森岡正博さんの「脳死・臓器移植」専用掲示板過去ログハウス 2001年05月01日〜05月06日

過去ログハウス入り口


5日の感想 投稿者:yukiko  投稿日: 5月 6日(日)23時30分39秒

わたしは、小児科医のアンケートが面白かったです。回答者のうち、72.6%が小児からの脳死移植が
必要だと答えながら、厚生省研究班の主旨に賛成した人は34.0%にとどまっていましたね。
パネリストやコメンテータの小児科医からは、小さな子どもにも意見表明の能力はある、死の理解はできる、
という意見がたてつづけに出て、子どもって力があるんだな、と思いました。

柳田邦男さんが参加されている臓器移植の検証会議も、いまドナーの家族にアンケートを行っているそうです
が、その結果も早く知りたいです。ドナーのご家族のニーズが出るでしょうし。
ドナーの家族になるとは、一体どういうことなのでしょう。

ところで、柳田さんの、
「親や医療者が、子どもに死生観はわからない、と決めつけるのは、親や医療者の勝手ではないのか?」
という問い掛けですが、うーん、これって確かに「エゴ」の問題なのかもしれん、と思いました。
あるいは、自分が傷つかないための防衛、と言っても同じことでしょう。

「『死にわが子が直面する』という真実にこのわたしが直面できない」から、子どもには死と直面させたくない。
かわいそうだ、といって、話を終わらせたい。このわたしにおいても、昨日は会場で、森岡さんと対話する
質問者の後姿を見つめながら「『この15年の真実に直面する質問者』にわたしは直面したくない」
と回避を感じました。直面に耐える強さ、孤独に耐える強さを、わたしはもっともっと身につけたいよ。

ところで、柳田さんの「2.5人称」のかかわり、は、森岡さんの「自分を棚上げにしない」
というご主張に似ていますね。カウンセリングでは「治療者は自分自身を道具として使う」と
言われているそうです。これらと、臨床哲学(鷲田清一)の「聴く」ということが、わたしの頭のなかで
今グルグルしています。うーむ。これらを結びつけるのが、無痛文明論じゃないのかなあ。


シンポの感想(3) 投稿者:てるてる  投稿日: 5月 6日(日)11時53分02秒

やはり、レシピエントの治療にかかわった医師のお話で、欧米で行われているこどもの心臓移植の例では、
5年生存率は高い、生活の質という面でも、運動会で走れるようになる、しかし、天寿を全うできるのかと
問われれば、その天寿というのが70歳ぐらいだとすると、それはまだ無理である、ということでした。そして、
新生児ほど、移植の予後がよい、それというのも、免疫機能がまだ完成していないから、免疫抑制剤を
たくさん飲まなくてもいいから、というようなことでした。

それに関連して、杉本健郎さんのホームページの「トロント事情」の3月20日発信「トロント小児病院」の
話題では、新生児では、血液型が違う型であっても、移植ができる、という話が載っています。↓

http://web.kamogawa.ne.jp/~sugimoto/bbs/index.htm


朝日新聞 投稿者:てるてる  投稿日: 5月 6日(日)11時22分47秒

きのうのシンポジウムの記事が載っています。↓

http://www.asahi.com/national/update/0505/024.html


shewmonの研究 投稿者:森岡正博  投稿日: 5月 6日(日)09時31分03秒

おっしゃることは分かります。Shewmonの研究は、メタアナリシスです。メタアナリシスは、ジ
ャーナル制度を前提としています。つまり一流ジャーナルのピアレビューというものを信頼し
た上での調査であるわけです。このこと自体は、メタアナリシス妥当性批判としてやってみる
のはとても学問的におもしろいと思います。

ただし、Shemonの調査によってはっきりわかったことは、「脳機能不全状態」において、循環
動態長期安定例が多数存在するという事実であり、これが、従来の「定説」を覆すことであ
り、かつその機序が医学的に未解明であるということ(これは昨日の後、小児科専門家にも確
認しました)ということです。これは、やはり、脳死問題において、相当重要なことだと私は
思っており、その意味でShemonの研究は画期的だと私は判断しています。

ちなみにShemonは今夏来日するようですよ。直接、聴いてみる機会もありそうですね。


シンポの感想ではありませんが 投稿者:tity  投稿日: 5月 6日(日)04時14分52秒

明日、というか今日の取材のためのレジュメをちくちく書いている最中です。
朝、起きられますかね?

