*参照
Pamela Albert (CPTC) の論文抄訳・部分訳
「臓器・組織の提供の三つの側面 -- 贈り物、寄付、資源 -- について」は、「Pamela Albert (CPTC) の論文抄訳・部分訳」の後に付けてあった、てるてるの考察を、独立させたもの。
移植のための臓器・組織の提供の、贈り物としての側面については、Pamela Albertも言及しているように、Holtkamp
and Nuckolls, Murray, Simmonsなどによって、既に幾度も考察されているようである。
また、Holtkamp and Nuckollsと同じように、「臓器交換社会」(レネイ・フォックス、ジュディス・スウェイジー共著、森下直貴他訳、青木書店、1999年、原題Spare
Parts, Oxford University press, Inc. 1992年)でも、マルセル・モースの「贈与論」(1954)が、引用されている。
「臓器交換社会」では、返礼のできない贈り物としての臓器・組織の提供は、「贈り物の独裁」をふるってドナーとレシピエントを苦しめると述べている。
>>贈り物は三組の「対照的で相互的な」義務を特徴としてもっており、モースによれば、すべての贈与交換はいかに自発的で自己表出的に見えようとも、それらの義務によって支配されている。これらの絡み合った義務とは、申し出て与えること・もらい受けること・適切な返礼の仕方を探し見つけることである。これらの内のどれか一つでも欠けることがあると、贈り主やもらい主、その他の関係者に影響を与えるような、大きな社会的歪みを生み出すことになるとモースは指摘した。
(中略)
さらにモースが強調するのは、贈り物の価値や意味には物質的なものだけでなく、「心情的」なものや象徴的なものもあるということである。(中略)それは「その人の一部」であり、そうであるがゆでに、贈り主(ドナー)ともらい主(レシピエント)の間に『ある種の精神的な絆』をつくりだす。(中略)臓器移植の場合、贈られたりもらわれたりするのがたとえ文字通り人間の生きている部分だといっても、提供者や移植患者、彼らの家族の多くがこの交換のなかでもつように見えるアニミズム的な体験には、移植チームも最初はギョッとさせられる。(後略)
(「臓器交換社会」p.74-75)
>>だが、マルセル・モースなら予想できただろうが、もらい主が贈り主に負っていると信じているもの、つまり、与えてくれたものに対して「自分の」贈り主にお返しをしなければという義務感は、もらい主に重くのしかかってくる。この心理的および道徳的な重荷がとくにやっかいなのは、もらい主の受けとった贈り物が尋常ではなく、これにふさわしいお返しは絶対に見出せない類のものだからである。物としても、シンボルとしても、それには等価なものがない。その結果、贈り主ともらい主の双方の家族は、貸し借りの万力にがっちりと締めつけられ、お互いに足枷をかけ合って、身動きできなくなっている自分たちに気づくこともある。移植医療における贈与交換という次元のこの側面を、私たちは「贈り物の独裁」と呼んだのである。
(前掲書、p.88)
このような「贈り物の独裁」を予想し軽減するために、カウンセリングの重要さをAlbertは指摘している。
The need for counseling concerning potential risks and benefits of direct
contact cannot be overemphasized.
(Albert, p.144)
(直接接触の潜在的危険と恩恵とについてのカウンセリングの必要性はいくら強調してもしすぎることはない。)
移植のための臓器・組織の提供の、贈り物としての側面には、次の特徴がある。
(1)ドナー(ドナー家族)からレシピエントへの一方的な贈り物であって、お返しができないこと。
The researchers noted that in organ and tissue donation, it is the
third component of Mauss's triad that requires attention, because lack
of appropriate reciprocation to donor families creates an imbalance in
the donor family-recipient relationship.
(Albert, p.140)
(研究者は、臓器・組織の提供においては、モースの三組の第三の要素に注意を促す、なぜなら、ドナー家族への適切な返礼の欠如が、ドナー家族とレシピエントとの関係の間に不均衡を創り出すからである。)
(2)贈り物が結び付ける絆が非常に強いこと。
Donor families and recipients represent key elements in the circle
of life and death. Once united, this circle establishes a powerful connection
that has long-lasting benefits for most donor families and transplant recipients.
(Albert, p.144)
(ドナー家族とレシピエントとは、生と死の円環のキーエレメントを表わしている。一度結ばれると、この円環は、ほとんどのドナー家族とレシピエントとにとって、長く続く恩恵をもたらす、力強い関係を打ち立てる。)
(3)社会全体への貢献ではなくて、特定の個人から特定の個人への贈り物であること。
Organ donation is a conceptually complex phenomenon, because human
bodies, organs, and tissues have value to the organ donor, the donor family,
and the recipient, as well as to research and society. Donated body parts
can be viewed as property or "gifts," the latter having deep and sometimes
contradictory social, societal, and cultural meanings.
