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九州の祭り200選・秋冬
 朝日新聞西部本社 葦書房  発行 昭和58年7月25日
苅田町の宇原神社神幸祭の締めくくりにあたる苅田山笠は、五百余年の歴史をもつ。
記録によると、中世は村々から笠鉾を繰り出していた。山笠になったのは16世紀末。大正時代に、
かき山から現在の山車に変わった。
素朴ながら山笠の原型を伝える数少ない様式とされ、昭和48年、県の無形文化財に指定された。
土地っ子にとって山笠は年々ものたりなくなっていくらしい。高さ12メートル余りの山笠が町を駆け回る
スピード、重量感、それに華麗さにかわりはないのに、である。
「いまの山笠は迫力が無い」の声が、この時期になると町のあちこちで聞かれる。祭がおとなしくなったのが
不満なのだ「喧嘩山笠」の別名通り、ヤマとヤマとがぶつかり合う荒々しさが、長年、この祭の売り物であった。
重さ1.5トンもある山笠を、50人余りの男達が祭酒をひっかけた勢いにまかせて走らせていた。
だから、通りに面した店先が台風の後のようになったり、かき手が骨折したりは、祭りの景気づけぐらいにしか
考えない空気があった。これが祭りなんさ、と。
それが変わってきた。ことに、3年前に死者が出てからは、警察の目も一段と厳しくなった。
以前のような暴走騒ぎが山笠そのものの絶滅につながることを、かき手も承知しないわけにはいかなくなってきたのだ。
苅田山笠は3つの顔をもつ。まず、山車は224個のちょうちんに飾られた「灯山」として姿を見せる。
鉦と太鼓にはやされて、ゆらめく明かりが町をめぐる。変わって(現在10月の第一土曜日)は昼間の顔である。
山車は色とりどりの幟を立てて「のぼり山」に一変する。簡素で、それでいて華やかで、古い時代の祭りをしのばせる。
開けて(現在 第一日曜日)山車は再び変身する。巨大な岩を背にした人形が、ほこ花(スダレ)に包まれて台座に座る。
「「岩山笠」」と呼ばれる飾り山は、各地に伝わる山笠の原型をとどめた形式とされている。
14基の山笠のうち、岩山笠は現在は八基。(昭和58年)残りは小型になって飾りも簡素になっている。やはり金と人手の問題だそうだ。
昼すぎ、町役場の広場に14基が勢ぞろいする。飾り付けの審査とデモンストレーションが進む間に、広場を囲む人垣は二千人、
三千人とふくれ上がる。午後三時。鉦、太鼓が鳴り響く広場を山車が車輪をきしませて走り始める。
千人近い男達が入り乱れてかけ回り、ぶつかり合う。海のあれくれの息づかいが、地響きとともに伝わる。
日が西に傾くころ、山笠はそれぞれの町内に引き揚げる。かつての「喧嘩山笠」は広場を出発してからが本番だった。
途中で行き会った山笠がせり合い、ぶつかり合ったもの、帰り道のことだった。
もっとも、けんかの色合いが薄れたのは、近年に限った事ではない。ご神体をまつる宇原神社宮司の広瀬正美知(79歳)によると、
戦時中の中断を境にして、おとなしい山笠へとゆるやかな傾斜をたどってきたそうだ。
裏返せば、戦前はそれこそ火の出るような騒ぎを繰り返していた、ということでもある。
「「けんか山笠」」はもともと、漁師の祭りであった。荒々しさはその名残すともいえる。いま、埋め立てによって海岸線は町の
中心部は1キロ余りも遠のいた。町の変化が祭りにも現れる。広瀬は語る。「昔は漁師ばかりでしたから、威勢がいいのは
当たり前でした。いまはどの町内も勤め人がふえたために、かき手がなくて困ってる状態ですよ」。
それが、岩山笠が半減した原因でもある、と。
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苅田町について・・・

古代は刈田・賀田、中世は神田とも書き「方」とも読んだ。貫山・水晶山の東南麓に位置し、周防灘に臨む。古代の肝等屯倉・刈田駅・刈田郷・
賀田郷など、いずれも当地がその遺称とされる。古代の訓はカタまたはガタで潟すなわち海辺の遠浅地に由来する地名であろう
「「古代」」刈田郷 平安期に見える郷名。「和名抄」豊前国京都郡四郷の1つ。長徳5年正月の大宰府解状には賀田郷が見えるが
(本朝世紀長保元年3月7日条)賀田郷と刈田郷は同一のものと考えられており(豊前史など)、訓はカタであったと推定される。
「「中世」」苅田荘 鎌倉期〜室町期に見える荘園名。京都郡のうち。宇佐弥勅寺領。建久の図田帳では弥勅寺領の加納得善名のうちに
苅田二郎丸60町があげられている(到津文章/鎌遺926)。鎌倉期には弥勒寺領の1つとして本家石清水八幡宮の別当坊善法寺に伝領されたが
(石清水文章6/大日古)永仁5年善法寺尚清の処分状には見えてない。その前後に別相伝となったか、善法寺の手をいったん離れた可能性がある。
建武3年苅田荘内光国保地頭職が建武政権に反旗を翻した足利尊氏により門司八幡宮に寄附されたのをはじめ南北朝期には当荘地頭職が
少弍氏の被官饗庭氏や大友氏被官の田原直貞に恩賞として与えられている。あと省略
明応年間には再び善法寺坊領の苅田正税109貫分が守護代杉重清の請分として京済されている。
杉重清は豊前守護大内政弘の守護代で松山城に在城し、その膝下にある苅田荘を請所としていたものと思われる。
この間、応永5年には北方約1500mの松山城争奪のため、大内・大友両軍の神田(苅田)潟の戦いがあったとされており
(応永戦乱記)、戦国期にもしばしば合戦場となった。永禄11年(推定)7月13日には苅田表で合戦があり、同月15日付けで田原親賢が
蠣瀬次郎に感状を出している

