も、自分の子供の命は生き続けていると思いたい」ですが、これまでの臓器移植法の
議論では、よく、移植手術がおこなわれる前、この例だとAにあたる人が、臨床的に脳死と診断されたときに、
なぜ死んだことにせねばならぬのか、自分は、生きていると思う、という場合のことが、言われていますよね。
そしてそれは、法律で脳死を一律に死とするのかしないのか、というようなかたちで議論されてきたのですね。でも、ちゃまさんが取り上げているのは、移植後、のことですね。
移植後の場合、これまでに、象徴的に、Aの親が、Aは生きている、と思うことは、あったようです。たとえば、「ター君は生きていた」(河出書房新社、2001年)の著者の吉川隆三さん。
5歳の息子が脳死と診断された時、腎臓を提供した吉川さんは、レシピエントに対して、>どこの誰と名乗る必要はありません。お礼の言葉もいりません。ただ、その後の経過
>を知りたいと思っていました。……(中略)……一言、「おかげさまで元気になりま
>した」あるいは、「手術は無事成功し、元気に暮らしております」と、そうした連絡
>がほしかったのです。と書いています。そして、臓器提供後15年たって、臓器移植法制定後初めての、脳死の人からの移植手術の
際に、テレビ局の取材を受けた。その直後、テレビ局に、レシピエントから、元気でいるという電話があったと
聞いて、初めて、それまでの苦しかった気持ちが救われた、と述べています。あるいは、出口顯著「移植される心 臓器は『商品』か」では、6歳の息子を亡くした女性の話が
紹介されています。彼女は、レシピエントから感謝の手紙をもらった時に、「息子が生きている」と思い、
レシピエントがたまたまドナーの身元を知って訪ねてきてくれたときには、
「息子が会いに来てくれた」と感じた、といいます。こういう場合、レシピエントが別人であることはわかっているけれども、同時に、まざまざと、
ドナーになったこどもの存在が感じられる、ということではないでしょうか。
そういうのを、象徴的に、生きている、と、言っていいと思います。
臓器は「商品」か―移植される心
出口顕著
講談社現代新書 講談社 (2001-04-20出版) 207p 18cm [新書判] NDC分類:494.28 販売価:\660(税別)
ISBN:4061495496
森岡正博さんの「脳死・臓器移植」専用掲示板過去ログハウス 2001年04月17日〜04月27日
脳死の人を中心としたcommunity 投稿者:てるてる 投稿日: 4月21日(土)19時31分06秒
直訳すると、brain dead person centered community でしょうか。レポート……やってみます……(汗)
講談社現代新書で「移植される心 臓器は『商品』か」(出口顯著: 本体 660円)が4月20日に
発行されたようです。
「黒猫の砂場」で感想を読みました。http://www.bookclub.kodansha.co.jp/Scripts/bookclub/intro/intro.idc?id=26603
講談社現代新書 投稿者:森岡正博 投稿日: 4月21日(土)21時02分12秒
さっそくチェックしてみましょう。しかし、日本って、「脳死論」の国だねって、つくづく思います。
脳死をテーマに新書が出るんだからね。アメリカでは専門書以外ありえないですよ。
日本の脳死論の書物は、英語の10倍出版されています。
森岡正博さんの「脳死・臓器移植」専用掲示板過去ログハウス 2001年05月01日〜05月06日
ナンシーの『侵入者』の書評 投稿者:てるてる 投稿日: 5月 1日(火)08時22分09秒
出口顯著「移植される心 臓器は『商品』か」(講談社現代新書)で引用されている、
ジャン=リュック・ナンシー『侵入者 いま<生命>はどこに?』の書評があります。
↓(森岡サイトにも触れています)http://www.t3.rim.or.jp/~h2ysmt/nancy.html
http://members.jcom.home.ne.jp/histsci/nancy.html
異論 投稿者:てるてる 投稿日: 5月 2日(水)23時59分41秒
しかし、出口顯著「移植される心 臓器は『商品』か」(講談社現代新書)によると、
UKも、ドナー家族へのケアやサポートは、貧しいらしい。それをいうなら、ドイツの移植コーディネーターも、どれぐらいドナー家族やレシピエントの
精神的な側面まできちんとケアしているのでしょうか。
もしかしたら、ドイツでも、ほんとは、お互いに連絡をとりあいたいと思っている
