2008年11月23日
第21回 大田原マラソン(栃木県)
フルマラソン完走記
第二章
(8月まで)
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完走記 第一章 (5月まで) |
完走記 第二章 (8月まで) |
完走記 第三章 (マラソン練習開始) |
完走記 第四章 (大会前日・当日朝) |
完走記 第五章 (レース本番) |
完走記 最終章 (レースを終えて) |
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1.子供のお陰で(6月) |
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家族のありがたさ、また私みたいな人間を心配してくれる人がたくさんいる幸せを感じた。 ランニングに関しては、5月の件で精神的にめちゃくちゃになってしまった時期があったので、1からやり直さなければならなくなってしまった。 そんなとき、子供が走りたいと言ってくれた。 それならばと、近くの金ケ崎マラソンに二人で出ることにした。 私は10キロで、子供は3キロ。 そのお陰で、また走る意欲が湧いてきた。 子供に感謝感謝。 |
2.久々の10キロ完走(6月) |
金ケ崎マラソンを最初に子供が走った。 上級生に混じって頑張っていた。 凄く苦しそうで、見ていられなくなり 「歩いていいよ。」 叫んでしまった。 多分もう大会に出ないって言うだろうなと思った。 歩きながらもなんとかゴールに子供は着いた。 次は私だ。 子供に 「お父ちゃん40分ぐらいで帰ってくるから。かき氷でも食べてて。」 そう言ってスタート地点に着いた。 そしてスタート。 きつくて歩きたかったが、子供を待たせているので頑張った。 結果は40分00秒。 子供がニコニコしながらゴールで待っていた。 「お父さんすごーい。40分ぐらいで帰るって言ってて本当に40分で帰ってくるんだもん。40分00なんてすごーい。」 妙な感心の仕方をされてしまった(^o^) その後、子供が笑顔でまた大会に出たいと言った。 苦しいけど、ゴール後の爽やかさが子供に伝わったようだ。 私もまた走りたいと思った。 |
3.一関国際ハーフマラソンに向けて(6月7月) |
再度やる気が出てきたが、フルマラソンはまだ考えられない状態。 焦っても仕方がない。 フルマラソンは来年出れるように今年は地道に行こうと思った。 でも何か大会に出ないとモチベーションが上がらない。 そこで、8月に遠野じんぎすかんマラソンで10キロを走り、9月に一関国際ハーフマラソンでハーフを走ろうと、大会にエントリーした。 練習のやる気がかなり出てきた。 6月は走行距離が328キロも走った。25キロ走を1回走ったりもした。 7月は走行距離が363.3キロまで伸びた。25キロ走は4回やった。 だんだん走れるようになってきた。 |
4.暴露により体調悪化に(T_T)/~~~(8月) |
すっかり自分が化学物質過敏症とは思えない状態になっていたが、甘くなかった。 近所でリフォーム工事や塗装、農薬散布が行われた。 8月に入ってからは激しい頭痛、吐き気、脱力に苦しみ泣けてきた。 毎日酸素吸入とタチオン錠(解毒剤)の服用が必要になった。 化学物質過敏症って簡単には治らないのだと、今更ながら思い知った。 |
5.いろいろな方のご協力で体調悪化は最低限に(8月) |
昨年までだと、体調悪化の一途。夏場は何度も救急車で搬送されたりもしていた。 しかし、今年は工事や塗装する前に、私に連絡をくれる家が出てきた。 そして農薬の空中散布では、ヘリの会社からも連絡をもらった。 化学物質過敏症について理解してくれる人が増えてきた。 嬉しいことだ。 そのお陰で、暴露がひどくなりそうな時には事前に避難出来るときも出てきた。 避難できなければ、また寝たきり状態になったかもしれない。 8月は暴露で苦しんだが、苦しんだ日は以前(昨年まで)よりもずーっと減った。 ランニングは、だいぶ休んだ日も出たが、323.8キロ走れた。 まさか苦しんでいたのに、こんなに走れるなんて驚いた。 ご近所さんを中心に、協力してくれた皆さんに感謝感謝だ。 |
6.無謀な挑戦へ(8月) |
遠野じんぎすかんマラソンを走った。 結果は10キロ39分18秒。 6月の金ケ崎マラソンよりは伸びた。 走っていて余裕度が多く、無謀かもしれないが今年大田原でフルを走りたいと思った。 農薬散布や塗装等も落ち着いてきたので練習も出来そうだと思ったからだ。 コーチに相談した。 コーチからは、今は未知数だけど、まずやってみようということになった。 昔と比較しないようにとも言われ・・・ コーチに止められずほっとした。 無謀な挑戦になるかもしれないが、やれることはやってみる。 |
第三章に続く |