神幸祭の始まりは・・◆鉦卸し◆9月の第三、土曜日深夜0時(日付は日曜日だが・・・)
土曜日の夜10時に地区の公民館に集合し出発前に鉦を担ぎ自分の町内を鉦を叩きながら
(カ〜ンカ〜ンカン・カヵカァ〜ン・カヵカァ〜ン・カヵカァ〜ン・カン・カンカンカン)とゆっくりなリズムで鉦を叩き町内の
皆さんに神幸祭の始まりをしらせ。いざ鉦を叩きながら出発!まずは海に行って葦の葉を海水を浸けて、
ついでに?鉦を海水に付けて(清め為に)そこから深夜0時までに宇原神社に到着する様に街中を鉦を叩きながら各地の氏子達が宇原神社に集合。
でもここで集合するのは何故か西町・本町・中町・上町・提・長畑区・港区・浜町・馬場区・南原区・集区・・・山笠は14基・参加
町内は15区なのに私が子供の頃から雨窪区・尾・倉与原上区・与原下区の4区は集まることが無かった。(近年では雨窪区と与原上区の参加もあり)
0時になった瞬間に神社からは太鼓の音が鳴り響き各区の氏子達が鉦を叩きながら神社の周りを(神社を正面に見て)左回りで3回まわる・・・
これまた私には説明できない昔からの伝統?
三回まわったら神社に海岸で海水に浸けた葦の葉を神社に投げ込み自分の区の御幣と提灯を安全祈願の為にあずけてる・・・
これが終わったら氏子達は、また夜中の街中を鉦を叩きながら町内まで戻る。 この鉦卸しの行事が祭の始まりになる
なぜ葦の葉を海水に浸けて神社に投げ込むかは只今、町内の方に聞いています。わかり次第にUPします。


鉦卸しが終わった次の日ぐらいから各地区で山笠の組み立て(今年16年度も9月19日〜23日頃に山笠の組み立てをする)
私の地区では広場にて当場さんや中央会が山笠を組み立てて山笠が最初に動く灯山の日までに山笠の点検をする
今では格納庫を所有する区もあるので、なかなか骨組みの状態を見れる機会が無くなってきた。
この期間中にも宇原神社では◆連歌奉納祭◆毎年、下の句を決めて色んな方がさまざまな句を作り神社の神殿にて読み上げ奉納する。


◆山笠が動き出す◆灯山(ひやま)◆1回目の運行はJR苅田駅前に集合する。宇原神社の神輿が海岸まで汐取りに下りてくる。
神輿のお供として灯山集合する。町内を練りまわし夜8時に駅前に集合する (中町・堤区・浜町・南原・馬場区の5台が集合する)
中町も平成15年に何十年ぶりに灯山を復活させた。 昔は各区も灯山を出していたのですけど年々、参加人数が減ってきて何処の
区でも運行するのが厳しくなってきたような状態で減少したようです。でも今年も他の区が頑張って復活させるようです。

今年、平成16年からは灯山は3日間の運行になるようです。
参加も2台増えるようです!本町さんと上町さんが参加予定のようです。

◆汐かき◆大祭前日の10月第一土曜日に苅田駅前に15時〜19時頃に骨組みの山笠に8本の赤い旗を立てて(幟山)で各区が汐かきに
やってきます。西町・本町・中町・上町・提区・港区・浜町・馬場区の8区が集合します(残りの山笠は各地区単独で海に汐を汲みに行きます。
駅前に集合後は苅田山笠特有の半分に折れた織り山を立ち上げ各地区の氏子達がパッピ姿で海岸まで鉦を叩き葦の葉を持ち海水で葦の葉を
海水に浸し自分の地区の山笠に戻り氏子や子供達に葦の葉を渡し山笠に投げて山笠を清める
。また鉦を叩きながら
氏子数人が宇原神社に向かい鉦卸し同様に神社の周りを左に三回まわり神社に預けた御幣と提灯を引き取って帰る
また山笠はこの間も鉦を叩き海岸横で神社に行った氏子達が帰ってくるのを待って一緒に帰る (苅田町郷土史の中では昔は山笠が
神社近くまでお供で着いて行っていた記録が書かれている)今では道路事情で駅前で氏子が戻ってくるのを待っている

*中町区は幟を立てる時の竹は全て当日に取りに行った青竹を使用する。
*ヨシの葉は竹同様に当日の早朝に穂が出てないヨシを刈り取ってくる。


◆例祭◆汐かきと同じ日に宇原神社で氏子総代たちが参拝して国家安全・五穀成熟・人畜平安を祈願する

◆神幸祭(大祭)◆この日は早朝5時に山笠に集合して人形や岩や飾り花を地区の皆さんと一緒に取り付ける
完成できた頃には出発時間の10時頃に毎年なる・・・慌てて法被に着替えに帰って直ぐに山笠の前に集まる
子供の頃には逸早く山笠に乗り込んで鉦を叩いて山笠が出発するのを待っていたのですけど・・・
(今では夏休みを利用して地区の子供達に関心を持ってもらう為に鉦叩きの指導をしているような常態です。)
各地の山笠も出発し順番を待って出発になるのですけど集合場所の浮殿(苅田役場横)まで中町から3キロの
道のり山笠の重みを感じながらクネクネ曲がった道を何度も山笠の方向を切りなおして2時間を掛けて浮殿にたどり着く、
その場所で初めて岩山笠の織りをおこし天高くスダレ(依代)と鉾を立てる。
 山笠を固定できた所で宇原神社から下られた
お神輿に皆さんで、お参りして食事になる。


当日、朝の運行は地区を出発する時には町内を回ってから浮殿(役場横)に向けて出発する。
曳き縄を出して町内の皆さんに山笠を引っ張ってもらい子供会の元気な掛け声と笛で山笠はゆっくり運行されて行く


15時には神輿も動き出し各地の山笠の織りを折り一台ずつ帰還する準備をする。ここからが苅田山笠のクライマックスの始まり
各地の山笠は練りまわし次々に帰還していくのですけど戦後ぐらいから数台の山笠を喧嘩山笠と呼ばれる様になった・・・・・
今では西町・本町・中町・堤区・上町・浜町が全ての山笠が帰還した後に1対1のぶっけ合いが始まる。近年では対戦相手を決め
1年に3回のみ山笠をぶっける事ができる。これを喧嘩山笠と呼ばれている
◆昔の話◆私がまだ小学生の頃には神幸祭(大祭)は10月2日と決められていたのですけど参加人数の減少と一時期、喧嘩山笠を中止され
盛り上がりが消えた瞬間に若者達や青年団の方の姿が消え、山笠が動かないような状態になったので昭和62年に10月第一日曜に
変更されたようです。とにかく私の記憶の中には今の様に役場の駐車場で喧嘩をする事は無かった・・・我先に地元のメインストリート
(通称マルショク通り)駅前の道路に戻り街中では至る所で激しく山笠をぶっけ合い夕方には次々の観客が苅田駅から降りてきて
街中に数千人の観客が道路や商店街の屋根に上って喧嘩する姿を日が暮れるまで繰り返される喧嘩を見ていた。
山笠と一緒に地区に戻る頃には真っ暗で7時頃になっていた。
次の日には小学校で何処の山が負けたとか崩れたとか・・・・・少しでも自分の町が崩れたりカキ棒が下がったら小学校の中では、お前の山は
負けたと言われ長い苦しい1年が始まる。またそれに平行して地区の中の子供達は通称ジンジン山を廃材置き場や家の中の木材で山笠の
模型を作って拾って帰った山笠の飾りの一部を付けたりソフビの人形を釘で打ちつけて、コマの紐を付けて町内を引っ張って回っては
仲間同士でぶつけ合い1ヶ月間は遊んでまわった・・・小さな頃には山笠の事をジンジン山と呼んでいた。山笠を大人達が組み立てたら
子供達の遊び場になっていたのですけど今では危険なので遊んではいけません・・・その前に子供達は興味も無いのか寄ってくる事は無い!
今では完全に大人のオモチャになってるような状態だと思う!このジンジン山を知ってるのは昭和43年前後に生まれた連中で、その後は
ジンジン山も街中から消えて行った・・・・・

◆各地区の読み方と色々な紹介◆各地区の紹介で間違いがありましたら、お許しください。
まず、苅田の山笠は大山(岩山の事)と小山(小さな四角の山笠)の2種類があった。
私が生まれた時には既に中町区は小山に形を変えていた・・・なぜ形を変えたかとは大山(岩山)は作る手間などから各地が話し合って
何基が小山に昭和40年頃に形を変えた(西町・本町・中町・堤区・馬場区・港区)
それから2000年頃を境に昭和40年戦後に生まれた若者達が立ち上がって苅田山笠青年会を発足し岩山(大山)復活の声を上げて
今では14基中の12基が復活!また今年も馬場区が復活するようです。

私が生まれる前には山笠も台数が少なく・・・その理由は今の様な町名ではなかったようです。
4区共同で1台の山笠を動かしていた時代があるようです町名も苅田村・浜町村・南原村・・・と九つの村で9基の岩山を運行していた資料も
残っている。それからも村が分裂し山笠の台数も増え今では15区14基での祭りになっている。
@雨窪(あまくぼ)
もっとも北部からの参加の山笠(17年度には山笠を新調するようです)浮殿まで5キロ以上の道のりを引っ張って来る
A西町(にしまち)昨年、岩山笠に復活 (西町区幸友会 http://www12.ocn.ne.jp/~taikun/index.htm)
B本町(ほんまち)こちらも2002年に岩山に復活!(保存会:本町区立志会)「りっしかい」
C中町(なかまち)私の所属する中央会 2001年に岩山に復活、最も世帯数が少ない小さな町です。毎年、手作り人形に皆さんビックリ
D上町(かみまち)通称(かんまち)と昔から呼ばれている。こちらも一度は小山になったけど直ぐに若者の力で岩山に2001年に復活
E提区(ひさげく)苅田町の中心(苅田駅前)に祭期間中は展示している。こちらは2区協同で運営している◆長畑区(ながばたけく)
  2002年に岩山に復活(光圀会http://www12.ocn.ne.jp/~taikun/index.htm)

F港区(みなとく) こちらは現在は最後の小山です。今後の動きが気になる町です
G浜町区(はままちく)この区は昔からの岩山 若者も多い 白道会(はくどうかい)http://www.geocities.co.jp/MotorCity-Rally/7839/
H馬場区(ばばく)宇原神社の所在する区 今年2004年は岩山笠で復活してくる!
I南原区(みなんばるく)山笠が集まる浮殿のお膝元 昔からの岩山を新調して豪華な欄間をつけて登場 (保存会:浮殿会)
J集区(あつまりく)こちらは昔から宇原神社の神輿のお供として文献にも残されてる山笠 欄間も古く必見 (保存会:一心会)
K尾倉区(おぐらく)この区の岩山笠も古く歴史の古さを感じる欄間が装着されてる (保存会:貴船会)
L与原下区(よばるしもく)国指定史跡:御所山古墳(http://pinebooks.cool.ne.jp/kanda/walkmap/gosyoyama.html)のある区 (保存会:白庭会)

M与原上区(よばるかみく)最も南部からの参加 昔からの岩山笠も新調 欄間も凄い! (保存会:明神会)

山笠の運行の見所
◆灯山(ひやま)◆骨組みの土台に四角の枠を組んで400個前後の提灯を飾って運行する。最近ではバッテリーを使って電球を使用してる
地区もあるのですけど昔からのロウソクを使用してる山笠が一番綺麗に思う
灯山の運行も平日の夕刻行われるので各地区も参加数が少なく準備が大変みたいです。
2003年で灯山を運行してる町名は提区・浜町区・南原区・馬場区・中町の5台で初日運行の駅前集合が物凄く綺麗です。
一日あけて2回目の運行は各地区の中を運行するので初日の苅田駅前集合を見に来られた方が良いと思います。