ドナー家族とレシピエントとが、潜在的にたくさんいるのかもしれない。
森岡正博さんの「脳死・臓器移植」専用掲示板過去ログハウス 2001年05月15日〜05月21日
RE:会うこと(2) 投稿者:てるてる 投稿日: 5月16日(水)19時52分07秒
次に、匿名性の問題について。出口顯著「移植される心 臓器は『商品』か」(講談社現代新書、2001年)より
(引用)
>臓器移植は、臓器を「記号」としてではなく、取り替え可能な部品と考えるという
>前提に立っている。臓器は機械の部品のように、「商品」になりえるのである。
>だから「生命の贈り物」の「贈り物」とは、譲渡不可能な人格的なものを意味する
>のではなく、提供者が代金を受け取らず「無償で」与えるもののことを意味する。
>移植医療や臓器提供を推進する側にとっては、臓器は「商品」なのである。(要約)
UKは、臓器提供に同意した人のみがドナーになる、オプト・インの制度をとっているが、
ドナー不足が深刻なので、医師会が、「ドナーになるのを拒絶する意思を明言しない限り、
原則的には脳死者は誰でも潜在的にドナーであるとする」オプト・アウトの制度を採択する、
という決議をした。
しかし、政府はその要求を却下した。1998年にUKで脳死後の腎臓提供をしたドナーの家族が、白人の患者にのみ移植することを要求し、
その条件のとおりに移植が実施された。
これが1年後に公にされると、人種差別として社会問題となった。
この事件をきっかけに、倫理学者のメアリー=ウォーノックは、オプト・アウトに改正すべきだと主張した。
オプト・アウトによる臓器提供は、徴兵に似ており、人は脳死とその後の臓器の行方を、国民全体のために
国家もしくは国家の法が定めた機関に委ねることになる。人種差別の問題が起こる前から、生命倫理学者のジョン=ハリスは、オプト・インでもオプト・アウトでもない、
「ノーコンセント」(同意不要)の制度を採用し、身体を公の財産とすべきと主張していた。
ハリスは、「ノーコンセント」でドナーになることを拒否するものは、「自分の臓器が使われるよりも、
他人が死ぬのを望むだけの納得のいくはっきりした理由を説明しなければならない」と述べている。UKの保健省は、「提供臓器は、人種、宗教、年齢などにかかわらず人々が利用できる国家的資源
(national resource)である」とコメントを発表した。UKでは、幼児や青少年の移植待機患者がテレビや新聞に頻繁に登場し、ドナーの出現を待ち望んでいると
訴えている。
一方、ドナーの家族は、臓器摘出後は、用済みといった扱いを受け、移植医療スタッフに顧みられることが
すくない。レシピアントに関する情報はわずかしか与えられない。
また、レシピアントが、ドナーの遺族に感謝の手紙を書きたいとレシピアント側の医療スタッフに言っても、
断られることがある。
---------------------------------------------
匿名性の原則を貫くと、人のからだは社会のもの、そして、最終的に、人のからだは国家によって
管理されるもの、という方向へ行ってしまいます。
ですが、現実には、既にそれに近い状態で、移植医療スタッフは動いています。
USAのOPO、そのスタッフの移植コーディネーターにとって、脳死患者はすべて潜在的ドナーです。しかし、ドナーの遺族はドナー本人ではないのに、まるでドナー本人であるかのように、レシピエントが
誰であるかを知ること、会うことを権利として認めてしまうと、結果的に、ドナーの遺族もレシピエントも
苦しむことになるかもしれません。
ららさん 投稿者:てるてる 投稿日: 5月20日(日)10時21分06秒
>最近のららは、脳死臓器移植やめることはできないか派になっています。
>理由は、シンポの最後にフロアから質問されたあの方の一言につきますが、
>この医療が受けられない第三世界の子どもたちの医療のことは念頭にない議論、それを言うと、脳死の人の治療だって、新生児集中治療室の治療だって、第三世界では受けられない人が
たくさんいるのだから、やめろ、ということになりませんか?>それどころか、臓器売買など被害を被っている子どもたちもいる、ということも
>聞きます。臓器移植の匿名原則を逆転して、実名原則にすると、少しは防げるのではないか、と思います。
ドナー(の遺族)とレシピエントとは、お互いに、実名と病名と住所を知らされる、
レシピエントの移植後の診断や投薬をする医師は、ドナーの実名と病名がわからない場合は、
