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          1878年 (明治11年) 2 

                               
Clara’s Diary-An American Girl in Meiji Japan
訳者
一又民子 ・ 高野フミ ・ 岩原明子 ・ 小林ひろみ

中央公論文庫より 

ご注意くださいませ
 アイの感想文・抜き書きについて、クララの本を読んで自分なりに感じた感想を手短に記しました。
自分で読んでからここを読みたい方は、しばらく続きを読むのはご遠慮くださいね。


 8月13日 火曜  ウイリィが金沢に(啓明学校)教師として赴任することになったそうです、給与は破格の130ドルでも今彼の収入の中よりこの一家にはそのうちの一部しか送金されないのでは生活水準を落としたくないのでつらいのではないでしょうか。
梅太郎が来て氷川様の祭礼の見物にくるよう誘われ出かける。
いつものように観察は細かく日記に書かれて居ます。

 8月14日 水曜  横浜から船に乗るウイリィを見送りに出かける。

 8月23日 金曜  授業が済んでから昨日貸していただいたフリーザーを返しに、器にいっぱいのアイスクリームを持って勝家に行った。
さすが勝さんいろんな文明の道具を持っています。
冷凍機はまだ無理だから冷却器でしょうね。

 8月30日 金曜  ではクララの文章で、私の生涯の新たな区切りの日が来た。
今日が私の18才の誕生日なのだ。 お逸と私は誕生日がごく近いので、一緒にお誕生祝いをすることにした。
デ、イロイロな贈り物の事やお祝いにきた方のことなどイロイロ書いてあります。
梅太郎君はアイスクリームと一緒にパンを食べるのだと頑張ったということも書いています。

 8月31日 土曜  天皇陛下は昨日東北方面への旅に出られたと書き、後継者に有栖川宮をお決めになった、有栖川宮は15才で海軍省へ行っておられ小鹿さんが教えている
としるしています。

 9月21日 土曜  この一月あまりクララはイロイロな事柄を取り留めなく書き付けています、ヒサシブリにおふでさんから手紙が来てイイナヅケのことについてクララは野蛮だと記しています。

 9月24日 火曜  友達と連れ立って税関に体重を量ってもらいに出かけて、クララは105ポンドだと書いている、身長は不明ですが48.3キログラム18才としては軽いほうではないの?かしらね、芸能人なみ?。

 9月25日 水曜 少し前に富田氏が見つけた家を勝氏が買い取られるという話をしていったと書いています。
意味がよくわからないのでクララの文章のまま・それで勝氏の希望により、二千ドルの預金の証明書を富田氏に預けられた。 私たちのお金には手をつけられないが、利息は家賃として取られる。 もしも地代が上がらないで、勝氏が損をする場合は、大鳥氏と富田氏がその分を分担するということだ。家は徳川邸の向かい側にあり、勝家の近く、間に学校がひとつあるだけ、であって、その点が何よりだ。
結局利息分だけ家賃を払いなさいということだと思うんだけどね

 9月27日 金曜  津田氏が昨日見えて、伏見宮妃殿下がピアノを持っておられて、習いたいとおっしゃっているので、伺ってお教えするようにとの事だった。
柴田氏も私のために生徒を見つけてくださった。

10月8日 火曜  新しくこられたユーイング先生が今晩家に見えられるというので、クララは朝のうちにインブリー氏のお宅に預かっていただいているテーブルを取りに行ったと始まり午後アジア協会に出かけました。
クララは、ディクソン氏の同国人であり友人のユーイング氏が奇妙な蓄音機を御見せになったと記しています。
管の中に大声で話すと2〜3分後に同じ抑揚で同じ文章をその機会が繰り返す。

モウこの時代に蓄音機という日本語が有ったかは不明ですが、調べてみました。
a gramophone; ((米)) a phonograph.
蓄音機も電話機もこの年の以前に発明されていました。

