1876年 (明治9年) 3
                         

    
Clara’s Diary-An American Girl in Meiji Japan
訳者
一又民子 ・ 高野フミ ・ 岩原明子 ・ 小林ひろみ

中央公論文庫より 

ご注意くださいませ
 アイの感想文・抜き書きについて、クララの本を読んで自分なりに感じた感想を手短に記しました。
自分で読んでからここを読みたい方は、しばらく続きを読むのはご遠慮くださいね。


 9月21日 木曜  しばらく日記が途絶えたが、授業も始まり落ち着いた日常が戻ってきたみたいですね。
先週の土曜・日曜と台風が来て築地付近は浸水で大変のようです、このときビンガム夫人の家は客間・寝室・温室が浸水しました。
日曜に矢田部氏が訪問、無神論者と書いていますがクララは楽しく付き合ったみたいで安息日になんていう行為なのかと反省しいています、しかし相当に英語を話す彼に対して興味を持ったのは確かです。
このころからクララは異性に対しての興味を持ち始めてきだしましたね、う〜〜ん思春期かぁ。

 9月25日 月曜  いいお天気が続きこの日お逸が来て一緒に築地まで出かける。
ビンガム夫人がとてもよくしてくださったと感謝、夫人がよくしてくださるのは私を好いてくださっているそして、お嬢様がアメリカにいて寂しいからだろうと感想を書き入れています。
お逸が参加して家で祈祷会をしたが、昨日自分がしたことで母が不快に思っていて気まずかったと書いてあるがこの前後の話し少し混乱してるようです。
21日にところにある矢田部氏の訪問が24日の日曜なのかしら
6時にウィリイと加賀屋敷まで出かけ、マッカーティ先生夫妻を訪ねる。
途中で小野氏のいる茶屋によると英語を話す青年が出てきて引っ越し先の家に案内される。
ウィリイが小野さんの奥様は居られますかと聞くと、エエここは奥様のお宅ですと返事があり、いつの間にか小野氏が結婚していたことがわかりました。
マッカーティ先生のお宅でしばらく楽しい話を聞いて、その後隣のミス・ワシントンを訪ねると、サイル氏がニンポーから来た宣教師と間違えたそうです。
ミスワシントンが出てきて間違いに気づいたようですが、この方の情報としてジョージワシントンの子孫だそうです。
この感想文を書きながら今2回目の読み返しなのですが、サイル夫人の前のご主人がジョージワシントンの子孫だと3月11日の書き入れにあります。
ミス・ワシントンは21才できれいで素敵な方とほめるときは徹底的にほめるクララです、見た目もなさることも17才位に見えるが皇后様の学校(女子師範学校)で教えていることなどいろいろと書き入れています。

 9月26日 火曜  小野氏が見えて結婚の報告言い訳にお留守中だったのでというが、富田夫人は怒っていた(同郷人なのです・アイ)そうです。

 9月27日 水曜  富田夫人が引っ越しした、ご主人が帰国のためこれから寂しくなると書き入れてあります。
新居は三田だがもう少し近くなら良いのにとも書いてあります。

 9月28日 木曜 このあたり短いながら丹念に日記が続いています。
この日引田孝子さんが見えるのでいろいろ仕度、パイを焼くが母にもっと几帳面になりなさいといわれ少しふて腐っていましたが、お逸が来て機嫌がよくなったみたいです、それと郵便やがたくさんの郵便物を配達、もっとあるかとお盆を差し出して待っていたが、モウナイ、タクサン、首を振りながら出て行った。
アンナも獲物を見て機嫌が直ります、手紙に新聞、いろいろな品物(ドレス・クスリ・ブリキ缶入りチョコレートクリーム)などなど。
お逸と赤ちゃん、小さな坊ちゃんを連れたお姉さまは一日中いらっしやったそうです。
ここでもお逸が大好きだという書き込みとお父様が許せば泊まりがけで遊びに来ることになったそうです。

10月 1日 日曜  この日も矢田部氏が従姉妹の皇后様の女学校の生徒とともに来宅。
この間のようなことのないように教会に誘う。
アララ日曜の日記を書いてる、前に日曜は日記もお休みかと書いたのになんてこった。