さて、今回のシンポジウムは私もかなり学ぶことがありました。
簡単にはまとまりそうにないので一つだけ気になっていることを指摘しておきます。

今回のシンポでも、D.A.Shewmonの論文に言及されていましたが、
唐沢先生にせよ、森岡先生にせよ、若干の誤読があるのではないかと思います。
そもそもこの論文は、メタアナリシス(メタ分析)を使ったもので、
少なくとも、先生がご指摘のように22,000の論文を「精査」したというわけではありません。
また、実際に検討した症例も、175ではなく、56例のはずです。
なぜ、このような違いが出たのかは、メタアナリシスのやり方を調べれば想像はつきます。

メタアナリシスは、疫学の分野ではかなりの成果をあげていますが、
その他の分野で有効な例は多くは見られません。
残念ながら、シューモンの論文も、その主張するところは
Discussionで述べられているとおり、
「有能な?医師がした脳死診断に問題がある」
というだけなのではないかと考えているのですが、いかがでしょうか。

もちろん、私ももう一度読み直して見ますが、確認していただければと思います。


シンポの感想(2) 投稿者:てるてる  投稿日: 5月 6日(日)00時49分25秒

>全体を通しての印象に残ったことは、レシピエントの治療にかかわった医師の
>発言で、(臓器提供を待つ)子供の親が自分の子供が脳死になったとき、死とは
>思えない ということでした。

私も、それがとても印象に残りました。

その医師は、30年、亡くなるこどもをみてきた、こども本人も家族も医者も無念だった、と話されました。
そして、移植待機のこどもの母親は、脳死・臓器移植について、非常に、とまどいや混乱がある、
とのことでした。
移植待機のこどもの母親たちに、
「自分の亡くなったら病理解剖をしてもいいですか」
「自分のこどもが脳死になったら心臓を提供してもいいですか」
と質問すると、「いい」と答えた人は半分だったそうです。

それに対して、森岡さんがコメントされていました。
レシピエントの親のエゴイズムは今まで公に語られてこなかった。
どこのホームページかは忘れたし、正確な表現も忘れたが、移植待機のこどもの親が、
「うちの子が脳死になっても死と思えないだろう」という意味のことを書いていた。
だからダメだとも言えない。
そういう親のエゴイズムも語り合っていって、どう折り合いをつけるかを決めなければならない。
それから、臓器をほしいというのは、こどもの声なのか親の声なのかも明らかにする必要がある。
というようなコメントだったと思います。

森岡さんは、脳死のこどもの親のエゴイズムも移植を待つこどもの親のエゴイズムも
表に出して語り合おう、という意味のことをおっしゃったんだと思いました。
私も、そうするのがいいと思うんですが。

以下は、私の感想です。
私も、もしも、自分にこどもがいて、そのこどもに移植が必要と言われたら、移植手術を受けさせたいだろうし、
そのこどもが脳死になったら、死とは思えない、と言うだろう、と思います。
もし、自分にふたりこどもがいて、一方が心臓移植が必要で、一方が脳死状態になって、
ふたりのこどもの臓器が適合するとわかったら、どうするだろうか。
放っておいたら二人とも死ぬから、ひとりだけでも助けようとするだろうか。
もし、隣のこどもが脳死になって臓器が適合するとわかったら、どう思うだろうか。

いろいろ思い浮かびます。
でも、移植しなくても治癒できる人は、現代医学の力を借りて、自分の中にエゴイズムがあっても
それを問題にせずに生き延びられるのに、たまたま、移植しないと助からないと言われた人だけが、
内心のエゴイズムを追求されるとしたら、不公平です。
だからといって、臓器提供を呼びかけて、臓器提供をしてくれた人は、博愛の心があったと言えば、
それでいいのだろうか。

きょうのシンポジウムで、杉本健郎さんが、
「ドナー家族になりたくてなったんじゃない」
とおっしゃったのも、印象に残りました。


シンポ終了 投稿者:森岡正博  投稿日: 5月 5日(土)23時57分34秒

あー、疲れた、疲れた。壇上は、けっこうライトがきつくて消耗しました。長かったしね。
意外な展開もあって、それなりに実りはあったのではと思いますが、いかがなもんでしょう。
しかし、これからどういうふうに進んでいけばいいのだろう。ヒントも少し見えたが、あいかわらず前途多難。
このページ見て来てた人どのくらいいたの?