◆汐かき◆大祭前日の運行は苅田駅前に西町・本町・中町・上町・提区・浜町区・馬場区の7台が旗山で15時頃から夕方にかけて集まってくる
夜になると早めに岩山へ姿を変えた岩山笠もライトアップをし再度、駅前に戻ってくる。18時頃が見所だと思います。

◆大祭◆当日の見所は早朝5時頃に岩山に飾り付けをしている(雨窪区・中町区・南原区・尾倉区・集区・与原上区・与原下区)
他の岩山笠は前日の汐かきが終了後に岩山笠に変更される(近年、格納庫が増えていてるので前日の夜に岩山に変更する地区が増えてきた。

運行後は12時前後に浮殿(苅田町役場の駐車場)に続々と氏子や子供達に引かれた山笠が集合してくる
ここでは半分に折りたたんでいた岩山笠を全て起こし13メール前後の高さになる。

クライマックスは神輿が戻る15時前後が男達が活気ずく、おこしていた鉾山もたたみ帰還準備にとりかかる。神輿が戻った後には次々に各地区の山笠が
場内で練りまわし勇壮さを競い合う姿がシャッターチャンスです。16時頃には数台の山笠が残り次々に順番に出てきて山笠のぶっけ合いが始まる
これを皆さん(苅田喧嘩山笠)と呼んでいる(近年では話し合いで突き当てる対戦地区が決まっている)安全の統制を取っている為

県外の人達には一度は見てほしい「「けんか山笠」」これほどまでの巨大な山笠が、ぶつかり合う祭は福岡近辺でも見れないと思います。
この、けんか祭が始まると場内では実行委員のアナウンスが響き渡る!山笠に近づかないでください!でも苅田っ子や県外からの観客の皆さんは
一歩前へ足が出て行く!でも会場アナウンスは下がってください!・・・ボルテージの上がった観客も「「いけぇ〜」」っと思わず声を出してしまうほどの
ド迫力!!これこそ苅田山笠から、けんか苅田山笠に変わり法被を着た男達が勇壮に熱く燃える一瞬です。
苅田っ子の男達がこの一瞬のために・・・・・そして幕は一瞬にして閉じていく。

付き当てが終われば各地区が解散していく17時ごろ(近年、昔の様に数台の山笠が通称マルショク通り(苅田駅付近の繁華街)で練りまわし
以前の様な活気を取り戻す様な動きをして住民を楽しませている
18時には歩行者天国も終わり山笠が地元に戻っていく。
長くて短かった1日が・・・そして町には秋がやってくる。

◆当場渡し◆(山笠の解体)大祭当日に戻って解体する区もあるようです。(人形氏さんの関係で)
私が所属する中町は1週間後の日曜日にすべての解体を終わらせて格納庫に直す様になっています。ここも祭の最後のシャッターチャンスです。

◆山笠の装着部品名◆
◆車輪◆
山笠の運行は全ての山笠が車輪4個で運行しています。(私が子供の頃には車輪が木製(松)で出来ていました祭が終わると次の祭まで
用水路の中に浸けられていました。タイヤを支える車軸も樫の木で出来ていました。)
近年では真っ直ぐ山笠が進まない理由や用水路が無くなった為に鉄骨のホイルをはめてる所が多くなってきました。
簡単に押して動く足回りを皆さん工夫して考えているのですけど・・・中町は物凄く重いです。

◆四本柱・土台◆
中町は土台も四本柱も全て一尺のヒノキを使用しています。やはり土台をガッチリ固めて四本柱の外に車輪を装着して他の山笠に突き当てた時に
衝撃で前のめりにお辞儀しない様にバランスを取っています。
山笠の中は複雑に木を組み合わせて中に大人4人程度が乗って鉦や太鼓を叩いてる状態です。

◆かき棒◆
かき棒は各地区の倉庫や道路事情によって長さはバラバラの状態になっています。中町では14Mの杉の木を装着しています。
1本の重さは500〜600キロです。カキ棒を土台に付け方としては後ろの方をほんの少し長くして土台のバランスを取っています

◆棒締め◆
両方のカキ棒を前後にずれない様に絞り込む為に3センチほどの綿ロープを捻り叩きながら中心より左右逆まきで1本のロープを巻いていきます。
ロープの長さは中町では120メーター巻いています。これをしっかり巻いて無かった場合には山笠同士が突き当たったり山笠を練る時に緩んできて
運行できなくなります(最近では先にワイヤーで引っ張ってその上からロープを巻いてる地区が多くなってるのですけど昔の方は
1本のロープでワイヤーも使わず綺麗に頑丈に締め込んでいたようです。私も一度チャレンジしたのですけど1本を巻くのに2時間掛かります)

◆欄間◆
昔の岩山笠には全て付いていたものです。。左右と後面3箇所 これも謂れがあ昔から存在する中国古代に信じられた4種の空想的動物。四獣。

東を(青龍・せいりゅう)、南を(朱雀・すざく)、西は(白虎・びゃっこ)、北を(玄武・げんぶ・亀と蛇の合体)に当て、おのおの春夏秋冬に配し、また星宿に配当する。
(青春、白秋、朱夏、玄冬)

また、それぞれの居所の様相になぞらえて、地相上で、東方に流水、西方に大道、南方に汚地(おち)、北方に丘陵(山)があることを示す。
*今では何処の区も付いていない所が多いのですけど復活させようと地域ごとに製作してるようです。
四神なんですけど3枚の欄間??もう一枚(一箇所)は山笠前面の宮のハフの形に切り取った飾りの下や内側に付けていたのでは?
今では集区・尾倉区さんの山笠に残っています(貴重な2台)早く貴重な欄間を保存して欲しいのですけど・・・・・

◆太鼓・鉦◆
太鼓は直径50センチぐらいの物を片面打ちします。
鉦は40センチ前後の物を使用しています。(240年前の鉦を使ってる地区もあるそうです)鉦を叩くバチは中町では毎年作り変えています。
バチの素材はムクの木の直径3センチぐらいの枝を切って来て中心に穴を開けて握りやすい枝を加工して取り付けて水の中に浸けておきます(25本ほど作ります)
町内の先輩達が言うのはムクの木が柔らかく鉦が割れないそうです。使う1週間前ぐらいに作ります(地区ごとに素材は違います)


◆飾り物◆大祭当日に装着する物
山笠の折りを起こすと一番上には金1個・銀2個の鉾型の(子供の頃は、きんかんぼうずと呼んでいました)
1本の竹の先端を八つ割して綺麗に竹組みをし鉾(らっきょを逆さまにした様な)の形に組んで後は新聞紙を張って、その上から金紙や銀紙を貼る
鉾の3個の意味は色々有って鉾型に神様が下りてくると言う(山笠も鉾山と呼んでる年寄りが沢山いる)3個の意味は民俗を研究してる先生に聞いたところ
神社の御神体が3人だから3個では??この様な意見も有ったのですけど今だ不明です。
昔はこのキンカンの下にスダレを丸く巻いて付けていたのですけど(リンと言う物)最近では何処の地区も付けて無くいつの間にか消えていった。
このリンには大切な意味があると宮司さんは言っていたのですけど意味を聞くのを忘れていました。*調べて書き込みます。

「依代」(よりしろ)キンカンの周りに竹ひごに色とりどりの5色の紙を巻いてる物の事を言います(通称:スダレ)
キンカンからこのスダレに神様が下りてくるので、大祭当日に山笠が地区に帰還した時に地区の人達が丸めて持って帰る
昔は屋根の上に上げると火事にならないとか良く年寄りが言っていました。今では持って帰る人も少なくなってきました。

「岩」竹の骨組みで組んだ物に新聞紙や米袋をノリで貼りペンキで、いろんな色で各地域の特色を毎年出す(人形氏に作ってもらう地域もあります)
私の所属する中町では保存会(中央会)が手作りで毎年作っています。何で岩なのかというと昔から大きな岩に神様が宿るとか下りてくる・・・色んな説があります。
また地元の苅田港から苅田の風景を見た姿と言う方もいます。

「人形」これは人形師に任せて武者人形を昔から付けてるようです(昭和24年ごろの写真では板に絵を書いていた様子も見られます)
*大正後期の写真でも武者人形を確認できます。発行所:(株)郷土出版社 「「行橋・豊前の100年」」P40
私の所属する中町(中央会)は2002年から会員の皆さんで人形や岩・・小道具を手作りで作っています。
人形は発泡スチロールを削って人形を作っています(発泡が高価で苦労します。(参考 長さ180の45真っ角が7000円)まだ安く仕入れる方は連絡を!
大体の人形や飾り物の制作費は20万円ぐらい掛かるのでは??? 何年後かに使いまわしは絶対無いので保管も大変です。

「ぼて花」人形の前に飾る白とピンクの花の事です。紙を当場(当場とは区民に何年かに一度回って来る役)の女性の方がボテ花を男性はスダレを
作成いたします。素材は紙を綺麗に花の形に折り後は竹ひごに取り付け金銀の短冊を数枚付けて完成です。
このボテ花も祭り終了後に丸めて持って帰り家の中に飾る習慣が昔はありました。

◆太鼓・鉦のたたき方◆
リズムは2種類 文章では簡単にしか説明できません(スイマセン)◆◆かんだ郷土史では4つのリズムがあると書いていた・・でも子供のときから2種類でした。
私が子供の頃は鉦のたたき方が悪かったら先輩達から山笠から下ろされていました(笑)だから一生懸命たたいて手にマメができていました。

◆葦(ヨシ)の葉◆
鉦卸しと汐かきの時に使用する葉っぱの説明です。(中町では使用するヨシは神事の夜明けに切り取りに行っています)
池や沼などに生えるイネ科の多年草です。かなり大きくなり、3メートル近くまでにもなります。茎は硬く、中空で節があります。
葦(あし)という呼び名は、「悪(あ)し」を思い起こさせるので、
後にヨシ(良し)に変えられました。植物分類学では「ヨシ」を標準和名としているそうです。

◆私が思った疑問◆大山(岩山)と小山◆
昭和40年前後に苅田山笠の提区・中町・本町・西町・馬場区は小山になったのか?その頃の青年団の方が言うには高度成長化で仕事も忙しく物も豊富・
遊ぶ物は増えてきて仕事も忙しく祭りに参加出来なくなってきた様な時代になってきたと言っていました。(関心がなくなったのか?)
そこで大山(岩山)を小山に変更・・・なぜ?あの形の山笠になったのか!それは人形師の提案ではないでしょうか?近隣に似た様な山笠も沢山あるし
人形師の地元の山車も同じ形の山笠なので人形や飾り物の使い回しができるので苅田町の近隣は似た山笠が多いのだ!
では小山の歴史は一番何処が古いのか??調べてるのですけど分かりません!今度、人形師に聞いてみます。
昭和は40年前後に岩山笠から小山に変えなかったら今頃、私の中町区の山笠は存在してなかったのか?昔は上・中・本の三区協同の山笠だったと
聞いた事もある・・・それが別れ地区ごとに一基ずつの山笠になったようです(昔の資料では苅田には9台の鉾山と文献に書いてある)
何年頃に14基になったのかは今度調べて書き込むことにします。
以前、地区の年寄りに聞いた時に中町区には書き覚え(念書の様な物)これには中町区の世帯数が無くなるまで祭りは続ける・・・
この様な文章、書きをした事があると言っていました。他区の年配者も同じ物を書いた事があると言っていました。
私達、若者も昔の方の様な心意気で560年の伝統を受け継いで頑張ろう。

◆中町区の代紋◆
左のマークが中町区の法被の背中に印刷されている代紋です。
何時頃作られたのかは以前、中町の人が言っていたのですけど・・・忘れてしまいました。(確か名前は山口さん?)
法被の周りの桜の葉っぱが央の字で作られているのです。その真ん中に「中」を入れて昔から青年団は「中央会」と言うそうです。
中央なのか?それは三区協同の時代に三つの町が一つで上町・中町・下町(本町・西町だと思います)
この三区で苅田村と言う名前で一基の山笠を出していたのだと思います)その真ん中の区なので中央って言う意味でこの様に法被に書かれたのでは?

