LaRhonda Clayvilleの論文抄訳

(キーワード摘出、抄訳、考察、てるてる)


レシピエントと会うことが、ドナー家族のgrief processに与える影響を調べた研究。
レシピエントと対面した5家族を対象に、インタビューによる調査をおこなった。
5家族のうち4家族は、こどもがドナーで、5家族全部がメディアの助けを借りてレシピエントに会っていた。

Journal of Transplant Coordination 1999 June;9(2):81-6

When donor families and organ recipients meet.

LaRhonda Clayville, MSN, RN

Gonzaga University, Spokane, Wash., USA.

「ドナー家族とレシピエントとが出会うとき」

(抄録)

Medical decisions about organ donation and transplantation are considered by a growing number of individuals. The complex issue of whether and to what extent organ recipients and donor families should interact or communicate has gained increasing public awareness, thereby creating an area of major ethical and legal concern for the transplant community. Communication issues have traditionally been decided by transplant coordinators and guided by personal beliefs, agency guidelines, and organizational policies. Organizations are often inconsistent in their practices, and this in turn causes frustration and confusion for both donor families and transplant recipients. This study explored how the experience of meeting the recipient(s) of a loved one's organ affected the grieving process of donor families and altered their lives. The information from this study might be useful to transplant professionals to develop guidelines and policies that lessen the confusion and frustration felt by those involved with the transplant process.

臓器提供と移植に関する医学的決定について、より多くの人々が考えるようになってきている。レシピエントとドナーの家族とが接触したり交流したりするべきかどうか、あるいはどの程度まで接触や交流を進めるべきかという複雑な問題が、臓器移植ネットワークの人々に一般的に意識されるようになり、重要な倫理的法的関心の対象として取り上げる余地ができてきた。コミュニケーションの問題は、伝統的に、移植コーディネーターが、個人的信条、所属する機関のガイドライン、組織の方針などに沿って、決めてきた。組織の方針は一定に定まっていないことが多く、そのために、ドナーの家族とレシピエントの療法に不満と混乱とをもたらしてきた。この研究は、愛する者の臓器のレシピエントと会うことが、どのようにドナーの家族の悲嘆の過程に影響を与え、人生に変化をもたらすかを、調べたものである。この研究がもたらす情報は、移植の専門職の人々が、ガイドラインと方針を定めるのに役立ち、移植の過程に巻き込まれる人々が、混乱と不満を感じることを減らすことができると思われる。
 

(キーワード)
grief, grief work, grief process, grieving individuals, television media, pain, emotional pain of grief, physical and psychological pain, gut-wrenching pain
 

(以下、本文要約)

Setting, Sample, and Data Collection

この研究は、Northwest のOPO, Pacific Northwestを通して、対象者を募った。
研究の対象となったドナー家族は全員、Northwestに住んでいた。
対象となったドナー家族に対して、レシピエントに会った後の感想を聴いた。
内訳は、5家族、8人。
2家族は、こどものドナーの両親。
1家族は、女性のドナーの母親と兄(弟)。
1家族は、2歳の男の子のドナーの母親。
1家族は、男性のドナーの妻。

インタビューは、1時間?2時間で、ドナー家族の選んだ場所でおこなわれた。ドナー家族自身の家ではおこなわれなかった。
インタビューの始めに、このインタビューは、同じような状況のドナー家族のために、レシピエントとの対面が、grieving processにどのような影響を与えるかを理解する必要があるからおこなうと伝えた。質問の主眼は次の諸点である。
(1)レシピエントと会った経験は、どんな影響を与えたか
(2)レシピエントと会ったときの状況

インタビューは、格式張らない、くつろいだ雰囲気でおこなわれ、ドナー家族が、自由に語ったり、時には泣くこともできるようにした。
テープと書き取りとは、後でドナー家族に見せて内容が正しいか確認をとった。
さらに、grief supportの専門職が分析して正確を期した。

Results

インタビューを受けた家族は、皆、熱心で協力的だった。
 

All participants were involved with various activities to promote organ donation, and regarded this involvement as a tribute to their deceased family member, who had given life to others.