シンポの感想 投稿者:りんご  投稿日: 5月 5日(土)21時13分40秒

会場は、少し空席があったでしょうか。森岡先生は、「こどもの声をきこうよ!」「こどもの‘いのち’は、誰の
ものか?」を柱に話されました。全体を通しての印象に残ったことは、レシピエントの治療にかかわった医師の
発言で、(臓器提供を待つ)子供の親が自分の子供が脳死になったとき、死とは思えない ということでした。

りんごさんだぁ 投稿者:ちゅう子  投稿日: 5月 5日(土)18時17分41秒

お、りんごさん、ご報告が楽しみ^^*

はじまってます 投稿者:りんご  投稿日: 5月 5日(土)14時48分10秒

森岡先生の発言がおわりました。

RE:RE: 明日のシンポ 投稿者:てるてる  投稿日: 5月 4日(金)19時56分24秒

おー、そうだったんですか。
アンケートの実施者の杉本健郎さんのホームページの「脳死・臓器移植」掲示板で、
簡単な中間報告が載っていて、それについて感想を書いたんですが。
できれば、あちらにも、感想を書いてあげてはいかがでしょうか。↓

http://web.kamogawa.ne.jp/~sugimoto/bbs/index.htm


RE: 明日のシンポ 投稿者:tity  投稿日: 5月 4日(金)18時55分28秒

私の周辺では結構知っている人は多いようですが。

しかし、事前に小児科学会員対象にインターネットで行われたアンケートは
あまりに偏った感じがしました。
何で知っているかというと、
やり方分からないからやってと会員の人から頼まれたのです。

小児脳死移植大前提は仕方ないとして、
例えば、何歳からなら意思を表明できるかという設問は
成年という選択項目がないのは当たり前のこと、
現状の15歳以上もなく、なぜか、13歳以上から。「その他」もなし。
ホームページ上で答える形式で、どれにもチェックしないと
記入もれを指摘され、送信不可。
仕方なく、13歳以上をチェックして、送信。
これで結果だけ見せられて、
「専門家の意見で13歳以上はOK」とかいう結論だったらどうしましょう?


明日のシンポ 投稿者:森岡正博  投稿日: 5月 4日(金)17時18分13秒

いちおう↓に詳細があります。柳田邦男、町野朔、私など出演。
この情報、ネット上にはほとんど流れてないんですね。
推進派にも反対派にも伝わってないのかな。

>tityさんご存じでしたよね。

http://member.nifty.ne.jp/lifestudies/ishokuho05.htm
http://www.lifestudies.org/jp/ishokuho05.htm


掲示板のカウンター 投稿者:りんご  投稿日: 5月 3日(木)08時27分42秒

88888 と8並び(*^_^*)。なんだか、うれし〜い。いいことありそ〜な予感。ありがとうございますm(__)m。
アップ論文は、よそのPCで見ようっと!

中山研一先生の論文 投稿者:森岡正博  投稿日: 5月 3日(木)03時41分46秒

中山先生の昨年の超重要論文「アメリカおよびドイツの脳死否定論」を、アップしました。ぜひご覧ください。

http://member.nifty.ne.jp/lifestudies/nakayama01.htm
http://www.lifestudies.org/jp/nakayama01.htm


異論 投稿者:てるてる  投稿日: 5月 2日(水)23時59分41秒

しかし、出口顯著「移植される心 臓器は『商品』か」(講談社現代新書)によると、
UKも、ドナー家族へのケアやサポートは、貧しいらしい。

それをいうなら、ドイツの移植コーディネーターも、どれぐらいドナー家族やレシピエントの
精神的な側面まできちんとケアしているのでしょうか。
もしかしたら、ドイツでも、ほんとは、お互いに連絡をとりあいたいと思っている
ドナー家族とレシピエントとが、潜在的にたくさんいるのかもしれない。


