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宮古島 沖縄本島から南西に約300㎞、面積159.22㎢で、沖縄本島、西表島、石垣島についで4番目に広い島です。「ミヤコ」とは、方言の「ミャーク」又は「ミヤク」という音に当てられたもので、「ミ=人(自分自身)のヤ=住んでいるク=所(地域・集落)」という意味だそうです。ミヤコの名は、13世紀の中国=元の歴史書に見られるそうです。
宮古島市は、2005年10月に平良市、伊良部町、上野村、城辺町、下地町の5市町村が合併して誕生しました。
今回は平良地区の史跡を散策しました。

人頭税石(にんとうぜいせき) 大正10年に宮古を訪れた民俗学者・柳田國男は、「海南小記」の中でこの石柱を「ぶばかり石(賦測石)」と称し、「この石で背丈を測って石の高さに達すると税を賦課された。」との伝承を紹介しています。
1637年、琉球王府は先島(宮古・八重山)に人頭税制を施行しました。この税制は頭数(人口)を基準に税(粟・織物)を賦課するもので、役人の見立てにより税を納めさせられましたが、1659年には、頭数の増減に関係なく「定額人頭税」制となり、更に、1710年には年齢(15才~50才)を基準として税(男は穀物・女は織物)の賦課が行われるようになりました。
この人頭税制は1903(明治36)年1月1日の新税法施行に伴って廃止されました。何故、この石柱が「ぶばかり石=人頭税石」と呼ばれたのか定かではありませんが、人頭税が年齢制になる以前、即ち、役人の見立てで税を賦課されていた頃、或いは、それ以前に「あの石の高さ程になると、税を賦課される」という目安のようなものであったかもしれません。今日、この石柱については「人頭税石」のほか、「屋敷神」「陽石」「図根点」など、多くの説が出されています。平良市経済部商工観光課(説明板より)
高さは1.43mです。

真玉御嶽(またまうたき) 昔、御嶽内には井戸(泉)があって、またガマ(洞窟)があり、気立ての優しい夫婦が住んでいた。神として祀られている。
また宮古で初めて潮水でアイズゥ(和物)を作った紙として祀られている。
『御嶽由来記』は真玉御嶽の祭神を「男女かねとのまつ免か」と伝え、貧しい夫婦であったが、ふだん怠りなく精進し朝夕天道を拝していたので神徳が降り子孫繁盛し富貴の身となった。夫婦とも白髪の翁となるまで天道を祈り天寿を全うしたので死後真玉山に葬り御嶽を仕立て神と崇めた。子孫繁栄の神として崇敬されていると伝えている。
今日でも子宝の神として、また人の運気を司リユー(世=豊穣)を授ける神・降下いい安全の神として祀られている。目を転じると礼文島も見えます。(kamnavi.jpから)
恩河里之子親雲上の墓碑(おんがさとぬしぺーちんのぼひ) この恩河里之子親雲上の墓碑は、旧藩時代に建造されたもので、現存する墓碑では比較的古いものである。砂岩を材料として使用してある。
 碑には右肩より「支流長真氏恩河仁也、乾隆年間卒。向姓恩河里之子親雲上墓、同治十一年壬申在番同氏花城親雲上記」の文字が刻み込まれており、下方には蓮弁の絵模様が描かれている。(中略)
 この碑の建造には、表記されている恩河仁也、花城親雲上の二人がかかわったと思われるが、この二人が恩河里之子親雲上とどのような関係にあったか明らかでなく、また、恩河里之子親雲上や恩河仁也がどのような人物だったかも分かっていない。
 この碑の書を記した花城親雲上は、同治十一(1872)年に首里王府から派遣された在番で、同治十三(1874)年の二月十四日には病のため没した人物である。彼の任期中には、平良頭忠導氏玄安ら五十四人の「台湾遭害事件」や「ドイツ商船ロベルトソン号宮国沖遭難」などの事件がおきている。また、琉球国が琉球藩となったのも、彼の任期中のことである。
 この墓碑は、これらの事件と直接かかわりはないが、花城親雲上が在番として宮古島に赴任してきたことの証拠であり、旧藩末期に起きた事件等を彷彿とさせる貴重な金石文である。平良市教育委員会(説明板より)平良市指定有形文化財です。