どの家族も、臓器提供推進の運動に参加しており、それが亡くなった人の供養になると思っていた。

Circumstances Surrounding the Meetings

5家族のうち、4家族で、ドナー家族とレシピエントとの最初の対面を、テレビ局が取り持った。

5家族全部が、レシピエントと会う前に、文通をしていた。文通は、対面の準備として有効だった。
 

(テレビのかかわり)

ドナーとレシピエントの対面の調整に係わった移植専門職は、さまざまな臓器調達機関と移植プログラムに属していた。それゆえに、それぞれの対面のやりかたはいろいろで、誰が調整にかかわったか、どんな機会があったかに従って組織された。一つの家族の最初の対面は、お互いが友達同士だったので、プライヴェートに仕組まれた。他の対面は、メディアと接触のある移植専門職が扱った。

5家族全部の対面が、なんらかのかたちでテレビとかかわっていた。
1家族は、ドキュメンタリー番組を撮られていた。
2家族は、全米に放送されるトークショーのゲストだった。
2家族は、地域的なトークショーに呼ばれていた。

ドナー家族は、テレビ局の態度は親切で自分たちを尊重してくれたけれども、レシピエントとの対面は情緒的な性質を持つものだから、もう少しプライヴァシーに配慮してほしいと述べた。テレビに出ると、カメラを意識せずにはおれなかった。

"We didn't have a chance to prepare [for the meeting]. If we ... lost control we wouldn't have been able to talk and that would have ruined things."

「私達は、心の準備ができなかったのです。もし私たちが自分をコントロールできなくなったら、話すこともできなくなり、ぶちこわしになるのではないかと思いました。」

"I don't know if I would want to go through [a televised meeting] again. It was so emotional, but the tape [of the meeting] is nice to have to promote organ donation."

「私は、この次は、テレビでの対面をしたいと思うかどうかわかりません。レシピエントとの対面は非常に情緒的なものですが、テレビの録画は、臓器提供推進のためによく撮れていました。」

"I would say meet off camera [because] both parties are under pressure and are trying to make one of the most momentous meetings of their lives."

「私は、カメラに写らないようにしてほしいと言いたかった。私達もレシピエントの方達も、大きなプレッシャーを感じており、人生で最もたいせつな対面の一つをこれからしようとしていたのですから。」

1家族は、テレビに映ることに強い反感を持った。それは、grieving individuals悲しんでいる人々を利用する恐れがあると感じていた。テレビ局の目的は、悲しんでいる人々の心を癒すことではなく、視聴率を上げることではないかと思っていた。

"I think you are asking people to put themselves in a position of relinquishing control ...... I don't think it is respectful, fair, or professional...... It is exploitation there is no question about it."
「テレビは、人々が感情のコントロールを失うような質問をして、尊敬も、公正さも、専門性もなく、利用するだけだと思います。」

あるドナーの母親は、テレビに出たら、どんな反応をしてしまうかと不安で神経質になっていた。
「メディアは、レシピエントに会うについては非常に力があったので、私はそこから逃げたいとも、出たくないとも思わなかった。後で、思っていたほど感情的にならないことがわかった。たくさんの人が、まわりにいてささえてくれて、その人たちからのフィードバックを聞くことができた。」

5家族のうち、4家族で、ドナー家族とレシピエントとの最初の対面を、テレビ局が取り持った。
何人かはテレビ局の動機について、懐疑的だった。メディアは臓器提供を推進するか、視聴率を上げるために、こういうことをやっているのではないかと。

(痛みの共有)

5家族8人とも、レシピエントに会ったことで、人生に、肯定的な影響を受けていた。
レシピエントは、ドナー家族の、喪失の痛みemotional pain of griefを理解し、ささえた。

A young man who had lost his sister described his emotional pain pointedly:

I started having nightmares, [which were] really bad. Then after I met the heart recipient the healing began; it was like she had just died that day and I started dealing with [the loss]. After that I got out pictures of her that I had kept hidden in a box and played the song that was played at her funeral over and over and looked at her pictures and just cried and cried. [I] was the first time [that I cried] since the funeral.