       ◆中町の灯山◆
        35年ぐらい前に出していたようなんですけど・・・数年で止めたようです。
        その後、灯山・岩山復活の声で中央会を8年前に結成2001年には岩山笠を中町区民の皆様に協力して頂いて復活させる事ができました。
        01年には形だけの灯山を作って運行する事は無かったのですけど区民の皆さんに見て頂き喜んでいただきました。
        02年には試験的に中町区内の運行を区民・中央会の皆さんで動かし子供さんに喜んでもらえ・・翌03年には私が生まれて初めての灯山での
        苅田駅前の灯山集合場所まで参加してきました。他の区とは違う昔に運行していた形を再現し岩山の骨組みのまま灯山を提灯を着けての運行
        
        上に立ち上げてる部分は運行中は折り曲げられてるので何度も提灯の中に入れてる電球の玉がこぼれ・・・苦労しました。
        電源はバッテリーだと運行時間が長いので電灯が消えるといけないので今回は発電機を山笠に積み込んで運行しました。
        写真の形では電線の関係上、運行できる場所が無く苅田駅前で写真の様に折りを起こして皆さんに披露いたしました。
        

◆幟山◆汐かき
汐かきに出発する時には赤色生地の幟を中町では8本立てて行く 幟の生地はラシャと言う生地を使用しています。
なぜ8本なのかは今、きちんとした事を調べています。

◆岩山の運行◆
苅田山笠の岩山は何時頃から折りたたみをして運行する様になったのかは?多分、電線があちらこちらに通りだした頃に運行できないという理由で
折りたためる山笠になったのでは?その昔は起こしたまま運行していたのではなかろうか・・・・・?それとも山笠がまだ小さかったのかも・・・?
近隣では大分県日田市(日田祇園)のように山車の高さが12Mの鉾山が運行できるように電線を地上に埋め込む方法もあるのですけど莫大な費用が・・・
毎年、大祭当日の浮殿に入場する際には岩山の折を起こし入場している。


◆けんか◆
けんか山の始まりは昭和からと言う人もいるけど大正後期の写真には昔、喧嘩山で使用していた喧嘩棒が付いた写真がある!
喧嘩棒とは普段の山には2本のカキ棒が付いているのですけど昔はカキ棒も今の様に長くなく2本のカキ棒の真ん中に、
もう1本カキ棒より長い棒を付けていたようです。(長さは2本のカキ棒より2〜3M長い棒) 今ではこの喧嘩棒は付けていません
けんかのやり方は簡単に説明すると1対1で30Mほど離れて正面から、ぶつかり合うのですけど時速は10〜15キロぐらいだと思います。
速度が遅くても重量が4トンもあるので衝撃は物凄いものです。当たりが悪ければカキ棒同士が当たってしまうので鼻先の舵取り責任者がロープで
カキ棒同士が当たらない様に舵を取っています。
ぶつかり合いの衝撃で中で鉦や太鼓を叩いてる人間は注意しないと鉦で頭を切ったりしてるようです。また上に乗って旗振りをしてる人も衝撃で山笠から
落ちる方もいます。とにかく物凄い衝撃なので当たり所が悪ければ山笠にもかなりのダメージが・・・この様な当たり方を3回ずつと決めてやってるので
今では山笠もそこまで崩れる事も無くなったのですけど、昔のけんかはビデオでも記録されているのですけど、とにかく警察が止めに入るか、
どちらかが崩れるまでやり続けて毎年、山笠の被害も凄かったようです。昔から、けんかは堤区は西町・本町・中町の3台を相手にしていたので
毎年、山笠の被害が凄かったのですけど苅田っ子の意地があるので止める事はありませんでした。とにかく路上で、けんかをやってる頃は
ルールなんかも当然無く!岩山だった上町x浜町の喧嘩は凄かった!大きな山が何度も路上で突き当たり一方が休憩してる間に突き当てたり・・・
前のカキ棒を上げたまま突進していって相手の懐にカキ棒を突き刺して四本柱を折っていたのです。
ぶつかり合った山の衝撃の弾みで公衆電話や街路樹までなぎ倒していました・・・今では考えられないような「けんか」でした。
画像転写禁止

◆↑この写真↑は、大正時代の写真です(1920年頃)。◆苅田町の中でも最も古い写真だと思います。
まだ皆さん同じ帽子を被って祭り見物しています。まだほとんどの方が着物姿で祭り見物してるので大正後期の写真では?
苅田山笠では法被の説が昭和からだと言われてる方が多かったのですけど、この写真の中では法被の背中に「「濱」」と書かれた法被を着てる方が
写っていました。「「濱」」とは浜町区の事です。他の地区の法被を着てる方は見当たらないのですけど「「祭」」と書いてる法被を着てる方が居ます。
また写真の中には色付きの柄が入った着物を羽織ってる大人や子供が居ます。
露天商では氷や焼き物・野菜を売ってる姿が見られます。

◆注目◆喧嘩山笠の説は昭和に入ってから、やっていたと言う他地区の長老方が若者の前で言っていたのですけど、その説も・・・?
写真の中には「「喧嘩棒」」が付いてる山笠が確認できます!着いてる山笠は左端から堤光国・上町の2台には喧嘩棒が装着されています。
ハッキリは見えないのですけど、もう一台となりの浜町区の山笠にも取り付いてるようです。
左端の切れてる所に、あと一台写ってるのが下町(西町・中町・本町)だと思います。
写真で山笠並んでる順番は左側から堤光国・上町・浜町・雨窪・・・・・・あとは確認できません。
◆下の写真も大正頃だと思います◆

画像転写禁止◆1920年頃◆
◆この写真では山笠が11台確認できます。左下の男の子が法被を着ています。左襟には○山笠と書かれています。
この時代から山笠と言われていたようです。
上の写真とこの写真の時代は一緒ぐらいだと思います山笠の後ろの木の形や枝が同じ様に見えます。

◆鉦のたたき方◆(追加)
4つの、鉦のたたき方(かんだ町郷土史)
この4つとは苅田山笠でも多分、雨窪・西町・本町・中町・上町・提町(6地区)と他の地区の鉦のリズムが違うことを書いてるのだと思います。
2種類のたたき方は普段の運行中の時には遅いリズムでたたいて山笠が停止したり走り出した時には荒々しいリズムの早鉦ををたたく。

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ここからは今年の日記にさせて頂きます。(次々に歴史や文章の意味を調べて行きます。調べた文章も次々に換わっていくと思います)お許しください

16年6月24日
このHPを作成する時には苅田山笠と書いていたのですけど色々な事を聞いたり調べる間に山笠という言葉は、どうなのかな?やはり子供の頃から神幸祭と
言っていたので今後は神幸祭と書き込んで行きたいと思います。
疑問になったのは何時の時代に苅田山笠に変更されたの?昭和48年に県無形文化財に指定された時から?でも上の写真の子供のハッピの襟には
山笠と書かれてるのですけど・・・辞典で調べても山笠と文字は何処にも出てこないのです。近隣の祭りを見ても田川川渡り神幸祭・犀川町の生八神社・神幸祭、
昔から近隣の祭りは神幸祭か祗園、の文字しかないのですけど・・・疑問です。
宇原神社の昔からのポスターにも宇原神社神幸祭と書かれていました。

祭りの形でも調べていけば豊前型と筑前型と分けてる人もいるのですけど豊前型とは苅田町近隣の行橋市(今井祗園)犀川町(生八神社神幸祭)田川市(風治八幡神社川渡り神幸祭)に見られる幟山(のぼり山)昭和の初めまでは金田町の神幸祭も幟山を出していたのですけど筑前型に変更
筑前型とは博多山笠や飯塚祗園・金田町(飯土井神社神幸祭)北九州市八幡(黒崎祗園)台座に人形を乗せてる山の事と書かれていました。

16年7月5日(月)晴れ
今日は朝10時半から地元、南原小学校6年生の方達と苅田町の文化財(苅田山笠)の質問や話をしてきました。
色々な質問を聞かれて少し慌ててしまったのですけど・・・自分の区(中町)の事なら何でも分かるのですけど南原区の山笠の重さや
何で提灯山笠が出るのか?何で喧嘩するのか?・・・難しい質問をされて苅田山笠青年会の広報を担当させられた私はビックリ。
もう少し苅田山笠の伝統を調べて皆さんの質問に上手く答えられるような親父になろう!!
質問の中でも「「何で喧嘩するんですか?」」神様が山に下りてきて賑やかに騒いでるんだよ!それで氏子達も元気になって・・・って言いたかったけど
色々あるので言えませんでした。回答した言葉は昔は気性の荒い漁師町だったから山を遊び道具に使ったりして遊んだのでは?
地県で喧嘩する所は・・・昔は漁師さんの漁場争いや水利権の問題なんかで山を使って喧嘩したという話もあるのですけど・・・
まぁ〜九州の祭では山車に女性が乗るという事が無いので・・やはり気性の荒い九州男児だから仕方ないですね。。
こんな回答を言って汗をかきながらシドロモドロでした。  

でもなんで灯山を出して織山を出すのかを良く勉強しておかないと・・・今度は絶対に聞かれそうな予感がします。

エアー地下足袋で今年は・・・
この写真は地下足袋の踵にエアーが入ってるタイプです。
6枚ハゼと12枚ハゼが販売されてると思います。販売価格は店によってバラバラです。私が購入してるところは4200円ぐらいで購入できたと思います。
地下足袋の色はホワイトとブラックがあります!今年は是非、履いてみたらどうでしょ〜物凄く足裏も痛くないし足首や膝にも優しいと思います。

16年月8日(木)晴れ・雨 物凄く蒸し暑い日
本日やっと独自で集めた資料のまとめが少し出来た。
@前から疑問に思っていた。スダレの本数!これは毎年、気になっていた。中町では当場で毎年数を決めてる様なのですけど絶対に本数も昔は
こだわって本数を決めて作っていたと思うのですけど今では数を少なくしないと鉾(金カン・銀カン)が良く見えないと言って本数が減ってきた様です。
近隣の祭をしてる方に聞いても?たぶん本数は意味のある数だと私は思います。たとえば1年365日の年には365本とか・・・
その昔,村に住んでる人が少ない時には地区に住んでる家の数や世帯人数分の数?神様が依代(スダレ)に下りそれを各家に持って帰る
習慣が今でも残ってるのでは?
*学者さんは山・鉾の形全体の台を依代と言う方も居る・・・苅田のスダレ(依代)これの形を見たら榊(さかき)の様に葉っぱ上の物が上に向く様に作ってる
榊の代わりに作った紙飾りでは?それから岩山全体も岩の取り付け様によっては榊(サカキ)に見えないでしょうか?