「「近世」」苅田村 江戸期〜明治22年の村名。
京都郡のうち。小倉藩領。新津手永に属す。「人畜改帳」では苅田町村と見える。村高は、「正保国絵図」280石余、
「元禄国絵図」353石余、「天保郷帳」544石余、「旧高旧領」747石余。元和8年の家数183・人数514(男269・女245)、
禹志10・馬41、地内に牢人・坊主・水夫・塩売がいた(人畜改帳)。隣接する浜町村は独立村であったが、当村の枝村としてみなされることが
多かった。享保飢饉の餓死者は30人(開善寺過去帳)。 享和2年菱屋平七の「筑紫紀行」には海辺ニテ人家六十軒計アリ。多くは漁者農夫ナリ。
宿屋少ウシテ問屋場二本陣ヲ兼タル林田五郎左衛門トイフ人の家に宿ル。座席広々トシテ縁先ヨリ見渡せば周防灘の白波残る
所ナク望中ニアリ。近くは十丁許リ東ノ方ノ沖中にコウノ島トイフ小島面白ク浮ミタリ。
杉ノ生垣ノキリソロヘタルガ浜手ニヒキク見オロサルゝナド風景甚ヨシ」とある。
林田家は代々当村の庄屋で、街道の東側に浜茶屋をもち、文化7年伊能忠敬も宿泊。

「「近代」」
苅田村 明治22年〜大正13年の京都郡の自治体名。
雨窪・松山・苅田・堤・光国・浜町・馬場・南原・集・尾倉の10ヵ村が合併して成立。




神幸祭(しんこうさい)苅田では、じんこうさいと言う。
神社祭祀のうち、神霊が本社より他所に渡御する祭。「おわたり」「みゆき」「おいで」などとも称し、その帰りを還幸祭と呼ぶ場合もある。
起源は不詳であるが古代末期にはすでに行われていた神社がある。中世以降は多くの神社でなされるようになったともみられている。
神幸には、神輿・鳳輦などが用いられるが河川上、または海上を御座船で渡御する所もある。

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 植物の世界「神の依代の木・サカキ」              植物の世界「神の依代の木・サカキ」                         参考:朝日新聞社発行「植物の世界」    わが国の神は「去来する神」であり,山や海から人里に遣って来る「客マレビト」です。 そこで里においては,神霊の移動の際の乗り物,招かれた神霊の宿る場所を特別に用意 する必要があります。サカキはそのような神の依代ヨリシロ,又は神に捧げる木として選ば れた木であり,「栄える木」或いは神域との「境の木」を意味すると云います。榊サカキと 云う文字は,このような性質を受けてわが国において作られた文字です。  しかし,元々はただ1種の樹木ではなく,神事に用いた複数種の木を指していたよう です。例えばオガタマノキ(モクレン科)は「招オぎ霊タマ」,タブノキ(クスノキ科)は 「霊タマの木」から付いた名前であると云う説があり,これらもまた,神の宿る「さかき 」の一つであったと考えられます。また,『夫木和歌抄フボクワカショウ』(1310年頃成立)に は,「ちはやぶるかもの社ヤシロの神あそびさか木の風もことにかぐはし」と"さかきの香 り"が詠み込まれていますが,サカキには香りがありませんので,これはシキミ(シキミ 科)であると云う説が有力です。現在においても,サカキの少ない北陸地方においては ヒサカキを「さかき」と呼んで神事に用いていますし,中部地方においては同じくソヨ ゴ(モチノキ科)を「さかき」とする処があると云います。    サカキは,これと云った特に目立つ木ではありません。西日本には他にも沢山常緑の 木はあります。ただ,全く鋸歯キョシのない大きめの濃い緑の葉と,鋭く尖る鎌形の芽が印 象的で,整然と2列に並んだ葉の上面は,艶のある平面を形作ります。  降臨して来る神霊の目印や依代として,サカキが重要な役割を持つ神事は数多い。京 都の祇園祭においては,月鉾ツキボコや菊水鉾キクスイボコ,長刀鉾ナギナタボコなどの目立つ位置 に,大きくサカキが取り付けられますし,滋賀県大津市の日吉ヒエ大社の山王サンノウ祭にお いても,境内の山中かり伐り出して来た大サカキに神霊を依らせ,これを運ぶことで神 霊の移動を表現します。東京都昭島市拝島ハイジマ町の榊祭においては,約6mの大きなサ カキを植え込んだ神輿ミコシが街を練り歩きます。葉の一枚一枚に四垂シデ(紙垂)を結び 付け,木の頂上には御心筒ゴシントウと云う依代を立てます。御心筒には,魔除けの神であ る祭神の大山咋命オオヤマクイノミコトが降り,座しています。四垂の付いたサカキの小枝は,祭 りの後,もぎ取って家に持ち帰り,神棚に供えますと魔除けとなります。    サカキには,また霊力も備わっています。静岡県東部の奥三河を中心とする地方に伝 わる独特な祭り,花祭のクライマックスに登場する榊鬼は,背中にサカキの枝を挿した 赤鬼で,祭りの最上位,主客です。榊鬼の踏む反閇ヘンバイは,独特な足の踏み方をするこ とで邪気を祓い,正気を招来する呪術ジュジュツで,威力絶大と云われます。この鬼ともど き(禰宜ネギ)の問答において,もどきが持つサカキに鬼が手を触れ,「この榊と申する は、山の神は三千宮サンゼングウ、一本は千本、千本は万本、七枝二十枝までも惜しみきし ませ給うこの榊、誰が御許しにてこれまで伐り迎え取ったるぞ」と云う件クダリがありま す。サカキの持つ神聖さ,神秘的な霊力を示す遣り取りでしょう。

