新潮社のコミック誌 投稿者:おーつか 投稿日: 5月31日(木)19時56分43秒
大変お久しぶりです。
「コミック・バンチ」に北条司が連載している「Angel Heart」が、
脳死心臓移植を扱っているようです。
北条司は直近の作品「Family Compo」で、性のあり方の多様性を
見事に描いたので、注目しています。
個人とは 投稿者:ちゃま 投稿日: 5月31日(木)11時04分56秒
私が、私という個人として他者と区別され生き続けている、ということはどういうことか。肉体の独立性、連続性
記憶の独立性、連続性
感情、思考の独立性、連続性
意思の独立性、連続性結局のところ、肉体の独立性というものを堅守しないと、個人という概念は成り立たないように、
僕には思われます。
代理母 投稿者:モイナ 投稿日: 5月29日(火)21時14分43秒
>産まれたこどもが、成長してから、自分は脳死者
>から産まれたと知った場合、健常者から産まれたと知る場合よりも、ショックが
>大きいことが予想される。健常者から生まれた場合であっても、少年期には「私は本当はどこから来たのか?」という疑問を抱き、
実の両親に対し疎隔感を持ってしまい“アイデンティティの不安”に陥ってしまうことは、
珍しいことではありませんよね。もし、代理母から生まれたことを知ったら、深刻なアイデンティティの不安に陥ってしまうかもしれませんね。
ちょっと前のことですが(23日) 投稿者:りんご 投稿日: 5月28日(月)22時13分08秒
>カオルさん
>「ニヒリズムからの出発」という本であれば、ナカニシヤ出版から出ています。
>その中に、「『意味なんかない人生』の意味」という森岡先生の論文が載ってます。
みつけました(^^)。
倫理学フロンティア?、竹内整一・古東哲明編ですよね。
見た目では、森岡先生の論文載っているのか、わからない。
カオルさん、教えてくれてありがとうございます。
ナカニシヤ出版って、精神医学、心理系なのかと思ってたら、哲学、倫理、思想もなかなかいい感じ。
「そんな感じ」のニヒリズム。朝刊のアエラの広告に、「代理母」ベビー日本人で100人以上 という見出し。
なんか気になる。
追加 投稿者:てるてる 投稿日: 5月28日(月)18時13分55秒
今後、妊娠したら、脳死しても妊娠の継続を望むかどうか、事前に書類に記入しておくことを
病院で勧める必要があるかしら?!
脳死・移植・代理母 投稿者:てるてる 投稿日: 5月28日(月)18時10分38秒
>ちゃまさん
>ドナーの臓器を助ける医療として、臓器移植を論ずることは出来ないでしょうか。興味深いことをおっしゃいます。
過去ログの、2000.05.31-06.03に、「臓器が生き続けてほしいという親の願い」について、
議論しているところがあるのですが、最初、私は、そういう親の願いが理解できないと切り出し、
それに対して、yukikoさんが、理解できると、説明してくださっています。思うに、腎臓移植の場合、生体間移植では、ドナーもレシピエントも、移植前から
連続した意識のある人格として、生きています。
死体腎移植では、レシピエントは、移植前から連続した意識のある人格として、生きています。
しかし、ドナーは、移植前から連続した意識のある人格は、もう、いません。
このことは、思ったより、ドナーや、レシピエントにとって、アイデンティティの混乱を引き起こすようです。
先に紹介した出口顕の本や、「臓器交換社会」に出てきます。>モイナさん
>脳死になった女性が生前に「私の身体を代理母として使ってください」といって
>いたら、その脳死身体を使って良いってことになる。脳死者の子宮について、脳死者本人の妊娠を継続させる場合でも、それは人工子宮として利用するものだ、
といって怒る家族もいるようです。以前、「ER」で、やっていました。
いくつかの場合が考えられると思います。○脳死者を生者とした場合
1.生きているから、本人の妊娠を継続するべきである。
2.生きているから、本人の事前の同意があれば、代理母として子宮の利用をするべきである。
生者の自己決定権を尊重しなければならない。
3.脳死であろうとなかろうと、代理母は、生者の人権と尊厳を損なうものである。以上の組み合わせで、
1.脳死者本人の妊娠を継続し、代理母も許可するべきである。
2.脳死者本人の妊娠は継続するが、代理母は禁止する。○脳死者を死者とした場合