女性のドナーの兄(弟)の言葉

私はひどい悪夢に悩まされていた。それが、心臓の移植を受けたレシピエントに会ってから、治まった。その悪夢は、姉(妹)が亡くなった日から始まっていた。レシピエントに会った後、私は、箱の中にしまっていた姉(妹)の写真を出して、お葬式のときに歌った歌を何度も何度も歌い、そしてまた写真を見てただ泣きに泣いた。私はお葬式以来、初めて、泣いたのだった。

Knowing that someone else understands the pain provides one with an connection and support.

誰かが、痛みを理解してくれたと知ると、絆と心のささえを得られる。

A couple who had lost a child described their relationship with the recipient's parents as follows:
"We have so much in common that we have become a support structure for each other; we went through a bond that words cannot describe."

こどものドナーの両親は、レシピエントの両親との関係について語っている。
「私達は、お互いに、ささえあうことができるのをよく知っています。私達は、口では言い表せないほど強い絆で結ばれています。」

Holiday and special days like Mother's Day were described as especially difficult times.

母の日のような祝日や特別の日は特にむずかしいときだと言われている。

One mother who lost her 17-year-old daughter received a Mother's Day card from the heart recipient's sister:
"The little sister sent me a Mother's Day card. She had all her little friends write on it, 'We are all thinking about you.' It was such a neat card."

17歳の娘を失った母親は、母の日に、心臓のレシピエントの妹から母の日のカードを受け取った。
「妹さんが母の日のカードを贈ってくれたのです。彼女は友達全部と一緒に書いていました、『私達はみんなあなたのことを想っています』なんてかわいいんでしょう。」

ドナー家族は、レシピエントとレシピエントの家族から情緒的なささえを得られたことを口々に述べている。

"You get a lot more from a hug than [from] a letter."

「一通の手紙よりも一度のhugから多くのものを得ることができます。」
 

"[A] big load had lifted from me."

「私は大きな重荷を降ろしました。」

"It was like I was a new person, I had so much energy, I felt like a load was lifted so much that I can do anything."

「私はたくさんのエネルギーをもらって、新しい人間になったようです。私は、重荷を降ろして、何でもできるような気がします。」

The emotional pain that accompanies the loss of a loved one is powerful and can cause both physical and psychological pain. For the individuals in this study, the opportunity to meet with recipients helped them to resolve some of the gut-wrenching pain they experienced and allowed them to have a higher quality of life. This gift of emotional relief was identified frequently and with passion and conviction in response to the question, "How did you feel when you met the recipient?"

愛する人を喪った悲しみもたらす痛みは、力が強く、身体的心理的な痛みを引き起こすことがある。
レシピエントに会ったことによって、ドナーは、腸が絞られるような痛みがほぐされ、より質の高い暮らしができるようになっていた。この情緒的な解放という贈り物があったことは、しばしば、「あなたは、レシピエントに会った時、どんなふうに感じましたか?」という問いに対して、情熱と確信とを伴った答えが返ってきたときに、確認された。

ドナー家族がレシピエントに会ったことにより、自分たちの決断は正しかったと確信した。
「娘が生においても死においても惜しみなく与える人間だったことを知って、とても救われました。驚くべきことです。」
「レシピエントとレシピエントの家族がとても感謝していること、ほんとうにいいことをあの人たちにしたのだということを知って、いくぶん癒されました。」
「臓器提供は、一生の財産です。神様がみそなわし、ほほえみかけてくださるのを感じます。」
「臓器提供の決定で、私は良い感情を持ちました。私は、娘が神様の隣に腰掛けて話すのが観えます、『これが私の贈り物よ、私がしたことなのよ。』そして、微笑むのです。」
「私は悲しみを落ち着かせることができました。私は息子と喜びを失いました。けれども、あたらしい命を得たことを理解しました。私はほんとうの意味では失ってはいないのだとわかりました。」

griefの道は、ひとりひとりが自分の時間表に従って辿る、苦闘の道である。それは、曲がりくねっていたり険しかったり、山あり谷ありで苦しいが、頂上に着くと、新しい展望が開け、明晰に理解できるようになる。

クリスマスの頃に夫を亡くした女性は述べている。
「私は、レシピエントとレシピエントの家族が良いクリスマスを迎え、将来の約束をたくさんしていると想うだけで仕合わせになりました。レシピエントは、夫に似て、良いことをたくさんする人で、すべての人に恩恵を与え続けるでしょうから。」

A mother who lost her young daughter in a tragic accident stated:
"This [meeting] gives me someone to talk to about my daughter. [The recipient] is very thankful which I appreciate. She wants to know everything about it; it's fun to relive her life."

