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鹿児島県医師会報 平成18年9月号 原稿

若者教育のためのホームページの威力

 私は小さい時から体は丈夫で、病気らしい病気をしたことがなかったので、5年前、59歳の夏、痛風発作を体験した時は、はじめて『自分も病気をするのだ』とショックを受けたのでした。 しかし、その翌年私が経験した出来事に比べれば痛風発作は病気と呼ぶのも気が引けるような些細な出来事だったように思います。 私にとって、人生の危機ともいうべきその出来事が起こったのは、痛風発作の一年後(平成14年、2002年)の60歳の夏のことでした。 病院長としての過労が極限に達し、病(高血圧)に倒れ、入院を余儀なくされたのです。 倒れた時は、病院長としてやらなければならない課題が山積していましたが、私の後を引き継いでくれた愛甲 孝病院長がみごとに案件を処理してくれ、私は安心して自分の病気療養に専念させてもらえたのでした。 おかげで、私の病気もわずか4ヶ月の入院で完治し、もう一度、第三内科の教授職に戻る事が出来ました。 再び仕事場にもどった初日、平成15年(2003年)1月5日(月曜日)の感激は言葉では現せないほどのものでした。 主治医、家族・親族、恩師、教室員、副病院長や病院関係職員、友人をはじめ多くの方々の筆舌につくしがたい暖かい助けにより、再び元気に働かせてもらえることになったからには、残された人生を、周囲の人々や世の中のためにお役に立てるよう、滅私奉公で生きてゆこうという気持ちで感極まって、涙が止まりませんでした。 もちろん、自分自身の健康を保つ事なしには、何かしようと思っても、思うように出来ないでしょうから、無理をしないで、病気前の半分のスピードで歩み、健康に留意しつつ、しかし目標をしっかり見据えて、新たな人生を生きてゆこう、と決意したのです。 『納先生は変わった』、と周囲から言われる度に、自分でもその変化に気づいていただけに、とても嬉しく思うことでした。 まず、患者さんに接する時の気持ちが以前とはまるで変わりました。 自然と目線が同じになってしまうのです。 医局員一人一人にたいしても、以前よりも時間をかけて面倒をみるようになったように思います。 これは単に病院長職を離れたから、時間がとれるようになったというだけでなく、何か、変わったのです。 学生にたいする気持ちもとても変わったように思います。 どう変わったかといわれても、うまくは、表現できませんが、なにか大きな変化が起こったのです。 このような日々を一年ほど過ごす中で、ふと、若者教育のために個人のホームページを作ろうという発想が湧いたのです。 私は『若者は無限の可能性を持っている、その事を自覚した瞬間若者は変わる』という強い信念があり、その事を自覚した若者の目の色が変わるのを、毎日のように見てきています。 もっと、より多くの若者に語りかけたい、と思っているうちに、『そうだ、ホームページ(HP)を通して語りかけよう』という考えが湧いたのです。 しかし、私はHPの作り方は全く知りませんでしたので、まず大きな本屋さんに行って、役に立ちそうな本を買いあさったのです。 しかし、独学では壁が厚く、結局鹿児島大学病院医療情報部の村永先生に教えてもらって壁を越えさせてもらい、手作りで個人のホームページを作成・開設したのが2003年の11月でした。 私のHPは個人的色彩が強かったので、公的な大学のサイト上には置かずに、1ギガの所場代約4000円を毎月ビッグローブに支払って、そこに置かせて貰っています。 若者への情報を送り続ける事は結構時間を使うのですが、早朝の勤務時間外の時間を利用して、少なくとも月に5回は若者へのメッセージを発信し続けてきました。 苦労の甲斐あって、期待通り、というより、期待をはるかに超える威力をこの私のHPが発揮してくれました。 これまでの2年半の間にすでに11万件を超えるアクセスがあり、学内の学生だけでなく、全国規模で高校生を含め多くの若者からメールをいただきました。 私はあと9ヶ月で鹿児島大学を定年退職しますが、退職後も、若者へのメッセージを送り続けてゆける、そういう場を持てたことは幸せな事であると思えてなりません。 ちなみに、私のHPは、Yahoo Japan や Google などで 納 光弘 で検索していただくと、必ず一番トップに出てきますので、一度覗いていただけたら幸いです。
(平成18年7月3日 記)

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