警察に届けなければならないことにするとか……不正な移植がおこなわれた場合、医療者などは刑法で処罰するけど、患者は、実名を報道する、
未成年の患者の場合は、手術の承諾書に署名した人の実名を公表する、
ただし、被害者の遺族には、移植を受けた人の実名と住所も知らせる、などということにするとか。
不正な手術に承諾書なんてないかもしれないけど、知らずに承諾する場合もあるかもしれない。
そういう場合でも、公表することにしたら。……ここまでしなくても不正を防げるのなら、それに越したことはないけど。
>ちゃまさん、ららさん
>臓器の免疫にあわせて、自分の免疫を抑えていくわけだから、どっちが主体か、
>考えてみたら、そんな気がしてきた。出口顯著「移植される心 臓器は『商品』か」で紹介されている、
ジャン=リュック=ナンシーの「侵入者」には、次のように……。>提供された心臓はわたしの体にとって他者である。だから免疫システムによる
>拒絶反応が起こる。しかしその心臓を受け入れるようにならなくては、わたし
>の体は生き延びることができない。そこで免疫抑制剤が投与される。わたしの
>体は従来通り「わたし自身」を免疫レベルで主張し続けることを許されなくな
>り、おとなしくしていることが期待される。主人は他者=侵入者のはずであっ
>た提供心臓であり、その心臓からすれば、わたしの体の方が攻撃をしかけてく
>るよそ者=他者になる。こうして「わたしは自分自身にとってのよそ者になる」
森岡正博さんの「脳死・臓器移植」専用掲示板過去ログハウス 2001年05月20日〜05月31日
RE:命 投稿者:てるてる 投稿日: 5月21日(月)18時06分12秒
>ここに心臓だけでは生きていけないAという命があります。
>一方には心臓なしでは生きていけないBという命があります。
>今、AとBを一つにしてCという命を存続させた場合、CはAなのかBなのか。それと
>も両方なのか、どちらでもないのか。
>
>AにもBにも親がいたとすれば、どちらの親も、自分の子供の命は生き続けていると思い
>たいわけでしょう。
>なぜAの親だけが、自分の子供は死んだと思いこまなければならないのでしょうか。この「どちらの親も、自分の子供の命は生き続けていると思いたい」ですが、これまでの臓器移植法の
議論では、よく、移植手術がおこなわれる前、この例だとAにあたる人が、臨床的に脳死と診断されたときに、
なぜ死んだことにせねばならぬのか、自分は、生きていると思う、という場合のことが、言われていますよね。
そしてそれは、法律で脳死を一律に死とするのかしないのか、というようなかたちで議論されてきたのですね。でも、ちゃまさんが取り上げているのは、移植後、のことですね。
移植後の場合、これまでに、象徴的に、Aの親が、Aは生きている、と思うことは、あったようです。たとえば、「ター君は生きていた」(河出書房新社、2001年)の著者の吉川隆三さん。
5歳の息子が脳死と診断された時、腎臓を提供した吉川さんは、レシピエントに対して、>どこの誰と名乗る必要はありません。お礼の言葉もいりません。ただ、その後の経過
>を知りたいと思っていました。……(中略)……一言、「おかげさまで元気になりま
>した」あるいは、「手術は無事成功し、元気に暮らしております」と、そうした連絡
>がほしかったのです。と書いています。そして、臓器提供後15年たって、臓器移植法制定後初めての、脳死の人からの移植手術の
際に、テレビ局の取材を受けた。その直後、テレビ局に、レシピエントから、元気でいるという電話があったと
聞いて、初めて、それまでの苦しかった気持ちが救われた、と述べています。あるいは、出口顯著「移植される心 臓器は『商品』か」では、6歳の息子を亡くした女性の話が
紹介されています。彼女は、レシピエントから感謝の手紙をもらった時に、「息子が生きている」と思い、
レシピエントがたまたまドナーの身元を知って訪ねてきてくれたときには、
「息子が会いに来てくれた」と感じた、といいます。こういう場合、レシピエントが別人であることはわかっているけれども、同時に、まざまざと、
ドナーになったこどもの存在が感じられる、ということではないでしょうか。
そういうのを、象徴的に、生きている、と、言っていいと思います。
RE:命(2) 投稿者:てるてる 投稿日: 5月21日(月)18時09分06秒
ところが、レシピエントにとっては、もはや象徴的でさえない、もっと実在的に、自分は今までの自分とは
違うのではないか、自分は誰なのか、という混乱が、おこってくることがあるようで、それが、
