1876年 (明治9年) 2 |
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Clara’s Diary-An American Girl in Meiji Japan 訳者 一又民子 ・ 高野フミ ・ 岩原明子 ・ 小林ひろみ 中央公論文庫より |
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ご注意くださいませ
アイの感想文・抜き書きについて、クララの本を読んで自分なりに感じた感想を手短に記しました。
自分で読んでからここを読みたい方は、しばらく続きを読むのはご遠慮くださいね。
1876年(明治9年) 続き 6月2日 金曜 ミカドが日本一巡の行幸に出かけるので、学校はお休み。 富田夫人のおじ様の御成街道にある診療所で行列を見るために出かけました。 10時到着おとおり予定は11時、天皇に皇后が馬車で通られ、後から随員の方々が全員洋服で通った様子が克明に描かれています。 知り合いも多く随伴していて、中島氏は(信行・神奈川県令・元老院議官)クララたちに気が付いた様子も書かれています。 くわしい描写に驚きました、アイなら絶対にメモを取らなければ無理ですよ、3000名近い行列は30分ほどで通り過ぎたそうです。 ハヤッ よく細かく観察して日記に書く訓練もできていると感心させられます。 6月20日 火曜 この日上野まで出かけ、精養軒の支店でアイスクリームを買おうとしたがないので、ベランダでお茶とケーキをとったそうです。 精養軒では日曜日しかアイスクリームを販売しないというので、アメリカでは日曜は外出しないというと店の人がナルホドと答えたそうです。 敬虔なクリスチャンらしいわ、すべてが自分たちと同じ生活をしてほしいということを望む伝道者ネ。 4日 ( 独立記念日 ) ( Independence Day "the 4th of July" ) 7月 4日 火曜 今日は日付などいらない、「4日」と書くだけで十分である 愛国者クララならではの、書き入れですね。 アメリカ人たちの独立100周年祝賀式を上野で行った様子が記されています。 白いキッドの手袋に青い絹の服で出かけたクララはさぞ引き立ったことでしょう。 日本で最高のアメリカ人たちが集うと書くクララは、自分たちもその一員だという誇りにあふれていますね。 星条旗よ永遠なれをみなで歌い10時まで宴会が続いたそうです、帰りも浮かれてコロンビアよ幸ある国と讃えています。 〔District of Columbia〕アメリカ合衆国の連邦政府直轄地・首都ワシントンと同域・略称 D.C. 「われわれは,自明の真理として,すべての人は平等に造られ,造物主によって,一定の奪いがたい天賦の権利を付与され,そのなかに生命,自由及び幸福の追求が含まれると信ずる。また,これらの権利を確保するために人類の間に政府が組織されたこと,そしてその正当な権力は,統治される者の同意に由来すると信ずる。」 1776年7月4日独立宣言 1783年9月3日パリ条約により実質的に独立が見とめられました。 星条旗よ永遠なれは国歌ではありませんよ。 アメリカ国歌が正式に認められたのは1931年です。 原曲はイギリスで作られたものです。 アメリカ国歌 "Star-Spangled Banner" 「星条旗(星のきらめく旗)」 作詞:フランシス・スコット・キー(Francis
Scott Key), 1814年 Oh, say can you see by the dawn's early