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102代御花園院之御宇嘉吉2年、国家安全、五穀成就、牛馬延命祈として、六月廿九日御幸奉成云云、
其後107代後陽成院之御宇、慶長丙西年より、鉾山になり八月十五日を定月として、年々御行幸あり、
場所は南原村之内浮殿にて、御神の守役は森七郎左衛門也、浮殿御仮殿にて、式三番之御神楽有り、
舞之役彦太夫と申者、舞を成し、別当御数珠役主なし、太鼓役者藤馬太夫と申す、大宮司宮之坊屋敷子孫
相続、大宮司職数代有り、笛之役神太夫と申す、二之市、三之市者、御託宣之役其子孫後世に社入相続、
光国村に有り、寿九屋敷十六名也、小宮司と申は尾倉村の内に有り、加記兵部と申す□□村に有り、
御幸之時、御宝物を持御供せり、百九代太上皇帝の御宇、寛永二年己丑大日照り之時、祈雨之祈として、
氏子十ヶ村寄合、宮籠之節、大口論あり、南原村、与原村、尾倉村味方にして、大喧嘩に及び、宮分かれ、
御本体は南原村孫三郎と申者奉守逃げ、御獅子上顋は、神田の新七と申者取逃ぐ、夫より南原村之内浮殿の
浄清地に宮を建設し、御鎮座奉成、寛永六年己巳御国守御巡国之節、小倉宮に御社参被遊、御神名御尋あり、
役人申上るに此里を小倉村と申すにより小倉宮と唱へ候由、申上しに、国主より村名尾の字を用ひ、宮は小倉宮
と崇む可き旨御沙汰あり、夫より小倉八幡宮と申奉る、国主とは細川越中守源忠興公を申奉るなり、
此時社司被召出、直に御礼被仰付

年号月日
 嘉吉二年より享和迄、三百六十歳と成
 神殿造営、宝永六已年也、享和三迄迄九五年
 拝殿造営宝暦十一已年也、享和三迄四三年
 嘉吉二年之写覚 惣家広瀬蔵本
宇原宮御神事始
宮所 馬場村に在

宇原神宮
御祓六月廿九日 放生会八月十五日 祭礼九月二十九日
八月十五日御神事始 嘉吉二年帳面の写し、但嘉吉二年の帳面に見ゆ、此時は六月廿九日浮殿へ御幸行、
此時道は鉾山もなく、笠鉾計りに而、祭事色々毎年有る由、帳面に出づ嘉吉二年より笠鉾に成る
此時より御神幸、八月十五日に成れると有り九月廿九日矢鏑流有り、同慶長十二年の目録写し、
御当社御神事役之覚

鉾山高さ一丈計、横五尺四方■高欄有、飾大幕水引を張り、立物・織り・作花・人形・造物・立鐘・太鼓にて
山舁の事は、村々人別出て舁ぎ、御旅所え出る
右の山十四日に幟計り立、太鼓鐘にて瀉中に舁出し、汐をかき、村々へ引取る十五日右の山鉾、馬場村の内、
磯之神に揃、爰より御旅所に参る、前後之事、庄屋立会、闇にて究むる、最も集村の山も御興御迎の為め、
磯神迄参る、何れも神興の先に行く、御旅所は南原村の内浮殿也、神興
一躰山之跡より浮殿へ行幸、但道神楽有り

鉾山九挺
南原村 尾倉村 與原村 馬場村 苅田村 集村 雨窪村 浜町村 提村(光国村)
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古く神社をヤシロといい、社・杜と書いた。ヤシロはヤのシロである。
ヤは屋で建物、シロは苗代のシロと同じく、ある使用目的のために占有された場所の事である。
ヤシロは祭を行うための建築予定地であり、神を祀る建物を仮設するところから社と書かれたのである。
 
近年、伝来の呼称を無視し山・鉾・屋台などを全て「山車」(ダシ)呼ぶところが急増している。
すでに標準語であり、山・鉾・屋台の祭りを山車祭りと言い換えられるように、総称としては都合は良いが、
「山車」の語には検討を要する問題がある
最近の「「国史大事典」」をみると「山車」は「山車 祭に担がれ、曳れる屋台。タンジリとも言う
作り山・柱・笠鉾・人形・吹き花・鳥獣・草木などで飾るので、鉾・山などの名もある。
ダシとは本来、柱や鉾の先につけた御幣・花・榊・髯龍(ひげこ、放射状に編み残しの竹をつけた龍)など、
紙の依代(よりしろ)となる物をいった」とされている。
 
鉾・笠鉾の上の飾り物を「出し」というのは全国共通である。
祇園祭りの鉾頭もかつてダシと呼ばれ、練物の生きた祭りである長崎くんちの笠鉾のそれもダシである。
山・鉾・屋台の祭りでいうダシとは鉾・笠鉾の部分名称である。
山や屋台のそうした飾り物をダシということはないのである。つまり「山車」は江戸の祭礼に展開した
「出し」に宛てられた新語であり、すなわち「鉾」(鉾・笠鉾)と同義だったのである。
したがって当然ながら、「山車」と書いてダシという使用例は原則として存在しない。
 
たとえば、全国を通観した文化3年(1803)の「「年中行事大成」」には、山・鉾・屋台の類を
以下のように記している
「山鉾」「練物」    紀州和歌祭り
「車楽」「山車」    熱田祭
「車楽」「山車」    津島祭
「造山」「山笠」    博多祇園祭
「飾山」        吉田天王祭(愛知)
「造花ねり物」    多賀祭(滋賀)
「檀輾」「車楽」    譽田八幡若宮例祭
「車楽」        座摩祭(大阪)
「お迎船」「楽船」「車楽」 天神祭(大阪) 
「山鉾」「花だし」「練物」「牽山」「傘鉾」「屋台」 江戸山王祭
「車楽」「練物」    浅草祭
「祭鉾」「練物」「迎え提灯」 今宮祭(京都)
「踊鉾」        七里祭・八瀬祭(京都)




京都郡史 第八章 神社 第四節 無格社
 
取石 神社 (雨窪)大字雨窪字神ノ山407−1 イシコリドメノミコト・コヤネノミコト・フトダマミコト
苅田村大字雨窪字神山にあり、石凝姥命、児屋根命、太玉命を祀る。例祭九月十二日
境内神社水神社あり、罔象女命(ミズハノメノミコト)を祀る。例祭六月十日
 
木實原 神社 (上町公民館敷地内にあり)神田町1丁目29−3 ウケモチノカミ・クラオカミノカミ・トヨヒワケノカミ
苅田村大字字木実原にあり、保食神、闇龍神、豊日別神を祀る。
もと字三本松に豊国神社あり、豊日別神を祀りしが、明治二十二年十二月これを本社に合祀せり。例祭九月二十六日
 