ジャン=リュック=ナンシーの「侵入者」に述べられていることだと思います。出口顯の著書には、他に、自分の兄から腎臓を提供してもらった少年が、後から、兄がゲイであることを知り、
自分はゲイになりたくないから腎臓を摘出してくれ、といったという話や、人種差別が露骨な時代に、
腎臓移植を受けた黒人男性が、ドナーは白人の女性だと知って、臓器が自分を憎むと思ったり、
男性としての自分に欠陥ができたと感じたりする話が載っています。
こういうのも、アイデンティティの混乱だと言えます。
出口顯は、>臓器移植医療をうみだした現代医学が前提としている考えでは、精神は脳に宿るので
>あり、その大脳を例外とすれば、容器(身体)と中身(心)は切り離して考えてよい
>異質なもの同士なのである。そして境界となる身体が少々破損しても、人格の統合に
>は大きな影響はないものと考えられている。と述べています。
しかし、ただ破損するというのと、破損したところに他人の身体の一部が補填されるというのとは、
また別でしょう。ただ破損しただけならば、人格は何も影響を受けないか、あるいは、全身が死んでしまうか、
どちらかです。
ところが、他人の一部を補填することで、全身の死は免れられる。そして、人格も何も影響を受けない、
という前提で移植医療はおこなわれている。
それなのに、実際には、レシピエントに、アイデンティティの混乱が起こる事例が、欧米の精神医学や
心理療法の事例で報告されている。そして、ドナーの遺族も、ドナーのアイデンティティの混乱を経験することがある。
それが、移植医療が始まったばかりの頃、ドナーの遺族とレシピエントとはお互いに身元が明かされて
自由に交際していたところ、お互いに恩義と義理の観念にがんじがらめにされて、「贈り物の独裁」
(『臓器交換社会』(レネイ・フォックス、ジュディス・スウェイジー)と呼ばれるような苦しみを味わった、
ということだと思います。
脳死=死? 投稿者:カオル 投稿日: 5月23日(水)00時37分26秒
てるてるさんご紹介の出口顯さんの「臓器は『商品』か」を読みかけてます。
「脳死=死」だから移植すればよい、という発想は「脳=自分」だと
脳が思い込んでいるのであって、身体のことを忘れているのだ……みたいことを
よく養老孟司さんが書かれていますが、脳が死んでも、臓器が移植されることに
よって生き続けるならば、それは現実に、その人(の一部)が生きている、と
いうことになるのだと思います。それをドナー遺族やレシピエントが
どう受け止めるかは、また別の問題だと思いますが…。>le pissenlitさん
「ニヒリズムからの出発」という本であれば、ナカニシヤ出版から出ています。
その中に、「『意味なんかない人生』の意味」という森岡先生の論文が載ってます。
臓器移植のメンタルヘルス
川野雅資編集
中央法規 2001年4月25日発行 220p 定価:\3,000(税別)
ISBN:4805820675
森岡正博さんの「脳死・臓器移植」専用掲示板過去ログハウス 2001年06月03日〜06月24日
「臓器移植のメンタルヘルス」 投稿者:てるてる 投稿日: 6月13日(水)18時55分49秒
「臓器移植のメンタルヘルス」(中央法規、2001年4月25日発行)という本が出ています。 執筆者は、精神科医、移植コーディネーター、看護婦等です。 脳死、心臓死、生体からの移植における、ドナー、ドナー家族、レシピエントのメンタルケアについて 書いてあります。医師、看護婦・士、臨床心理士、移植コーディネーター、ソーシャルワーカーの 指針になると書いてあります。
第一章「臓器移植とメンタルヘルス」より
>看護婦は、ドナーとレシピエントおよびその家族・親族が体験するこころの
>痛みと経過について理解することが必要である。残念ながら、わが国には、
>このような成書がいまだに出版されておらず、本書が唯一の本になる。
(p.7)
>メンタルヘルスに携わる専門職の育成が、移植医療の場では急務であることは間違いない。 身体的な管理だけではなく、心理的・精神的な管理が必要なことはよくわかる。しかしながら、 わが国の立ち後れは、目に余るものがある。
(p.7)
医療への患者の参加・自己決定の重要さにも触れており、USAでは、移植待機に入る患者への 決定前の情報提供を充実し、決定に主体的に参加できるようにしたことが、 手術後の精神症状の出現頻度が激減する要因になったと述べています。
小児の脳死を巡るメンタルヘルス 投稿者:てるてる 投稿日: 6月13日(水)20時16分05秒