16年7月12日(月)猛暑!
本日、小学生の質問で山笠には掛け声は無いのですか♪・・・私も昔から思っていたのですけど掛け声が確かに無い。。
昔から決まった掛語は無いようだ??どうなんだろって答えたのですけど
私が小学生の頃には前のカキ棒を上げる事を「「オーノ」」と言っていた事を思い出しました。このオーノとは親父達が書き棒をあげる時にかけていた合言葉??
でも、よくは覚えてないのですけど運行中の掛け声は無かった!今では鉦や太鼓のリズムの間にオリャって言ってる地区もあるのですけどけど・・・
決まった掛け声は無いと思います。

16年7月16日(金)猛暑
本日は南原小学校に青年会の役員5名で、お邪魔してきた。
小学校で待ってる時に青年会役員と・・・山笠が動く時の掛け声の話をしたら・・・小さな頃から皆さんオリャでした。
あと、前のカキ棒を上げる事は上町の方はオーノでしたけど・・・浜町と南原の山笠はコーノって言うらしいです。
今は皆さカキ棒って言ってるんですけど小さな頃は親父達も!シン棒って言っていましたよね!今でも年配者の中でシン棒って言ってる方がいますよね。
棒締めの所をカキ棒って言っていました。
あと・・何年前までかは中町の、お寺の建物の下に中町や他区のカキ棒をなおしていました。お寺を建て替える時に雨窪区さんや本町さんと居る物は
皆さんで分けたような事を言っていたのですけど・・・なんで寺の下に祭りの道具が・・・??不思議です。 

16年7月20日(火)猛暑 東京地方39.5度
山笠が何時頃から出てるのか・・・・・

嘉吉2年(1442年頃)の宇原神宮の緑記によると嘉吉2年の帳面に見ゆ、この時には6月19日に浮殿へ御行幸・・・鉾山もなく、
笠鉾計りに而、祭事色々毎年ある由、帳面に出ず慶長2年(1597年頃)より鉾山に成る
此時より御神幸(((この時から神幸祭になったのでは?)))8月15日に成れるとあり
9月19日に矢鏑流馬あり、慶長12年(1607年頃)の目録写し

この様に文献には載ってるのですけど1597年から岩山が出てるのでは?
昔は6月に祭りをやってる時もあるし・・・それから旧暦8月の14日に幟山を出して汐かきをして15日に鉾山を運行してると書いています。
まさ文献を見てると9月の末頃まで祭りをやってるので長い間、祭り期間中だったのでは???神楽や流鏑馬・・・今では無くなってる。

祇園から放生会・・神幸祭に名前も変わって日にちも動いてるようです。気になるのは灯山?って文字が出てきません。

*宇原神社も宇原八幡宮ですね〜本日、気になって神社に行って見てきたら神社の石鳥居には宇原八幡宮と書いていました。
何時、作ったか年号は確認してこなかったのですけど、やはり八幡宮??
◆石鳥居年号文化11年8月1日

慶長時代には「山曳き」と書いているので最初から岩山は木のタイヤがついていたのでは?担ぎ山は多分、その前の笠鉾時代では??

この文献は「「祭あれこれ」」に書き写しています。

16年7月21日(水)猛暑
◆◆◆近隣の祭りの本を見て・・・
苅田山笠の事を書いいるのですけど・・・何か間違ってる!!  文章の中には(今は沖の潮掻きは行われてない)

16年7月22日(木)猛暑
昨日、書き込んだ↑近隣の祭りの本を再度、良く考えて読んだのですけど・・書いてる行事は間違ってない・・・
では(今は沖の潮掻きは行われていない)と言う文章を考えると昔は汐かきも沖まで行っていたのでは?神ノ島なんかに??
その昔は神ノ島には大潮前日だったら道が出て渡れていたのでは・・・これ以上は。。謎です

中村平左衛門(ヘイザエモン)が1855年に書き残した。日記を読んで・・・やはり祭り当日にはお役人(大庄屋)でも浜町の神社(磯の神)に参ってる
その後に宇原宮に参詣しています。浜町字岡屋敷にあった豊国神社(境内神社に磯ノ神)が重要な場所なのでは?

1855年8月13日に光国村庄屋は祭りをする為(神祭道具質入請返)に借金の願いを出している。

1855年8月15日には鉾山も6丁だけが出ているようです。尾倉鉾山の文字が出てきません 小倉御神輿と言う時があるので神輿で参加
(与原鉾山の字が見えない)
他の古文書には1861年8月12日には、丁ちん山(灯山)与原罷出 と書いてある。

詳しくは「祭あれこれ」にアップしていきます。

今、調べている古文書・御用日記などは当時の様子を間違えなく書き残してると福岡県が認めているものです。
この古文書(御用)日記や大宰管内志などから京都郡誌や苅田郷土史などが引用して作られている所もある。


昭和48年4月19日

16年7月24日(土)曇・晴れ
尾倉村庄屋岡崎文書の古文書解読で頭を痛めている毎日・・・難しい漢字ばかりで・・・
でも重要な事を本日も発見!8月16日に当場渡しをしている事と・・1861年には人形が着いていた事です。
萬延ニ年8月16日 「人形当前并山当場共」  訳詩:人形引き受けならびに山 当場共に

16年7月26日(月)晴れ
苅田神事の御旅初は南原の浮殿・・・この「浮殿」と言う神社?御旅所?は大宰府天満宮や犀川町や添田町:彦山の地域にも存在する。
宇佐八幡宮には和間神社「浮殿」は水の上に建てられている小さな神社です。苅田の浮殿神社も、昔は海の中に建っていたのではと言う節もある。
この地域は宇佐八幡宮の影響を受けて時代が流れてきているので「浮殿」いう場所が多く存在する。

上のセピアカラーの写真の中で上町区と書いていると書き込んだけど大正時代には上区・下区の時代が終わっていたのか疑問が残る所です。
早めに調べて来ないといけないのですけど・・・何時の時代に、また何年に地名の呼び名が付いたのかを調べるのがは先ですね。
また調べて分かり次第にUPしていきたいと思います。
その前に浮殿の絵図を見て謎をが少しあるので解かないといけないし・・・古文書の中に「「1861年8月12日 白雨 丁ちん山今夜与原罷出」」・・・
これは与原区の丁ちん山笠が出たという意味では無いのでは・・??罷出(まかりで)という意味が調べられない。

これが昔の浮殿の絵図

この絵図の下の方の広場が神事場と書かれています。その上に松林があって、お宮の入り口の左前には墓場になっています。
左下の家の前には海と書かれています。(この図面はボロボロの図面を書き写したと宇神社の宮司さんが言っていました。


神幸祭 聞き書き
昔の時代は6月に苅田神事は行われていたと町内の老人方が良く言っていたのですけど・・・文章で書き残されてるものが無い
その時代も、ハッキリは今だ不明です。6月に山笠を出した年に疫病が流行8月に変更された。
次は旧暦8月から9月18日(祭礼始まり)(大祭日10月2日)に変更された時期も今の所、不明です。
それからは昭和62年に舁きて不足で10月の第一日曜日に大祭を行うようになった。

当時、山笠の一番上に取り付けられているスダレの真ん中の棒に3つの竹で作った輪型を取り付けていた。(上の古い写真でも確認できる)
これは国家安全・五穀成就・人畜平安を丸くおさめるという意味があったのでは?今では14基の山笠から消えてしまった物です。

「神幸祭」行事は一般的には、「おわたり・みゆき・おいで」という、苅田の中でも昔は苅田山笠が神ノ島に渡っていたのではと言う人も居るのですけど
苅田地区に神輿や山笠が渡れるような川が無いので苅田港沖にある神ノ島に渡っていたというのでしょうか?神幸祭行事が絶対に川を渡っていたかと
考えれば渡ってない近隣地域もある。川の上流に行けば川渡りを見る事が出来るが川の河口では水深もあるので・・・?
近隣で川渡り行事をしていた行橋市:今井祇園祭・・犀川町:生立神社神幸祭などは山車の車輪を見れば分かるのですけど車輪の大きさが
5尺から〜6尺ほどの大きさがある車輪を付けてるので水深がある川でも渡れていたのではないでしようか?
苅田山笠が昔は大きな車輪で運行した事も聞いていないので山笠は海や川を渡っては無かったのでは。御神輿なら潮のひいた海を渡って
神ノ島に渡ったかもしれない・・・・

16年7月29日(木)快晴
苅田町の郷土史や京都郡誌にも、どちらが本当なのか??キンカンの下に付けている通称「スダレ」(本にはボテ花?ホテ花と言う依代を三本付けている)と
記載されている。前の文章にも、この通称「スダレ」を神幸祭が終わって自宅に持ち帰ると火事除けになると書いた。正式名はホテ花が本当だと思う
ホテ花・ボテ花とは梵天という言葉から来たものである。梵天とは火を消す道具です。(また火事にならない様にとの意味)
梵天とは仏教から来た言葉で祭りの中には沢山の仏教言葉が存在している。やはり宇佐八幡の流れで着てるので「宇佐弥勒寺」仏教が関係してくる。
通称「スダレ」ホテ花の数の意味はいまだに不明だけど行橋市の今井祇園の花傘は一年の日数である365本の花串で出来ているとか。
花傘の中央につるされているのが「心花(しんばな)」。奉書に包まれ一年の月の数である12本の花串からなります。閏年は13本。
やはり数には意味があるのです。幟の本数にも・・・犀川町・生立神社山笠の説明の中にも鉾の周り幟ぐるり33本と書かれている。
「ぐるり」とは幟を立てる竹の先端に付いている丸型の風が吹くと回る物の事です。33個とは天保12年の文書にも残されています。

この数の話なんですけど神仏習合で仏教の数が神事に多く使われているようです。

京都郡誌 P128
文章の中に当社宮柱十七家次官・・・と書かれています。
次官とは祭りを取り仕切る人の事です。(主な神という意味)
この次官という言葉は戦国時代から使われてきた言葉です。近隣では行橋市の今井祇園が近年まで使われていたようです。
今では次官が祭りをしている所は大分県中津市(中津祇園祭)が今なお受け継がれているようです。

犀川〜彦山のお祭りには次官ではなく次家(じんが)と言う

16年7月31日(土)快晴 台風10号直撃
本日、中町区の事を調べに区内を回ってみた。
中町の山笠は何時から出たのか?・・・・昭和24年から山笠が出たようです。(記録写真有り)
昭和22年、神幸祭には旗を持って汐かきや神幸祭(大祭)に参加した。地区に戻ってきてからは旧土祖神社前にて区内の女性方が踊りを見せた。
昭和23年には区内方が御神輿を作り神幸祭に参加
(この形体は何処の地方でも見られる神輿に飾りををつけたりサカキをさして運行してる)笠鉾ではないでしょうか



 この頃は中町ではなく中區と書かれている。      ふくおかの民俗芸能 苅田山笠 DVD 撮影15年10月5日

昭和24年10月6日撮影の中町記念写真。写真には中區と書かれている。やはりこの時代では苅田村の名残が残っている
下区は中・本・西と言っていたと年寄り方は今でも覚えている。でも區と付けたのは何時の頃なのだろうか?中町が最初の呼び名では無いのだろうか?
町という言葉はそこまで新しくない・・・1855年代には浜町村と書かれているので町という言葉を使っていた浜町は、やはり商売で栄えていたのでは・・?
苅田村(上町・中町・本町・西町)この様に苅田村を簡単に一文字で分裂する時に分けたのではないでしょうか?他の町は全て村名で残ってる地域なので、
上・中・本・西と苅田村時代から村なの中は分かれていたのだと思います。人家も昔の中津街道沿いにしか家も建ってなかったので(昭和21年に苅田町林田家に
あった図を行橋市の定村氏が書き写した苅田村や他の村の図がある)この図にも苅田村は街道沿いにしか人家が無いように書かれています。

