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          1879年 (明治12年) 2 

                               
Clara’s Diary-An American Girl in Meiji Japan
訳者
一又民子 ・ 高野フミ ・ 岩原明子 ・ 小林ひろみ

中央公論文庫より 

ご注意くださいませ
 アイの感想文・抜き書きについて、クララの本を読んで自分なりに感じた感想を手短に記しました。
自分で読んでからここを読みたい方は、しばらく続きを読むのはご遠慮くださいね。



1879年

 7月 5日 土曜  クララは昨晩疲れたらしく、独立記念日の行事のことをこの日に書いています。
グラント将軍の歓迎会と独立記念日をクララはいつものように克明に観察しています。
深夜12時まで宴は続き横浜へ帰る人々は2時の特別列車で帰ったそうです。
途中の道の夜中の様子を恐ろしい妄想も交えて書き、門番が甲高い叫びを上げると玄関に着物をヒラヒラさせ、明かりを持ってお辞儀をしている人影が見え、お寺の鐘がゴ〜ンと二時を打つと、我が家だった。
道中の記事は誰が教えたのか怪談話のようです。

 7月 6日 日曜  午後港のコレラ騒ぎで金沢に出かけられなくなったことを、勝家に報告に行き、経験談を聞いてきました。
そして江戸を襲った災害の多くと安政の大地震の経験も聞き出しました

江戸時代にはコロリ、虎列刺、横病、鉄砲、三日コロリなどと呼ばれた。

安政5年(1858年)、長崎に上陸したコレラは東に蔓延して、7月末には江戸に侵入し、8月にはいると江戸とその近郊での病勢は激甚をきわめたのでした。その流行期間は1ヶ月余りで、この「安政のコレラ」は、江戸での死者20万人余りとも伝えられ、江戸最大の災害といわれています。


安政2年(1855年)10月2日午後10時、江戸を中心とした一帯で地震が発生した。この大地震は直下型地震で、その規模はマグニチュード6.9、震度6と推定されており、震源地に関しては諸説あるが現在のところ荒川河口と考えられている(八丈島付近との説も有ります)。
そしてこの地震によって家屋の倒壊や津波、地滑り、火災などが発生し、史上空前の被害をもたらした。なお、この地震による死亡者数に関しては正確なことは不明であるが4000人であったと言われている。
(一説によると2万人〜20万と言われるが誇張過ぎますね)


 7月 8日 火曜  グラント将軍のための夜会、私たちとお逸が出かけたとクララは書き出していつものように詳しい観察眼を発揮しています。

 7月14日 月曜  クララはグラント将軍夫人を訪問した話をうきうきした文章で記しています、さあ日記さん出てきて頂戴。グラント夫人を訪問した話をしますから、こんなに弾んだ気持ちのクララは読んでいても楽しかったです。
ただいつもの辛口のクララも現れてアララという気持ちもあったデすよ。

 7月16日 水曜  新富座でグラント将軍主催の観劇会に、森氏夫妻と出かけています。
クララはもてもてだったようですね。

 8月 1日 赤坂氷川町 (金曜
何日か書いていなかった日記を書くクララもウイリィが一週間前に帰って来たことで忙しかったようですね。
また雇い人に暇を出し新しい料理人とおかみさん(ハル)が来たそうです。
ウイリィが銀座の二見館で写真を取り、そのとき銀板写真の作り方を教えてきたそうです。
この当時はもう湿版写真の時代だと思うので古い技術が忘れられていたのかしら。
そしてこの翌年の1880年にはアメリカのジョージ・イーストマン(1854〜1932)は、画期的な乾板フィルムを発明しました。

 8月 4日 月曜  またもや雇ったばかりの料理人の愚痴です、どうして何か料理を試験するか試食して決めないのかしら。

 8月 7日 木曜  田中が新しい料理人を探してくれていると書いているので程なく見つかるでしょう。

 8月13日 水曜  アンナと上野の精養軒に出かけクララは白日夢を経験しました。
それは、将軍の行列の有様を往時のままに見たと書いてあります、過去を夢見るなんてすてきなことですね。