(Albert, p.139)
(臓器提供は、概念的に複雑な現象である。なぜならば、人間のからだ、臓器、組織は、ドナー、ドナー家族、レシピエントにとって、研究と社会にとってと同じぐらい、価値があるからである。提供されたからだのパーツは、財産として、あるいは、「贈り物」としてみなされる。後者の場合は、深く、時には矛盾した、社会的、文化的意味を持っている。)
Many donor families stated that they donated organs and tissues because
of a one-to-one personal or relational value, rather than because of a
broad societal need for organs and tissues.
(Albert, p.140)
(多くのドナー家族は、臓器と組織に対する広い社会的な要求のためよりも、一対一の個人的なあるいは人間関係的な価値のために臓器や組織を提供したのであると述べた。)
Murray states that although "impersonal gifts" such as blood or body
parts may not regulate relationships between specific individuals, they
serve other functions by regulating larger relationships and honoring important
human values.
(Albert, p.140)
(Murrayは、血液やからだのパーツといった「非個人的な贈り物impersonal
gifts」は、特定の個人間の関係を調節しないかもしれないが、より大きな関係を調節し、重大な人間の価値を尊重することによって、他の働きをすることを記述している。)
第3の点は、医学研究用の臓器・組織の提供との違いとして、特に注意が必要である。医学研究のために提供される臓器・組織は、パーツ、財産、非個人的な、医療資源、社会資源である。
Albertは、移植のための臓器・組織の提供の、贈り物としての側面に注目して、ドナー家族とレシピエントとの関係の構築の基礎となる考え方と、方法論とを記述している。ただし、Albert自身は、臓器不足解消のため、この贈り物としての側面を積極的に利用できると考えている。
Our findings support the conclusions of Lewino et al, which state that
direct contact allows donor families to see and experience the benefit
of transplantation firsthand, and offers recipients the aiblity to personally
express their thanks. It is believed that such open dialogue may increase
organ donation, by promoting a favorable attitude toward the process.
(p.144)
(我々の発見は、Lewinoらの論文*の結果を支持するものである。Lewinoらの論文によると、直接接触によって、ドナー家族は移植の恩恵を直接に見たり経験したりすることができ、レシピエントは感謝を個人的に表わすことができる。このようなオープンな会話は、移植に対する好意的な感触を強め、臓器提供をふやすだろうと信じられる。)
これは、ドナーコーディネーター(CPTC)としての観点から、移植のための臓器・組織の提供を、医学研究のための臓器・組織の提供と同様に、非個人的な、医療資源、社会資源とみなしているわけである。
多くのドナー家族は、レシピエントに会ったことによって、自分たちは、故人の臓器や組織を、無名の非個人的な財物として、社会資源とするために差し出したのではなく、顔もなまえもある特定の個人への贈り物をしたのだと確認して、安心を得ている。
レシピエントも、余人ならぬこの自分が贈り物を受け取ったことを、贈り主から許してもらえたと知って、安心している。
After our meeting, I was overcome with a profound feeling or peace.
I reflected on [this feeling] and realized that [through this contact]
I had been given a second gift ... the blessing of my donor's mother. I
had been given the knowledge that it was OK with her that I had her son's
liver sustaining my life, and that she was glad about that despite her
grief.
(Albert, p.143)
(「私達が会った後、私は、深い平和の感情によって満たされました。私はこの感情を省みて、こうして会ったことで、二回目の贈り物をもらったのだと理解しました。ドナーのおかあさんからの祝福です。私が、息子さんの肝臓で命をながらえていることを、おかあさんがOKしてくれたこと、そして、悲しみにもかかわらず喜んでくれていると、教えていただきました。」)
レシピエントにとって、ドナー家族から「受け容れられる」ことは、深い救いをもたらす。現実に会わなくても、心のなかで、ドナーやドナーの遺族に受け容れられたというイメージを持つことによって救われることもある。角膜移植専門医の坪田一男は、移植後の拒絶反応で入院した患者が、免疫抑制剤を使ってもよくならなかったが、夢の中でドナーに会い、優しく言葉をかけられてから、拒絶反応が改善し、予後がよくなったという例を紹介している。1)
1)坪田一男著「移植医療の最新科学―見えてきた可能性と限界」(講談社、2000年)
移植のための臓器・組織の提供を、個人から個人への贈り物ととらえる傾向は、日本のドナー家族にもある。
吉川隆三は、5歳の息子の腎臓の提供を受けた人から、移植後15年経た後に、テレビ局を通じて連絡を受け、初めて、それまでの苦しかった気持ちが救われた、と述べている。2)
柳田邦男は、臓器・組織の提供を資源としてみる考え方と対極にあるものとして、長男の、「ただ弟の臓器を利用するというのでなく、病気で苦しむ人を助ける医療に弟が参加するのを、医師は専門家として手伝うのだ、というふうに考えてほしい」という言葉を引用している。これは、次男の腎臓の提供を申し出た柳田に対して、コーディネーターが、膵臓も提供してもらえないか、ときいてきた時の、長男からの返事である。3)
杉本健郎は、6歳の息子の腎臓を提供したことがテレビで放送された後、レシピエントの母親から、
