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国分寺の造営がいつごろ完了したのかは諸国
ともに明らかではない。国分寺の造営事業は、
国司の指揮・監督のもとに各国の財政事情に
応じて進められたので、「国分寺建立の詔」が
出されたからといって、全国一斉に造営が進め
られたというわけではなく、天平12(740)年の
恭仁京遷都から天平17(745)年の平城京遷都
に至るまでの中央政治の混乱や、造営費の
不足と国司の怠慢などもあって、思うように
進まなかったのが実情であると思われる。
天平19(747)年には、諸国の国分寺造営の
遅れが問題視され、政府はこうした現状を
打開するために「国分寺建立督促の詔」を
出して、国司の怠慢を責める一方で、三年
以内に塔・金堂・僧房を造ることを条件に、
子孫を末代まで郡領に任用することを定める
など、国司に対して造営事業の進行を督促し、
財政的な配慮や郡司(地方豪族)層に対する
協力要請などの諸施策を実施した。このような
テコ入れのもと、「建立の詔」から約20年を
経た頃には諸国の国分二寺(僧寺と尼寺)の
造営が完了したと推察されている。