 8月22日 金曜  この日料理人が変わりました。

 8月24日 日曜  この日の訪問者、乃木氏。

 8月25日 月曜  上野で行われた御前試合を見学。
またまた詳しい試合の模様を書いてあります。
第一、槍と剣、二組が行う。24人の剣士が竹の胴と鉄の面をつけていた。
第二、ヤブサメ(流鏑馬)、馬上の騎手の弓術。
ヤブサメについて詳しく書かれています。
第三、ホロビキ(母衣引き、馬術)
これも詳しく書かれています。
第四、「イヌ・オウ・モノ」
夜に入るまで続き堪能した様子が精一杯の文章で書かれています。

 8月28日 木曜  永田町に新しく完成した森氏の邸宅に招待されてグラント将軍夫妻に会いました。
1978年8月30日 土曜  今日は私の誕生日だが、母の気分がよくないので、いつものお祝いは延期した。
珍しく日記は短いですよ。

 9月 3日 木曜  遊びに行くのにドテバタしましたが、遊びに出かければ其処はクララですもの、楽しく遊んだ様子が描かれています。

 9月 9日 火曜  大山夫人(沢子)、西郷夫人(清子)の二人が来て勉強が済んでの雑談で、クララが工部大学校のD氏と婚約したと聞いたと言われた書いています。
さぞかしD氏の私に対する評価は落ちるであろうと書いて、なぜ私はお行儀よくしていなかったのだろう、そしてこうも書いています(笑)、ディクソン氏はペイトン氏を極度に嫌っている、(笑)せっかくD氏と書いてディクソン氏ではあんまりでしょう。

 9月10日 水曜  ウイリィは加賀屋敷(本郷富士町)の医科大学(東京大学医学部)に通いだしたようです。

 9月15日 月曜  大山夫人の進歩にクララは本当によい方だと褒めちぎっています。
お逸がクララの洋服を着て写真を撮りに出かけ、老婦人が出てきてなんと綺麗なイジンさんでしょうとささやき会っていた、オホホものですね。

10月 1日 水曜  お金の苦労を今日も書いています。

10月26日 日曜  工部大学校の教授にディクソン氏の弟さんが着任して紹介される。
兄はウィリアムで弟はジェームズです。

11月23日 日曜 この日のクララの日記は全文を載せたいと思います
今夜、ディクソン氏はいつもより早く、疲れた様子でいらっしゃった。客間で長い間母と話をしておられたが、私はお目にかかりたくなかったので、食堂のストーブのそばにずっと座っていた。今日、私ははからずも自分の心の底をのぞき、少しずつ気づかぬうちにそこに育ってしまっていたものを見てしまったのだ。苦しかった。だが今はすっかり切り取って捨ててしまった。時折、はるかな思い出として私の胸を刺すことはあっても、もう私を悩ますことはないだろう。
クララは大人に一歩ずつ近づいていってます。
クララの一家がアメリカに帰る日が近づいてきて、みんなの気持ちも落ち着かなく成り出していますね。

12月 5日 金曜  いつものように裁縫の会がありクララは集まった方から宮中言葉など普段使わない言葉などを教わりました。

12月11日 木曜 午後大勢の方が選別をもってお別れにこられたそうです。

12月12日 金曜  父親が横浜からベルジック号で発つので見送るため横浜まで見送りに出かける。
大晦日にはサンフランシスコに到着予定だそうです。
先に一人帰国する父を見送りクララ達は寂しかったでしょうね。

12月24日 水曜  この日のクララは大忙し、教会のツリーの飾りつけ夜は自宅でミサとくるくる忙しく働くクララは活発で陽気です。

12月25日 木曜  昼間は芝にクリスマス礼拝に出かけ、夜はお客を迎えてのお祭り騒ぎです。

12月27日 土曜  25日にお客が帰った後大風が吹き家がぎしぎしとゆれ寝付けなかったようですし、26日には夜中に火事騒ぎがあり、築地はほとんど全焼してしまいました。
知り合いの多くも焼け出されクララたちの心も痛んでいます。

12月28日 日曜  福沢氏の家族がクリスマスのデコレーションを見に訪れました。
しかしまたクララは怒りを覚えることを書いてしまいます。

12月31日 水曜  この日の日記は夜中の12時10分に書かれ一休禅師の「門松は冥土の旅の一里塚、めでたくもありめでたくもなし」と書いています。
そして神のお導きを願うクララです。


クララの明治日記6 最終回

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