若い娘を悲劇的な事故で亡くした母親は述べている。
「レシピエントに会ったことで、私は、娘のことを話す相手ができました。レシピエントはとても感謝していることがわかりました。彼女は、娘のことを何でも知りたがります。娘の人生を再現するのがおもしろいのです。」

Two families were brought together after a baby received a heart from another baby:
We are developing a friendship, we talked about going on trips together. I feel like family, like we will see them every year. To show family pictures of him--this is the boy who received our son's heart, he is the one that is alive today--is awesome; we lost our son but we didn't lose two.

赤ちゃんの心臓を提供した家族と、心臓をもらった赤ちゃんの家族とは友達になった。
「私達は友情を育てました。私達は一緒に旅行をして話しました。私は家族のように感じて、毎年、あの人たちに会いたいと思っています。彼の写真を家族に見せると、これは私達の息子の心臓をもらった男の子のことですが、びっくりします。私達は、息子を失いましたが、二人とも失いはしなかったのです。」

ドナーの妻は、夫の腎臓のレシピエントとの関係が続いていることについて述べている。
「私達は、臓器提供を勧め、友情を育てるという仕事をして、利益を上げることができました。これはすばらしい配当、ボーナスでした。」

メディアの力で、一つのドナー家族は、娘の心臓のレシピエントが死んだことを、レシピエントが亡くなった月に知った。ドナー家族とレシピエントの家族は、ともに、悲劇的にこどもを亡くした。ドナーの両親は、二つの家族が関係を続けていることをこう述べている。
「私達が出会った状況のせいで、私達は生きるために絆を結びました。私達は、彼らが私達の二人目のこどもを育てるのを手伝うのをまかせました。私達は彼らを充分見ることができませんでした。レシピエントのおとうさんは、私達に、期待していることを話しました。彼は、サポート・グループのファシリテーターでした。私達はみんな一緒に飛び上がりました。彼は、私達は狂っていない、これは正常なgrief workだ、と確信させました。彼ら全員が私達を抱きしめました。」

ドナー家族はレシピエントとが会った結果、未来の方向を見ることができるようになり、生きていくことにエネルギーを集中することができるようになった。ある人は臓器提供推進プログラムに参加し、別の人は新しい友情を育てている。

Discussion

Meeting the recipient of their gift allows these families to process their grief, through emotional support, confirmation, and acknowledgement that their loved one did not die in vain and that, even in death, he or she gave life to someone.

ドナー家族は、自分達の贈り物を受け取った人に会うことによって、griefの過程を、情緒的なささえ、確認、愛する人が無駄に亡くなったのではなくて、死においてさえ、誰かに命を与えることができたことの認知を得ながら、辿ることができる。

レシピエントに会ったドナー家族は、対面を成功させるにはどんなことが重要かと質問されて、次のように答えている。

「ドナー家族は、情緒的に正しい位置にいる必要があります。」
「プロセスとタイミングが重要です。仲介してくれる人、客観的でドナー家族とレシピエントと両方の側によくしてくれる人が必要です。」
「私達は、最初にgriefをコントロールする時間が必要です。」
「対面は短すぎました。私達は、相手を知るチャンスがなかったんです。」
「対面はプライヴェートなほうがいいです。メディアはいりません。」

これらのコメントは、ガイドラインと、bereavementの専門家が、対面を調整して良い結果をもたらすために重要であることを語っている。対面は個人的で真摯なものである。ある人にとっては愛する人について語る機会であり、ある人にとっては、自ら下した決定の正しさを証明するものである。

この研究から得られる情報は、OPOがより多くのドナー家族がレシピエントに会う機会を与えるための政策を作るのに助けになることと思われる。National Donor Councilが1996年に予備的なガイドラインを作ったが、調査の結果、ドナー家族の86%がレシピエントについての情報をもっと得たいと望んでいることがわかった。ドナー家族は、レシピエントについてより多くの情報を得たい、よりコミュニケーションしたいと望んでおり、臓器調達の専門職は、bereavementの専門家の協力を得て、ドナー家族の要望に最もよく応えることができる。