ふくおかの民俗芸能DVD苅田山笠15年撮影(収録40分)
こちらのDVDは 企画/福岡県教育委員会 福岡県民俗芸能保存調査事業 が収録したものです。苅田町図書館で貸し出しされています。
神幸祭当日の撮影の画像です。



16年8月11日(水)快晴
8月になってからは古い写真を探し色んな場所に行ってみたのですけど結局、見つかった写真は1枚のみ
昭和27年10月3日 港区の岩山の写真でした。山車は、かなり大きくビックリしました。
町の風景も中町とは違い新しく作られた町並みに見えます。上の写真と3年しか変わらないのに服装も全然違いました。

(写真は近日中にUPします)

平成16年8月16日(月)快晴
 物凄い欄間が着いています
昔の彫り物が残っていたやつを使用したようです。
  平成16年に岩山復活!馬場地区

なんで山笠なのか?
6月24日にも書き込んでいるのですけど・・山笠と言う言葉は祇園系の神社が山車の事を山笠と言うのだと思います。
北九州の三大祭も全て祇園だし博多も博多祇園山笠が正式名だし山笠と名が着いてるものは全て祇園社の祭りです。
苅田が県に登録する時に間違って山笠と登録したのだと私は思います。

それとも宇原神社に祇園社を祀ってる祠があるのか確認したのですけど宇原神社にはありませんでした。
小波瀬(新津)の大原八幡社には、その昔には祇園社を祀っていたようです。(八幡社でも祇園社の素盞鳴命(スサノオノミコト)を祀ってる所もあります。
苅田町の中でも無格社の提区の清地神社(せいちじんじゃ)にも素盞鳴命を祀っています。この神様は簡単に言えば疫病を追い払う神様です。
別名で天疫神とも書いてる場合もあります。多分、同じ神様だと思います。
なぜ、提区に祇園社の神様が?昔、その地で疫病が流行った時に行橋市の須佐神社から勧請して祀ったようです。

苅田は、やっぱり宇佐八幡の系統なので神幸祭です。ではヤマの呼び方は?山車?山?鉾?・・・また調べます。
*京都郡犀川町の生立神社も犀川神事なのに山笠と書いてるので、これも間違ってるのだと思います。
 でもなんで1920年頃の写真に子供が着ているハッピに山笠と書いてるのか???

なんで山笠に武者人形?
何で人形を乗せるのが大切だと・・いわれる理由は、疫病対策の為に山車を出す。という意味もある様に街中を山車が練り乗せてる人形に疫病を
乗り移させると言う意味もあるのだと思う。他の山笠などでは水を掛けてる意味も色々書かれているのですけど、あれも疫病や災いを洗い流す。という
意味があるのだと思うのですけど・・・単なる勢水?では無いのだと思うのですけど?

*疑問なのが、山の人形が人間の変わりに疫病が乗り移ってそれを神様が浄化する?
行橋市の祇園社の今井祇園などは、稚児を乗せて運行してるのですけど、稚児が山鉾に乗って街中を練る時に疫病や災いを退治する役目なのか?

なんで武者人形・・・
5月の節供では武者人形も、もとは流し雛(ひな)の一種であった。
昔、夏には災厄を取り除くために人形送りをする習慣が広く見られた
人形には本来神や精霊の形代として作られ、祭りにこれを作って精霊のそこに臨まれることを具体的にに示したものであった。
送り人形の形式をとるものが多く疫病送り・雨乞・天氣祭まど災厄を送るために使用される。



16年8月17日(火)曇
今日は、お宝探しに色んな場所を回っていたらビックリ!お宝をお借りして写真を撮りました。(上の写真)
これは山笠の宮の一番真ん中に付いていた彫刻です。龍の彫刻:大きさは横の長さがドア一枚分90センチほどのものです。
赤色の所に金ぱくが残っていました。下の水色の部分の波の所に割れがあって裏から修理した跡が残っています。裏には年号なし「一」と書かれていました。
彫刻が取り外されたのは昭和37〜40年代です。

さてこれは何処の山車の彫刻なのでしょ〜・・・申し訳ないのですけど今は発表できません。
この彫刻を是非!苅田町が考えてる道の駅に建築予定の情報発信の場に展示して欲しいので。

    

上記の写真も山車に付いていた。彫刻と連歌奉納祭の書類です。彫刻は年号不明  連歌は文政4年(1821)〜天保15年(1844)のものです。
この上記の分は苅田神事の物ではないようです。? でも上の龍の彫刻と大きさも一緒です。 こちらの彫刻は鳩??

16年8月22日(日)曇
ほて花(ボテ花)について・・・(山車の一番上に付いている綺麗な色紙を巻いてるもの)
この五色については中国からの意味が強いのででは?五行思想(ゴギョウシソウ)

ほて花を作る時に毎年、当場さんで色がバラバラになってるのですけど色は青・赤・黄色・白・黒(紫)の順だと思うのですけど
地域によっては順番が違う場所があると思います。 でも黄色が真ん中に付けるのは間違えないと思います。 
中町でも緑などを混ぜて作っているのは・・・???何処の山車も色んな色を混ぜてるようですけど?? 5色で作るのが本当では?
(5色の中に青の変わりに緑を使用する地域もある。)

  青=東=春=朝=青龍=木気    赤=南=夏=昼=朱雀=火気   黄色=土気(大地をあらわす) 
  白=西=秋=夕=白虎=金気    黒(紫)=北=冬=夜=玄武=水気
この5色を見ても地域のハチマキの色と少しは関係してくるのでは・・・

緑は青と一緒の色で使われているようです。信号機で考えて頂ければ分かると思います。青=ミドリ (信号機もすこしは五行思想?)
ピンクは赤と同じ意味です。

黒(紫)=玄武=北・北極星の意味をする。 山車の一番奥(裏側)が北の方向になります。

16年9月6日(月)曇
山車の汐かき行事で赤の幟を立てるのは?本数は決まってるのか?
調べてみると本来は五行思想の5色を幟で立てるのが本当では?近隣や他県の祭を見てみると5色の幟を山車にあげています。
これでは、納得できないので、佐々木哲哉先生(民俗学者)に、尋ねたところ、5色が本当だろうと答えが返ってきました。
この近辺では今井祇園が豊前型山車のベースになってると言っていました。
本来の形がどこかで変わってしまってるのでは??やはり五行思想で祭り全体も包まれてると私も思いました。
また違う説で考えれば赤色は魔除けの意味があるようです。

幟の数は各地の祭を見てもいろんな意味でバラバラなんですけど苅田の本数から見ても一番近い説で考えると9本が正式ではないでしょうか?
例としては・・・
「九星」の考え方が取り入れられているものと思われ、「9」は、陰陽道で最も極まった数字あるいは最大の数字であり、天地の運行を表現する。
この9本が苅田の幟の数であれば黄色が1本で他の色が2本ずつではないでしょうか?
今井祇園の水引幕を見ても五色、幟も5色、全て何処の祭を見ても5色。
16年9月11日(日)晴れ
只今、昔の苅田村の住所名を調べていたのですけど、その昔は苅田村(上町・中町・本町・西町)は()の様な地名ではなかったと思います。
そこで地区に鎮座している無格社の住所を調べてみました。

上町        木實原神社  荊田字木實原
中町        土祖神社    岡屋敷
本町・西町    貴船神社    森ノ本

このように神社の住所は登録されていました。
その昔は中町は苅田村岡屋敷って言われていたのではないでしょうか?

16年9月20日(月)晴れ 山組み立て
本日は山を組み立てながら以前から思っていたこと考えながら作業していました。
今では北郷とか南郷と皆さんが宇原神社を中心に山笠を分ける時に読んでる名前なんですけど、昔では宇原宮と小(尾)倉宮で
分かれていたのですけど山の形態も少し違う鉦のたたき方も違う!
昔の古い写真で形が確認できる場所で違う所は北郷はキンカン・ギンカンを付けているのですけど南郷はキンカン・ギンカンの変わりに
御幣を三本立てていたようです。なぜ?御幣を?では他の地域を見た所、行橋:田川:糸田:犀川の山車には全て先端は御幣を使用している
田川の山車が一番近い形をしている。田川の山車には苅田でも昔は使用していた輪を御幣の下に3個取り付けている。
この輪は真ん中が金色・左右の二個が銀色で作られて取り付けています。
ではこの形で一番近い昔の形体は??その昔に金や銀の紙を手に入れることが出来たのか?今では簡単に金色や銀色の紙が用意できる。
犀川の山車にも将棋の駒のような形をしたものに金とか銀と書いてるし・・・
また謎が増えてきた・・・また調べてから報告する事にします。

16年9月22日(木)曇り
本日、質問をされたんで調べた事を書き込んでおきます。
なぜ?神輿・山車が巡行するんですか?
前回にも書き込んでいるように山車が不純な物・疫病を退治すると書いているのですけど、少し気になって京都の祇園を良く調べてみると
京都の鉾山は神輿が下る前に街中を巡行して鉾山の巡行が終わって神輿の祭が始まるようです。
神輿が下る前に鉾山で疫病を退治するような役目をしてるようです。
では?神輿は皆さんに、一年また元気に過ごせるように力を分け与えてるような感じの役目なのかな?

苅田の祭でも神幸祭は宇原神社の神輿の祭と言う人もいるのですけど以前、山笠が出ないときに聞いた話でも神輿が汐かきをして御旅所に
神輿が下れば神幸祭は無事終了と言っていた人が居ました。
山車は神輿のお供と宮司さんは言うのですけどお供ではなく露払い的な役目をしてるのではなかろうか???
ではまた調べて書き込む事にします。

16年10月5日(木)曇り
祭り期間中に皆さんは何度も神社に行ったと思います。そこで神社の入り口に狛犬(こまいぬ)が2対向き合って座っている。
鉦卸や町内の氏神様の神社に行くときに若い方が何で狛犬が置いてあるのかと話していた・・・
その場では詳しくは言わなかったけど。皆さんも良く観察してみてください!

