思うこと 第249話             2007年9月4日        

ドクターズマガジンに私のインタビュー記事掲載


月刊誌『ドクターズマガジン』は、ドクター向けの一般誌の中ではもっとも読まれている雑誌です。かって、このHPの『思うこと 第194話』で『ドクターズマガジン誌に登場した医師達』という小文を掲載しましたが、このたびドクターズマガジン9月号に私がとりあげられました。褒められすぎているので照れくさいのですが、メディカルプリンシプル社のご許可をいただきましたので、私のHP上でも紹介させていただくことにしました。実は取材の申し込みを受けたのが今年の3月22日で、メディカルプリンシプル社の中村敬彦社長からインタビューを受けたのが3月30日、すなわち定年退職の前日、財団法人慈愛会会長就任の前々日という私にとってはとても大事な人生の節目の日で、それだけに、熱っぽく語ったことを想い出します。まず、大学でインタビューを受け、病棟で患者様の診察風景の撮影もあり(本文4頁の写真)、その後、私の定年退職に時期をあわせて開催された『第二回納 光弘展』の会場に場所を移して残りのインタビューをうけ、写真撮影も受けたのでした(本文7頁の写真)。
 では、まず、表紙(下写真)に引き続き本文(4頁から9頁までの計6頁)の写真を示し、その後に、本文の全ての文を写真やリンクなども入れながら掲載します。














ドクターの肖像:94
財団法人慈愛会会長・元鹿児島大学第三内科教授 納 光弘
薩摩の怪童が駆けめぐった時空には、
いくつもの豊饒な実りが。


父から受けた薩摩の伝統
「郷中」教育


 薩摩藩は、江戸時代の300年間、一度も暗愚な君主を出さなかった藩だという。国としての独立心に富み、事実、江戸幕府からは常に、「反意はなはだしい外様の大藩」と危険視されていた。徳川家との反目はなんと関が原に遡り(島津軍は西軍に加わり敗走)、滅亡を回避できたこと自体が歴史上の奇跡とも言え、300年の間、暗君を出している余裕などないほどの緊張感があったのだろう。
 薩摩の賢政を象徴し、支えたもの、それが教育である。「郷中(ごうじゅう/ごじゅう)」と呼ばれた武士子弟の教育法は4〜5町四方を単位とする「方限(ほうぎり)」を基盤とし、そこに含まれる区画や集落に居住する青少年を年齢別に4グループに分け、それぞれのグループの頭(かしら──稚児頭、二才頭など)が郷中での生活のいっさいを監督し、彼らの教育に責任を負うといったもの。青少年らは「舎」と呼ばれる場所に集い、武術と学問に励んだ。国の命運をかけて「人づくり」に取り組んだ地から、西郷隆盛や大久保利通などの怪童が巣立ち、維新を成就させたことは、ある意味必然だったと言える。
 鹿児島県には今も、すでに教育の場としての機能は薄れてはいるものの、「舎」という概念が受け継がれているそうだ。納光弘氏にそれを問うと、当たり前のように郷中教育の体験談を述べてくれた。
「私が父から受けた教育は、まさに郷中教育です。出水兵児(いずみへこ)という薩摩の掟(下写真)を、いつも読んで聞かせてくれました(笑)。

ただ父は一度として『勉強しろ』とは言わなかった。実は怒られた記憶もありません。私は、毎日遊びまわっている悪童でしたが、たまに本を読んでいると、父は優しく頭をなでてくれました」
 郷中教育で育まれた納少年は、本人いわく見事な「ガキ大将」に成長した。勉強などには目もくれず、野山を駆けめぐっていたらしい。
「それはもう、父が『勉強しろ』と言わないですから(笑)。しかし、中学3年生を目前にした春休みに、大事件が起きた。おばあちゃんが亡くなったのです。私はおばあちゃん子だったので、ひどくショックを受けた。泣きはらしました。そして、おばあちゃんについて考えていると、『光弘、学問で身を立てないかんよ』と言われていたことを想い出し、人が変わったように勉強を始めました」