戸取 神社 (松山)字荒崎1300−59 タヂカラオノミコト・オモイカネノミコト
苅田村大字荒神地にあり、手力雄命、思兼命を祀る。例祭九月十七日
 
土祖 神社 (中町公民館敷地内にあり)神田町2丁目6−6
苅田村大字苅田字岡屋敷にあり、埴安姫命(ハニヤスヒメノミコト)を祀る。例祭九月二十九日
境内神社に国魂(クニタマ)神社あり、豊日別命(トヨヒワケノミコト)を祀る。
 
貴船 神社 (本町公民館横にあり)神田町2丁目15−11
苅田村大字苅田字森ノ本にあり、闇龍神(クラオカミノカミ)を祭る。例祭九月二十七日
 
蛭子神社 (現在無し)
苅田村大字苅田字市場にあり、事代主命を祭る。例祭十月三日
 
水 神社 (現在無し)
苅田村大字苅田字上道にあり、罔象女命を祀る。例祭六月七日
 
清池 神社 (提区)大字提字溝口3899−1 スクナヒコナノミコト・スサノオノミコト・オオナムチノミコト
苅田村大字堤字鉢ヶ久保にあり、少名彦命、素盞鳴命、大巳貴命を祀る。例祭四月七日
 
貴船 神社 (現在無し)
苅田村大字堤字研石にあり、大山祗命、罔象女命、豊日別命を祀る。
もと山神社、水神社、豊国神社の三社なりしが、明治二十二年十二月に之を合併せり、例祭三月十五日
 
水 神社 (提・光国)大字提字溝口3900 
苅田村大字堤字井ノ口にあり、罔象女命(ミズハノメノミコト)を祀る。例祭九月十八日
 
豊国 神社 (現在無し)
苅田村大字浜町字岡屋敷にあり、豊日別命を祀る、例祭二月十日
境内神社に磯神社あり、蛭子命、豊日別命を祀る、例祭二月十日
 
市杵島神社 (苅田港沖)大字浜町字神ノ島4499−2 
苅田村大字浜町字神ノ島にあり、市杵島姫命(イチキシマヒメノミコト)を祀る、例祭十月一日
 
豊国 神社  (下の水神社と合併)馬場字穴ヶ迫宗円寺丸尾220−33
苅田村大字馬場字穴ヶ迫にあり、豊日別神(トヨヒワケノカミ)を祀る、例祭六月十日
 
水 神社
苅田村大字馬場字穴ヶ迫にあり、水波能売神(ミズハノメカマノカミ)を祀る、例祭十月二十三日
 
貴船 神社  大字南原字積蔵寺1391
苅田村大字南原字積蔵寺にあり、高龍神(タカオカミノカミ)を祀る
 
貴船 神社 大字集伊森2638 タカオカミノカミ・クラオカミノカミ 
苅田村大字集字伊森にあり、高龍神、闇龍神を祀る、例祭九月廿九日
 
神集 神社(カンツドエ) (現在無し)」
苅田村大字集にあり、事代主命、景行天皇を祀る、例祭十一月三日
 
「京都郡神社明細帳」
往古景行天皇熊襲乃土蜘蛛等親征の砌、周防国より本村大字尾倉字近衛川に着船、
一時本所に行在せられ、天神地祗を拝し、官兵を集め、土蜘蛛を誅し、遂に九州を平定す、
爾来其古例に依り、奉幣使宇佐神宮へ通行の節は、京都郡一円の神官、当所へ集り、
諸神を勧請し、奉迎するを似て、定式と為す、其旧跡、今ナホ存す、面積一町余方、
周圍に土塀及堀等あり、例祭十一月三日似て祭日とす
 
八幡 神社(現在合併し無し)
苅田村大字尾倉字笹尾にあり、誉田別天皇、足仲津彦天皇、息長足姫皇后、三女大神を祀る、
社伝に云はく、文安二年三月宇佐宮の分霊を勧請せりと、大祭日三月十四日十五日、小祭日八月十五日
 
白庭 神社 大字与原字白石345−2−43 アマテルクニテルヒコアメノホアカリノミコト・オオナムチノミコト
小波瀬村大字與原字御所山にあり、天照国照彦天火明櫛玉饒速日命、大巳貴命、罔象女命を祀る
 
塩竈 神社 (與原上区)
苅田村大字與原字石塚にあり、猿田彦大神、天鈿女神を祀る、例祭七月七日
 
道祖 神社 (現在無し) 
苅田村大字與原字岩鼻にあり猿田彦神、岐戸神を祀る


宇原神社
苅田村大字馬場村字宮山にあり、彦波瀲武鵜茅草葺不合尊、彦火火出見尊、豊玉姫尊を祀る 例祭九月十四日
社伝には云はく、上代彦波瀲武鵜茅草葺不合尊苅田に上陸し、浮殿の地に居給ふ、後世其の荒魂を祭りて、
宇原宮と称す。寛治四年社を馬場に遷す、嘉吉二年以来神幸祭礼あり慶長二年以来鉾山を出す
寛永二年以後は此の社の分社として、小倉宮と称するもの尾倉字笹原にありしが明治二年二月に至りて、
更に旧社に合せり
此社天正年間社殿焼失す、今の社殿は明治二十六年十一月焼失後、三十二年に建設せしものなり
(境内神社に菅原神社あり、例祭九月二十五日)
 
大宰管内志 豊前ノ五(京都郡) 157ページ
(さて、宇原庄とあるもの宇は宮の誤にて宮原なるべきか「「村名帳」」に京都郡長川庄宮原村あり、
「所在」宇原八幡社 源經基馬岳城に築く
 