「臓器移植のメンタルヘルス」の第10章「小児の脳死を巡るメンタルヘルス」では、
>移植先進国である欧米では、幼児期でも、移植が必要な子どもに絵本やぬいぐるみ
>などを使ってその年齢に応じた移植手術の説明が行われている。
(p.122)
ということです。
日本では、親子間の生体肝移植の件数がふえていますが、
>小児に対する精神的な援助、それを取り巻く社会的なサポート、受け入れ体制は
>ほとんど手つかずの状態である。
(p.122)
とのことです。
移植を受ける側への説明が、絵本やぬいぐるみでできるのなら、幼いこどもに、 臓器を提供することについても、説明ができそうな気もします。
RE:今更ながら 投稿者:てるてる 投稿日: 6月15日(金)07時52分31秒
>ちゃみさん
すごくわかりやすく整理して書いてくれて、とても、うれしいです。
現行の臓器移植法、町野案、日本移植者協議会案、それぞれの第6条やガイドラインを 読んでいると、わかりにくくて、この解釈でいいのか、と何度も、不安になるんです。
>脳死と死を巡ることが、後ろから後から定義されていく格好になっていますね。
そうなんですよ。現行法は、そこがおかしい。ややこしい。 実際に運用するにあたっては、こういう法律のほうが、現場が混乱しなくていいという人と、 反対に、混乱するという人と、両方いる。どっちの解釈かで、改正案の作り方も変わる。
町野案は、今のいわゆる臨床的な脳死の診断で死亡宣告をしてしまう。
日本移植者協議会案は、ガイドラインで、臓器移植以外の脳死の判定は、今までどおりでよいとしているので、 臨床的な脳死の診断の段階では死亡宣告をしないが、臓器提供の意思があるときは、法的脳死判定をして、 死亡宣告をする。現行法との違いは、法的脳死判定をするかどうかについて、本人と家族の許可を得なくても よいということ。 臓器提供の意思があるとわかったら、医師の判断で、法的脳死判定をする。 でもこの改正案はいまひとつよくわからない。家族からインフォームト・コンセントをとる実際の手続について、 詰めが甘いような気がする。
森岡・杉本案は、法的な脳死の定義は現行法のままで、15歳未満にも適用する。
てるてる案は、脳死を死としない。臓器移植のときだけ、脳死を死にするのは、 合理的だとは思うけど、そういうことを法律に表わすのは、とてもややこしい。
「臓器移植のメンタルヘルス」では、移植コーディネーターが、臓器提供者の家族は、 臨床的な脳死の診断の段階で、医師から婉曲的に死を告げられ、法的脳死判定が2回実施され、 二度、三度と死の宣告を受けて、苦痛に感じる、と書いてありました。 コーディネーターの立場からは、現行法は、看取りを苦しみの多いものにしているように見えるようですし、 実際、苦痛に感じる家族もいるのでしょう。 どうすればいいのかな、と思います。
>しかし、こうした一連の手続を家族側から見ると、まず最初は、主治医から「最善
>の治療を尽くしたが、臨床的脳死で、もう助かる見込みはない」と婉曲的な死の
>告知を受け、それでは本人の望みだからとカードを提示すれば、今度は移植コー
>ディネーターから臓器提供の説明を受けることとなる。
> この説明で臓器提供を承諾すると、次には脳死判定による法的脳死判定を受け、
>「患者の死亡」が宣告される。法的脳死判定は原則的には2度実施され、最終的に
>「法的な死」が告げられるが、このように、家族は、その現場のなかで2度、3度
>の「実質的な死亡宣告」を受けることとなる。これは家族には、かなりの苦痛に
>なると思われる。
(p.142)
筆者のコーディネーターは、日本特有の事情、すなわち、現行の臓器移植法の脳死の扱いが、 家族の苦痛を増すというように、書いています。 とはいうものの、USAでも、脳死の患者からの臓器提供にあたって、苦痛を感じる家族はいるし、 日本のコーディネーターは、USAのコーディネーターのような訓練を受けているのだろうか、 たとえば、家族が眠っていたら起こさないとか、食事とか睡眠とか基本的な生理的欲求まで目を配って、 ケアする訓練を受けているのか、とか、気になりますけど……
「脳死移植のあしもと〜哲学者の出番です〜」
倉持武著
松本歯科大学出版会 2001年11月10日発行 301p 定価:\2,000+税
ISBN:4944171099
森岡正博さんの「脳死・臓器移植」専用掲示板過去ログハウス 2001年11月01日〜11月28日
倉持武著「脳死移植のあしもと」 投稿者:てるてる 投稿日:11月17日(土)20時05分08秒