1.死んでいるから、本人の妊娠もただちに人工中絶させるべきである。
妊娠の継続は、死者の身体を人工子宮として利用し、死者の尊厳を損なう。
2.脳死者と胎児とは別人である。母親が脳死したからといって中絶するのは、胎児に対する殺人である。
だから、妊娠を継続しなければならない。
3.死んでいるから、本人の事前の同意があれば、代理母として子宮の利用をする
べきである。リビングウィルを尊重することが、死者の尊厳を守る行為である。以上の組み合わせで、
1.脳死者本人の妊娠は継続し、代理母も許可する。
2.本人の妊娠は本人の死の尊厳を損ねないから継続するが、代理母は死者の尊厳を損ねるから禁止する。
3.脳死者本人の妊娠は中絶し、代理母も禁止する。とりあえず、思いついたのは、これだけですが、他にも、あるかもしれません。
次のことも、考えられます。脳死者を代理母にすることは、脳死ではない健常者が代理母になることよりも、代理母に依頼する側にとって、
都合がよい。代理母が産んだ赤ちゃんに執着することがないからである。一方、産まれたこどもが、
成長してから、自分は脳死者から産まれたと知った場合、健常者から産まれたと知る場合よりも、ショックが
大きいことが予想される。
脳死者の子宮 投稿者:モイナ 投稿日: 5月28日(月)11時54分47秒
代理母出産をやってしまった医者がいたが、その彼は、「善意で代理母になったんだ、何処が悪い」
といっているが、その理屈で言えば
脳死になった女性が生前に「私の身体を代理母として使ってください」といっていたら、
その脳死身体を使って良いってことになる。この場合、身体全体を丸ごと提供しているが、これによって誰かの命が長らえることはないが、
新しい命は誕生する。
医療 投稿者:ちゃま 投稿日: 5月28日(月)03時16分14秒
臓器の摘出を望むドナーには、二つの心がある。
一つは、臓器を差し出して、レシピエントの命を助けたいと願う心。
もう一つは、臓器だけでも生き続けたいと願う心。臓器の移植を望むレシピエントにも、二つの心がある。
一つは、臓器を受け入れて、生き続けたいと願う心。
もう一つは、ドナーの臓器だけでも生かせてあげたいと願う心。ドナーの臓器を助ける医療として、臓器移植を論ずることは出来ないでしょうか。
個人としての人権は剥奪されてしまいますが、それでもあなたの一部を生き延びさせる医療を、
あなたは望みますか?と問いかける事はできないでしょうか。
「心臓移植に関する作業班」及び「肺移植に関する作業班」 投稿者:tity 投稿日: 5月28日(月)03時07分37秒
上記の合同作業班が5月31日、公開で検討されます。
詳しい情報は下記にて。
スギケンさん 投稿者:カエル 投稿日: 5月27日(日)22時03分49秒
レポ、読んでいただいて恐縮ですけろ〜。
さっそく訂正いたしました。
脳だけの人生 投稿者:ちゃま 投稿日: 5月25日(金)05時45分51秒
“人の精神は「脳」に宿り、精神が消滅したとき、すなわち「脳」が死んだ時が「人の死である」”
今、法律で「人の死」を定義する必要があるのであれば、そう定義することも可能でしょう。
ただ、ここで言う「脳」が、脳という器官を指すかどうかはこの際、問わないことにします。問題なのは、本当にみんながその定義を望んでいるか?、その定義でみんなが幸せになれるのか?
ではないかと思うのです。この定義によると、人の命を尊重することとは、なによりも個人の精神の永続を守ることであり、
そのために、とにかく「脳」を生かし続けること、となります。
本当にそれで良いのでしょうか。「生きている」とはどういうことか、を考えても答えはないように思われます。
でも、「生きたい」とはどうありたいと願うことか、を考えると答えがあるように思われます。
みなさん、ありがとうございます 投稿者:てるてる 投稿日: 5月24日(木)23時13分44秒
よろこんでいただけて、うれしいです。\(~o~)/
有り難いです 投稿者:le pissenlit 投稿日: 5月24日(木)11時47分57秒
てるてるさん
継続は真なり、情報資料、過去ログの整理さすがですね。
楽しみにしています。
充実してますね 投稿者:ちゅう子 投稿日: 5月24日(木)08時29分52秒
てるてるさん、久しぶりに過去ログハウスを覗いてsugoi^^/.