10月 5日 木曜  今日は母も機嫌がよいので、クララは富田夫人と二人で横浜に出かける。
ヘップバン先生は東京へ来て診察をしてはくれず、処方箋をくれただけだったとクララは心を痛めています。
帰宅すると母は来客が多くその相手をして疲れてないていたと書いてあります。

10月21日 土曜 この何週かは矢田部氏のことで揉め事が多し、彼はクララに気があるのか足しげく夜分にもたずねてくるのでウィリイが機嫌を損ねるがアンナはそういう態度はよくないというのでウィリイが誤りに行くことになる。
行き違いもあったが水曜日に和解。
木曜日に勝家のお嬢さんが泊まりに来たと書いてありますがお逸以外にも誰か一緒に来たのかな。
お逸が鞍のない馬に乗ったが暴走してみんなを驚かせたようです、無事でよかったぁ。
老馬だったそうなのですぐ息切れがしたんでしょうかね。
夕方に○○さんから手紙が来た、情熱的な言葉で家に来たいといい、クララの名前の前にある形容詞を最上級で使ってある、でもたわごとだろうだって。
オオーそれってラブレターじゃん(^_-)-☆
この日何日分もまとめて書いていて長いです、デ後は本を読む人のために省略ヨン。

10月22日 日曜  また日曜に日記の書き込み。
みんなの健康と天気のよいことにうれしそうです。
午後アディとともに勝家に聖書の授業に行く、1時間ほど授業生徒はお逸・おこまつ・梅太郎・七郎・滝村氏の弟の小松、梅太郎が聡明でとほめています。
そうそうおこまつについてですがこの人は滝村氏の娘だと思います。
この日クララは日本の女性について、地位の低さと希望のなさについて考察。
自分たちに比べて虐げられていると感じ旅行記などの記事と違う意見だがと言いながら、神の元に彼女たちへ救いの手を差し出したいと切望しています。

10月23日 月曜 令嬢たち(名前の記入が珍しくないですね)とお逸が来た。
クララは自分の文章を人が褒めてくれるがうぬぼれてはいけないと自戒します。
でもとてもいい文章だと思いますアイ。

10月29日 日曜  この日アンナに変わって聖書の授業を行う、佐々木氏と新田氏に使徒行伝の18章について2時間話をしました。
富田氏が5時においでになり、私たちのギデオンと褒めています。

11月3日 金曜  天皇(明治帝)誕生日いろいろの種類の旗が飾られてきれい、日本の旗は手製のものも含め大小、上等粗末の差なく家々に飾られています。
午前中に勝家を訪問、日本の服を着せられる帯を京都風にお逸に結んでもらう。
食事に鋼のような独特の青い色をした貝が出てゴムのようでかむことができず目を白黒させたようです、きっとあわびでも出たんでしょうね。
ウィリイが迎えに来て夕食後に帰宅。
ご機嫌らしく長文の日記でした。

11月21日 火曜  8日以来の久しぶりの日記。
佐々木氏が日本語を教えクララが英語を教えることになる。

11月22日 水曜  横浜にお逸と出かける。
新橋で乗り遅れたので品川で乗ることにして駅に向かう。
横浜でお逸が注目を集める、めいめい手袋を買い、クララはらくだの毛のポロネーズを買い入れる。

11月23日 木曜  新嘗祭、日本の感謝祭学校も役所も休み、天気がよくビンガム夫人を訪問。
戻って佐々木氏に授業、日本語についてこの次までの宿題を残して佐々木氏は帰る。
マッカーティ夫人とユウメイも来宅。

ユウメイ
・King Yamei・金 韵梅 後にアメリカで医師となり母国で医者・社会活動家として活躍。
1885  中国女子留学第一人金韵梅アメリカ・ニューヨーク女子医学校卒業。
中国の文字だったので日本字に直すのが、何が書いてあるかよくわからずおたおたしました、二ユーヨークとか卒業という字が現代中国語では日本と違うので。
最初に医学校を出た中国人ということでした。

11月25日 土曜 
 横浜行きが中止、ドーナツつくりを強要される、少しアンナにむかっ腹みたいね。
マッカーティ夫人を訪問ユウメイに少し失礼なことを言ったがすぐ言い直しをして和解したようね、独立心に富んだユウメイはクララのお気に入りの一人になったようです。