狛犬は神社だけではなく寺院にもあります。狛犬の原型はオリエント・インドにおけるライオン像に起こり、中国・朝鮮を経て日本に
渡米したものと言われています。日本ではその異形な姿を犬と考え、異国の犬、すなわち高麗の犬というようになったのです。
狛犬と獅子と形を混同したこともあったようですが、平安時代には明確に区別していました。
例えば清涼殿の御帳(ミチヨウ)の前や天皇・皇后の帳帷の鎮子(チンズ)・(一種の重石であり、また魔除け具)として用いられていました。
この場合は口の開いたものを獅子として左に置き、口を閉じ頭に一角をもつものを狛犬として右に置きます。
この宮中における魔除け具である狛犬がやがて神社や寺院にも取り入れられ、魔物が入らぬように神域を警護する象徴として狛犬に
なったものと思われます。

狛犬を神社に奉納する場合には、木製・陶製のものは拝殿等の殿内に安置する例が多く、石造のものは参道の要所に設置しています。
獅子・狛犬一対を置くことになりますが左上座が口が開いた獅子、右下座が一角で口を結んだ狛犬となります。

あとは宇原神社に行った時に。
参道を進んでいくと社殿のある区域と一線を画する境内、すなわち神門や玉垣の直ぐ外側に、屋根と柱だけの四方吹抜けの建物があります。
手水舎(ちようずしゃ)・水屋・水盤舎と言われる建物で、水をたたえ水盤が置かれ、柄杓(ひしゃく)が備え付けられています。
手水舎は、いわば参道の終わりをつげる場所で、ここから先は神様が坐す(います)、境内で最も神聖な区域になります。
清水で手と口を清め、神様に参拝します。

古くは神前に流れる清流で手と口を清めたのです。神社の前を流れる川のことを御手洗川(みたらしがわ)と称していました。

神社でも一番目に付く鳥居の形式も色々あるので是非、参拝するときにはチェックしましょ!
鳥居も色んな部分の名前もあります。一番上から笠木・島木・台輪・楔・額束・貫・転び・柱・亀腹と色んな場所に名前があります・

他にも神社では賽銭箱や鈴・おみくじ・絵馬・お守り・・・いろんな意味があります。
神幸祭も終わったばかりなので皆さん時間があれば調べてみてください。

10月11日(月)晴れ
今日は山笠関係の方と話をしていたのですけど・・・大祭の日に宇原神社の御神輿が帰って行く時の話をしてたんですけど
昔は神輿が下るまではホテ花を立てたままで神輿が下り姿が見えなくなってから三本のホテ花を倒していたのに最近では
神輿が下る前からホテ花を倒すところが多くなってきたと思います。
この話で議論していたんですけど・・・やはり神輿が通り過ぎてからホテ花を倒すのが本当だと思います。
私も小山時代に我先にホテ花を片付けようとしたら年配の方から神輿が見えなくなってから片付けなさいと注意を受けたことがある。

なぜ神輿が過ぎてから?これは何処の祭でもそうなんですけど古い祭の京都祇園の本で読んだことがあるのですけど・・・
昔は・・・昔とは1300年前ぐらいからだと思うのですけど・・・昔は二階家などは無い、でも江戸の時代頃からは二階家が増えてきた。
御神輿を高い所からは見下ろしてはいけない。神輿が通り過ぎるまでは頭を上げてはいけないという習慣があったようなのですけど・・・
昭和の時代に入ってから何処の祭も変容・変乱で神輿に何が乗ってるかという事を忘れているようです。

この事を年配の方々は私たちに言ってるのだと思います。形を変えず!皆さんで大切な事は保存していきましょう。


16年11月3日(水)曇り・雨
久々に日記を更新する事になった。文化の日は三年連続の雨!

先日、宇原神社の宮司さんと話す機会があって・・宇原神社の石鳥居について話した。宮司さんは、独自説を通していた。
鳥居に八幡宮と書いてあるのは何故だと聞くと?昔の人が理由無く立てて八幡宮と彫ることは無いと思うと私が言うと
宮司さんの回答は八幡宮と書いてる所に昔の人が傷をつけて少し抵抗してる所があるだろって言われました。どういう意味なんだろ?
宇原神社は八幡宮ですと言うと・・・違うと言うし!昔出された豊前国史も書かれてるのに・・・これは国が出した物なんだけど
宮司さんは宇原神社は八幡ではないと言う。

次回会う時には・・・この文章を見せよう。

宇原庄(うはらのしょう)
京都郡内の所在した宇佐弥勒寺領庄園。
現、苅田町北部の馬場にある宇原神社が当庄の鎮守社だったとされることから、馬場を含めた一帯に比定される。
「本朝世紀」長保元年(999)三月七日条によると、弥勒寺講師の長祐は長徳四年(998)九月に京都郡賀田郷(刈田郷か)で
雨米が降るという奇瑞が発生したことを、宇原庄において草野庄(現行橋市)前検校早部(日下部)心理から聞き及んでいる。
弥勒寺講師が往来していることから、当庄はこの頃すでに弥勒寺の所属となって、周辺の弥勒寺領のうちの中で中核的位置を
占めていた可能性が高い。建久八年(1197)の豊前国図田帳断簡(砂津文書/鎌二)には、京都郡の北郷にある
弥勒寺領として「宇原庄十五丁」とみえる。ほぼ同じ頃の成立とみられる弥勒寺喜多院所領注進(石清水文書/古四−二)には
「宇原」とみえ、注記に「苅田名田、庄田十町」とある。同じく弥勒寺領であった苅田庄との関係がうかがわれる。


16年11月24日(水)晴れ
寒くなって風邪が治らない私です。
23日には苅田小学校の山笠青年会伝承事業にも参加できず・・・とても残念でした。
祭が終わっても祭りの事で忙しい毎日です。来年1月15日の苅田町合併50周年事業の式典?か、なんかで50周年の写真集のダイジェスト
版の小冊子が出るのですけど、その内容や写真のチェックなどの手伝いをしたり。50周年の写真集も役場より出るようです。
その手伝いも終わり2005年の青年化の山笠宣伝用の広告を毎日考えている最中です。なかなか一人では出来ない(涙)
宣伝用の記事を考えながら苅田町誌を読んでいると、大正15年11月「石山事件」・・・こんな文章が目に入ってきた。
私も生まれて始めて知ったんだけど・・・苅田の原石山を巡って、物凄い事件がおきてるようです。
大正6年の苅田村の人口は3522人、戸数654戸の寂しい農漁村。その苅田で大正5年5月に浅野セメントが提区の採石所で石灰石の採掘を
開始し、大正九年5月には豊国セメントが松山の荒崎に工場を建設して操業を始めると急速に人口が伸びて7900人を超えた。
苅田村は大正13年8月1日町制を施行して苅田町になった。
この当時の京都郡の町は行橋町だけで村は20ヶ村あったが、苅田町の町制施行で郡内は2丁19村になった。
話を戻して大正15年11月下旬に起こった石山事件は豊国セメントと浅野セメントが馬場区民共有の石灰石山の買収をめぐって抗争した事件は、
約70戸の馬場区民が豊国と浅野の二派に別れて争った区民間の紛争として苅田町誌は年寄りの語り草に石山事件いうのが語り伝えられている。
これは馬場区の共有財産であった石山を廣瀬典正氏や重谷源愛氏は浅野セメントに売却しようと運動し、はしなくも区民有志が二派に分かれて対
立したものである。対立は激化し浅野側には門司白木崎の親分が子分を連れて応援に馳せ参ずれば、豊国側には小倉黒水会長が子分を連れて
対陣し、あわや血の雨も降らんものかと空気険悪となり対立は悪化して裁判沙汰まで発展し、時の名士数人が起訴されたのである。・・・・
・・・・・・・この続きは苅田町誌でも読んでくださいね。

まぁ〜このような事件の中で喧嘩に勝った方が権利を貰うとか争ってるので・・・苅田気性の荒さが山笠でも喧嘩して遊ぶのが当たり前になったのかも?
この頃には他所からの人も増えて苅田山笠も喧嘩山笠になったのでは??年配の方から聞いた話では魚場争いとか・・・色んな説がある。

宇佐八幡宮でも近年までは一番上の本殿から神輿に御神体を乗せて一気に神輿が下ってくる。その最中には人間や神輿の喧嘩が当たり前、
神輿が一番最初に着いた地域は豊作とか言われていたようです。

今年は兵庫県の灘の喧嘩祭りを見学した。本社の神輿三台をガチャガチャぶつけたり地上に叩き落したり、それはビックリするような祭りでした。
宗像大社の三女神といわれる三人の神様が全国的のも広がって、大体何処の神社でも3体の神を祭っている。その三体を乗せた神輿をぶつけ合ったり
ひっくり返したり・・・荒らしい祭りでした。またここの神社も宇佐八幡系の松原八幡神社。
とにかく八幡様の神様は荒々しい神様でしょ〜間違いない!

まぁ今回の日記には全然まとまりが無いのですけど、お許しください。

12月3日(木)晴れ  暖冬!
毎日、パンフレット作成に追われて・・・半分飽きてきました。
最近の調べで悩んでる事は祇園祭と神幸祭の違いとは?何処かの掲示板でも神幸祭の変容「「神幸祭から苅田山笠・・鉾山から山笠」」を
書かさせて頂いたのですけど苅田神事は色んなものが変わりすぎてそれを調べていくのが大変で・・・では他の祭りと何が違うのか?で
祇園祭と神幸祭の違いを調べようにも神幸祭についての文章も少なく中を見てみれば「おわたり」「みゆき」「おいで」「還幸祭」「御旅所」
神幸祭の始まりは古代末期にはすでに行われていた社もあり、中世以降は多くの社でなされるようになった。・・・神幸には神輿・・・
とにかく資料が少なすぎて調べる事が出来ない。川を渡ったり海上を御座船で渡御したり・・・
でも一つ神幸祭の中でも同じものは道順である「御旅所」に行くところである。それと神幸祭の中でも一定しないものは祭りを静かに行われたり
荒々しく行われる場合がある。とこの程度の調べものしか残っていないのである。

次は祇園祭・・・こちらは歴史も古く京都祇園社(八坂神社)の祭礼
896年6月に全国に渡る疫病流行に際し66本の矛をたてて消除を祈ったに由来するというが、それは普通は祇園社創建の年いわれる876年
よりも古く、かつ他に確証がないので一応 970年6月14日始、御霊会とあるに従うべきでないかと思われる。

違いを見れば歴史が古く祭の始まりでもあるように書かれている・・・
京都が山鉾であれば苅田は鉾山と呼ぶ・・この違いは作山の形が違うところかと思う。
前にも書いたのですけど福岡県に渡って来た祇園祭は・・・作山の形を山笠と言い、形を変えてない行橋市の今井の祇園は年配の肩は
祇園さんとか鉾山とよんでいる。

では苅田の資料で読んでいても祭が始まった頃には笠鉾型でそれが鉾山と呼ばれ始めた頃には岩山ではなかったような気がする。
多分、今の形で岩の張りぼて部分がシバや草木の葉を飾っていたのではないでしょうか?当時はボテ花の先についていた鉾形の
キンカン・ギンカンは矛型であったのでは、?それから御幣を付けていたり・・・形が変わってきたのでは?