豊前国志 高田氏著  宇原社
〜〜省略〜(○神行事祭の大馬場の有故に馬場村といふ)例祭は九月二十三日、御獅子祓(司官の宅にて)
休後、村内を巡り給ふ、秋の神楽も假屋にてあり、神行の時、鉾持十二人、御太刀持一人、御誕生の後、
浮殿へ行幸の時、随神の古式也と云、浮殿亀甲山にミヤキし給ふ、夫より宇原の社へ行幸なる爰を産の宮と唱ふ
当社の森に大松あり、又石の上にも大松あり、此松に海中より火光来りて燈る、又神内の松に移て燈る、
甚も光神妙にして、論ふべき事にあらず、此火は海神の宮より献る燈也と云、当社は苅田庄十村の産神也、
当時の例祭は後花園帝の嘉吉二年壬戍六月二十九日始れり、又慶長二年丁酉鉾山出る事始れり
 
豊前志 渡辺氏著  宇原宮
馬場村にあり苅田の庄十一村の氏神なり(今、田字に神田といふあり此の社の神田なりしか)
当社の棟札銘文に奉建立豊前州、京都郡苅田庄、馬場村、宇原八幡宮宝殿一字、と有り
外記局記、豊前国京都郡雨米の八幡宮、宝殿一字、云々とあり外記局記、豊前国京都郡雨米の条に、
宇原庄見えたり・・・省略
 
「大宰管内誌」 宇原八幡社 天正九年 1581年 江戸時代の前
(宇原八幡社棟札銘文)に奉建立豊前州京都郡苅田庄馬場村宇原八幡宮宝殿一字云云
天正九年三月云云、さて宇原八幡社は京都郡寒田庄馬場村にあり、社は東向にして、
神殿、拝殿、石鳥居あり祭神宇佐本宮に同じ、例祭八月十五日九月二十九日両度にあり
八月祭には近辺九村より鉾山を出す、神宮三家あり神官広瀬河内、広瀬石見

「宇原神社緑記 惣家広瀬蔵本」
〜〜省略〜〜夫より数年を歴て、百三代後花園院の御字嘉吉二年(1442)、
国家安全、五穀成就、人畜平安の祈願として、壬戍六月二十九日に産祗宮古宮所の浮殿に、
神輿にて行幸なし奉る、假宮にて、式三番の神楽あり、氏子の村々よりは笠鉾ばかりにて、
年々式怠りなく執行あり、夫より百五十六年を経て、百八代後陽成院の御字、慶長二丁酉年八月十五日に、
行幸の式を改めて、放生会と号す、氏子村々よりは鉾山出る
前日十四日鉾山に幟斗り立、太鼓鐘にて濱中に曳出し、汐かき、村々に引取十五日行事之式
〜〜省略〜〜

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平成16年7月21日 調べ

馬場村
(ばばむら)
貫山の東に連なる高城山の東麓に位置する。地名の由来は「豊前国志」に宇原神社の「神事行幸、大馬場ノアル故」
とあり矢鏑馬の馬場にちなむと思われる。平安中期に宇佐弥勒寺領宇原荘があるが、これは宇原神社にちなむもので
、当地付近にあった。宇原社が南原村字浮殿から現地に移って来たのは寛治4年と言う
同社の故地であり、現在の同社の神幸の御旅所である浮殿は祭神のウガヤフキアエズの命を生んだ地とされ、
周辺は神話の舞台祭礼は今でも苅田神事とよばれてにぎわうが、もとの本宮であった内尾山にある通称内尾薬師の
洞窟も昔から景勝の地として有名。
小笠原氏小倉藩2代藩主忠雄の参拝などもあり、旧暦正月8日の薬師如来(県文化財)の初縁日には小倉城下などからの
参拝者が多かった(小倉市誌)。
地内には社寺に関する小字名が2割に及び、とくに天神免・地蔵免・司録神免・六社免などの免租田を意味する地名が多い。

「近世」馬場村 江戸期〜明治22年の村名
豊前国京都郡のうち。小倉藩領。新津手永に属す。
元和8年の家数51・人数123(男65・女58)、牛15・馬10(人畜改帳)。
享保飢饉の餓死者は74人(開善寺過去帳)字宮山の宇原神社(祭神のウガヤフキアエズの命・ヒコホホデミの命・豊玉姫)
はもと八幡神社、郡内届指の古社で村人の生活の中心だった。
 〜〜〜省略〜〜〜〜
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浜町 (はままち)
貫山東麓の平地、殿川下流の海沿いに位置する。小字の中には船倉・磯ノ神など海に関するものが半数を占める。

「近世」浜町村  江戸期〜明治22年の村名
元和8年の家数24・人数60(男29・女31)・牛1・馬2、水夫・鍛冶屋・舟大工・塩売がいた(人畜改帳)。
享保飢饉の餓死者は150人(開善寺過去帳)忠基公年譜「県史資料7」には「苅田村浜町紺屋八兵衛居屋敷ヨリかます
古銭掘出」とあり郡典私志には浜町弥三兵衛は屋敷内より古銭を掘出しそのまま奉献した褒美に「七商売無運上ニ被仰付」
とある。小倉京町商人新屋は苅田村浜町に抱屋敷所持と記事があり、早い時期から商業資本の進出が行われていたものと
思われる。字岡屋敷に豊国神社・字神ノ島には市杵島神社がある。〜〜省略〜〜

集村 (あつまりむら)
地名の由来については集ハモト神集ノ字ヲ用ヒシトイフ。
宇佐宮奉幣使通行ノ節ハ京都郡一円ノ神官当地に集り諸神ヲ勧請して奉迎セシトゾとある。
また人家の集住、あるいは共同作業の時の集合地ともおもわれる。農耕に関する小字名が多いので、
純枠の農耕集落であろう。
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中村平左衛門日記より

(1855年)安政2年8月13日 晴

光国村庄屋より神祭道具請返しにつき借金の願い

光国村庄屋又五郎来る、神祭道具質入請返の儀ニ付、急々札三百目入用、尤是非々々今日無之候ては、
右差支に相成し段歎出る、泰蔵手元へ当分預札有之に間、其内を三百目ふり替相渡し、来る十七日迄ひ
無相違返済の筈也

8月15日(晴)
苅田郷拾ヶ村神祭ニ付、今暁八ッ時津田出立、浜町迄参る、明六ッ前也、同村助次郎方にて休足、
五ッ時分 宇原宮へ参詣、四ッ半時分神輿御幸ニ相成る、夫より御供致し 闡取場と申所ニ鉾山六丁相揃し上、
着座順番にて相極し 役前印形並浜町村庄屋印形ニて下の通、庄屋五人抜取りし、下の通