文字化け(私だけだと思う)もなくなったし、これからは時々おじゃましますね。
森岡さんの人徳ですね、うん。
てるてるさん 投稿者:森岡正博 投稿日: 5月24日(木)00時29分46秒
感謝感謝です。m(_ _)m
てるてるさん 投稿者:りんご 投稿日: 5月24日(木)00時27分19秒
過去ログハウス、充実ですね。
今日は、てるてるぼうずさんが生き生きしているように見える。
だって、こっちは、霧なんだもの。。。
過去ログハウス 投稿者:てるてる 投稿日: 5月24日(木)00時05分03秒
過去ログハウス、更新しました。
小見出しからもリンクをはりました。(まだ全部はできていません)
毎日新聞の臓器移植関連記事の過去ログにリンクをはりました。
資料集に、2001年の分を追加しました。
その他。
雑誌論文 投稿者:森岡正博 投稿日: 5月23日(水)23時29分47秒
雑誌論文は、ただいま入手できました。
みなさん、スギケンさん、ご心配おかけしてすみませんでした。
カオルさん 投稿者:le pissenlit 投稿日: 5月23日(水)22時58分08秒
ありがとうございます。「ニヒリズムからの出発」でしたね。
『「意味なんかない人生」の意味』なんてタイトルからおもしろいです。
このHPにあるのかなとも?、それとも出版社に?、探してみます。
5日小児科学会フォーラム以降 投稿者:スギケン 投稿日: 5月23日(水)22時14分40秒
(1)ケロケロレポートありがとう。いくつか当日の発言の訂正です。
東京での僕の初登場は1990年5月の東大5月祭の公開討論会でした。この時の学生代表の村田敬君は
現在小児科医になって、ストックホルム留学中です。その前に森岡先生との出会いが横浜でありました。
この二回があったことを思い出しました。
(2)森岡先生、23日記入のジャーナルの巻、ページなど教えて下さい。もしまだなら・・・
(3)今、フォーラムの報告集が出せないか? もう一度全会員17000人のアンケート送付ができないかなど
模索中です。
脳死=死? 投稿者:カオル 投稿日: 5月23日(水)00時37分26秒
てるてるさんご紹介の出口顯さんの「臓器は『商品』か」を読みかけてます。
「脳死=死」だから移植すればよい、という発想は「脳=自分」だと
脳が思い込んでいるのであって、身体のことを忘れているのだ……みたいことを
よく養老孟司さんが書かれていますが、脳が死んでも、臓器が移植されることに
よって生き続けるならば、それは現実に、その人(の一部)が生きている、と
いうことになるのだと思います。それをドナー遺族やレシピエントが
どう受け止めるかは、また別の問題だと思いますが…。>le pissenlitさん
「ニヒリズムからの出発」という本であれば、ナカニシヤ出版から出ています。
その中に、「『意味なんかない人生』の意味」という森岡先生の論文が載ってます。
脳死って本当に死ですか? 投稿者:宮本 琴美 投稿日: 5月22日(火)14時40分32秒
医学的な死と 本人の死は 本当に一致するのでしょうか?
お通夜とは体から魂が完全に離れるのを待つための風習ですし
キリスト教の1派でも 同様のことが行われています。
西洋医学は確かに 肉体についての理解を今日のレベルにまで深めてきましたが
ハードの研究に偏ったものであるように思います。
私が今 こうして 考え・感じ・話しているということは
単なる 脳のプログラミングの結果とは思えません。
以上のことは 確証のないことですが
脳の死をもって人の死とする という概念も
まだ 確証できるものではないと思うんです。
脳死のかたのそばにいて
”眠っているよう”とか ”刺激を与えると反応する”
というような手記も目にするたびにこのようなことを感じます。
脳の研究はまだまだこれからではないでしょうか?
今の日本の医療は 西洋・特にアメリカの決定に習っていれば問題ない
というような安易さを感じます。
たしかに 移植を待っている人々がいるのは 事実ですが
脳死移植は 必ず人の死を必要とします。
人類はまだ 死についても生についても 無知であると思います。
この命題に対する謙虚さを失ってはいけないと思います。
英語雑誌 投稿者:森岡正博 投稿日: 5月22日(火)01時01分52秒
どなたか、おちかくの医学部図書館(じゃないと、きっとないだろうな)で、
Journal of Neurology, Nuerosurgery, and Psychiatry
という雑誌をすぐにコピーできたりする方、おられますか?