Study Limitations and Opportunities for Future Research
(今後の課題)

調査の対象の件数は少なかったが、一つ一つの対象に深い調査ができた。

調査の対象となったドナー家族にかたよりがあるのが、興味を引く。

5件のドナー家族のうち4件が、こどものドナーの両親である。
こどもを喪った両親は、griefの過程で、痛みをこらえやすくする経験を求める動機が強いのか。

メディアが全部の家族に係わっていたことは、興味深いことであり、次の質問を導く。
(1)なぜ、このような個人的、情緒的経験にテレビがかかわってくるのか。
(2)ドナー家族がメディアのかかわりを求めたり認めたりする動機は何か。
将来の研究は、メディアのかかわりなしの対面に焦点を当てて、どんな環境がドナー家族にとって最も支持的なのか確かめる必要がある。
もう一つ、次の質問が調査されるべきである。ドナー家族がメディアのかかわりに賛成するのは、
bereavementの要求に適うからなのか、それとも、テレビがもたらす興奮のせいなのか。

どうしてドナー家族が彼らの命の贈り物の恩恵を受けた人に会いたがるのか、まだ答えられていない質問や学ぶべきことがたくさんある。もし我々がこの現象をよりよく理解できたら、つまり、より多くのドナー家族が、自分たちの贈り物の果実を見ることができたら、より多くの臓器が提供され、移植待機リストは短くなるだろう。




(考察)メディアの利用と、こどもの臓器を提供した立場について


少数を対象とした調査とはいえ、レシピエントとの対面を望んだドナー家族の多くが、こどもの臓器を提供した立場の家族で、どの家族もメディアの力を借りて対面を果たした、という報告は、Clayvilleも指摘しているが、興味深いことである。

日本のドナー家族でも、5歳の息子の腎臓を提供した吉川隆三1)、6歳の息子の腎臓を提供した杉本健郎2)は、テレビ番組がきっかけで、レシピエントまたはレシピエントの家族からの連絡を間接的に受け取り、25歳の息子の腎臓を提供した柳田邦男3)は、著書、つまり出版というメディアを通じて間接的に、レシピエントの琴線にも触れていることが想像される。

1) 吉川隆三著「ああ、ター君は生きていた」(河出書房新社、2001年)
2) 森岡正博著「増補決定版 脳死の人─生命学の視点から─」(法藏館、2000年)の中の対談
3) 柳田邦男著「犠牲(サクリファイス)―わが息子・脳死の11日─」(文春文庫、1999年)
 

メディアの利用について

メディアの利用が多い点については、現在の移植医療が、匿名を原則にしているため、ドナーの家族がレシピエントと連絡したいと思った場合、移植関係者の協力が得られない、というのが、第一の理由であろう。
すなわち、コーディネーターをはじめとする移植医療関係者は、患者の情報に対する守秘義務があるため、彼らの協力を仰ぐためには、Albertの論文で紹介されていたような、移植センターと臓器調達機関(organ procurement organization, OPO)への、個人情報開示の承諾と守秘義務の免責の書類consent and general release formにサインしなければならない。4)

4) Albert, P., Clinical decision making and ethics in communications between donor families and recipients: how much should they know?
Journal of Transplant Coordination, 1999 December;9(4):219-24

しかし、ドナーとレシピエントとの文通だけならともかく、対面となると、まだ積極的に協力するOPOは少数派である。それでも対面の目的を遂げるためには、USAでは、テレビのトークショーやドキュメンタリーなどに出演するのが、手っ取り早いようである。それに対して、日本の吉川氏や杉本氏の場合は、レシピエントに会うためにテレビに出たのではない。USAのドナー家族も、積極的にテレビに出ているように見えても、本来、個人的、情緒的な事柄である、ドナー家族とレシピエントとの対面の場に、テレビカメラが無遠慮に侵入して、視聴率を上げるために、自分たちが感情をコントロールできなくなる場面を期待して利用するのではないかという、警戒心はある。