壱 馬場  弐 集  三 苅田  四 浜町  五 提・光国・也、 雨窪は遠方にて・・・一番に進む
右の通順々舁立、浮殿ニ着座也、小(尾)倉宮の方は南原一の座、与原・尾倉は隔年にてし、神輿・鉾山左の通着座

御仮殿
     左座 小倉宮神輿  南原鉾山

御仮殿
     右座 宇原宮神輿  雨窪鉾山 馬場鉾山 集鉾山 苅田鉾山 浜町鉾山 提・光国鉾山

御山奉行御出張、小倉宮より先 御拝有之、御手代両人・大庄屋・子共役出張、右いつれも出張所仮家有之

角力興行有之■、夕七ッ時分引払に相成る、役前は宇原宮の御供致し磯の神迄参り、
夫より浜町の様参り御宮までは不参■事

「筋奉行へ神輿還御の届け」
神輿還御鉾山引■上、役筋へ三役連名にて飛脚を以御届出る、当年は仲津郡追立宮御祈祷に付御出張に付、
大村へ飛脚を立る
「小倉宮・宇原宮神輿の供、神移あり」
尾倉宮の御供は子共役也、今朝御神移の節大庄屋と地官馬場村又兵衛義相詰■上、御神移有之■、
古格の由也、尾倉は南原村孫三郎と申者地官の由也

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新津手永尾倉村庄屋岡崎文書 安政五年御用日記 (1854年)

      8月 9日       神事式納連歌奉納致し申候
      8月12日 晴天   丁ちん鉾山執行相済 申候
      
      8月14日 晴天   鉾山汐かき無指支相済申候
      8月15日 大雨   無指支神事相済大雨に付雨窪ハ 幣勧請に而相済申候尤集村へ
                   浮殿迄参り鬮取場には参り不申候

      8月16日 晴天   当場渡無指支相済申候 
  
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新津手永尾倉村庄屋岡崎文書 萬延二酉御用日記 (1861年)

      8月 5日       広瀬様 鉾山道作り致し申候
      8月10日 晴天   式納連歌村方引受候に付 執行致申候
      8月12日 白雨   丁ちん山今夜与原罷出  親方より酒五升被下候

      8月14日 夕方時雨 今日無故障鉾山汐汲相済 申候
      8月15日 晴天    鉾山例年之通浮殿相揃無 故障相済当年本中飯 村方引受に付才助相頼
                    御役人に指出申候七ッ時分 立方に相成申候
  
      8月16日 雨     人形当前并山当場共 無故障相済申候

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日本民俗学の折口信夫博士  折口信夫全集(第二巻)より

祭禮の練りもの
祭禮の練りものには車を付けて牽くものと、肩に載せて舁くものと二通りあるが、一般的に高く聳やかして、
皆神々の注視を惹かうとするが、中には神輿の形式を採り入れて、さまざまに高く築きなすを主眼とせないものもある。
地車の類は此である。一體、練りものゝ、土臺(土台)から末まで柱を貫くのが當然なのに、今日住々柱のない高い練りものゝ
あるのを見る。練り土台には、土地によって様々の名稱がある。ほこ・やま などの類は、柱を残している。
屋台・地車の類は柱がない。山車には柱のあるもの、また無いものがある。
 
やまは、言語自身標山(シメヤマ)の後である事を、明らかに示している。
*シメヤマ・・神の標めた山という意である。
ほこは、今日其名稱から柱の先に劔戟(けんほこ)の類をつけているのもあるが、柱自身の名であるらしい事は、
柳田國男先生の言われる通りであらう。
東京の山王、神田祭りに出る山車の語源は、練りものの全體(ぜんたい)の名ではなく、
其一部分の飾りから移ったものらしく思われる。
木津(大坂南区)の だいがく  の柱の天辺につける飾り物も、山車と稱へた。
また徳島市では、端午の節供に店頭ヌ屋上に飾る作り物の人形を だし或はやねこじき言ふさうである。
木津のだいがく の だし も、五十年以上前のものには、薄に銀月・稲穂に鳴子などの作り物を
取り付けていたという。して見れば、出しものの義で屋外に出して置いて、紙を招き寄せるものであったに相違ない。
 
祭礼に様々の作り物や人形を拵へる事は、必しも大坂西横堀の専賣ではない。盂蘭盆や地蔵祭りに
畑のなりもので様々な作りものをするのを見ると、神にも精霊にも招きよせる方便は、一つであったといふ事が訣る。
今日こそ練りもの・作りものに莫大(ばくだい)な金をかけているのから、毎年新規に作り直すといふ事は出来ないので
永久的のものを作っているのが、古くは一旦祭事に用いたものは、焼き捨てるなり、川に流すなりしたものである。

話頭が多端に亙る虞(おそ)れはあるがあるが、正月十五日の左義長(トンド)も燃やすが目的ではなく、
神を招きおろした山を、神上の後に焼き捨てた、其本来の轉倒(てんとう)して来た訳である。
何故作りものを立てるのかと言ふと、神の寄りますべき依代(よりしろ)を其上に据える必要があるからだ。
神の標山には、必ず神の寄るべき喬木があって、その喬木には更にある依代が附いているのが必須の條件で、
稍に御幣を垂れ、梵天、幣ヌは旗を立てていたものである。
ただ何がなしに、神の目をさへ惹けばよいという訳ではなく、神の肖像ともいふべきものを据える必要があったであらう。
神の姿を偶像に作って此を依代として神を招き寄せる様になったのは、遙に意匠の進んだ後世の事で、
古くはもっと直観的・象徴風のもので満足が出来たものである。
一体、神の依代は、必しも無生物に限らず、人間を立てて依代とする事があった。神に近い清き生活をしていると
考えられている神子(ミコ)か、さなくば普通の童子・童女を似て神憑(カミヨ)りの役を勤めさせるので、
此場合、これを よりまし と稱へている。
 