この雑誌名でただしいはずです(文献には省略形で書かれてたんですが)。
もしおられたら、私までメールくださるとうれしかったりします。m(_ _)m
HP立ち上げ 投稿者:tity 投稿日: 5月22日(火)00時57分29秒
「脳死」・臓器移植を考える委員会のホームページに
さっそくリンクを張っていただきありがとうございます。
この間、こちらの掲示板では勉強させて頂いていましたが、
このたび、本格的にホームページを立ち上げることになり、
私が委員会の事務局をお引き受けすることになりました。
今月中は頭の悪〜い記事とその他の仕事で更新できませんが、
どうぞ、よろしくお願いいたします。
いろいろ 投稿者:le pissenlit 投稿日: 5月21日(月)23時10分04秒
てるてるさん、早速抄訳始めましたね。
ららさん,りんごさんと修士論文(?)応援団・・!カエルさん
同じこと聴いておりましたがさすがですね。沢山の方のおまとめ助かりました。どなたか先月頃森岡先生の「虚無からの出発」という論文のお話ししてらしたけれど、
どこに納められている論文ですか?
と、書いたものの 投稿者:てるてる 投稿日: 5月21日(月)18時44分36秒
やっぱり、私には、よく、わからない。なんといっても、脳死の人を生きていると思うのと、移植のために臓器を提供した後、
もう、ドナーを火葬にした後、ドナーの命が存在している、と思うのとは、やっぱり、違います。レシピエント自身が、私は、移植手術を受ける前の私と同じ人間だ、と思っているでしょう。
そのレシピエントに対して、ドナーの遺族が会って、あなたは、私の息子だ、とか、娘だ、と
言うわけにはいかないし、そこまで極端な話は聞かないし。Yahoo掲示板の医療・健康のところの、「移植患者の待合室」には、腎臓移植を受けた人が集まって、
親睦を深めています。皆さん、前向きで、明るくて、元気で、こういうのなら、移植医療は、いいなあ、
もっと、どんどん、できたらいいなあ、と思います。
RE:命(3) 投稿者:てるてる 投稿日: 5月21日(月)18時30分03秒
ここまで、私は、心臓だけでは生きていけないA
心臓なしでは生きていけないBがいて、
>AとBを一つにしてCという命を存続させた場合、CはAなのかBなのか。
>それとも両方なのか、どちらでもないのか。という問いに対して、CはBである、という前提で、答えを考えてみました。
Aの親が、象徴的に、Aが生きていると思うことがあるのを認める。
それから、Cが、自分がAなのかBなのか、その両方か、どちらでもないのか、
と悩んだときには、アイデンティティが混乱していると考える。
それは、移植医療の前提を、認めていることにもなります。でも、ちゃまさんは、はじめから、そのような前提なしで、前提そのものを疑っているのだと、思います。
私は、実際生活を送るうえでは、移植医療の前提を認めた方が便利で、そうしないと、
レシピエントもドナー家族も社会生活が混乱すると、思います。でも、移植医療の前提をそのまま認めると、大脳=人格を認めることになりそうですし、
ドナーの家族が、ドナーは象徴的に生きていると思うことさえ、否定してしまいそうです。
この場合、私は、大脳=人格、というのは、社会生活を送る人格、という意味で、とらえていいと思います。
でも、人には、社会生活を送るよりも、もっと深い次元があると思います。
そこでは、脳死の人は、心臓が止まるまで看取っている人にとっても、臓器を提供して
亡くなった後に遺された家族にとっても、象徴的に、生きているのだろうと思います。私は、法律上は、脳死の人は、死んでいないことにするという立場をとります。
でも、それが、実在的か、象徴的か、ということは、問題ではないように思います。
どっちでも、看取る人にとっては、まざまざと存在を感じているのだから、同じだと思います。
RE:命(2) 投稿者:てるてる 投稿日: 5月21日(月)18時09分06秒
ところが、レシピエントにとっては、もはや象徴的でさえない、もっと実在的に、自分は今までの自分とは
違うのではないか、自分は誰なのか、という混乱が、おこってくることがあるようで、それが、
ジャン=リュック=ナンシーの「侵入者」に述べられていることだと思います。出口顯の著書には、他に、自分の兄から腎臓を提供してもらった少年が、後から、兄がゲイであることを知り、
自分はゲイになりたくないから腎臓を摘出してくれ、といったという話や、人種差別が露骨な時代に、
腎臓移植を受けた黒人男性が、ドナーは白人の女性だと知って、臓器が自分を憎むと思ったり、
男性としての自分に欠陥ができたと感じたりする話が載っています。
こういうのも、アイデンティティの混乱だと言えます。
出口顯は、>臓器移植医療をうみだした現代医学が前提としている考えでは、精神は脳に宿るので