線香をあげに行きたいと移植医に相談したが断られた、という手紙が、テレビ局に届いたという話を紹介している。4)
>>ドナー側というのはやっぱりなけなしのものをあげたわけで、その代わりに金をくれというのではなくて、そのあげたものがどういうふうに働いているかということを知りたいし、その権利があるのです。
(「増補決定版 脳死の人」p.183)
2) 吉川隆三著「ああ、ター君は生きていた」(河出書房新社、2001年)
3) 柳田邦男著「犠牲(サクリファイス)―わが息子・脳死の11日─」(文春文庫、1999年)
4) 森岡正博著「増補決定版 脳死の人─生命学の視点から─」(法藏館、2000年)の中の対談
USAでは、本人の事前の意思表示がなくても、家族の同意だけで臓器・組織の提供ができるため、病院は、脳死と診断されそうな患者がいると臓器調達機関に報告し、それを受けて、コーディネーターが到着待機し、脳死判定後、患者の家族に、打診をしてくることが多い。
日本でも、心臓死後の腎臓と角膜の提供は、本人の事前の意思表示がなくても、コーディネーターなどの打診を受けて、家族の忖度で承諾できる。
脳死後や心臓死後の、臓器・組織の摘出は、本人にとっては、自分のからだへの侵襲行為である。
それに対して、家族にとっては、臓器・組織の摘出は、看取りと、喪の作業への侵襲行為である。
それは、LifeGiftおよびLife BancのCPTCである、Ehrle, Shafer, Nelsonらの論文の次の記述に端的に表われている。
>>Procurement professionals are often asked how much time should elapse before the subject of donation is introduced. Ideally the answer should be, "However much time the family needs." Unfortunately, the clinical status of the potential donor, the number of patients in the treatment unit, and economics do not always allow procurement professionals and hospital staff to practice in the ideal.
(臓器調達の専門家は、よく、臓器提供の話をするまでにどれぐらい時間をかけるのかときかれる。理想的には、「患者の家族が必要とするだけの時間」である。だが不幸にも、潜在的ドナーの臨床的状態や、集中治療室の患者の数や、財政事情が、その理想の実践を妨げることがある。)
5)Ronald N. Ehrle, Teresa J. Shafer, and Kristine R. Nelson,
"Determination and Referral of Potential Organ Donors and Consent for
Organ Donation: Best Practice--A Blueprint for Success", Critical Care
Nurse, Vol.19, No.2, 1999,
http://www.critical-care-nurse.org/aacn/jrnlccn.nsf/(Articles)/192Ca1?OpenDocument
上記の吉川・柳田・杉本の三氏の場合は、息子が脳死状態になったときに、父親が自分から腎臓の提供を申し出ている。三人とも、コーディネーターが接触する前から、それぞれ、程度の違いはあれ、移植のための臓器提供について認識していた。すなわち、ボランティア活動を通じて、献腎・献眼登録の呼びかけを知っていた(吉川)・医療に関する著書があり、家族で、安楽死・尊厳死について議論しており、息子本人が骨髄バンクに登録していた(柳田)・医師であり、脳死と移植についての知識があった(杉本)などである。
このようにドナーの家族のほうから臓器・組織の提供を申し出た場合でも、やはり、それは、看取りと、喪の作業への侵襲であることに変わりはない。それは、息子の腎臓の提供を申し出た柳田に対して、コーディネーターが、膵臓も提供してもらえないか、といった例にも現われている。
すなわち、脳死患者の医療は、看取りと喪の作業である。本来、それは脳死患者と看取り手との間で完結する作業である。脳死患者のからだは、本来、侵襲を受けずに看取られるものである。脳死患者からの臓器移植は、脳死患者のからだへの侵襲であるとともに、看取りと喪の作業への侵襲でもある。そのような侵襲がおこなわれた後、侵襲の目的であるレシピエントが喪の作業に参加することによって、侵襲を癒すことができるのではないだろうか。
ドナーの家族にとって、臓器・組織の提供は贈り物であると同時に、摘出するという行為自体が、本質的に、看取りと、喪の作業への侵襲であるがゆえに、レシピエントから感謝の言葉を聴いて、癒されるのを待っていることが多い。レシピエントも、ドナーの家族とともに喪の作業に参加することで、返礼できない「贈り物」にお返しをすることもできるのである。
現在、日本でも諸外国でも、臓器・組織の移植では、ドナーとレシピエントとがお互いに匿名を保つのが原則であり、USAでもまだ、NEOBが実践したような、直接の出会いをコーディネーターが支援するといった例は少数派である。しかしながら、ドナー側・レシピエント側双方に需要はあるので、いくら移植関係者が抑制しても、テレビなどのマスコミを通じて、または、インターネットで、お互いの所在地やなまえを知ったり、連絡を取り合う例は跡を絶たない。テレビ局を通じて、電話での伝言や(吉川)、手紙をもらったり(杉本)、著書を通じて、読者から故人の死を悼む手紙を受け取り、いわば間接的に贈り物の意義を確認している。テレビは、USAの事例でも、ドナー家族とレシピエントとを結び付けるきっかけになっていた。
The third case involved the shortest length of time between donation
and contact. The recipient's family had made a television appeal to thank
the donor family on the night of their daughter's transplant. This television
appearance was seen by the donor family. Although they had been counseled
to wait and begin the contact process with written correspondence, both
parties insisted on proceeding (with or without the assistance of the NEOB),
and a meeting was facilitated 5 days following the donation.