>>"We didn't have a chance to prepare [for the meeting]. If we ... lost control we wouldn't have been able to talk and that would have ruined things."
(「私達は、心の準備ができなかったのです。もし私たちが自分をコントロールできなくなったら、話すこともできなくなり、ぶちこわしになるのではないかと思いました。」)

>>"I don't know if I would want to go through [a televised meeting] again. It was so emotional, but the tape [of the meeting] is nice to have to promote organ donation."
(「私は、この次は、テレビでの対面をしたいと思うかどうかわかりません。レシピエントとの対面は非常に情緒的なものですが、テレビの録画は、臓器提供推進のためによく撮れていました。」)

>>"I would say meet off camera [because] both parties are under pressure and are trying to make one of the most momentous meetings of their lives."
(「私は、カメラに写らないようにしてほしいと言いたかった。私達もレシピエントの方達も、大きなプレッシャーを感じており、人生で最もたいせつな対面の一つをこれからしようとしていたのですから。」)

>>"I think you are asking people to put themselves in a position of relinquishing control ...... I don't think it is respectful, fair, or professional...... It is exploitation there is no question about it."
(「テレビは、人々が感情のコントロールを失うような質問をして、尊敬も、公正さも、専門性もなく、利用するだけだと思います。」)
(Clayville, p.83)

しかしながら、ドナー家族の感情を利用するという点については、OPOもまた、レシピエントとの対面に積極的に協力する場合は、それを臓器提供推進のために利用する目的があってのことである。そのことは、Lewino 論文Albert論文、Clayvill論文でも、はっきりと述べられている。
Clayvilleのインタビューの対象となったドナー家族は、全員、臓器提供推進の運動に参加しているので、OPOに利用されるという意識はないようだが、他の家族はまた、違った感想を持っているかもしれない。

>>All participants were involved with various activities to promote organ donation, and regarded this involvement as a tribute to their deceased family member, who had given life to others.
(どの家族も、臓器提供推進の運動に参加しており、それが亡くなった人の供養になると思っていた。)
(Clayville, p.83)

日本では、もっとあからさまに、ドナー獲得のために、ドナーとレシピエントとの対面を利用した例がある。
骨髄バンクの「骨髄移植推進財団」が、ドナー登録が増えないため、対面を感動的なドラマとしてマスコミに提供し、登録が爆発的に伸びた米国や台湾などの例を参考にしようとした例が、1999年12月15日付毎日新聞で報道されている。計画では、公開しても問題のない人選を考えており、「移植手術から3〜5年以上たち、患者、ドナーともに順調なケースを数組程度、対面させたいとしている。」5)

5)Mainichi INTERACTIVE 科学環境ニュース
「患者とドナー、対面へ〜骨髄移植推進財団、登録増へ方針転換〜」
http://www.mainichi.co.jp/eye/feature/details/science/zouki/199912/15.html

骨髄移植は、生体間移植なので、ドナー家族が悲しみの苦痛を癒すためにレシピエントとの対面を求める、といった、提供者側の強い希望があるわけではない。ドナー獲得のために、感動的な物語を作り上げて事業を宣伝しようとしたものである。確かに、USAのOPOも、ドナーの増加をねらってはいるが、それだけではなく、ドナー家族のために、移植後の精神的支援をおこなわざるを得ない、という切実な理由があった。ドナー家族とレシピエントとの対面の前にカウンセリングをおこなうのは、「公開しても問題のない人選」のためではなく、当事者達への精神的支援の一つである。日本の骨髄移植推進財団が、このあたりの事情を理解していないように見えるのは、残念である。

第二に、臓器提供は、そもそも、医療情報社会への発信であり、レシピエントに会うのは、受信者をさがしだす行為である、という考え方もできると思う。

柳田の著書には、長男の、「ただ弟の臓器を利用するというのでなく、病気で苦しむ人を助ける医療に弟が参加するのを、医師は専門家として手伝うのだ、というふうに考えてほしい」という言葉が、臓器・組織の提供を資源としてみる考え方と対極にあるものとして、取り上げられている。3)
この言葉のようにドナーが医療に参加するには、一度は、非個人的な医療データとして、移植情報社会に差し出されねばならない。それが、レシピエントに届いた後、ドナー本人は亡くなっているから、ドナーを看取った人が、受信を確認して初めて、移植医療への参加が完結した、と言えるのではないだろうか。
ドナーを看取った人に、移植の予後の情報が届いたときに、移植医療が完結するのであり、その移植の予後の情報には、レシピエント本人も含まれる場合がある、ということではないだろうか。