何かをなし遂げるだろう
探究心と集中力


 納少年は悪童の心をあらため、怪童として医の道を邁進する。大枠としてその捉え方は間違っていないが、正確を期すならば悪童時代の内実を精査する必要があるだろう。祖母の他界によって勉強に開眼する以前の彼は、文字どおり遊びまわっているだけの悪童だったのか──実は否。なんと、中学2年生にして昆虫の学術研究を開始している。

「吉野の牟礼が岡で、鹿児島にはいないはずの南方系の蝶であるタイワンツバメシジミの群れを見つけたのです。群れがいるのなら幼虫(蛹)もいるはずだと冬の調査をつづけ、高校1年のときに、とうとう越冬状態の蛹を発見しました。その発見の経緯を綴った論文は今も保育社の『原色日本昆虫大図鑑』に掲載されています。私にとってはサイエンティストとしての第一歩であり、私の論文としては最長不倒距離(笑)のものと言えるのではないでしょうか。何しろ、今も原書として扱われているのですから」
 もし勉強に目覚めなかったとしても、この悪童は、何がしかの世界で、何がしかの業績を残していたであろう。その萌芽は、昆虫研究の一件からだけでも見てとれる。彼の探究心と集中力は机にかじりつくようになる以前にすでに証明されており、いったんかじりつくようになれば、すさまじい学問の推進力となるだろうことは火を見るよりも明らか。そして、事実そうなった。
 納氏の幼少期のエピソードには、郷中教育が怪童を世に輩出する秘訣を知る手がかりが潜んでいそうだ。思うにそれは、単純明快なことではないだろうか。──つまり、人は健やかに育てば、いつか人の役に立つ人物となる。秘訣は、そう信じる人が、子を健やかに育つ邪魔をしないこと。ただ、それがもっとも難しい。難しいからこそ代代、地域で受け継ぎ、語り継ぐ価値があったのだろう。

父は「勉強しろ」とは言わず
野口英世の紙芝居を与えた


 納氏の父は開業医であった。「勉強しろ」と言わない代わりに、子どもたちには野口英世の紙芝居を買い与えたという。
「6人兄弟の男4人は、私も含めて全員医師になりました。紙芝居を子ども同士で読み合ううちに、男たちは全員、野口英世をめざすのが当然と思うようになった。父がどれほどの計略を持って(笑)、その紙芝居を選んだのかは定かではありませんが、少なくとも私は多大な影響を受けました」
 当然、勉強に目覚めた納氏が目標としたのは医学部進学。
「学校の先生は、東大か京大を狙えると勧めてくださいましたが、父は『私の出た九州大学にしなさい』と言う。最終的には、自分で決めました。『鶏口となるも牛後となるなかれ』。そう思っての選択です」
 1960年九州大学医学部入学。時は60年安保闘争華やかなりしころであるが、結論から言えば納氏の大学生活に、それはたいした影響を与えない。
「『学園の自由を奪っている大学当局を糾弾しよう!』と叫んでバリケード封鎖する学生たちには、本当に腹が立ちました。『僕たちの学ぶ自由を奪っているのは、君たちじゃないか』と猛然と抗議する私の姿が、テレビ報道の映像になって、両親はずい分心配したそうです(笑)」