(Albert, p.142)
(レシピエントの家族が、移植手術のあった晩に、テレビで感謝の気持ちを訴えた。この放送をドナー家族が見ていた。両方とも、直接会う前に文通をするようにカウンセリングで言われていたけれども、話を進めて、移植後5日で会った。)
インターネットでは、ドナー家族やレシピエントが作った掲示板が、親睦を深める場となっている。
(TransplantBuddies.com http://www.transplantbuddies.com/)→TransplantBuddies.org
ただし、すべてのドナー家族がレシピエントからの連絡を心待ちにしているわけではない。それはAlbertの論文に書いてあるような、潜在的危険を恐れて、ということもあるだろうが、それだけではない。移植のための臓器・組織の提供を、個人から個人への贈り物ではなく、社会への寄付と考える人々もいる。
美濃口坦は、ドイツでは医師の死亡診断後、役場から「死体手入れ係り」が派遣され、日本よりもずっと早い時間に、故人が遺族から引き離されることを述べた後、次のように指摘している。6)
>>ヨーロッパには、ドイツのように脳死後臓器摘出に本人もしくは家族の同意が必要とされる国だけではない。例えば、フランスやベルギーやオーストリアなどのように、提供拒否の意志表示を登録していないと勝手に臓器が摘出される「反対意志表示方式」を採用している国が数多くある。
>>この方式に国民が特に反発するようすがないのも、死んだ人の身体が比較的早い時期に国家の管理下に入る体制に慣れているからである。ちなみに、ドイツの隣国オーストリアで臓器提供の反対意志表示登録者は1パーセント以下である。
>>私が会った移植コーディネーターは、ドナーに個人的関心を抱くレシピエントも、逆にレシピエントに個人的関心をもつドナーの家族も全体の2%か3%に過ぎないと異口同音に証言した。
6)美濃口坦のウェッブページより
臓器移植 http://home.munich.netsurf.de/Tan.Minoguchi/ishoku.htm
http://home.netsurf.de/tan.minoguchi/ishoku.htm
「臓器とは人命救助の浮きぶくろ」―ドイツの脳死臓器移植について─
『あうろーら』1999年秋17号
「『臓器移植』の文化論 ?ドイツから日本の臓器移植について考える」
Navigator No.76(1999年9月20日)独逸回覧記 No.12(MSN Journalで紹介)
美濃口によると、ドイツでは、臓器とは「提供する」ものでなく、あくまでも寄付(寄贈)するものであり、キリスト教的隣人愛が強調されるという。寄付は、個人から個人への贈り物とは異なる。
しかしまた、非個人的な、医療資源、社会資源とみなす考え方とも異なっている。
野村裕之は、「提供者」をさす「ドナー」という言葉の意味を次のように説明している。7)
>>「ドネーション」とは「神への献げもの」という意味であり、「ドナー」は「神に奉献する者」のことである。非宗教的に使われる場合でも、慈善団体や非営利団体への寄付であって、個人間の受け渡しというイメージではない。個人に渡るとすれば、団体を通して、条件にかなった相手に寄付されるのである。
ヨーロッパの臓器提供で一般的な、いわゆる「オプション・アウト」の考え方もこの延長にある。すなわち、臓器はその人のものではなく、神や社会に属するものであり、本人があえて「ノー」といわない限りは、すべて提供の対象となる。
7)野村裕之著「死の淵からの帰還」(岩波書店、1997年)
同書、p.152, p.153.
寄付という考え方は、資源とみなす考え方と近いように見えるが、まったく一緒とは言えない。というのも、資源とみなす考え方では、移植のための臓器・組織の提供をパーツの交換と考えるが、寄付という考え方に基づいて臓器・組織を提供する場合、隣人愛・博愛の精神と、パーツの交換という考え方とは、相容れないとされるからである。
野村裕之の妻カリンは、USAに住んでいたら臓器提供をするが、日本に住んでいたら臓器提供しない、と言い、その理由を次のように述べている。8)
>>「日本では臓器提供を、まるでこちらの患者からそちらの患者に物でも受け渡すように考え、議論している。
臓器提供を、神の前に責任をもった応答とするに足るだけの信頼を、日本の医療界がわたしにもたせてくれない」
8)野村、前掲書、p.150, p.151.
野村は、贈り物としてではなく、寄付としての臓器・組織の提供を、全面的に肯定し、称揚している。9)
>>端的にいえば、臓器提供することに直接的利益はなにもにない。金銭的見返りはもちろん皆無だし、社会的栄誉が得られるわけでもない。また、家族の誰かに移植が必要になっても、特別扱いはなく、他の人と全くおなじ条件で順番を待たなければならない。
では、なんの見返りもないのに、なぜ提供するのか。そうすることで、どこかの見ず知らずの誰かの命が助かるかもしれないから、である。移植という命のリレーによって、レシピエントとその家族、友人に希望と喜びが与えられるからである。それとてドナーは直接に確認することはできない。この星空の下の、どこかの、だれかである。ドナー家族に与えられる慰め、安らぎも、じつはこの確信からくる。だからこそ尊く、だからこそいつまでも色あせず、現在進行形の慰めとなる。
9)野村、前掲書、p.173-174.