12月11日(土)晴れ
来年、お目にかかれる書類の簡単な情報が入ってきましたので報告します。
@宝暦四年戌八月吉日(1754年)に書かれた。古文書(縦帳) 「「尾倉村御神事帳」」と書かれた物が発見!
 今から250年前の祭の事を書いた文章を来年には見る事が出来る。但し尾倉村の事なので・・・
A年号不明 「「山式・仕立山・芽刈取・用水・祭・八月神事」」 このように書かれた物も一緒に見る事が出来る。

それから、ふと気が付いた祇園山笠で有名なお祭の事を少し人から言われ研究していたのだけど・・・祇園祭=須佐之男命(すさのうのみこと).
行橋でも今井津須佐神社は(すさのうのみこと)を奉っている。須佐之男命は疫病を追い払うと神と知られて勧請されている。
でも八幡神社2箇所に天神社1箇所の合計3社の祭をある祇園祭は行ってるのだけど・・まぁ八幡では祇園ではなく放生会なら理解できるけど
苅田の宇原社も言い名を祇園と読んでいた事もあったけど・・・系統の違う神社を一緒の祭で祝うのも少し理解できない。
この祇園祭については今後、問い合わせしてみる事にする。

それから今、苅田町役場の倉庫で眠っている南原区の江戸時代の山笠の欄間4枚と上の写真で確認できる前宮飾り欄間もかなり虫食い状態も
激しく修復するのも今では出来ないような感じになっているので苅田町文化係に青年会として話し合いをして欄間等を補修させて資料館に展示
出来るように交渉してみた。文化財保護!これを世の皆さんにも見て欲しいので只今、話し合い中です。
青年会の方では来年度の活動方針の中でも伝承事業に力を入れて子供たちに太皷や鉦のたたき方だけではなく他の伝承事業を行うように
只今、計画中です。また公表できるようになったら書き込みする事にします。

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平成17年2月21日(月)雪
今年になって始めてHPを更新する時間が出来ました。
青年会の会議では馬場小学校の生徒さんからホームページを作るので質問を皆さんで話し合ったんですけど・・・ぜんぜん皆さん質問の回答もなく
会長は大忙しのようでした。質問は、なぜ?神幸祭という祭になったのですか?かなり難しい質問でした。私も物凄く考えて会長にお答えしました!
次に難しい質問は鉦卸しは何してるんですか?これは頭の中で分かっていても文章にするのは難しい・・・青年会の広報の方が3回回るのは?って
言っていたんですけど皆さん疑問に思っても調べる資料が無いので私もこれからの子供たちが物凄く困ると思います。
苅田町役場が50周年事業で「奇跡」って写真集のダイジェスト版を各家庭に配布したんですけど、私がその分に関しては文章をチェックしなくて
14区の祭となっていましたね〜速攻で役場の編さん室に駆け込んで(笑)間違ってるよってちゃんと言ってきました!正解は15区14基
4月頃に発売になる写真集には当初、写真も2枚ほどしか載らない様だったのですけど編さん室に頼み込んで昔の写真を3枚ほど出せるようになった
・・・でも1枚はいつもの大正時代の写真(ダイジェスト版や町政だよりにもでた)他の二枚は中町区の年配の方に借りた写真を出してもらったんですけど
青年会の皆さん、どうもすいません。

ここに来て少しずつ古い写真が手元に集まってきてるのですけど尾倉の写真や與原の写真が欲しいのですけど、なかなか発見できません。

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平成17年5月9日(月)晴れ
5月6日に京都郡犀川町の生立神社神幸祭を見学してきました。
最近は祇園と神幸祭の違いを聞かれて色々と調べたけど犀川町の神幸祭は、山車は祇園風で行橋市の今井祇園とは変わりないと思う。
大きな車輪が付いたもの・・・付いてない山車は担ぎ山で移動する。
やはりお祭は全て祇園といわれて各地に転々と広がって行ったのでは?その中で大分県の宇佐神宮の御祓会(夏越神事)を見ても神事と
書かれている・・八幡系の祭は神幸祭ではなく神事という言葉が本当ではないだろうか?祇園祭が始まる以前に宇佐の神輿が京都に行ってる
はずなんですけど・・・もう一度、本を読み直してみよう。
宇佐の系統の祭は神輿だけで後に笠鉾や山車を出すようになってるので・・・何処で形が変わったのだろう?これも民俗の進化ですね。
自分が小さな頃は神事(じんじ)と言っていた。神幸祭とは神様が御旅所に来る事を言うので・・・・祭全体の名前では無いと思う?
良く見かけるのは ○○神社神幸祭○○祇園・・・・○○祇園 ○○神社神事と書かれてる祭が多いのですけど祭の中に祇園と付けば
神社の祭神は須佐之男命では?・・・・今回の春祭りも全てを見ては回れなかったのですけど疑問だらけの1年が始まろうとしています。

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平成17年5月23日(月)晴れ
5月21日に最後と噂されている苅田花火大会に山笠青年会で露天商で参加させて頂き好評で売り上げも、かなりのものでした。

本日、以前から気になってる祇園祭と神幸祭の事について電話で、ある方と話す機会があり何となくまとまって来ました。
宇原神社神幸祭(苅田山笠)神幸祭とは山車が神様を乗せて御旅所に行く行動の事を指す。
祇園や神事が何処かでゴチャゴチャに去れて今現在の様な祭が行われてるのでは?
神幸祭とは神輿に神様を乗せて神社より御旅所に下って来る事を言うのですから・・・今の山車はあくまでもお供、山車自体には
神様を乗せる儀式は苅田ではされていない。山車は御旅所までお供してそこで鉾やボテ花を高々あげて神を下ろす行事をしてるのでは?
ハッキリした事はわからない。鉦おろしの行事で御幣や提灯を神社に預けて帰る・・・それを汐かき行事の夕方に持って帰ってくる。
その御幣に神を下ろしているのでしたら汐かきで海で葦に汐を浸し山車に投げ込み神様が乗る前に清めているのが成立するのでは?
当日の神幸祭に御幣を山車に乗せ御旅所まで山車は運行する。この辺が祭り関係者の中でもハッキリしてない所である。
他の地域の祭の場合では入魂式といって神様を乗せて山車を運行をする祭もある。
さてゴチャゴチャになってる祇園と言えば山鉾・・・この風習が今の祭に混ぜこぜになって神幸祭にも山車が出る様になったと思う。
神事本来は年月をさかのぼれば神輿のみで行われていた行事で宇原神社でも1598年(平成17年現在)407年前から山鉾が出ているので
その昔はやはり宇佐神宮のように神輿や流鏑馬と行事をしていた。さて皆さんが言う通称:苅田山笠はお供で着いて行ってるのであれば
神ごとなので苅田神事苅田鉾山が正式名ではないでしょうか?・・・・・省略。

ここで問題なのが御幣を神幸祭、当日に乗せる儀式が入魂式であれば鉦おろしに神社に御幣を預けないと神は山に乗せてない事になる。
宇原神社以外で鉦おろしをしている地域は御幣を預け神幸祭当日に神社に取りに行って着けているのだろうか?

宇原神社の昔の書物を見ても祇園会やら放生会や色んな名前で祭を書いている。
その中でもやはり鉾山が出てる時代には宇原宮御神事始りと書かれている。山笠の名前はもしや神事山「じんじやま」と呼ぶのが
正解ではなかろうか?れとも鉾山?
何を書いてるのか分からなくなってきたので今回はこの辺で。
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平成17年7月10日(日)雨
この2週間は大庄屋・相馬利平冶の古文書の読み下しや青年会のパンフレットやポスター作りで大忙しの中、今年は7月24日に
黒崎祇園400年祭・祭競演会の準備で忙しく青年会の活動をしながら・・・来年のパンフレット制作に向けての資料準備が忙しい。
黒崎では忙しく広報の手伝いもし映像と写真の記録を考えている。
今は暇を見つけては・・・相馬文書の読み下しの話を聞いたりしている・・・現在分かっている事は新津手永の相馬利平冶は馬場村や
浜町村を詳しく書いている文書が多いそうです。それは港の関係の仕事を中心に動いている様な文書が多い。

7月10日現在でもHPにて馬場村の庄屋に宛てた文書には祭りの制限を厳しく書いている・・・これは中村平左衛日記でも、とにかく祭りには
制限が多く盆踊りはするな・・・とにかくお金の節約を書いてる文章が多い。

いま気になってる文書は神ノ島に藩の難破船の事件で何処の町かは分からないのだが・・・鉾山のカキ棒を持ち出して難破船の救出に
あたって新しいカキ棒を藩の予算で作り変えてもらった文章が出てきている。
今後も珍しい古文書が出てくれば皆さんにお知らせしていく事にします。
11月には苅田町が文書のイベントをする予定です。
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平成17年7月12日(火)曇り・晴れ
月曜日に民俗関係の先生とお話しすることが出来たので少し疑問が解けてきました。
苅田町の謎の社殿を反時計回り三回(鉦卸し・汐かき)この件で前から気になっていたのですけど中津祇園でも山車は反時計回りに数回、
まわると「大分県の祭礼行事」に書いている・・・・・この件を尋ねてみると今井の祇園でも最後に八つ撥が境内で時計回りに三回まわる。(右回り)
今井の報告書に目を通したときには気が着かなかったのだけど先生が現在、今井祇園と生立神幸祭の文書を解読しているので今後も進展が
あると思われる。
苅田では、この反時計回りとは厄祓いや疫病祓いの意味があるのだろ神幸祭が始まって宇原神社に行く事は2度しかない、その2度とも
社殿の周りを三度まわる。これで、身体を清め社殿に入り参る事が出来るのだろう。
それを考えると山笠も浮殿では反時計回りのみが昔は許されたのではないでしょうか?今では左右どちらでも回転しているのですけど、
昔は中津祇園の同様に反時計まわりだろう・・・

それから・・・苅田の町中に通っている中津街道・・この道を年配の方はオオカン通りという方が多いのだけど意味不明の言葉か何かの名称から
付けられた名前だと思っていたのだけど本当はオウカンとはこの様に書くのである「「往還通り」」意味としては往来・還る通りの事なのである。
この言葉が訛って・・オオカン通りと年配尾方々は言っていたのである。

それから・・・佐々木哲哉先生(元福岡県文化財保護審議会委員)が民俗芸能の保存と継承で発表された文章を書かせてもらえば
民俗芸能保存・継承の問題点
民俗芸能の保存・継承について、時として「民俗芸能を絶滅から防ぐためには現代人の趣向に合った付加価値を付けるべきだ」という意見に
出くわすことがある。この付加価値こそが曲者であるとかねがね思っていた。
もっとも、民俗芸の継承の過程で創意工夫が凝らされたり、付加価値を付けながら継承されてきたものも多い。しかし、
それらはあくまでも地域の人々を満足させるための、地域性に根ざした趣向であって、それゆえにこそ「民俗」てり得たのである。
ところが最近言われている付加価値は意味合が違って来ている。すべてが観光受け、テレビ受けを狙った趣向といえる。
そうなれば画一化された都市型志向で、やがては民俗性を失った民俗芸能ばかりが観光資源として残る事になりかねない。
現代風の付加価値を付ければ民俗芸能が存続できるというのは、伝承母体に対する視点を欠けた評論家的見解である。

民俗芸能保存・継承は、あくまでも地域の人々が地域の問題として受け止め、取り組むべきの課題である。

各地で民俗芸能を保存させてきた要素に、年齢組織がある。子供・若手・中年・年寄りという年齢階梯制をとって修練を積んで来たところほど、
自分たちで受け継いできたものを、そのままの形を崩さずに後世に伝えたいという願いが強い。
問題はむしろ、青年層の都市流出と少子化による地域の過疎化、それに伴う共同体内部における年齢組織の崩壊、後継者難に尽きる。
その対応策として子供会の育成や周辺地域に参加を求めて伝承組織のの再編を図るというような、過疎地は過疎地なりの努力を続けて
いるのが見られる。いずれの場合においても必要な事は、これまでの伝承携帯を崩さずに継承する配慮である。
そのためには芸能自体が持つ意味を、伝承者自身が把握しておく必要があろう。

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平成17年7月21日(木)晴れ
今月の24日には黒崎400年・お祭大競演会に苅田山笠が参加する。町中では若も達が盛り上がってきている!