半生を語るに欠かせない
3人の恩師の存在

 
 納氏は自らの医師としての半生を語るとき、必ず3人の恩師の名を挙げる。ひとりは、九州大学で生化学の面白さを教えてくれた生化学教授の山村雄一氏。ひとりは、鹿児島大学で神経内科の奥深さに開眼させてくれた第三内科教授の井形昭弘氏。そしてもうひとりは、聖路加国際病院で臨床のすばらしさを教えてくれた日野原重明氏。特に井形氏に関しては、「井形イズム信奉者」、「井形先生のいちばん弟子」を公言し、神経内科の研究活動はもとより人材育成の理念にいたるまで強い影響を受けたと語る。つまりは、人との出会い、導いてくれた人への感謝を両手いっぱいに抱えた人生だったのだ。
「出会いなしで、今の私はありえません。山村先生は、箱崎の医学部キャンパスから六本松の教養課程キャンパスに単身乗り込まれ、辻説法で医学進学課程の学生を集め生化学の講義を開かれました。もちろん、3年生になった私は、真っ先に山村先生の門を叩き、生化学の教えを請いた。残念ながらそれからすぐに先生は、大阪大学第3内科の教授に招聘され、去ってしまわれましたが、その後、医学部部長、学長として大阪大学に飛躍的発展をもたらしたのでした」
「聖路加病院には、もう九州大学には戻らないつもりでECFMGをとって医局を飛び出した折りに、8ヵ月の期限つきで拾ってもらいました。そこで、日野原先生にお会いした。簡単に言えば、当時、コンサルタントである日野原先生とレジデントである私は神様とネズミのような関係。先生から声をかけていただけるなんて、ありえない。ところが、それが起こったのです。先生は、ときに『今日、家に飯を食べにおいで』と声をかけてくださった。これには、私はとても感動しました。それまで大学などの聖路加国際病院とは異なる世界ですごしてきて、日野原先生の患者さんとの接し方や医療人を育てる教育のすばらしさにカルチャーショックを受けていただけに、先生との個人的なおつき合いは、私にとって一生忘れられない思い出となりました」
 山村氏は、1990年、72歳の若さで惜しまれつつがんでこの世を去った。納氏を含む教え子たちは、定期的に「山村教授を囲む会」を開催していたが、逝去の3ヵ月前にもその宴があり、忘れられない出来事が起こる。
「それまで宴の最初から最後までニコニコと私たちの話を聞いてすごされるのが常であった先生が、この夜は突然立ち上がり、直立不動でお話を始めました。『よく、“出会いの大切さ”について語る人がいるが、出会えばいいというものではない。私の人生にとって、赤堀四郎先生との出会いは私の人生を決める出会いであった。しかし、当時、毎日大勢の人が赤堀四郎先生に会っているわけで私だけが出会ったわけではない。いいかい、出会ったとき、その人との出会いがすばらしい出会いであると感じ、さらに深く飛び込んだ私も偉かったのであり、これこそが大事なんだ。いいか、肝に銘じてほしい』と、一気にお話しになって座られました。私はその言葉に、雷に打たれた思いがした。私が、人との出会いについて、おぼろげに感じていたことを明快に表現されたからです。そして、それが先生が私たちに最後に残そうとした言葉であると後にわかり、感銘はひとしお大きくなりました」