野村のこのとらえかたは、Albert論文でとりあげられているドナー家族や、吉川・柳田・杉本氏らの事例と比べると、いささか楽観的に過ぎる感がある。しかし、野村のとらえるような感覚で、臓器を提供し、慰められているドナー家族もいるであろう。
贈り物にしろ、寄付にしろ、それぞれの国ごとに優勢な考えがあり、それが法制度に現われるとしても、一人一人はまた、さまざまな考え方がある。
日本でも、臓器提供をパーツの交換と考える人もいれば、贈り物と考える人も、寄付と考える人もいるであろう。
ドイツの例で言えば、1997年に制定された臓器移植法は、それまで移植医が遵守してきた移植綱領を引き継ぐ内容で、本人の事前の意思表示がなくても、家族の同意で臓器提供ができる。しかし、法案審議の過程では、日本の臓器移植法の審議のときと同じように、本人の事前の書面による意思表示を必須の要件とする案や、脳死を前提としない案に賛成した議員も多数いた。また日本でも、法案審議の過程では、家族の同意だけで臓器提供ができる案も提出されていた。そして、日本では、本人の事前の書面による意思表示を必須の要件とする案が通り、ドイツでは、本人の事前の書面による意思表示を必須の要件としない案が通ったわけだが、これでドイツ国内の議論が終わったわけではなく、日本もまた、議論が終わったわけではない。10)
10)中山研一、アメリカおよびドイツの脳死否定論、法律時報、72巻9号、2000.
澤井繁男は、腎臓移植手術を受けることを受諾したとき、「移植対象の『臓器』は具体的な形ある肉塊から、ひとつの、たとえば神とか仏とかの抽象へと変容して、<いのち>になったと思う。」と述べている。さらにその後、再透析に入るときのことを、次のように述べている。11)
>>僕は肉塊である臓器を<いのち>とみなしてきた。ところが再透析を前にして臥している僕が望んだことは、ダメになった移植腎を新鮮なモノ(臓器)と取り替えれば苦痛が霧散する、ということであった。<いのち>などという美的に昇華された思念はどこかへ吹き飛んでしまって、埋め合わせとなる<モノ>があれば事足りて、健康・立命を再び手に入れられる─出血に対する止血、血圧を下げるための降圧剤─あたかも応急処置の世界に僕はいた。<現場>と向き合うどころか、<現場>でどうすべきか、その場にふさわしい行動を開始せねばならぬ情況。そういう苦境に置かれた僕が希求した内実は、自分が生きていくためには他人の死(臓器)がいる、という赤裸々な欲であった。
>>臓器は<いのち>であって<モノ>ではない、よもや<部分(パーツ)>ではない、と主張してきた当人が、交換すればわが身がたすかるその糧として、窮地に陥ると、ころっと立場を逆転させて<モノ>を欲するこの現金さ――これも自分であり、ありのままに見定めると自己嫌悪に襲われる。
>>移植臓器は、ドナーの方の肉塊が<いのち>へと止揚された段階で第一の関門は通過であるが、ありのままにわが身を見つめると、<いのち>の彼方にやはり歴然と<モノ>が「いま・ここ・自分」にある。動かしがたい事実であり、生命の昂揚感も<モノ>に促されてはじめて発露される。<モノ>と<いのち>で争っても不毛であろう。<モノ>が<いのち>に、<いのち>が<モノ>に変容する妙を会得しかぎわけること。これこそクオリティ・オブ・ライフの一環ではあるまいか。クオリティは「(特)質」であるが、僕には「徳性・力(ヴァーチュー)」に思えてならない。
11)澤井繁男著「移植された臓器が死んだ日」「新潮45」2001年4月号、p.98-104
同記事より、p.102, p.103, p.104.
澤井の<いのち>に相当するもののことを、野村裕之は、肝臓移植を受けた時に、「われ」と呼んでいる。12)
>>今のこの「わたし」の存在の土台は、もやはひとりの「われ」ではなく、「われ」ともうひとつの「われ」が結びついた
「われわれ」。もはや「I」ではなく「WE」。「WE」に存在の根底を据え、「WE」から発する新しい命なのだ。
12)野村、前掲書、p.168.