比較文化の文脈(4) 投稿者:てるてる  投稿日: 5月 2日(水)23時50分38秒

ドイツとUSAとでは、臓器提供を贈り物としてみるか、みないかという違いがあり、それが、
ドナーとレシピエントとの交流を盛んに求めるか求めないかの違いにも現われているようです。
しかし、どちらも、日本に比べて、ずっと、臓器移植が盛んです。

一方、USAと日本とは、共に、臓器提供を贈り物としてみるけれど、片方では臓器移植が盛んで、
もう片方では、ずっと少ないという違いがあります。
これは、日本では、USA以上に贈答社会の要素が濃いからなのか、それとも別の原因があるのか。
私は今、日本でも、心臓死後の腎臓・角膜移植の歴史は長かったのに、USAに比べて、
ドナー家族への移植後のケアやサポートが遅れたこと、そして、そのせいかもしれないが、
孤立していたドナー家族が自主的にドナー家族の会を作ることができたのが、
USAのNational Kidney Foundation Donor Family Council(NDFC)に比べて5年遅れたことなども、
関係があるのではないか、と思っています。


比較文化の文脈(3) 投稿者:てるてる  投稿日: 5月 2日(水)23時46分44秒

USAでは、一方通行の贈り物の「独裁」を注意深く避けながら、それをむしろ、
臓器移植推進のエネルギーに振り向けようと努力しているように見えます。
ドナーコーディネーターのPamela Albert は、"Journal of Transplant Coordination"で、
1998年、1999年の、ドナー家族とレシピエントとの交流の進め方について調査した
二つの論文で、モースの『贈与論』から同じ箇所を引用しています。

>Holtkamp and Nuckolls described the concept of aftercare for donor
>families in the context of Marcel Mauss's classic anthropological work,
>The Gift.
>Mauss identified a 3-part norm that structures a gift exchange:
>(1)the obligation give, (2)the obligation to receive, and
>(3)the obligation to reciprocate. The researchers noted that in organ
>and tissue donation, it is the third component of Mauss's triad that
>requires attention, because lack of appropriate reciprocation to donor
>families creates an imbalance in the donor family-recipient relationship.
>The bond that the gift creates between the donor family and recipient is
>strong.
(1998, September:8(3), Albert, P.,
" Direct contact between donor families and recipients: crisis or
consolation"
1999, December;9(4):219-24, Albert, PL.,
" Clinical decision making and ethics in communications between donor
families and recipients: how much should they know?"

そして、どちらの論文でも、conclusionで、ドナー家族とレシピエントとは、
生と死のサイクルのキーエレメントであると書いています。

>Donor families and recipients represent key elements in the circle of
>life and death. Once united, this circle establishes a powerful connection
>that has long-lasting benefits for most donor families and transplant
>recipients.


比較文化の文脈(2) 投稿者:てるてる  投稿日: 5月 2日(水)23時40分22秒

ところで、USAは、日本のような「贈答社会」とは呼ばれないようですが、一方通行の
贈り物としての臓器提供について、「臓器交換社会」(フォックス、スウェイジー)で、
マルセル・モースの『贈与論』(1954)を引用して述べられています。

>贈り物は三組の「対照的で相互的な」義務を特徴としてもっており、モースに
>よれば、すべての贈与交換はいかに自発的で自己表出的に見えようとも、それらの
>義務によって支配されている。これらの絡み合った義務とは、申し出て与えること・
>もらい受けること・適切な返礼の仕方を探し見つけることである。これらの内の
>どれか一つでも欠けることがあると、贈り主やもらい主、その他の関係者に影響を
>与えるような、大きな社会的歪みを生み出すことになるとモースは指摘した。
(中略)
>さらにモースが強調するのは、贈り物の価値や意味には物質的なものだけでなく、
>「心情的」なものや象徴的なものもあるということである。この意味で、贈り物と
>これにともなう義務は、「魂をもたぬ」ものではないとモースは言う。むしろ、
>「与えられ」、もらわれる「物の精神」は生きているのであり、多くはその人の
>化身となっている。それは「その人の一部」であり、そうであるがゆでに、贈り主
>(ドナー)ともらい主(レシピエント)の間に「ある種の精神的な絆」をつくりだす。
(p.74-75)