  ベルとエジソンは生涯にわたってイロイロな発明を競い合っています。

エジソン式
1877年12月6日完成
今は円盤式になった蓄音機はベルリナーが作った
グラモフォン社で変遷を経て、現在は世界的な音楽
企業ビクターに発展しました。
これが初期に500台しか生産されなかったもの一台です。現在確認されているのは5台だそうです。
教授から1月3日夜中にメール(0時2分コマカ〜〜)、確認のためTelしたところ伴 五紀という方が同じような機種をお持ちだったということでした。
ただ製造番号から初期の500台かは不明です。
ベルの最初の電話機
1876年3月10日完成


グラハム・ベル  電話機 
1876年2月14日に特許を申請。この特許をさらに具体化した装置で会話をすることに成功したのは、同年3月10日のことでした。その第一声は「ワトソン君、こちらへ来てくれないか」というものでした。
電話を完成させたばかりのベルを訪ねた日本人が居ました。
米国に留学中の伊沢修二と金子堅太郎のふたりです。
「この機械を工夫したとき、わたしはハーバード大学で声音生理学の教授を担任していた。日本の伊沢はその当時私の門下生であったので、電話機ができるとただちに来て、日本語の通話を試みた。

トーマス・アルバ・エジソン
1877年30歳のとき、電話機完成、特許の一部は持っていたようですねそれでそれに抵触しないものを作るためにベルは苦労したようです、「ハロー」の挨拶を発明。
同年に蓄音機を発明。


10月22日 火曜  この日クララはアメリカで結婚した日本人二人の消息について書いています。
一人は巧木綱鑑、もう一人は佐藤百太郎氏、巧木家ではそのことに父親が同意せず勘当にされ、佐藤氏の奥様は肺結核で余命3ヶ月と書いています。
福知山の巧木家のこの方の情報はほかにありませんでした。

10月28日 月曜  水曜日以来の休暇が終わり、あのいやな女の子たちがまた勉強に来るようになった。 あの子達を教えるのは母にとって大変な苦労なのだ。
オイオイそれはないでしょう、好き嫌いで勉強と伝道をしていては何のために日本まで来たのか意味がないでしょうに。

11月2日 土曜  ミス・ゴードン=カミングズが来て写生に誘われる。
お堀の内側に入って写生するというのでクララは御者と二人で巡査に注意されないかとひやひやしました。
団子坂で菊の展示会を見て菊人形を熱心に観察しています。
その後上野に行き写生している周りで人が近づかないように番をしたそうです。
ここでもクララは羽田さんという方と知り合ったようです。
そしてなれなれしい滑稽なお年寄りに出会ったことも面白おかしく書いています。

11月11日 月曜  滝村氏が同行して日本音楽の学校をおとづれる。

11月17日 日曜  日曜学校に出るために銀座に出かける。
アンガス氏に昨日虎ノ門で警官と兵隊の衝突が有ったと聞かされる。

11月18日 月曜  昨日聞かされた衝突事件について新しい情報を書いています。
兵隊は抜刀を禁じられているので、六尺棒を自由に使える警官のほうが有利だと書いてあります。
(教授に前聞いた話では、警官は士族が多く、兵は農村の出身が多く何かというともめたようです)
午後富田夫人ほか知り合いのご婦人方と菊の展示会に出かけかえりに久保町の「売茶亭」で村田氏に会いすばらしい日本食の夕食をいただいたそうです。

  村田一郎氏は何度も出てきますが話の前後からこの方ではないでしょうか?
お父上が林氏ということと三田の製紙所というキーワードより。

薩摩士族林徳右衛門の三田製紙所

1874年.東京では林徳左衛門がアメリカ人ドイルとの共同出資で、東京三田小山町に工場を設け、三田製紙所として翌75年開業しました。


違って居たらごめん(~_~;)かいひん莊は中も綺麗だすよ。
前に夜の食事会を行ったとき昼間庭も拝見させていただきました。

かいひん荘鎌倉の建物は、大正13年に建てられた村田一郎邸を母体としている。
村田一郎氏は、安政4年(1857年)9月に鹿児島で生まれ、富士製紙の社長、 台湾繊維株式会社の取締役、吉林林業株式会社の代表取締役などを務めた人物で、 かいひん荘鎌倉は、当初彼の常住の住宅として建てられたものである。創建当時は現在の洋館部分の南側に広い和風建物を伴う、大規模なものであった。