澤井にしても、野村にしても、提供された臓器を、単なる「パーツ、財産、非個人的な、医療資源、社会資源」としてではなく、自らの生きる力そのものとして、とらえている。
しかし、澤井は、提供された臓器には、みずからが生きるために、痛んだら取り替える「<モノ>」「<部分(パーツ)>」という側面もあることを、自覚している。
澤井が自覚した、<いのち>と<モノ>の二面性は、レシピエントとしての魂ともいえるものではないだろうか。
そして、それは、レシピエントだけでなく、人間そのものの本質とも言えるのではないだろうか。
人間は、本質的に、自分の内にある他者のイメージと外にある他者の存在をかかえて、生きているのではないだろうか。そして、内なる他者のイメージにも、外にある他者の存在にも、<いのち>と<モノ>の二面性を見ているのではないだろうか。
それは、両方とも、他者が自分に対して示す側面であり、同時に、自分が他者をとらえる側面でもある。
レシピエントとは、たまたま、移植された臓器を得て、内なる他者のイメージを具象化した人々ではないだろうか。
夢の中でドナーに会い、優しく言葉をかけられてから、拒絶反応が改善し、予後がよくなったという角膜移植患者の話は、その好例ではないかと思う。
野村は、先に延べたように、贈り物としてではなく、寄付としての臓器移植を、全面的に肯定し、称揚しているが、そこには、痛んだら取り替える「<モノ>」「<部分(パーツ)>」という側面への注視はない。そのかわり、レシピエントや移植医には選択の自由がないが、ドナーとその家族には完全な選択の自由がある、と考えている。13)
>>レシピエントには、事実上恣意的な選択の余地はない。移植を選ぶか、そうでなければ死に直面するしかないからである。また移植医は、それを専門職をする以上、課せられた責任を最大限に果たす努力が求められ、自由意志で決断できることの幅はきわめて限られている。
完全な恣意的選択の自由をもつのは、じつは、ドナーとその家族である。そしてこの自由が発揮されるためには、意志を表明する機会がフェアに与えられなければならない。すなわち、脳死に際し、臓器(あるいは組織)提供の意志の確認がなされなければならない。
13)野村、前掲書、p.172-173.
野村は、ドナーとその家族は、臓器(あるいは組織)提供の意志を表明する機会がフェアに与えられなければ完全な恣意的選択の自由をもつことができない、と考えている。
しかし、既に見てきたように、レシピエントから完全な恣意的選択の自由と見えるものは、ドナーとその家族にとっては、看取りと、喪の作業への侵襲でもある。
野村は、キリスト教的隣人愛・博愛の精神でおこなわれる寄付の側面だけを見て、ドナー・レシピエント双方にとっての、負の感情の側面についてはあまり考えない。
これもまた、レシピエントにとっての、臓器移植の一つの考え方であろう。
誰かが、事前に臓器・組織の提供の意思表示をする場合、脳死後や心臓死後の、臓器・組織の摘出は、本来、自分のからだへの侵襲行為であるが、自分にとってそのことの意義が理解できれば、移植のためであっても、医学研究のためであっても、どちらでもかまわないと考えている場合がある。移植のための臓器・組織の提供をしても、死後、レシピエントに会うことは絶対にかなわないのだから、見知らぬ個人への贈り物というよりも、むしろ、社会への貢献という意識が強い場合もありうる。医学研究のために提供される臓器と同じように、パーツ、財産であり、非個人的な、医療資源、社会資源である、といった考え方である。
その一例は、立花隆である。立花は、ドナーカードに署名した理由を、次のように挙げている。14)
>>まず第一に、脳死は人の死と私自身確信しているということがある。
>>ドナーカードに私がサインしたもう一つの背景として、私はもともと自分の死んだあとの遺体に執着心がないということがある。
>>ペルシア人やチベット人は、遺体を刻んでハゲタカに食わせてしまう『鳥葬』にする。もちろん、墓など作らない。そのほうがずっと自然だと思う。
>>現代文明社会においては、人は滅多なことでは食べられない。……これでは、生物界のメンバーの一員として自己を全うしていないといわれても仕方ないだろう。
>>私がドナーカードにサインしたからといって、突然移植医療のすばらしさに目ざめて、その賛美者になったということではない。私はもともと移植医たちにそんなに好意的な気持をもっていない。移植医の一部には、臓器ほしさのあまりハゲタカかハイエナのようなマインドになってしまっている連中がいるのである。そういう連中には、好意のもちようがない。
しかし、そういう連中にもそれなりの存在理由がある、と認めるところから、このドナーカードの話ははじまっている。
14)立花隆著「人体再生」(中央公論新社、2000年)
同書、p.34, p.38, p.39, p.41.
立花はまた、ドナーになる本人の意思が最優先されるべきで、家族の同意は必要ないという意見を持っている。15)
>>そもそも、脳死体の処分権は誰が持つべきなのか。それは当然のことながら肉体の所有権者であった本人自身に属する固有の権利である。だから、本人の生前の意思表示があたら、それが何よりも優先されるべきであり、それを明確にした日本のルールは賞賛さるべきであり、……(中略)……日本のルールでは本人の意思表示があっても、家族の同意がなければ、本人の意思に沿った決定がなされないことになっているが、この点はどう考えてもおかしい。
>>生死の問題について語る場合は、「自分の存在」「自分の生死」が決定的な意味を持つ。生も死も、本質的には、一人称の生であり、一人称の死である。他者の心の中にある私という存在は、私にとってはヴァーチャルな存在でしかない。
15)立花、前掲書、p.35.