多くは神意を問う場所に立てるので、唯、神を招き寄せる為には、無心の物質を似てしても差支へのない訳である。
祭礼に人形を作る事は、よりましを兼ねた依代なので、この意味が忘れられると、殆ど神格化せられた人間の像を立てる。
神功皇后・竹内宿禰・關羽(関羽)・公時・C正・鎭西八郎などが飾られるのは此為である。

標山(シメヤマ)
標山とは、神の標めた山という意である。神々が高天原から地上に降って、占領した根據(こんきょ)地なのである。
標山には、必松なり杉なりマキなりの、一本優れて高い木があって、其が神の降臨の目標となる訳である。
だんじり・だいがく・だし・ほこ・やまなどは、みな標山の系統の飾りもので、神輿とは意味を異にしている。

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柳田國男「日本の祭」

神霊のよりつくもの、すなわち憑依體のこと。神霊がその意志と言動とをあらわすには
媒介物が必要であって、時あってかその様な憑依の現象が起り、人々はそれを神意であると
知っておそれかしこんだのである。その媒體は種々あって、樹木・石・御幣・動物・人間などが
普通のものであったが、幣を持つ巫女児男などが最も基本的である。
その様な人間をヨリマシと呼ぶ。
樹木を本體としたもので、樹木に神霊が降臨するとの信仰にもとづくものである。
樹の枝を手にした者が神の憑依體として神託を發するとの観念を示している。
種々の例を通じて樹木や石に神霊が宿るとの信仰が古く且つ有力なものであった事を知り得る。
今日祭の場所を標示するにはハタ・幟・柱・棒などが用いられるが、いずれも神依り木の観念に
発したものである。
 
もともとは自然の樹木を立てて祭の標示にしたことは、古典にもマサカキを根こんじにして立てたとあるのに
徴しても知れるが、現今それから柱・幟への中間形態として、緑の樹枝を以て柱・棒の上端を飾るものや
ツツゾ・シャクナゲなどの花を竿の端に結わえて高く立てるもの(天道花)が各所に見られる。
人が死んで17年或は33年経つと最終の年忌があって、杉の生木の四方を削って戒名や法語をかいて
上の方は自然のまま残したウレツキ塔婆というものを墓に立てる習慣も樹木を以て地と天との架け橋の
如く見る観念に基づいている。
 
柱を飾り立てて神祭の標とすることは恐らく神霊勸請の発達に伴った形式であろう。
柱で神を祭ることは伊勢の心御柱(しんのみはしら)の行事にも見られるが、大規模で有名なのは
諏訪神社の御柱(おんばしら)であって、これは元6年に1度大きな祭りをする為に特に大きな
樹木(現行では高さ5丈の樅(もみ)を4本)を立てることになっていたのであろうと察せられる。
榊(さかき)や柴を指し立てる儀式は紀州岩出の(よみざし神事)や信州穂高の(境立て)や
宇佐八幡の柴指(しばさし)など各地に残っている。
 
一方また幣の棒が神聖な力を持っていることは、オハラヒミクジやサツゲの如く、紙片に名前を書いて
器に入れ、幣で祓をした後、それで器にふれて最初にその端に附着して上がってきた紙に記しある
名のものを神意のある所として頭屋などに定めることで知れ、またその頭屋の家の標示には
御指棒(おさしぼう)・オハケといって大きな御幣の如きものを立てることになっている土地も多い。
この場合幣の要点は幣帛にあり、つまりは榊の小枝の玉串と同じ目的から出たものだということが重要である。
小正月の祝棒や能楽や歌舞伎の竹笹の採物もまた同性質のものであることも十分に想像せられる。

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山笠巡行
 
山笠巡行の意味は?
祇園御霊会を見てみると氏子地域では、神輿によって神迎えをおこない、また山を作り矛を立てて風流歌舞を
もって祟神を祓い除こうとしたものである。
 
祇園祭の山鉾に代表される山車・山笠・花笠等の風流は、いずれも疫病等災厄除去を希求して祟神を
祭却するところから始まったとみられるが、時代が降るにしたがって、祭を奉祝し祥瑞をもって各町内、
各家々の神が「祭る神」として山鉾を依り代として祇園の神を讃仰することになる。
 
当初六十六本の矛を立てたのは、日本全国六十六の国に因むものというが、それは国々の国魂の神が
集って祇園神に疫神の退散を祈ったことを意味する。
 
矛に迎えられたのは「祭る神」として国魂神であった。
同時に祇園の神もここに迎えて、一体となり強力な神威の発揚がみられら。
 
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宮座

氏子の内部において祭祀上特権を持っている集団のことで、祭りに多く見られます。
基本的には、左座右座、東座西座など二座が並立し、役割を分担しながら祭りを執行します。
宮座の成立は室町時代とされており、古く祭りを担当してきた家々が、新しく氏子に加わった人々から祭祀の
伝統を守ろうとして組織されたものと考えられています。しかし近代になって、ムラの性格が徐々に変貌したり
新興住民が急激に増えるなどして、その特権性が崩れたところも多くあります。

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イシコリドメノミコト(石凝姥命)雨窪区
鏡作りの神様

ウケモチノカミ(保食神)上町
食物の神様
豊宇気毘売神(トヨウケヒメノカミ)は伊勢神宮外宮(豊受大神社)の祭神・豊受大神であることは衆知のことと思う。
名前の受気(うけ)は食物を意味するところから由来しているという。
またの名を大宣都比売神(おおげつひめのかみ)、保食神(うけもちのかみ)、または倉稲魂神(うがのみたまのかみ)
ともいう。ただし「古事記」ではそれぞれ別個に独立した三人に分けて記載してある。

タヂカラオノミコ(手力雄命)松山
天手力男命(あめのたじからおのみこと)
腕力の強い神様

ハニヤスヒメノミコト(埴安姫命中町
伊弉冉尊(いざなみんみこと)が火傷して苦しまぎれに吐いた「へど」から鉱山、屎(糞)から粘土、
尿からは灌漑用水の神々が生まれた。そうのうちの屎から生まれたのが波邇夜須毘売神(はにやすみめのかみ)
である。波邇夜須は埴粘(はにやす)のことで粘土である。
また大地でもある。尿から生まれた彌都波能売神(みずはのめのみこと)は肥料の神とされている。
二組そろって田畠の神でもある。