森岡正博は、移植医療を成り立たせる社会について、次のように述べている。
>>脳死の人からの臓器移植が定着する社会は、情報流通社会です。それを成り立たせている技術は、今日の情報流通産業を成り立たせているものと同じです。……(中略)……臓器移植の思想とは、商品流通の思想なのです。

移植医療では、ドナーが、医療情報として伝達され、医療資源として扱われないと、医療行為そのものが成り立たないのだが、その後、ドナーを看取った人が、移植手術の予後の情報を得て、医療資源とされたドナーの人間性を回復しようとするのではないだろうか。
ドナー家族が、主体的にドナー情報の最終受信者であるレシピエントをさがしだそうとするとき、マスメディアの力を借りることがあっても、不思議ではない。もともと、臓器提供自体が、巨大な情報流通社会への発信行為なのだから。
ただ、本来は、ドナーの家族がレシピエントと連絡を取るというのは、全く個人的に意味のあることだから、インターネットが普及してきている今日では、個人が自由に発信・受信できる掲示板やホームページのほうがずっとよく目的が果たされ、利用がふえるのではないかと思われる。実際、USAでは、必ずしもOPOなどの移植団体・機関と関わりを持たない、ドナー家族やレシピエントが作った個人的な掲示板が、親睦を深める場となっている。
(TransplantBuddies.com http://www.transplantbuddies.com/)
 

こどもの臓器を提供した立場について

Clayvilleの論文は、ドナー家族のgrieving processに、レシピエントとの対面が、どのような影響を与えるかをテーマにしており、もとの論文にはキーワードは挙げられていないが、griefとpainとその関連語を、キーワードとして取り出してみた。

キーワード grief, grief process, bereaved individual, pain, grief work, grief support, grieving individuals, television media, emotional pain of grief, physical and psychological pain, gut-wrenching pain, bereavement specialist

このうち、television mediaを除いて、他は皆、griefとpainとその関連語である。
griefとpainは、ドナーの家族のかかえているものだが、レシピエントに会うと、ともにかかえてもらったり、ささえてもらったりできるようになる。

>>"[A] big load had lifted from me."
(「私は大きな重荷を降ろしました。」)
(Clayville, p.84)

>>"It was like I was a new person, I had so much energy, I felt like a load was lifted so much that I can do anything."
(「私はたくさんのエネルギーをもらって、新しい人間になったようです。私は、重荷を降ろして、何でもできるような気がします。」)
(Clayville, p.84)

こどもの臓器提供の場合、実質的に、親が最終決定者なので、その選択が正しかったのかどうか、という迷いに後から悩まされることも多い。だから、余計に、レシピエントに会って、自分達の選択は間違っていなかったと知り、重荷を降ろすことが必要なのかもしれない。

しかし、Clayvilleに限ったことではないが、USAでは、コーディネーターなどの移植関係者は、ドナーの家族というものは、もし、臓器提供を承諾していなかったら、救いようのない悲劇のなかにいたのだが、臓器提供をしたおかげで、レシピエントという友ができ、人生に新しい意味を見出すことができた、という点を強調しすぎるきらいがある。臓器を提供しなくても、看取りと喪の作業を充分におこなえる人々がいることや、そうできるようにささえたほうがいい場合もあること、
臓器提供そのものにも、ドナーの家族に与える傷があるのではないか、という点については、完全に忘れているか、想像が及ばないかのようである。

>>Knowing that someone else understands the pain provides one with an connection and support.
(誰かが、痛みを理解してくれたと知ると、絆と心のささえを得られる。)
(Clayville, p.84)

>>The emotional pain that accompanies the loss of a loved one is powerful and can cause both physical and psychological pain. For the individuals in this study, the opportunity to meet with recipients helped them to resolve some of the gut-wrenching pain they experienced and allowed them to have a higher quality of life. This gift of emotional relief was identified frequently and with passion and conviction in response to the question, "How did you feel when you met the recipient?"
(愛する人を喪った悲しみもたらす痛みは、力が強く、身体的心理的な痛みを引き起こすことがある。レシピエントに会ったことによって、ドナーは、腸が絞られるような痛みがほぐされ、より質の高い暮らしができるようになっていた。)
(Clayville, p.84)