>だが、マルセル・モースなら予想できただろうが、もらい主が贈り主に負っていると
>信じているもの、つまり、与えてくれたものに対して「自分の」贈り主にお返しを
>しなければという義務感は、もらい主に重くのしかかってくる。この心理的および
>道徳的な重荷がとくにやっかいなのは、もらい主の受けとった贈り物が尋常では
>なく、これにふさわしいお返しは絶対に見出せない類のものだからである。物と
>しても、シンボルとしても、それには等価なものがない。その結果、贈り主と
>もらい主の双方の家族は、貸し借りの万力にがっちりと締めつけられ、お互いに
>足枷をかけ合って、身動きできなくなっている自分たちに気づくこともある。
>移植医療における贈与交換という次元のこの側面を、私たちは「贈り物の独裁」と
>呼んだのである。


比較文化の文脈(1) 投稿者:てるてる  投稿日: 5月 2日(水)23時32分46秒

ドイツのなかの、脳死・臓器移植に批判的または慎重な意見とその生命観、価値観については、
「臓器移植法改正ページ」からもリンクされている、美濃口坦さんのエッセイ
「『臓器とは人命救助の浮きぶくろ』―ドイツの脳死臓器移植について─」のほうがくわしいですね。
そのなかの「『命の贈り物』vs『人命救助』」という章で、贈り物という概念と、
ドナーとレシピエントとの交流について、次のように書いています。

>私が会った移植コーディネーターはドナーに個人的関心を抱くレシピエントも、
>逆にレシピエントに個人的関心をもつドナーの家族も二%か三%に過ぎないと
>異口同音に証言した。個々の例外はあっても、これも日本的意味での「命の贈り物」
>でないことをしめす。

このような背景があるので、フロリアン・コウルマス記者は、「なぜ日本では臓器移植が極めて稀なのか」
という記事で、その原因を、「贈物の一方通行」であると考えたのではないでしょうか。
コウルマス記者は、贈答社会とも呼ばれる日本の文化が臓器移植を受け容れにくいと考えているようです。

>贈物は、日本文化において中心的な役割を果たしている。贈物によって社会的
>つながりが生れ、具体化し、維持される。幾多の機械に、贈物が贈られる。
>それを受け取ることにより、お返しを期待するという効果が双方に生じる。
>贈物とお返し、心づくしと助力の持つ態様と価値は、慣習によって正確に
>決められている。
>マーケットの外での間断なき贈答が、社会のまとまりにとって大きな意味を持つ。
>その基本原則は、相互性だ。まったく同じ物をお返しするというのではない。
>しかし、忘れてならないのは、相互性、拘束性が物や象徴による贈物で認知される
>ことだ。人間は、個人として、家族としてあるいはグループとして他者に負債を
>負っているところがあるのだ。人生の大部分は、この負債を均等化する努力に
>使われる。臓器の提供を受けてしまうと、かかることは不可能になる。
>それで、一見無菌状態に見える手術室も、この点になると文化が現われてくる。
>提供者は匿名のままであり、また、いずれにせよ生命の贈与は、相互的な贈答
>システムに組み込めるものではない。臓器移植は、こうして、今日に至るまで、
>日本では西洋に比べて比較できないほど稀にしか行われていない。

http://home.munich.netsurf.de/Tan.Minoguchi/ishoku.htm
http://home.netsurf.de/tan.minoguchi/ishoku.htm