クラオカミノカミ闇龍神)本町
闇淤加美神(くらおかみのかみ)の闇は谷を意味しており淤加美は水の神、または雨雪をつかさどる神で
竜神とされている。「意のままに水を操るのがこの竜神さま」
いったん荒れ狂うと手に負えない竜神だが、平常は生命のある万物の成長に恵みを与える尊い水の神

スクナヒコナノミコト(少名彦命)提区
少彦名神(すくなひこなのかみ)は禁厭(きんえん)まじないや医療、酒の神として全国的に祀られている。
国民の健康を守る医療・医薬に関係の深い神様。大国主命の片腕として出雲朝廷に力をつくした。

ミズハノメノミコ罔象女命)光国・提区
尿から生まれた彌都波能売神(みずはのめのみこと)は肥料の神とされている。

イチキシマヒメノミコト(市杵島姫命浜町区沖神ノ島
市杵島比売命(いちきしまひめのみこと)福岡県宗像神社・宗像三神の一人
美人のほまれ高い三姉妹。なかでも美しい市杵島比売命こそかの有名な弁天さま

市杵島比売命の市杵島は神の霊で斎き祀る島という意味があり、広島県厳島神社は市杵島から転成したものと言われている

トヨヒワケノカミ(豊日別神馬場区
「豊日別命」・由緒・イザナギノ尊・イザナミノ尊、二柱の生み給う十四の島の一つ・筑紫の島(九州)は
身一つにして面四つあり、面ごとに名あり。筑紫の国・豊の国・肥の国・熊襲の国という。
豊日別神は豊の国=豊前・豊後の御魂として守り給う神なり。

タカオカミノカミ(高龍神)南原区・集区
 「オカミ」は「龍(の古語)」とも書き『豊後国風土記』に地名伝承神話には、
この地にやって来た天皇の従者が、近くの湖で水を汲もうとすると「オカミ」が現れ、
汲むのを止めたという記述がある。『万葉集』の中にも、オカミ(龍)が雪を降らせる神として登場する。
 「タカ」は漢字が意味しているとおり、高いところ「山」を意味している。
『日本書紀』に登場するクラオカミと対比、または同一視されて、
タカオカミは山・空から水を降らせる水神(龍神)と考えられている。

アマテルクニテルヒコアメノホアカリノミコト(天照国照彦天火明櫛玉饒速日命)与原下区
天照国照彦火明命(あまてるくにてるひこほあかりのみこと)、
天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)ともいう。
神統としてはアマテラス大御神の孫、アメノオシホミミ命の御子、そして天孫降臨したホノニニギ命の兄。
ただ神武帝のころナガスネヒコと共にあったニギハヤヒ尊がアメノホアカリ命と同神か、ということには疑問がある




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山車(ダシ)
ダシとは、祭に曳く屋台のことです。
台の上に、鉾や人形・鳥獣・草木を飾ったり、人が乗り込んで賑やかに鳴り物をはやすこともあります。
山車が曳かれるのも、神輿同様、神の移動を意味します。
神は山頂に降臨するという信仰に基づいて、古く山を模した
標山(シメヤマ)が設けられました。
そしてここに憑依した神の祭場に移動させていたのですが、この形式が御霊信仰の盛行とともに
華やかなものとなり、現在の京都・祇園祭はじめ、各地の特色のある山車となったのです。
特に鉾の先端の飾りに、神の依り代としての意味が認められています。

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宇原神社は始め南原村に祀られていたが、寛治4年(1090)現在地に移されたという。
当村のほか光国・提・雨窪・苅田・浜町・集・南原・尾倉・与原の九村が氏子であったが寛永2年(1625)に
氏子村間に争いが起き、南原・尾倉・与原の三村の産土社を建立。のちこの社は尾倉村に移され
小倉(おぐら)八幡と称したが、明治二年(1869)宇原神社に合祀された。
宇原神社の神幸祭は慶吉二年(1442)に、鉾山の巡行は慶長二年(1597)に始まったという
ただし細川氏時代の寛永九年以前には苅田の神事は行われていなかったとする説もあり、

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タテマツル
祭祀、「マツリ」という語の意味は・・・
@祭りは「タテマツル」意だと説がある。
「古事記」崇神天皇の段には、宇陀の墨坂の神に、赤き色の楯矛を
祭り、また大坂の神に墨色の楯矛を祭り
また坂の尾の神また河の瀬の神に、ことごとわするることなく、幣帛を奉りたまひき。
とあって、楯や矛や幣帛を神に「タテマツル」ことを「祭る」と記している。
祭(マツル)は、祀る(マツル)なり、比もと同言なれば、楯矛を奉(タテマツリ)て祭(マツ)る意にて、
祭字は書くるなるべし。 「古事記伝 二十三巻」 と述べている。
すなわち「マツリ」は神に御食御酒や幣帛といったお供え物をタテマツル、献上、献供の意をあらわし、
それに「祭」の字をあてていることが判明する。


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祭祀と宗教
祭祀は、神を祭る行為であるから、当然宗教行為であるには違いない。しかし、民族の固有の信仰に基づく、
慣習となっている点で、特定の宗教団体の宗教的活動には属さない全国民共通の行事であるところから、
これを多くの国民は宗教とは意識してなかった。事実、明治政府は神社を宗教としては扱わず、
祭政一致を基本としながら政教分離の信教の自由の健前のもと、祭祀と宗教を分離(祭教分離)して、
神道の祭祀は国がおこなうという筋をとおし、国家的行事として扱いつつも宗教的要素の濃厚な葬祭や、
個人の宗教的信念に基づく教義を流布し、教説を唄える事は教派神道にゆだねられて神社ではもっぱら
祭祀のみを執行してきた。
戦後、神道指令によって神宮・神社も宗教法人となり祭祀も宗教行為とみなされるようになり、
そのために社会の各方面で歪を生じている。
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島の祭り
(C)Kaseda Music Labo,2002