light Fort McHernyが砲撃にさらされるのを目撃、そして翌朝アメリカの旗が依然としてはためいているのを見て深い感銘をうけたのです。 その朝に書いた詩は[Defense of Fort M'Henry]という題で発表され他のですが、あとで[The Star-Spangled Banner]と改題されました。 この詩はもともとあった作曲者不祥の[To Anacreon in Heaven]という曲の旋律に載せて歌われ、広く流布して行きました。 正式に国歌となったのは1931年のことですが、それ以前から陸軍と海軍では国歌扱いで歌われていました。 7月10日 月曜 この日に土曜日8日のことを書き入れています、日曜は日記も休むようですね、敬虔なるクリスチャンて其処まで厳格だったの?。 コクラン家のスージーに招待されていたので、アディと出かける、スージーはあまり好きではないがとてもいい友達?・?だそうです。 5時にエマ・ヴァーベック(フルベッキ)の家を訪ねる、ピアノが2台とアラビア馬に興味を示す。 夕食でフォークがなくアディには理解できず(幼いですもの)無邪気にフォークは使わないのと尋ねたそうです。 ヴァーベック家はオランダ系で少しは食卓のマナーも違うと思いますね。 ウィリィが来て九段で花火を見るために人力車で出かけるが、アディは行きたがらず帰りによってもモウ寝ていたので一晩とめていただくが母はいやな顔をしたと書いています。 11時半に帰るまで楽しんだ様子を弾んだ文章で書いています。 7月15日 土曜 隅田川の川開き。 帰りに群集の精神的希望のない状態について母親と話し合うクララに、クリスチャンとしての親子の会話が伺えます。 8月19日 土曜 新居「宝石莊」におさまる。 狭いがきれいだと評価しています。 8月24日 木曜 お逸来たる。 二人でアイスクリームを作る、クララはお逸が気に入ってアメリカに帰るときも一緒に行こうなどと考えています。 日本人とアメリカ人の男女の付き合いについてのうがった考察に肯くものがありました。 8月26日 土曜 昨日来た母からの誘いの手紙によって朝7時に、江ノ島に向けて出発。 神奈川まで馬車、其処から人力車で向かう。 12時に端道茶屋で一休み(どこなの其処は)12時ころ迎えに出てきたアンナと富田夫人に出会い、まもなく江ノ島に到着(今でも銀座から江ノ島までは2時間近くはかかるので(車は1号線で走ったとして信号が多いので・電車でも2時間で着くかな)、6時間ほどでつくなんて早い、早い。)今と変わりりがない参道の様子、(少しは違うでしょ・。・少しじゃないでしょなんてのはいいでしょ)と弁天様を見た様子が書いてあります。 橘屋にお泊まり(春菜君に聞いてみたが今その旅館に心当たりがないそうですが、今の郵便局あたりかなということでした)江ノ島の島内で石段の中ほど左側、従業員たちについて模範的と褒めちぎっています。
日付不詳 28日に弁天岩屋に行く、お土産を山ほど買い集める。 この当時から植物がいろいろと多く育っていた様子が書いてあります。 29日に鎌倉に出かける、まづ長谷観音にもうでてなぜ薄暗いところに仏像を飾るのか疑問に思って聞いたが答えが返ってこなかったみたいね、お坊さんたちは呆れ顔してたと書いてあります。 其処から八幡様にもうでて、ちゃんと16代天皇(応神天皇)が祭られてると教えられてきました。 宝物殿で家康の兜を見せられキット銅頭の人間だったのねと感想(誰か銅頭の意味教えてぇ)。 家康のラッパ(そんなのあったっけ)を吹いてみたそうで、10年前なら打ち首ものでしょ。 ちゃんと国宝に指定されている宝物も拝見してることが書いてありましたよ。 ウィーン博覧会に出した太刀や古い墨つぼなどなど、いろいろと感想もね。 |
新編相模風土記稿』には「二振は衛府太刀」とあり、「頼朝の帯せし物と云ふ」 二振りとも同じこしらえです。 沃懸地杏葉螺鈿太刀 国宝の太刀これがウィーンに行ったものかな。 |
県指定の宝物 墨つぼ |
おやおや見たことの半分おも思い出さないと書いているが、メモを取らずに書いているとしたらすごい記憶力です。 大仏に廻り、大仏の親指の上によじ登ったがそれを見たサムライがひどく不快がったと書き入れています、富田夫人もいい顔をしていなかったとも書いています。 そりゃソウダわさ、今でもそんなことする人おりゃせんがね、いくら外人でもそりゃいけませんですわ、ねェ。 江ノ島に戻り翌朝(30日)東京に戻る、誕生日の夕方には帰宅という小旅行が終わりました。 |
クララの明治日記 2 1876年 (明治9年) 3へ続く |
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