てるてるさん 投稿者:森岡正博  投稿日: 5月 2日(水)01時24分27秒

↓ここですね。
このレポート、がんばって書かれてます。が、比較文化の文脈に展開するのは、わかりやすい半面、
安易でもあります。なぜなら、ドイツ人が書いているのに、ドイツ内部でも脳死への反対意見が日本と
同じくらいあるということに触れてないし、それを分析しようともしていない。
もし私がこの記者に言うなら、まずドイツの生命観についてきちんと調べてほしいと言いたいです。

http://www.okada.de/jing/transplantation/transplantation.htm


ドイツの新聞に載った記事 投稿者:てるてる  投稿日: 5月 1日(火)21時53分46秒

ドイツ人の記者が、「なぜ日本では臓器移植が極めて稀なのか」という記事を書いています。
トーマス・マンの「すげかえられた首」を紹介しているのが、おもしろい。
小説はインドの話として書かれていますが、インドの民話には、鬼がやってきて、
二人の人間の手、足、など、全部すげかえてしまう、という話があると、
河合隼雄の「無意識の構造」(中公新書)で読んだことを連想しました。
>人間の死について、西洋では脳死がそれだということになっている。しかし、
>コウルマス記者は、「西洋では答えは一義的に出ているように見える。しかし、
>そのことは、その答えが正しいとか、あるいは正しい答えが存在するという
>ことを意味することでは、全くない。 」として、この西洋の常識に対して
>疑問を提起している。「体のどんな部分も、自己の一部分なのだ。」というのだ。
↓の岡田氏のホームページの、japan in quaterly の「ベルリン便り」に、記事があります。

http://www.okada.de/index.htm


ナンシーの『侵入者』の書評 投稿者:てるてる  投稿日: 5月 1日(火)08時22分09秒

出口顯著「移植される心 臓器は『商品』か」(講談社現代新書)で引用されている、
ジャン=リュック・ナンシー『侵入者 いま<生命>はどこに?』の書評があります。
↓(森岡サイトにも触れています)

http://www.t3.rim.or.jp/~h2ysmt/nancy.html
http://members.jcom.home.ne.jp/histsci/nancy.html


修正しました 投稿者:てるてる  投稿日: 5月 1日(火)07時11分47秒

tityさん、ありがとうございました。

他にも、ちょっと、表現をなおした箇所があります。

それから、著作権者に無断で翻訳しています。
それで、クレームがあれば削除するつもりです。
著作権についての英文の注意書きは、森岡さんのコンテンツからパクりました。
m(_ _)m


RE:抄訳について 投稿者:てるてる  投稿日: 5月 1日(火)06時11分54秒

さっそく、御指摘ありがとうございます。

>「(強制ではない)任意の指針」とか「自発的な臓器提供のためのガイドライン」等
そうですね!
そのほうがいいかもしれない。
各種機関がそれぞれの特性に応じて適用するべきと書いてあるし……
検討致します。


抄訳について 投稿者:tity  投稿日: 5月 1日(火)01時08分10秒

てるてる様の抄訳、早速拝見しました。
いささか気になる部分がありますので、こちらに記します。
私の英語力不足でしたら申し訳ありません。

てるてる様は "voluntary guidelines"を
「ヴォランティアで作られたガイドライン」と訳していらっしゃいますが、
voluntarilyではないので、
例えば、「(強制ではない)任意の指針」とか
「自発的な臓器提供のためのガイドライン」等と訳すべきではないでしょうか。


Communication Guidelines の抄訳 投稿者:てるてる  投稿日: 5月1日(火)00時37分16秒

National Communication Guidelines 抄訳、できました。↓
ほとんど全訳に近いです。
過去ログハウスの「てるてるcontents」からも行けます。
National Kidney Foundation Donor Family Council (NDFC)が中心となって作成した、
ドナー家族とレシピエントとの交流のための指針です。

http://www.interq.or.jp/earth/elephant/guidelines.html


National Communication Guidelines 抄訳
てるてる抄訳 2001年5月1日
National Kidney Foundation Donor Family Council (NDFC)が中心となって作成した、ドナー家族とレシピエントとの交流のための指針です。

美濃口坦「『臓器とは人命救助の浮きぶくろ』―ドイツの脳死臓器移植について─」
http://home.netsurf.de/tan.minoguchi/ishoku.htm

中山研一「アメリカおよびドイツの脳死否定論」
http://www.lifestudies.org/jp/nakayama01.htm

ナンシーの『侵入者』の書評
http://members.jcom.home.ne.jp/histsci/nancy.html

カエルのケロケロレポート2001年5月5日 小児科学会主催 公開フォーラム「小児の臓器移植はいかにあるべきか」