知利真良豊見親の墓(ちりまらとぅゆみゃのはか) 1500年、八重山のオヤケアカハチの乱の鎮圧の際に、首里王府軍の先導をつとめた仲宗根豊見親の三男・知利真良豊見親の墓として知られています。知利真良豊見親は、オヤケアカハチの乱に父とともに従軍、のち次男祭金が4年在勤したあとをうけて八重山頭職となり、彼の地で没したと伝えられています。近接する「仲宗根豊見親の墓」とともに宮古在来の墓「みゃーか」から横穴式にうつる中間様式を示しています。ツンプン(ひんぷん)の跡をとどめている所から、、俗に「ツンプン墓」とも呼ばれています。保存状態がよく、墓の形の変遷、石工技術を知る上でも貴重な墳墓です。前庭部を石垣で囲み、墓室外面は切石が三段に積まれ、上端には石柱列が設けられています。この墓は平良頭職をつとめ、杣山惣主取でもあった宮金氏寛富が1750年ごろ築造したと伝えられています。その子孫は宮古では宮金氏、八重山では長栄氏と称しています。沖縄県教育委員会・平良市教育委員会(説明板より)県指定有形文化財(建造物)です。なお、以下の墓三基を一括して、「豊見親(とぅいみやーはか)」として国指定重要有形文化財(建造物)に指定されています。
 
仲宗根豊見親の墓(なかそねとぅゆみゃのはか) 15世紀末から16世紀初めにかけて、宮古を支配していた仲宗根豊見親が、父親の真誉之子豊見親の霊を弔うために建造したと伝えられています。 墓の構造は、宮古在来の「みゃーか」の形式と、沖縄本島の形式を取り入れた折衷の形となっています。 この時期における宮古と沖縄本島との石造技術の交流を示す墳墓です。 外観は前庭部を石垣で囲み、墓室外面は階段状に仕上げ、上端に石柱列を設けてあります。 内部は円形になっていて、直径6m高さ2m余りのほぼ10畳ほどの広さで、中央に厚さ46cmの石垣が天井まで築かれ前後2室に仕切られています。手前は棺ならびに副葬品、奥には洗骨後の骨ガメの安置場所です。仕切中央は幅1,27m高さ1,70mの出入口になっており、かつては観音開きの扉がついていたことを示す切り込みの跡を上下に各2箇所ずつとどめています。宮古の支配者としての仲宗根豊見親親は1500年、八重山のオヤケアカハチの乱の鎮圧に首里王府軍の先導をつとめ、また島内においては井戸、道路、橋梁等の開さくをすすめたことで知られています。沖縄県教育委員会(説明板より)県指定史跡です。
アトンマ墓 忠導氏にゆかりのある墓で、同氏族の継室(アトンマ)だけを葬ったことから、俗に「アトンマ墓」と称されています。
 墓の様式は、岩盤と切石を組合わせた掘込み囲墓です。この墓がいつ頃、建造されたのか明らかではありません。「忠導氏系図家譜」によれば、十二世玄似(1764~1804)、十三世玄陳(1780~1840)、十四世玄安(1815~1872)、玄盛(1824~?)らが、それぞれアトンマを迎えているが、その中で、十四世玄安(十三世玄陳とアトンマ金免嘉との子)は1863年から1871年まで平良ノ頭を勤め権勢を誇った人物です。このことから、この墓が改修・整備されたのは十二世玄似~十四世玄安・玄盛の頃と推定されます。
 アトンマ墓は、その側面を築くのに原形の岩盤を土台に大型の切石を積み、墓室前壁面には比較的小さな切石を積みあげて繊細な趣をかもしだしています。また、通用門にはアーチ型の一枚岩をのせ、さらに通用門から墓室に至る墓庭の中央には、階段につづいて幅約0.7m、長さや区0.6mのゆるい溝が設けられています。このように墓室前壁面に岩肌を覆う形で石積みを施したうえ、溝を墓庭に配慮した墓は、宮古では極めて稀であります。
 忠導氏は、十六世紀初期に宮古を支配した仲宗根豊見親を元祖に数多くの頭職をだし、勢力・財力を誇った系統です。その勢力・財力を背景に、宮古の風習として本妻と同じハかに葬ることのできなかったアトンマの墓を設け、その霊をとむらったものと思われます。平良市教育委員会(説明板より)平良市指定有形文化財です。
 