11月30日 木曜 感謝祭  昨夜大火事があり(京橋から築地まで)この日見舞い客が多く来宅。
罹災者は涙に暮れているものもなく助け合っていたそうです。
ウィリアムズ主教の礼拝堂と家が全焼、ディビットソン家も全焼。
驚いたことに入舟町という店はすでに職人たちが新しい建築物の枠組みを建てていたそうです。
オーストリア公使館も全焼4本の煙突のみが残っていました。

12月 9日 土曜  最初ここはノートには書いたけど削除していたのですが、やはりよいところも悪いところも書かなければ本当のクララが見えてこないと考え載せることにいたします。 
 母と富田夫人は横浜へ行ったと書き始めています。
夫人が上海では洋服をお召しになるつもりなのでご主人がすきなものを買ってよろしいとおっしゃったのだと続いています。
そして高くてもどんどんかってまるで母が家庭教師か何かで、たまたま趣味がよかったとでも言うようにひどい態度をとったという。
夫人が困っていらっしゃっているときに食費もいただかず親切にしてあげ、私たちだって困窮していながら、ご主人の富田氏のためにうちに置いて差し上げたのに、どうしてそんな失礼な振る舞いをなさったのだろう。
母には1ヤード6セントのキャラコのドレス(富田氏がアメリカから持ってきた唯一のお土産)を下さっただけである。
一緒に買い物に行ってと頼み、自分は100ドルの絹のドレス、ベルベットのマント、アトラスカン製品や、気に入った優雅なものは何でもお買いになるなんてけちなこと。
こんなことをいうのは軽率かもしれないしかし「行為は言葉よりも雄弁」である。
富田氏が帰っていらっしゃったらすべてはどう変わるか私たちは考え方が甘かったようだ。
だが、見よ、彼はギデオンのごとき勇者ではなく敵のようになったのだ。


アイはこう考えます、ホイットニー一家のうち教育者としての教育を完了していないクララと伝道者としての訓練を受けていない母子には、アングロサクソン的な何かしてあげたらその返礼はすぐに行うという考えとともに、海舟が指摘しているように(教授より教えていただきましたが)コミッションをもらうのは当たり前というこのころのアメリカ人的考えがあらわされています。
そして日本になじめない一家のために勝家より派遣されたとも言うべき夫人に対しても、自分たちが面倒見たという「のどもと過ぎれば暑さ忘れる」という言葉そのままのように感じました。
女のファッションに対する執着心は今も昔も変わらぬ嫉妬心とあいまってクララもペンが走るようですね。

しかしその後の両家にはわだかまりがないように日記は続いていますし、ホイットニー家の人は怒りんぼですが根に持つ家系ではないようです。


12月23日 土曜  さてアイのほうはクララの大分と日記を飛ばしてしまいましたが、この日庭師が入って手入れをしたそうです。
そしていよいよクリスマスツリーを立てたそうですよ。
贈り物が早々と到着しだしました、中でもみかんが多く届いているようですね、これは贈り物には入らないかな?。
今日もお逸と一緒に大鳥家に、(クリスマスの)ご招待しに出かけて土砂降りの雨の中を帰ってきたそうです。

12月25日 月曜  クリスマス
朝から飾り付けに取り掛かり3時までかかる。
家達公もお見えになられたそうです、大君に使用人たちが驚く様子などそのまま載せたいほどよく観察していますよ。
前年以上に盛り上がった様子が描かれ、夫人たちは「オヤオヤ」紳士たちは「ナルホド」といったそうです。
オカシ〜〜ク盛り上がる様子が面白いです。

余談  この日を最後に役人の小野氏が出てきませんが、クララの聞いた職場は天皇の衣装の管理をする役所となっています、それと9月26日のところには小野氏は33歳で仙台の侍と出ています。
それとクララにお熱があるのかという風に捉えられている矢田部氏は東大の矢田部良吉教授・わが国の植物学の第一人者であるとのことです。
そしてなんと芸大の音楽学校長も勤めています。


小野氏については、図書館などでまた調べてみますね。


    クララの明治日記 3
1877年・明治10年 ・丁丑(ひのとうし)へ進む


クララのトップに戻りますか?。
明治9年の最初に出かけますか?。
明治10年の最初に出かけますか?。
明治11年の最初に出かけますか?。
明治12年の最初に出かけますか?。  
明治13年の最初に出かけますか?。

d