もちろん、本人も、移植のための臓器・組織の提供はかまわないが、医学研究のための臓器・組織の提供は拒否するという場合もある。
Seewaldは、福岡市内の病院に勤務する252人の看護婦を対象に、脳死・臓器移植についての意識調査をおこなった。16)その結果、移植のための臓器提供を肯定している看護婦でも、死後の献体や病理解剖は拒否する人が多かった。これは、遺体の外観が損なわれるのを嫌がる、という理由のせいであるが、贈り物としての(移植のための)臓器・組織の提供はするが、資源としての(医学研究)のための臓器・組織の提供はしないという考え方の表われとも考えられるのではないか。
16) Ralph Seewald, Ph.D., A survey on the attitudes of 252 Japanese
nurses toward Organ Transplantation and Brain Death. Eubios Journal of
Asian and International Bioethics 10 (2000), 72-76.
移植のための臓器・組織の提供の意思表示をしようという人には、贈り物、資源の他に、寄付の観念でとらえている人もいるだろう。
本人と家族との間で、臓器・組織の提供を、贈り物と見るか、寄付とみるか、資源と見るかの意見が食い違うことがある。だから、本来は、移植や医学研究のための臓器・組織の提供について、家族など、自分を看取ってくれると思われる親しい人々と、よく話し合って、考え方の違いなども知り、死を迎えるときにはどのような決定を下すのか、意見をすりあわせた人が、書面で意思を表示しておき、終末期の医療を受ける時に、看取ってくれる人を通じて、意思表示の書面を提示する、というのが望ましい。
しかし、実際には、本人と家族とが、何も、移植についても医学研究のための臓器・組織の提供についても話し合ったことがないのに、脳死状態になってしまい、家族が、決定を迫られることがある。日本では、心臓死後の臓器・組織の提供について、USAなどの諸国では、脳死後の臓器・組織の提供について、救急医やコーディネーターが話を切り出してくる。
立花隆は、移植医の一部が「臓器ほしさのあまりハゲタカかハイエナのようなマインドになってしまっている」「しかし、そういう連中にもそれなりの存在理由がある、と認める」と述べている。ハゲタカも、鳥葬では、人間が自然回帰を果たすために、なくてはならぬ働きをしているわけだが、今日、多くの国々で、移植医療におけるハゲタカは、システマティックな、洗練されたものとなっている。すなわち、transplant community と呼ばれるような、多くの臓器調達機関などの協同・連携によって、臓器を調達し、分配するシステムができあがっている。17)患者がドナーになることの承諾を家族から得るのは、CPTC(ドナーコーディネーター)であり、彼ら・彼女たちは、死別の悲嘆に暮れる家族に、訓練された、共感的な態度で接して、臓器提供の話を切り出し、承諾を得る。また、救急医療、集中治療の現場や、検視局にも、協力を呼びかけ、脳死になりそうな入院患者の確定と連絡、検視の前の臓器の摘出などを推進している。そこでは、脳死患者はすべて潜在的ドナーとみなされている。
>>The role of critical care nurses in referring potential donors is of key importance in actualizing the provision of these new regulations. Once it has been determined that a patient has not had a survivable neurological event and that brain death is imminent, the OPO must be contacted. The OPO needs time to work with nurses and physicians to evaluate the patient's eligibility as an organ or tissue donor. Once death has been declared and the OPO has been determined that the patient is a suitable donor, a plan to approach the family to request consent for donation is created. 18)
17) "transplant community" の二つの意味 http://member.nifty.ne.jp/lifestudies/teruteru08.htm
http://www.lifestudies.org/jp/teruteru08.htm
18)Ronald N. Ehrle, Teresa J. Shafer, and Kristine R. Nelson,
"Determination and Referral of Potential Organ Donors and Consent for
Organ Donation: Best Practice--A Blueprint for Success", Critical Care
Nurse, Vol.19, No.2, 1999,
http://www.critical-care-nurse.org/aacn/jrnlccn.nsf/(Articles)/192Ca1?OpenDocument
さらに、transplant communityという言葉は、レシピエント、ドナーの家族、臓器調達機関、移植医、看護婦、コーディネーター、倫理学者、一般の市民や科学者など、移植に利害関心を持つ人すべてを含んで使われることもある。19)そこでは、ドナーの家族とレシピエントとの交流が推進されるのもまた、移植のための臓器・組織の提供をふやすために役立つという理由によっている。
19) "transplant community" の二つの意味 http://member.nifty.ne.jp/lifestudies/teruteru08.htm
http://www.lifestudies.org/jp/teruteru08.htm
CPTCのAlbertが、「ドナー家族とレシピエントとは、生と死の円環のキーエレメントを表わしている。」(Donor
families and recipients represent key elements in the circle of life and
death.)と述べても、その円環は、実際は、レシピエントを中心としたものである。
しかし、ほんとうは、レシピエントを中心としているとさえ、言えないかもしれない。
本来は、柳田邦男の長男の言葉を引くなら、狭義のtransplant communityは、ドナーの「臓器を利用するというのでなく、病気で苦しむ人を助ける医療に」ドナーが「参加するのを」、「専門家として手伝う」とともに、また、レシピエントが、ドナー家族の喪の作業に参加するのを専門家として手伝うのが望ましいと思われる。