漲水御獄(はりみずうたき)と石垣 宮古島創世の神話並びに人蛇婚説話等にいろどられ、古代宮古人の源流をさぐる上からも貴重な御嶽である。南側石垣は目黒盛の玄孫・仲宗根豊見親(忠導氏祖)が1500年中山王府の先導で、八重山の「オヤケ赤蜂らの事件」制圧にさいし、神霊の加護で勝利したら神域を整備し奉納すると誓願、めでたく凱旋した戦勝記念に築いたと、『忠導氏本宗家譜』に明記されている。オヤケ赤蜂らの制圧については賛否分かれるところがあるが、石垣そのものは直接には民衆の労働の成果であり、当時の石造技術を知るうえでも貴重である。(説明碑より)市指定史跡です。 漲水石畳道 18世紀の始め、宮古の治山、土木工事が精力的にすすめられていたころ、各村むらの道路巾は2間半に拡張、改修、あるいは新設されたと伝えられている。1696年大地震のあと土木工事の一環として、石畳道も2間半に拡張され、治山事業の中で豊富に得られたであろう石を切り敷きつめたものと推定される。旧藩時代の政庁である「蔵元」南側にそって漲水御嶽前から祥雲寺北東の辻まで続いていた。廃藩置県後もほぼ完全に残っていたが、平良港築港(大正10年)、宮古神社移転(昭和17年)にともなう工事並びに第二次大戦、ついで戦後の道路工事等で損傷、現在およそ3分の1を残すのみとなっている。(宮古島市HPより)市指定史跡です。
宮古神社 天正十八年(1590)平良大首里大屋子(地頭職)平良(名・要宇か)が、海難漂流するも九死に一生を得て、八年後に帰国す。これ皆故国の神々のお陰と、琉球第一の宮・波上宮の神々を宮古に勧進す(由来記)。
慶長十六年(1611)薩州の検地使の上奏により、琉球王朝は瓦葺の立派な宮とし「宮古熊野三所大権現」の称号が贈らる。
大正十四年、豊見親二神を祀る町社創建。
昭和十五年、紀元2600年を期しこの両社合祀の県社建立を全島挙げて決議。同十九年六月遷座・奉祝祭(県社の内達)。昭和二十年被弾。終戦。昭和三十一年、目黒盛豊見親が増祀さる。昭和五十五年十一月、宮古神社復興工事竣工。平成二十二年、平成の本格的造営竣工す。(説明板より)宮古神社は、宮古総鎮守です。祭神は、熊野三神の速玉男尊(たまはやおのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)・事解男尊(ことさかおのみこと)、豊見親三神の目黒盛定政命(めぐろもりていせいのみこと)・與那覇恵源命(よなはけいげんのみこと)・仲宗根玄雅命(なかそねげんがのみこと)です。
祥雲寺の石垣 昔、祥雲寺は薩摩藩の建議で1611年山月和尚によって開山された。当時の寺域はどの程度であったかさだかではないが、1685年になって住職の輪番制(3年交替)を設けているところから、寺域もしだいに整備されてきたものと推定される。「球陽」(沖縄の歴史書)は1696年の大地震の際、寺院等の石垣が崩れたことを記しており、このころすでに祥雲寺に石垣があったことを示している。18世紀初頭、宮古では全域にわたって大規模な土木工事が進められており、このとき祥雲寺の石垣も改めて築かれたものと考察される。戦災はじめ都市計画等によって、平良の街なみは大きく変貌、石垣も消滅しつつあるいま、当時の石造文化を知る上からも重要な建造物である。(宮古島市HPより)市指定史跡です。
ドイツ皇帝博愛記念碑 1873(明治6)年7月、ドイツ商船ロベルトソン号は中国福州から濠州へ向う途中に台風にあって漂流、宮国沖合で座礁難破した。宮国の人びとは夜通しかがり火をたいて励まし、荒天をついて乗組員8人を救助した後に34日間にわたって手厚くもてなし、島役人たちは官船を与えて帰国させた。
 のちにこのことを知った当時のドイツ皇帝ウイルヘルム一世は宮古島の人びとの勇気と博愛の精神をたたえ、1876(明治9)年3月、軍艦チクローブ号を派遣して記念碑を建立したという。
 碑文は表はドイツ文と漢文、裏は漢文で記されている。この一帯は親越とよばれ、漲水港をみおろす丘の中腹に立てられた大理石の碑は、当時は漲水港のはるか沖合からも夕日に輝いてよく見えたという。(説明碑より)県指定史跡です。
宮古神社旧地 今の宮古織物事業協同組合の建物に隣接して宮古神社旧知地があります。境内石側に平良市指定有形文化財の「産業界之恩人記念碑」が、左側には、稲石をたたえる碑「宮古上布創製者稲石記念碑」が建てられています。
 この「産業界之恩人記念碑」は、大正14年7月に宮古神社が建立された際、宮古の産業界の基礎をつくった下地親雲上恵根、砂川親雲上旨屋、稲石刀自の三者を顕彰して、同境内に建立したものである。