前回、左回り三回の意味を書き込んで色々と本を見たり人の話を聞き取り調査し完璧に謎が解けたので情報開示します。
まずは京都府の太田神社のお祭で、巫女舞といわれるものがある。福岡県の志賀海神社の神幸祭で八乙女の舞と言われる。
神事が行われています。調べれば日本各地にも巫女舞の神事を行ってる所は多数あると思います。
この巫女舞の中で左回り(反時計回り) 3回をしています。これは神がかり(神がのり移る)すると言う意味がある。
今井の祇園では右回り3回(時計回り)を最後の神事で八っ撥(稚児)が境内を三度回る。これは神ばなれ(神から人間に戻る)という意味だろう

例:昔は新造船を作り進水式の時に船の神(船魂)に神を入れる為に浸水直後に船を反時計回りに三度回す。
例:昔は葬式場面で棺桶を持ち出す時には居間から絶対に出し棺桶を反時計回りに三度回し、神がかりさせ遺体を神にするという意味があって
  回していたそうです。亡くなった者は仏にはならず神になるとされていた為に。


3回まわりの意味は、昔から三度参り・・・初詣なんかで三社参り・・・とにかく三度、参ったりする事で神がかりされるという意味があったのだろう

今井祇園の報告書を読んで、なぜ?稚児=八つ撥が山車に乗る事が無く人間の肩に乗って巡行するのだろう・・・京都の祇園は絶対に稚児を
山車に乗せて疫病などを退散させたりする意味があるのだけど・・・やはり何処かの時代で形が崩れたと思う。
八つ撥も絶対に左回り(反時計回り)三回を神社で行うこともしてないので神がかりしてないという事になる。

苅田の神幸祭でも鉦卸し神事で最初に氏子達が三度半時計回りに周り神がかりし疫病が乗り移らないように回っているのだろう
でも・・・また山笠汐かきでも神社に付いて反時計回りに三度回る・・・これは多分、途中から神事の形が崩れて神社に行けば三回まわると
変容したのであろう・・・でも苅田も最後の右回り(時計回り)三回を何時の時代かで形が崩れているので・・・やっていない。
神がかかりした身体から人間に戻らないといけないので・・・やはり山笠と一緒に右三回転か?
それとも地区の氏神様で右三回まわらないといけないのだろう。

とにかく各地祭りの形が崩れてきている事が分かってきた。

それから鉦卸しとは祭りの始まりを意味する・・・・昔は太皷も鉦も勢いよく打ち鳴らされていたのでしょ〜
鉦だけをたたきながら行くのではなく鳴り物を全て鳴らして勢いよく行っていたのだろう。

*地方の神幸祭の中で巫女舞は月の物があがった老女がやっている。また乙女舞は月の物が無いものや月の物ではない人が
行事を行っているので昔からの言い伝えで女性は祭りに参加はできないと言っているけど民俗研究者に言わせれば関係ないともいう人が居る。

祇園祭は除疫穣災(じょえきじょうさい)
神幸祭は五穀豊穣(ごこくほうじょう)
ここで京都郡誌をみてみると、その昔、神幸祭を祇園祭と書いてる時がある。これは間違えでは無く・・・もしかするとこの時に
疫病が出た可能性があるので祇園際といい除疫穣災で祭りをした可能性がある。

1243年に博多の町に疫病が流行り山笠を出したとテレビでも言われているけど本当に今の様に山笠に人形をつけて動き出したのは
(九州軍誌)1432年に記載されている「博多祇園社、六月十五日に始めて人形を飾った出車がでる」と楠田神社の神様を勧請した地域では
人形山笠を出してる場所が多く、また今井祇園社を勧請した豊前地方では幟山が多くみられる。
文献の中でも見られるが楠田神社の神様を勧請させるのに色んな場所にセールスを行っているが今井社では勧請願いは各村神社から頼まれて
勘定してる。ここで当時の神社体質が分かる。

少し話が他の地域の祭りになってしまいました。
苅田山笠に三本の鉾が立てられる・・・これを皆さんはどのように思ってるのだろう?
私は宇原神社の神様が三人だから3本という説を信じてきたのだがこれは京都祇園や今井祇園の様に二本でも関係ない、
三本の棒は神のヨリシロとされている、これは正月の門松と一緒だと思う。今後はこの部分に関して調べて行きたいと思う。

17年7月27日(水)晴れ
「門松」とは、その年の神さまをお招きするための目印であり、また、神さまがお降りになったときに宿られる場所(依代(よりしろ))を
表すものです。
もともとは、松・杉・椎(しい)・榊(さかき)といった常緑樹を用いていたようですが、いつしか主として松を用いるようになり、
そのことから門松と呼ばれるようになりました。 現在の門松は、竹三本を松で囲み、荒縄で結んだ形が一般的ですが、関西方面では
松の小枝に半紙を巻き、それに水引きをかけたり、紙垂(しで)や橙(だいだい)、柊(ひいらぎ)などで飾られた門松もあります。
正月の祝い物、飾り物としてその形態もさまざまです。 なお、門松や注連飾り(しめかざり)などの正月飾りを取り除く日については、
1月7日に定めている地方が多く、正月をひと区切りする意味で、元日から7日までを「松の内(うち)」といいます。


17年8月9日(火)晴れ
京都郡誌を片手に民俗研究者:佐々木哲哉先生に疑問をぶつけてみた。
この道、40年の福岡県の民俗研究者だから絶対に苅田の祭りを解き明かしてくれると信じて・・・

京都郡誌を読み直し・・・苅田神事の変容は慶長二丁酉年に始まっていた・・・?
この京都郡誌に書かれてる事は間違えは無いと思う P129の終わりの4行目から書き残されている。
国家安全・五穀成就・人畜平安の祈願を六月廿九日に古宮所の浮殿に神輿にて行幸なし奉る。「省略」
笠鉾ばかりにて・・・・夫より百五十六年経て慶長二丁酉年八月十五日に行幸式を改めて、放生会と号す、氏子村々よりは鉾山出る・・・
*ここで六月廿九日から八月十五日に変更して、「放生会」にして鉾山を運行している。

京都郡誌P134 上段の「享保四年京都郡神社祭礼御改帳」では
八月十五日、祇園会有・・・完全に放生会から祇園会と書かれている。
やはり今井祇園祭がかなり影響してると思われる。(八月十五日にすれば除疫穣災、 九月二十九日にすれば五穀豊穣である。

神幸祭(例祭)は九月二十九日と決められている。最初の六月二十九日は夏越祭(なごしまつり)といい鳥居に藁で丸い輪を作り
その中を通り厄払いをする神事の日であり1年を二つに割って六月二十九日と十二月三十日を大祓(年越)と決めていた。
昔からの神事です。現在でも宇原神社でも行われております。
例祭の日(九月二十九日)にも祭りをした事を記載しているのですけど・・・・鉾山は運行されていません。

八幡宮に祇園祭が入るという事は仏信仰の宮司が居たのであれば簡単に変える事は出来るのであるが宇原神社には
祇園社の神様は境内には何処にも奉られていない。
そこで此れを祇園祭とした人物は多分、京都郡誌P129下段の後ろより7行目   本社守護役・・・大宮司
京都郡誌P130上段の最初より6行目の 大宮司 御守り役 
宮之坊 この人物が仏信仰をしていた者であろう。

灯山=宵宮(ヨイミヤ)を意味するものであり・・・盆供養でもなく・・・意味が無く運行してるのではない。
では何故・・・灯山の巡行初日に宇原社の神輿が汐かきにやってくるのか?それも何故、夜間に汐をかくのか?
皆さん考えた事は無いですか?
神様は明るい時には降りてこないと色んな本にも書いております。御神輿は神を乗せ海まで下って来て汐をかき町中の災いを取り除き、
神社に戻って行く。多分、この灯山巡行は祇園社の夜祇園を意味するのだけど、苅田の神事には関係なかったのでは・・・・・また灯山を
取り入れた時期は? 1854年の岡崎文書の中で「与原・丁ちん山」と書かれてる古文書が残っている。

でも慶長年間から灯山を出しては無いので途中に取り入れたもので他の地域の祭りを参考にして付け加えたのでは??
神幸祭には夜祇園は全然関係ないので、これまた謎です。

幟山を巡行する時に赤い幟だけを使用して現在では運行されているのですけど・・・豊前国地域の山車や鉾山の始まりは
行橋市・今井祇園の曳き車を参考して出したのでは?その頃は5色の旗を立てていたのだと思います。
五行の意味するものなので幟山も途中から変わったのだと思います。

岩山・・・苅田神事では岩山を竹の骨組みに紙を貼り岩の形にして岩山と名前を残しているのですけど以前、岩には神が降りるとか
色んな意見が出ていたんですけど、それも間違いではないのですけど、木屋瀬の祭りでも飾り山を岩山という名前で残している・・・
楠田神社の博多山笠も昔は岩山と呼んでいた。・・・この岩山とは人形や飾りを高く積み上げる事を岩山と言ってる地域が多い。

宵宮:::現在は例祭の前日の行われる前夜祭となっている。

今回、佐々木先生には大変詳しく説明して頂き自分なりに京都郡誌が解読でき有難うございました。
また福岡県地方の山笠の違いを詳しく説明して頂き参考になりました。

◆参考◆福岡の民俗文化::佐々木哲哉 著 1993年3月1日 初版発行(苅田町の図書館にも貸し出してると思います)

9月29日(木)晴れ 
最近は調べる事も少なく苅田山笠青年会の活動で忙しく山笠の模型を制作してみたり宣伝活動や小学校に鳴り物教室に行ったりで
祭期間中も忙しく過ごしている状態です。本日は灯山で濱町区だけの運行になっている・・・以前は27日に本社汐かきのお供で灯山がでて
次は29日に灯山が運行されていた。今年からは濱町区のみの運行になった。やがては民俗性を失った民俗芸能ばかりが観光資源として残る
のでは・・・現代風の付加価値を付ければ民俗芸能が存続できるというのは、伝承母体に対する視点を欠いた評論家的見解あると佐々木先生も
話されていました。

先日の18日深夜の鉦降ろし神事の最中にも若者から神社の周りを何で三度回るのかと年配者に尋ねていたんだけど・・・意味不明なことを
回答していたのにはビックリでした。

苅田町で言う「ひがかり」とは昨年の祭終了後から家族や身内に不幸事や家庭の出産があった場合、古くから祭に参加しない風習が今でも
残っている。近年では加勢の手が少なくなるので神社の方も「ひがかり」が明ける日数を詳しく教えてくれるので宇原神社に聞いてみてください。

本当の言い方は「ひかかり」です。苅田は訛って「ひがかり」と言っています。

10月9日(日)晴れ
通称スダレ(正式名:ほて花)について、昔の写真で見ると南原・尾倉・与原・集などはホテ花の先端には御幣を3本立てている様でその先端は
多分、松の小枝をつけているのだろう、やはり門松という説が本当である。
京都祇園の祇園祭の鉾は、明らかに邪霊を祓う矛(ほこ)であったが、この鉾がだんだん長大になり風流化され、最早、人力では運べず、
ついに車をつけて運ぶようになった。
祇園祭に鉾とともに出る「山」も、大嘗祭(だいじょうさい)に用いられる標山という柱状のものにその原型を発する。
この山には必ず真柱として松が立てられ人形を配する。それは、神を迎える門松と同じように神の依り代であり、人形は神の姿をあらわしているので
あろう。

平成18年4月23日(日)曇り
久々にHPの書き込みをする・・・今日は苅田山笠青年会の子供山笠の点検を行って祭近づいてきたな〜って感じました。
さて各地のお宮さんの祭が始まりましたね〜今日もお祭を拝見したのですけど、何処のお祭も形が崩れてるというか現代風なのかな?
神様を神輿に載せいて御くだりをしてるのだが・・・御幣を持つ方も肩に担いだり二本の御幣の場所もバラバラで歩いている。
獅子頭も持って歩いているだけで複雑な(笑)お神輿さんも人間の肩に担がれたまま掛け声も寂しかった。
やはり祭りも進化して現代風に変わって行くのであろう(イベント)かな?でも確かここも以前はリヤカーに引かれて子供傘ボコが出て居たのに
無くなっていたな〜祭は簡単に終わらせては駄目だ!今後の育成の為に頑張って欲しいと宮司さんにお願いして帰りました。
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自己紹介
HP管理人 1968年生まれ 中町に住んで37年
また苅田山笠青年会の企画広報で頑張っています。
私が子供の頃から見てきた苅田山笠