>あり、その大脳を例外とすれば、容器(身体)と中身(心)は切り離して考えてよい
>異質なもの同士なのである。そして境界となる身体が少々破損しても、人格の統合に
>は大きな影響はないものと考えられている。と述べています。
しかし、ただ破損するというのと、破損したところに他人の身体の一部が補填されるというのとは、
また別でしょう。ただ破損しただけならば、人格は何も影響を受けないか、あるいは、全身が死んでしまうか、
どちらかです。
ところが、他人の一部を補填することで、全身の死は免れられる。そして、人格も何も影響を受けない、
という前提で移植医療はおこなわれている。
それなのに、実際には、レシピエントに、アイデンティティの混乱が起こる事例が、欧米の精神医学や
心理療法の事例で報告されている。そして、ドナーの遺族も、ドナーのアイデンティティの混乱を経験することがある。
それが、移植医療が始まったばかりの頃、ドナーの遺族とレシピエントとはお互いに身元が明かされて
自由に交際していたところ、お互いに恩義と義理の観念にがんじがらめにされて、「贈り物の独裁」
(『臓器交換社会』(レネイ・フォックス、ジュディス・スウェイジー)と呼ばれるような苦しみを味わった、
ということだと思います。
RE:命 投稿者:てるてる 投稿日: 5月21日(月)18時06分12秒
>ここに心臓だけでは生きていけないAという命があります。
>一方には心臓なしでは生きていけないBという命があります。
>今、AとBを一つにしてCという命を存続させた場合、CはAなのかBなのか。それと
>も両方なのか、どちらでもないのか。
>
>AにもBにも親がいたとすれば、どちらの親も、自分の子供の命は生き続けていると思い
>たいわけでしょう。
>なぜAの親だけが、自分の子供は死んだと思いこまなければならないのでしょうか。この「どちらの親も、自分の子供の命は生き続けていると思いたい」ですが、これまでの臓器移植法の
議論では、よく、移植手術がおこなわれる前、この例だとAにあたる人が、臨床的に脳死と診断されたときに、
なぜ死んだことにせねばならぬのか、自分は、生きていると思う、という場合のことが、言われていますよね。
そしてそれは、法律で脳死を一律に死とするのかしないのか、というようなかたちで議論されてきたのですね。でも、ちゃまさんが取り上げているのは、移植後、のことですね。
移植後の場合、これまでに、象徴的に、Aの親が、Aは生きている、と思うことは、あったようです。たとえば、「ター君は生きていた」(河出書房新社、2001年)の著者の吉川隆三さん。
5歳の息子が脳死と診断された時、腎臓を提供した吉川さんは、レシピエントに対して、>どこの誰と名乗る必要はありません。お礼の言葉もいりません。ただ、その後の経過
>を知りたいと思っていました。……(中略)……一言、「おかげさまで元気になりま
>した」あるいは、「手術は無事成功し、元気に暮らしております」と、そうした連絡
>がほしかったのです。と書いています。そして、臓器提供後15年たって、臓器移植法制定後初めての、脳死の人からの移植手術の
際に、テレビ局の取材を受けた。その直後、テレビ局に、レシピエントから、元気でいるという電話があったと
聞いて、初めて、それまでの苦しかった気持ちが救われた、と述べています。あるいは、出口顯著「移植される心 臓器は『商品』か」では、6歳の息子を亡くした女性の話が
紹介されています。彼女は、レシピエントから感謝の手紙をもらった時に、「息子が生きている」と思い、
レシピエントがたまたまドナーの身元を知って訪ねてきてくれたときには、
「息子が会いに来てくれた」と感じた、といいます。こういう場合、レシピエントが別人であることはわかっているけれども、同時に、まざまざと、
ドナーになったこどもの存在が感じられる、ということではないでしょうか。
そういうのを、象徴的に、生きている、と、言っていいと思います。
(無題) 投稿者:カエル 投稿日: 5月21日(月)00時35分15秒
てるてるさん。あー、ごめんなさいけろ。おふたりとも(!)すてきですもんねえ〜〜。
なんというか、思慮深くて鋭くてお仕事もバリバリこなしてそうな。
りんごさん。ほめていただいてありがとけろん。レポレポしがいがあります!
ほうほう、森岡さんかなりの人気なのですね。
命 投稿者:ちゃま 投稿日: 5月20日(日)23時40分22秒
ここに心臓だけでは生きていけないAという命があります。
一方には心臓なしでは生きていけないBという命があります。
今、AとBを一つにしてCという命を存続させた場合、CはAなのかBなのか。それとも両方なのか、
どちらでもないのか。AにもBにも親がいたとすれば、どちらの親も、自分の子供の命は生き続けていると思いたいわけでしょう。
なぜAの親だけが、自分の子供は死んだと思いこまなければならないのでしょうか。