間馬文書
福岡県京都郡苅田町
み や こ ぐ ん か ん だ ま ち
宇原神社 神幸祭の非公式・個人ページ  山バカのホームページ
うはら
 大分県に隣接する福岡県側にも御神幸にともなう笠鉾が存在する。苅田山笠(苅田町)これらは旧豊前国に属す地域であり、
その分布から、この地域に一種の文化圏が成立していた事をうかがわせる。この笠鉾は、本体は巨大な傘であるが、
その傘を立てる木製の台座があり天頂部に御弊を立て、その下から多数のヒゴを垂らして、紙で作った花を装着しており、

あえて言うならば、傘型の鉾であると言えよう。これは神の来臨する依代としての機能を持っているのである。
(発行平成7年3月31日)
大分県祭礼行事民俗調査報告書より
私の所属する苅田山笠青年会
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苅田山笠青年会
苅田町 今日の天気
更新 H19.2.20
苅田山笠 大正13年頃の御旅所 山笠写真
神幸祭の変容
宇原神社報告によれば「祭事等に関し、今日迄古風の遺れる著しきことはなきも・・・後略」
とあって1597年以降の神幸祭は鉾山が主役となって大きく変容した事を意味する。
明治以降に祭が変化したのは、明治末期と大正13年以降であろう。
具体的には電気の普及によって電線が張り巡らされ鉾山=山笠が折り山となった。
後者は、世にいう石山事件が勃発し深く根ざしている。その事件を転機として外来者が多く
流入、今に伝わる喧嘩山笠を称されるように変容した。
戦後になると山笠本来の姿(岩山)でない飾り山(小山)が半数になったが、平成の時代に
なると本来の形に戻すと称して大形化や名称も苅田山笠と称するように変容した。
1、八月神事に付きりぜにの義者は なるだけ倹約いたし村内限(ギ)に而(て)相ととのへ候事
1、神事鉾山まわし他村越しの高百姓の義(ギ)は本高五石以上の持抱の者より
  両日為に差し出もうしそうろう 五石(ゴコク)以下は差し出させ申間敷事

  *五高=今で言う五反ぐらい

  簡単に訳せば・・・馬場村が神事をする為に村内の人はお金は節約し 鉾山を動かす時は
             他の村で田んぼを5タン以上作ってる生活が豊かな者には手伝いをさせなさいと
             新津村大庄屋のアイバリヘイジが馬場村の庄屋の甚九郎殿にあてた手紙です。

さて・・・・・何処の誰に手伝いをさせていたのでしょう?馬場村の世帯主の名前と印鑑を押した文書も
       発見できたので世帯数は正確に調べる事が出来ます。

また、尾倉村の神幸祭の事を書いた間馬(アイバ)文書(21ページ)も11月までには訳してお知らせする事が
    出来る洋に努力したいと思います。他にも間馬御用日記が見せてもらう事が出来れば旧暦八月の
    神事の部分を探してみたいと思います。 
佐々木哲哉 氏
(元福岡県文化財保護審議会委員)が民俗芸能の保存と継承で発表された文章を書かせてもらえば
民俗芸能保存・継承の問題点
民俗芸能の保存・継承について、時として「民俗芸能を絶滅から防ぐためには現代人の
趣向に合った付加価値を付けるべきだ」という意見に出くわすことがある。
この付加価値こそが曲者であるとかねがね思っていた。
もっとも、民俗芸の継承の過程で創意工夫が凝らされたり、付加価値を付けながら継承されてきた
ものも多い。しかし、それらはあくまでも地域の人々を満足させるための、地域性に根ざした趣向であって、
それゆえにこそ「民俗」てり得たのである。

ところが最近言われている付加価値は意味合が違って来ている。すべてが観光受け、テレビ受けを
狙った趣向といえる。
そうなれば画一化された都市型志向で、やがては民俗性を失った民俗芸能ばかりが観光資源として
残る事になりかねない。
現代風の付加価値を付ければ民俗芸能が存続できるというのは、伝承母体に対する視点を欠けた
評論家的見解である。

民俗芸能保存・継承は、あくまでも地域の人々が地域の問題として受け止め、取り組むべきの課題である。

各地で民俗芸能を保存させてきた要素に、年齢組織がある。子供・若手・中年・年寄りという
年齢階梯制をとって修練を積んで来たところほど、
自分たちで受け継いできたものを、そのままの形を崩さずに後世に伝えたいという願いが強い。
問題はむしろ、青年層の都市流出と少子化による地域の過疎化、それに伴う共同体内部における
年齢組織の崩壊、後継者難に尽きる。
その対応策として子供会の育成や周辺地域に参加を求めて伝承組織のの再編を図るというような、
過疎地は過疎地なりの努力を続けて
いるのが見られる。いずれの場合においても必要な事は、これまでの伝承携帯を崩さずに継承する配慮である。
そのためには芸能自体が持つ意味を、伝承者自身が把握しておく必要があろう。
山バカのお店紹介

神事入用

一、三(もんめ)六分    中折六丈

   但、四角へ入用
一、 同三匁弐分   大工作料

   但、壱日

一、同三匁       黒とら代

   但、前まく入用

一、同弐匁      釘代

   但、こうらん入用

一、同弐匁      品々代

〆壱貫三百八十文

文書読み下し
古文書読下しを協力して頂いている豊津町歴史民俗資料館
学芸員 川本英紀先生 毎回、ご協力有難うございます。
@中折六丈とは折の事ではないだろうか? A四角とは四本柱の事か? B黒とらとは鉦?
Cこうらんとは欄間の事では?
この古文書も1800年代に庄屋が書かれた物である。(祭の準備でお金がいると役人に申し出たのでは?)
慶応二年(一八六六年)寅三月に大庄屋が馬場村の庄屋に宛てた古文書
一、 八月神事ニ付切銭之儀者ハ  成武検約いたし村内  限ニ而相調へ候事
一、 神事鉾山回し他村越  高百姓之義ハ本高五石  以上持抱之者ヨリ両日為  
    差出可申候五石以下ハ差出させ可申間敷事
近隣を見て
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こちらは平成18年4月までに調べたり・・・更新したページです。
平成18年7月より新たに HPを更新していきます。

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