倉持武さんの著書「脳死移植のあしもと〜哲学者の出番です〜」が松本歯科大学出版会から
出版されています。目次
第一章 「脳死」について
第二章 1968年 札幌 ドナー
第三章 「脳死」と「脳の死」
第四章 「脳死移植の問題」
第五章 政策としての脳死--脳死の思想を考える--
第六章 脳死・移植・自己決定
第七章 脳死移植と自己決定権
第八章 臓器移植を考える
第九章 脳死移植の基本問題脳死判定について、厚生省基準に対する立花隆の批判のことがとりあげられていて、ちょっと
おもしろいです。
>立花氏は厚生省基準を、終始、死亡判定基準として使用されるものとして捉え批判しつづけて
きた。しかし当基準の作成者たちは、終始、報告本文に明記されている立場、つまり「サジ投げ
判定基準」としての立場から、立花氏の批判を論じ続けてきた。 (p.116)「サジ投げ判定基準」という言葉が、個人的に気に入ってしまいました。
第九章に、町野案・森岡案・てるてる案のことが出てきます。
それでもって……「はじめに」にチェックカードのことが出てきます。倉持さんは、「臓器交換社会」の共訳者です。
倉持さんのご本 投稿者:森岡正博 投稿日:11月17日(土)21時24分06秒
いただきました。m(_ _)m ありがとうございました。冒頭に、てるてる案のチェックカード(+α?)が・・・。
森岡・杉本案への批判もありますね。松本歯科大学出版会という地味目のところから出版されていますが、関心ある方は読むべきでしょう。
倉持さん 投稿者:森岡正博 投稿日:11月20日(火)09時15分42秒
ご著書「脳死移植のあしもと」松本歯科大学出版会を拝読しました。
そこで、書かれている以下の文章、>全脳死と判定されて頭表脳波が平坦になった患者でも、脳室内に入れた電極からは活発な
>活動波が得られる例があり、その何例かは回復して通院している(船橋市立医療センター、唐沢秀治脳神経外科部長、私信)。という箇所は、ほんとうでしょうか? ここで言う全脳死の判定は、移植法成立後に法的脳死判定を行なった例ではありませんよね。いわゆる臨床的な脳死の判定のことだと思われます。無呼吸テストは行なったのでしょうか? 竹内基準が厳密に適用された例からの回復例が存在するのなら、それ自体、大スクープだと思います。このことについて、倉持さん(見てるかな?)どう思われますか?
森岡先生のご質問 投稿者:倉持 武 投稿日:11月20日(火)10時39分19秒
書き方が悪かったようですみません。ご指摘の個所はp.250と思いますが、そこは古川哲雄氏は意識のもんだいについてこう考えていますよ、と紹介したところで、古川氏の論文「脳死者に意識はないのか?」(注5、p.273)からの引用個所です。さらにご指摘の文章の、古川氏が挙げている根拠が、唐沢氏との私信ですから、ここで古川氏の使っている「全脳死」がいかなる判定基準によるものであるのかは確認しておりません。ただ、唐沢氏の『脳死判定ハンドブック』(羊土社)には「いわゆる脳波=頭皮上脳波が一見平らに見えても頭蓋内脳波(・・・)に波形が見られた例がある」(p.209)とはありますが、「全脳死」と判定されたとか、回復したとは、ありませんね。この件については、無責任なようですが、古川氏か唐沢氏に尋ねてみるしかないようです。私自身の見解としての主張でしたら、確認した上で書きますが、紹介でしたので、申し訳ありませんが、この点は未確認です。私自身としては、厚生省基準で脳死と判定された者に意識がないといいきるためには、1)臓器摘出時に体動を生じさせるストレス、痛覚、意識の連続性、非連続性2)外的(刺激に応答する)意識覚醒に対する間脳網様態の役割3)脳損傷による意識消失と麻酔によるものとの同一性と差異性4)外的意識と自我意識の関連の解明が必要ではないか、と考えています。ですから、脳死の人にも意識はある、という立場です。倉持 武
倉持さん 投稿者:森岡正博 投稿日:11月20日(火)16時10分06秒
さっそくの書き込み、ありがとうございました。
いま見直してみましたら、たしかに、これは、古川さんからの引用ですね。失礼しました。引用部分が段下げされてなかったので、てっきり、地の文かと思ってしまいました。しかし、古川さんも、根拠を示さずに回復例があると書くのはかなりまずいのではと。これ、ほんとうだったら、たいへんなことですよ。しかし、脳深部の脳波が取れるのなら、法的脳死判定が終わった脳死の人できちんと測定してみたらいいと思います。それで、脳波が見つかれば、脳死概念は崩壊します。