 碑の形状は縦264cm、横63cm、幅27cmの直方体でコンクリート造りである。碑文は当時、沖縄史研究者として知られた真境名安興がまとめたものである。表には「産業界之恩人・下地親雲上恵根、砂川親雲上旨屋、稲石刀自・記念碑」「沖縄県知事正五位勲四等亀井光政書」の文字が記されており、裏には左記の意味の顕彰文が刻み込まれている。
 下地恵根は、1655(順治12)年に上国の帰途、松苗数本を持ち帰り大武山・島尻後に試植、更に1681(康熙20)年には2000本を洲鎌村に植え造林の端緒を開いた。砂川旨屋は1594(万暦22)年、御物宰領で上国の帰途中国に漂着、3年後、帰国にさいし芋かづらを持ち帰り、栽培普及した。また、稲石は1583(万暦13)年、綾錆布を創製して琉球国王に献上、宮古上布織製の端を開いた人物である。
 碑文の内容は、上記三者の業績をたたえるとともに、今日の宮古産業界の発展は彼等の恩恵によるものとし、これを顕彰することで今日及び後世の人々に、報恩報国の道を教示しようとしたものである。
 この碑は、当時の宮古郡民の動向を知る上でも貴重な金石文である。平良市教育委員会(説明板より)平良市指定有形文化財です。
宮古上布 宮古上布は、16世紀末、栄河氏真栄の妻・稲石によって創製されたと伝えられている。1637年に人頭税として上納布に定められて以来、精巧な織物であることが要求された。その伝統技術が今日に至るまで継承されて宮古上布を性格づけている。苧麻繊維を糸とする織物で、越後上布・小千谷縮(昭和30年国指定)と並んでわが国の上布の代表的存在といわれている。製作形態は苧麻の手積みによる糸つくり、染め、機織り、洗濯(仕上げ加工)、ぬき(補修)等の分業制になっており、それぞれ専門の技術者が高度の技術を伝承している。(保存団体:宮古上布保存会)(説明碑より)国指定無形文化財です。 宮古伝統工芸品研究センター 宮古上布の歴史を伝える展示のほか、製作工程の見学もできます。また、宮古上布使った小物なども販売しています。体験もできるようです。布好きには、たまらない、魅力満点の施設です。9時~6時(日、祝祭日、年末年始休館)で、入館無料です。
仲屋金盛ミャーカ 「仲屋金盛ミャーカ」は、忠導氏仲宗根家の東方、外間御嶽の北方にあって、忠導氏一門では、仲屋金盛の墓と言い伝えている。墓の規模や形態は、大半が土砂に埋もれて明らかでないが、石棺の蓋と思われる縦210㎝、横120㎝、厚さ22cmの巨石が露出している。
 仲屋金盛は、16世紀初頭に宮古島の主長であった仲宗根豊見親の嫡子である。弟に祭金豊見親や知利真良豊見親らがいる。「八重山のオヤケアカハチの乱」(1500年)、「与那国の鬼虎の乱」(1522年頃)に父豊見親に従って従軍。父豊見親の没後、その跡を継いで宮古島の支配者となったが、1532年頃宮古島の東南部で勢力のあった金志川那喜太知豊見親を殺害したかどで首里王府の問責にあい、自害した人物である。この事件により、豊見親の称号は廃止され、代わって、首里王府の任命による頭制が施かれることになった。
 因に、忠導氏正統系図家譜は、金盛について「玄武 仲屋豊見親西外間為小祖、就不届不継家督」とのみ記している。16世紀初頭、宮古で起きた歴史的諸事件並びに世情を考える上で、この「仲屋金盛ミャーカ」は重要な史跡である。(説明碑より)市指定史跡です。
大和井(やまとがー) 平良市街の東北に位置する泉(洞井)である。『雍正旧記(ようせいきゅうき)』に(1727年)記されている内容から、1720年ごろに掘られたと考えられている。井戸の周りは大小の切り石を円形に積み上げてあり、上り下りの通路には石段が設けられている。伝承によれば、首里王府派遣の在番役人など一部の者のみが使用し、一般の人々には開放されなかったといわれている。かつては泉にいたるまでに2ヶ所の門があって、水守りもいたとの言い伝えがある。南島の人々と水とのかかわり合い、石工技術の見事さを示す石造遺跡として類例のないものである。(説明碑より)国指定史跡です。
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