にもかかわらず、圧倒的な臓器不足という事態を前にして、専門家は、ドナー家族やレシピエントに対して、どのように洗練された、共感的な態度で望もうと、いやおうなく、移植のための臓器・組織の提供も、医学研究のための臓器・組織の提供も、同じように、パーツ、財産であり、非個人的な、医療資源、社会資源である、という前提で動かざるを得ない。
それは、レシピエントの命を救うために全力を尽くしているように見えて、実は、レシピエントの魂を殺している場合があるのではないだろうか。
移植や医学研究のための臓器・組織の提供を、非個人的な、医療資源、社会資源とみなす考え方は、無脳児を移植や医学研究のために利用しようという考え方に、極端に表わされる。
American Academy of Pediatricsのcommittee on bioethicsは、"Pediatrics"
Vol. 89, No. 6(June Part 1, 1992)に、" Infants with Anencephaly as Organ
Sources: Ethical Considerations"を発表している。
(http://www.aap.org/policy/04790.html)
ここでは、無脳症児を移植と研究のための資源として使うという提案が検討されているが、その提案者には、移植外科医、医療倫理の専門家、州議会議員とならんで、無脳症児の親たちが挙げられている。無脳症児の親たちは、他のこどもと命を救うために無脳症児の臓器を使ってはいけない理由がないと述べている。
>>Some parents have poignantly expressed their wish that some good might come of their loss. In their opinion, there is no compelling reason for failing to use an anencephalic infant's organs to give life and health to other children.
無脳症児の親たちが、こどもを臓器移植のために利用してほしいと申し出るのは、無脳症のこどもが産まれたということで、親自身が、大きな傷を負い、それを、贈り物としてか、寄付としてか、わからないけれども、移植のための臓器提供によって、癒そうとしているようである。
移植医療の専門家たちは、そういう親の気持を、臓器不足解消のために、利用している、と言えるのではないだろうか。
この倫理委員会では、出生前に胎児が無脳症と診断された場合も、検討されている。医師は、中絶を勧めることも、医学研究や移植のために臓器を利用するために、妊娠を続けるように勧めることも、すべきでない、という。
>>Of special concern, however, is the issue of seeking parental consent
from parents whose in utero fetus has been diagnosed with anencephaly.
In no case should physicians or researchers encourage a woman to alter
her obstetrical management or to carry her fetus to term so that the infant
can be included in a research protocol. Furthermore, parents must be thoroughly
forewarned that their hopes of mitigating their own loss by contributing
to the research effort could prove fruitless, given the substantial possibility
that the infant may be stillborn or have other anomalies.
さらに、出生前診断が、普及するにつれて、無脳症児の出産は減っているが、中絶に関する法律が変わると、増加する可能性があるという。
>>National incidence rates for anencephalic infants also appear to be
decreasing, particularly because prenatal screening is increasingly available.
[3] On the other hand, changes in US abortion laws could increase the number
of liveborn anencephalic infants.
委員会は、最終的に、無脳症児を臓器移植に利用するのは、さまざまなむずかしい問題があるとして却下している。
無脳症児は、自分から望んでドナーになることは、絶対にない。
しかし、自分からドナーになることを望む人だけを待っていては、臓器不足は解消しない。
そして、そのことが、移植医療の、根本的な欠陥であると思われる。
これまで見てきたように、ドナーの家族・レシピエント・ドナー本人にとって、移植のための臓器・組織の提供には、贈り物・寄付・資源の、三つの側面が、同時に複数とらえられたり、どれか一つだけが強調されていたり、さまざまであった。そして、この三者の間を結びつける、コーディネーターなどの狭義のtransplant communityは、移植のための臓器・組織の提供を、資源とみなして動いている。前三者と狭義のtransplant communityを全部含み込んだ、広義のtransplant communityも、システム化されて、ひとりひとりのドナーの家族やレシピエントにはどう見えようとも、あるいは、見えさせられても、基本的には、移植のための臓器・組織の提供を、資源とみなして動いている。このシステムは、はじめから、臓器不足を解消するために作られており、それゆえにこそ、移植のための臓器・組織の提供を資源とみなすことが、システムの本質となっている。
このようなtransplant communityのありかたは、表面は、博愛の精神や贈り物の善意であふれていても、実は、ひとりひとりのドナーやドナー家族やレシピエントの魂を殺している場合がある。ひとりひとりのドナーの背後には、看取りと喪の作業のために結び付けられた、ターミナルケアのcommunityがある。本来、それはtransplant
communityとは別の価値を持ち、完結している。移植のための臓器提供は、患者のからだへの侵襲であるとともに、看取りと喪の作業への侵襲でもある。transplant
communityが、ターミナルケアのcommunityの価値を尊重し、共存することが、結果的に、レシピエントの命だけでなく、レシピエントの魂も生かすことにつながると思う。
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