【廃墟マニヤ File014】
D二海堡(千葉県)
(その1)
釣り好きの知人にその存在を教えてもらって以来、いつかは訪れようと思っていたのですが、どのように行けばいいのかわからず(まあ、ちゃんと調べなかっただけですが……)長いことほったらかしのままだったのが、この第二K堡です。
ある日、雑誌を眺めていたところ、渡し船がどこから何時に出航するのかまで載っているのを発見! これは私に行けということだなと(妄想?)ばかりに、早速訪問してきました。
それでは写真に行く前に、まずこのD二海堡についての簡単な説明をしておきます。興味のない方はとばしてください。
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明治初期、政府によって東京湾防衛を目的として、千葉県富津岬と神奈川県観音崎間(およそ7km)の浦賀水道を軍事的に閉塞する計画が立てられます。時代背景としては、海外列強が砲艦外交で植民地を広げようとしていた頃であり、またしばらく後には韓国問題で清国との緊張も徐々に高まりつつあるという状況でした。
ところが当時の砲は射程が短く、陸上からこの水道を通過する艦を攻撃することは困難だったため、人工の要塞島を築き、富津と観音崎そして猿島に築いた砲台と合わせて防御ラインをつくることが決定されます。
まず明治13年(1880年)にD一海堡の建造が決まり、さらに明治22年(1889年)にはD二・D三海堡の建造が具体的に決められます。
とはいえ、海中から土台を築き要塞をつくるわけですから巨額の費用と年月が必要で、結局、富津の沖合水深5mの地点に造られたD一海堡は、明治14年(1881年)起工で竣工が9年後の明治23年(1890年)。浦賀水道をはさんで千葉寄り、水深10mの地点に造られたD二海堡は明治22年(1889年)起工で、25年後の大正3年(1914年)竣工。そして神奈川寄りのD三海堡にいたっては、水深が40〜50mあったため、相当の難工事となり、明治25(1892)年起工で、竣工は大正10年(1921年)と完成までに29年もかかっています。
ところが、長い歳月と巨額の費用を費やしてせっかく造り上げたこれらの要塞も、D三海堡完成からわずか2年後の1923年、関東大震災によって大きな被害を受け、使用不能に陥ってしまいます。特にD三海堡は被害がひどく3分の1が水没、D二海堡もコンクリート各所にヒビが入り、結局そのまま廃止除籍されるという結果を迎えます。
さらに言えば、既にその頃、日本の海軍も多数の艦艇を有し、砲の性能も上がっていたため、もはやこれら海堡の必要性はなくなっていました。
その後、太平洋戦争時代、海軍により監視哨などがつくられますが、結局一度も実戦には使われないままでした。このように、これらの海堡は、軍事的には壮大なムダとなってしまったわけですが、その建造で得られたノウハウは日本の海洋土木技術に計り知れない貢献をしたといわれています。
私が訪問した2003年には、D二海堡には灯台設備と海上保安庁の施設があるだけで、釣り人天国と化していましたが、2005年、それまで黙認(?)されていた釣り人のための渡航船が廃止されてしまったため、釣り人天国も終了。現在は完全な無人島となっているようです。
なお「D三海堡」については、水没が進み暗礁化して、航行する船舶にとって危険なため、2000年に撤去が決定。2007年8月には完全に撤去されてしまいました。
ちなみに「堡」の字は現在慣用的に「ほ」と読まれることがほとんどですが、海堡を正しく発音すると「かいほう」のようです。
満足度:★★★★
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