「井形イズム信奉者」として
神経内科研究者として奔走


 井形氏と納氏の関係については、あえて詳細に触れる必要もないだろう。井形氏は鹿児島大学の第三内科を世界に名だたるものに育てた大功労者であり、納氏はそのいちばん弟子を自認する。
「井形先生に言わせると神経内科には、3つの『ない』がある。それは、『治らない』、『わからない』、そして3つめに『あきらめない』だそうです。素敵な言葉だと思いませんか」
 聖路加国際病院から九州に戻った納氏は縁あって鹿児島大学医学部第三内科に入局し、神経内科に関して、まさにイロハからを井形氏に教わった。やがて国立療養所南九州病院神経内科医長に就任する。
「この時期に、神経難病に苦しんでいる患者さんのための研究に一生を捧げる決心ができました。『医学の進歩に期待しながら、いつの日か治る日が訪れるのを夢見てがんばっている患者さんたちのために、尽力してほしい』。井形先生の言葉を胸に刻んでいました」
 何より井形氏は、弟子たちの意思を尊重する教授だった。東京大学薬理学教室への国内留学も、メイヨークリニックへの米国留学も快く送り出してもらえた。そして、メイヨークリニックを舞台に、納氏から同じ医局の後輩である福永秀敏氏(現国立病院機構南九州病院院長)、さらに、福岡忠博氏(現鹿児島市立病院内科部長)とバトンタッチしながらなされた「筋無力症候群(mysthenic syndrome)が、抗カルシウムチャンネル抗体で起こる」という病態解明は、神経内科の教科書に永久に残る成果となった。
「メイヨークリニックのエンゲル教授は、人に厳しく、自分にも厳しく、そして何よりハードワークをこなす方でした。ですが私は、いつもエンゲル先生より1時間早く研究室に出て、1時間遅く帰っていた。人の3倍働くのは当たり前、そのうえで人の3倍人生を充実させてこそ、薩摩男児である。そんな心意気で生活していました」
 帰国後は、鹿児島大学医学部第三内科助教授となり、1986年にはHTLV-Iが引き起こす新しい脊髄疾患/HAMを発見
「あるとき、痙性脊髄麻痺患者の末梢血と髄液中にATL様の細胞が認められたのが始まりでした。そこで、レトロスペクティブサーベイ(Retrospective survey)を行った結果、新たな疾患概念として確立にいたったのです。
 HAMの研究が、本当に人の役に立ったと実感したのは、そのあとすぐ。発症者に輸血歴の頻度が高い点に気づき、それを示した私の論文を引き金に、全国の輸血スクリーニングが実施されました。以降、日赤由来の輸血では、ひとりのHAM患者も出ていません」
 研究成果はWHOからも認められ、鹿児島大学第三内科は、「ヒトレトロウィルス性神経疾患WHO協力センター」に指定された。

「努力することが趣味」
何ひとつ手を抜かない人生


 インタビュアーの質問に答えるにしたがい、ますます快活に、面白そうにこんな話をしてくれた。
「これまで、『趣味はなんですか?』と聞かれると、絵画ボウリングゴルフ……といろいろあり、答えあぐねました。ところが、最近、気づきました。私は、そういうことがら一つひとつがどうのというより、努力そのものが趣味なのです(笑)」
 その一言で、インタビュアーの理解も飛躍的に進んだ。大学生時代の日本縦断自転車無銭旅行、プロはだしの絵画、ベストセラーになった痛風対策ノウハウ本の著作、ボウリングゴルフ三味線と熱中するものにこと欠かないうえにHP(P8参照)までもすべて独学と独力でつくり上げた話を聞くにつけ、「いったいこの方は……」と正直、混乱をきたしかけていたのだ。なるほど、「努力が趣味」とは言い得て妙である。
「HPをつくるにあたっては、まず関連書籍を相当な量読みました。病院の医療情報部の医師から技術的な指導を受けた後、作成はすべて私の手づくりです。秘書にも、たったの1文字の入力も任せていません」
 やると決めたことを、やり遂げる。その過程にこそ快楽がある。誤解を恐れずに言うならば、その原理は、趣味に限らず、医学も含めた納氏の人生全般に底流する原理なのだと感じた。祖母の他界に際して「心を入れ換えた」と理解していたが、どうやらそれこそが誤解だったようだ。
 悪童が改心して怪童になったわけではない。彼は、悪童のころから「努力の快楽」を知っていて、変わらずにそれをつづけていただけなのだ。福岡、東京、米国、そして、鹿児島に残した足跡と、その踏みしめた地に残された業績の数々は、実は、蝶の群れに輝かせたのと寸分たがわぬ悪童の好奇心によって、なし遂げられていたのである。
 納氏は、この春(2007年3月)、鹿児島大学医学部第三内科教授職を定年退職し、4月から財団法人慈愛会会長として第二の人生を歩み始めた。退職後も逐次近況報告の日記がアップされるHPには、最近こんな報告が寄せられた。
「私の『夢追い外来』、いよいよ7月1日から開始!」
 財団法人会長自らが、しかも日曜日にまで外来を持つことが常識的なのか常識破りなのか……。もう、この際、詮索するのはやめようと思う。なぜなら、問い詰めたその先にあるのは、「つまり、努力する、その過程が楽しいのです」という答えが待っていることが、すでに明白だからである。