>>Meeting the recipient of their gift allows these families to process their grief, through emotional support, confirmation, and acknowledgement that their loved one did not die in vain and that, even in death, he or she gave life to someone.
(ドナー家族は、自分達の贈り物を受け取った人に会うことによって、griefの過程を、情緒的なささえ、確認、認知を通して、つまり、愛する人が無駄に亡くなったのではなくて、死においてさえ、誰かに命を与えることができたことを確信して、辿ることができる。)
(Clayville, p.85)
 

次のような例では、ドナーの親は、レシピエントに会うことによって、喪われた愛の対象を再発見しているかに見える。

>>A mother who lost her young daughter in a tragic accident stated:
"This [meeting] gives me someone to talk to about my daughter. [The recipient] is very thankful which I appreciate. She wants to know everything about it; it's fun to relive her life."
(若い娘を悲劇的な事故で亡くした母親は述べている。
「レシピエントに会ったことで、私は、娘のことを話す相手ができました。レシピエントはとても感謝していることがわかりました。彼女は、娘のことを何でも知りたがります。娘の人生を再現するのがおもしろいのです。」)
(Clayville, p.84)

>>Two families were brought together after a baby received a heart from another baby:
We are developing a friendship, we talked about going on trips together. I feel like family, like we will see them every year. To show family pictures of him--this is the boy who received our son's heart, he is the one that is alive today--is awesome; we lost our son but we didn't lose two.
(赤ちゃんの心臓を提供した家族と、心臓をもらった赤ちゃんの家族とは友達になった。
「私達は友情を育てました。私達は一緒に旅行をして話しました。私は家族のように感じて、毎年、あの人たちに会いたいと思っています。彼の家族写真を見せるのは、彼というのは私達の息子の心臓をもらった男の子で、今も生きていますが、おそろしい。私達は、息子を失いましたが、二人とも失いはしなかったのです。」)
(Clayville, p.84)

この場合、ドナーの年齢とレシピエントの年齢とが近いせいなのか、ドナーの家族とレシピエントとのかかわりが、非常に密接になっているように見受けられる。Clayvilleは、その点について、心配をしていないようである。

日本の吉川氏・杉本氏は、なんとかして我が子のよすがをこの世に残したい、という気持から、臓器提供を申し出ていた。社会に貢献しようという気持ちなどではなかった。こちらの場合は、あまり、お互いの生活に入り込むような深い関わりを、レシピエントと持ちたいとは、思っていない。
それは、賢明なことではないだろうか。

Lewino論文では、ドナー家族がレシピエントに会いたいと望む最大の理由は、移植の恩恵を受けた人に直接会いたい(to see first-hand the benefit of their donation)ということであり、recipientsがドナー家族に会いたいと望む最大の理由は、感謝を述べることであった。

そして、Albertは、「ドナー家族とレシピエントとは、生と死の円環のキーエレメントを表わしている。一度結ばれると、この円環は、ほとんどのドナー家族とレシピエントとにとって、長く続く恩恵をもたらす、力強い関係を打ち立てる。」と述べている。

Donor families and recipients represent key elements in the circle of life and death. Once united, this circle establishes a powerful connection that has long-lasting benefits for most donor families and transplant recipients.
(Albert, p.144)

Lewino Albertの論文で示されたように、ドナー家族とレシピエントとが、友情を発展させ、持続させることは、彼らの当然の権利でもあるし、望ましいことである。

しかし、幼いこどもの臓器提供の場合、親が臓器提供の決定をしているため、こどもへの愛情と執着が、レシピエントとの関係に転化されやすいのではないかとも思われる。それは、移植でこそ生じる関係である。ただ制限すればよいというものでもない。もし、もっと大きな規模の調査で、おとながドナーである場合よりも、こどもがドナーである場合のほうが、ドナーの家族がレシピエントと会いたいという要望が強いということがわかったとすれば、そうであればこそ、会った後の、レシピエントとの関係に、より一層、注意が必要ではないかと思われる。