11月30日 土曜  森氏が大山(巌)中将夫人の沢子さんと彼女の弟、吉井幸蔵氏を伴って来たそうです。
夫人が英語を習いたいというので教えることになるみたいです。

12月2日 月曜  お逸と大山夫人が来て勉強。
大山夫人はよい発音で綺麗な字を書くとほめています。
午後島原の芝居を見に行く、いつものように芝居の解説が丁寧な文章で描かれています、8時半まで忠臣蔵を堪能した様子が克明に書かれています。

12月7日 土曜  水曜日以来引っ越しで大変みたいね。
この前の引っ越しと違い、希望が見えているように、明るい文章です。
水曜日に滝村氏が見えて重いものは荷造りをしてくださった。
私が木曜日の午後氷川町に来てみるとお逸、おせき、およね、勝夫人、内田夫人といった皆さんがせっせとはたきをかけ、掃除をしては荷物を整理してくださっていた。
という風にお手伝いしてくださる方も多く楽を出来たようです。

12月 9日 月曜  大鳥氏が新しい家に昨日来訪され、滝村氏も見えた。
滝村氏は牛込の音楽協会(雅楽稽古所)の開会式に出席するようにとの岩田氏の招待状を持ってきてくださった。
午後に出かけて楽しんだようですが、空腹の演奏者がお客様の口の中へ消えてゆくご馳走を恨めしげに眺めながらそれを演奏した、ですってこれには笑ってしまいますね。

12月19日 木曜 金沢から電報が来てウイリィが26日ごろに帰るそうです。
やはり家族が帰ってくるのはうれしいものですよね。
ユーイング氏の蓄音機を見せる会を催したそうです、お逸に使用人をやめさせるときの文を書いてもらい、また使用人を一人やめさせたそうです。
会に集まった人への食事が人が増えたために料理人が水を入れて増やしてしまったので失敗してしまったと嘆いています。

12月23日 月曜  勝家の大掃除の様子が詳しく描かれています。
海舟と小鹿さんは掃除が嫌いで外出、女性十人で隅から隅まで、たたみもはずして掃除。
不思議な習慣、男の人を皆で胴上げしてきれいにした畳の上に落とすということを女中皆でする。男も抵抗するが総がかりで行う。

12月25日 水曜 メリークリスマス
この日はウイリィがまだ帰らないのでお祝いを延ばしています。
勝家の餅つきを見学、砂糖をつけたり大根おろしや海苔をつけたのを食べましたが、
クララは聖書にある膨らし粉を入れないパンはこれではないかと書いていますが、それってインドに残るナンというパンのことじゃないかしら。


ナンとは、インド・中近東で食べられている平たい楕円形またはわらじ形のパンのことです。小麦粉を自然種(イーストを使わず、小麦などに含まれる野生酵母菌を自然発酵させた種)で発酵させた生地を平らに伸ばし、タンドリーチキンを焼くタンドールという壷形の釜の内壁に生地を貼りつけるようにして焼いて作られます。いろいろな大きさのナンがあり、カレーなどをつけて食べます。

12月30日 月曜  横浜に出かけたアンナが偶然にも帰ってきたウイリィと出会い一緒に帰宅しました。
この日クリスマスのお祝いを行いイロイロと騒いだ様子が描かれています。
梅太郎が足袋をつるしそれにウイリィがお菓子などを詰めると大喜びだった、と記しています。

12月31日 火曜  クララはこの日の日記に、旧年よさようなら、親切なよい年であってありがとう、結んでいます。




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