思うこと 第202話             2007年4月19日        

市民公開講座・納光弘講演
(2007年3月31日定年退職の日に講演)
『夢追って生きる−65歳の節目にあたって』

 第一ホールの皆様、それから第二ホールでお聞きの皆様、今日はこの私と日野原先生の講演会にご出席いただきまして、本当にありがとうございました。
 この講演会を企画して、皆さんに呼びかけましたところ、膨大な数の申し込みがございまして、結局、申し込まれた方の半分ほどの方々にしか今日の入場券をお送りできなかったという、非常に申し訳ないことが起こりました。でも入場券をお送りした皆様方は、こうして万難を排して駆けつけていただき、会場を埋め尽くしていただきましたことに、心より感謝申し上げます。
 それでは、私の話を始めさせていただきます。

 実は、日野原先生は本日95歳、そして私は65歳の若輩と言いますか、日野原先生から見たら、相当若者に当たると思いますけれども、日野原先生が95歳の生き方を話されますので、私としては、今日、ちょうど今、大勝先生からお話がありましたように、まさに今日この日に、鹿児島大学を定年退職する日に当たりますので、その節目にあたって、『夢追って生きる』というタイトルでお話させていただきます。

 実は、今朝、私は空港に、日野原先生をお迎えに行ってきました。その時の写真をご紹介いたしたいと思います。

 驚いたことに、先生はお供に秘書さんも連れず、重いカバンを両腕に持って1人でEXITに降りてこられたのです。
 私は日野原先生に、「先生、秘書さんなしで大丈夫でしょうか」とお聞きしましたら、答えがもう私はとってもびっくりしました。「いやねえ納君、やはり若い女性を連れて歩くとね、人から何と言われるか分からないからね」。私はこれはすごい言葉だと思うんですよね。すなわち日野原先生は、今、まだ若い青年の気持ちでいらっしゃるということの証だと思うんですよね。

 さて、これが皆さんに今日お配りしたチラシですけれども、

私はこのチラシに書いてあります通り生粋の薩摩隼人です。

実は私は、この私以外の3人の方がたとはとっても深い縁にありまして、

日野原先生は、私が聖路加病院時代の研修医時代の恩師で、井形先生は、初代の第三内科の創設をされて、私は二代目。大勝先生は、第三内科の二代目の助教授で、私はそのあとを継いで三代目という、深い縁のある3名でございます。

 今日の私の話は、日本で名医と言ったら、ポンとお二人の名前が挙がってくる、日野原先生、井形先生のお二人から教えを受けるという、非常にラッキーな立場にありましたので、皆様方に、私が何を学んだかということを、お話しできたらいいなと思うわけです。
 その前に、ちょっとだけ私は自分の紹介をかねまして、私の2つのエピソードをお話します。

 私はこの鹿児島で育って、中州小学校で4年間過ごし、荒田小学校ができたのでそこで2年間学び、そして、甲南中学校、甲南高校と、まさにこの明治の維新の若き志士達を生んだ、このあたりで小さい頃を過ごしたんですね。2つのエピソードというのは、1つ目が、これは私がヘリコプターをチャーターして撮ってきた写真なんですが、

私が50年前、13歳から15歳のころ、すなわち甲南中の2年生から甲南高校1年生のころに、昆虫採集に夢中になって、吉野の牟礼ヶ岡で過ごした時のエピソードですけれども、この当時、今みたいに住宅地が立ち並ぶ牟礼ヶ岡じゃなくて、あのころは本当に草原でした。

 この牟礼ヶ岡で、毎年、夏休みに昆虫採集に行きますと、中学の2年の時も、3年の時も、高校1年の時も、必ず夏休みが終わるころに、鹿児島は絶対いないと思われた、南方系のタイワンツバメシジミがたくさん飛んでいるんですね。毎年ですよ。
 それでいろいろ調べてみると、何とこの蝶の幼虫が食べる餌のシバハギという草がススキの間に一面に生えている。それで私は、これは大変なことだということで、ここに蝶が住んでいるに違いない。そうしたらこれは大発見だということで、必死で幼虫を探したんですけれども、とうとう幼虫が見つからずに、それで仕方がないので、ここのススキが枯れるころに、秋の終わりのころに行きまして、この枯れたススキの間の枯葉の下を探したところ、何とこの枯れ草の下に、サナギを5匹でしたか6匹でしたか見つけて、それが蝶々になって出てくるのまで確認して、そして鹿児島の昆虫同好会誌に報告したんですね。

 それがこの大きな幼虫の蝶の幼虫の事典に、

今もずっと私の名前が載っているのです。私にとってはとっても誇らしい出来事だったんですね。
 もう1つのエピソードというのが、私がこれは46年前ですね。

46年前に、19歳の時に、日本縦断自転車無銭旅行と。これは初めてのことだというので、いろんな雑誌にも取り上げられて、新聞にも載った、私にとっては事件と言うか、思い出深い出来事だったんです。

これは思い立ったが吉日で、行くぞというので、山口自転車という当時の一番大きな自転車会社から提供してもらって、あの当時は平瀬市長さんでした。平瀬市長さんが「おおそうか」と。「それじゃ俺が証明書を書いてあげよう」ということで、鹿児島市の親善大使みたいな証明書を書いて下さって、それを持って胸を張って日本を縦断して自転車をこいで行ったのです。
 全部、無銭旅行ですから、一宿一飯を頼んで、10軒ぐらい断られて、でも何とか助けていただいて、どうしても助けていただけない時は、橋の下に何回か寝た記憶がありますけれども、そのようなことで、何度止めようと思ったか知れません。だって、同時は一級国道といえども、全部砂利道なんですね。

もう尻がヒリヒリと赤く痛くて、ペダルにお尻を付けると痛いから、お尻を上げると今度はもう死ぬほど辛くて、もうしょうがないから泣きながら漕いでいったんですが、そのうち尻の皮が厚くなって、最後には28日目にとうとうやっぱり辿り着いたんですよね。

 何度止めようと思ったか知れないけど、とにかく進むのを止めなければ着くんだという、そのとっても単純なことが、この19歳の少年の胸には、もうとっても大きな教訓と言うか、もうその後、私の人生を何かどこかで、この出来事が支えてくれたような気がするんですね。
 私は若い学生を教育する機会が非常に多いですから、よくこの話はするんです。

そして「目標を定めて、とにかく止めずにコツコツと進み続けさえすれば、必ず目標に到達するんだ」と。
「だったら、必ず到達するんだったら、目標は可能な限り高く掲げろ」と。「ただし、高ければ高いほど努力が要求されるけど、努力することが青春だろう。それが君たちを伸ばしていくんだよ」と、そういうふうにいつも言い続けてきて、

それは私自身にも常にそういうふうに呼びかけながら、生きてきたんですね。
 という2つの、私にとっては、もうとっても大きな2つのエピソードを紹介したところで、お二方の先生から学んだことを初回したいと思います。

まず日野原先生から、私が何を学んだか。
 私はこの日野原先生が、ここまで大きくされた、これは今の姿です、聖路加国際病院の、

あの当時の面影が残っているのは、左端の建物の中央の小さな建物だけですけれども、その古い建物で研修させていただきました。
 その時に、私はたった8ヶ月しかいなかったんですよ。

たった8ヶ月だったけれども、私は今でも日野原先生の一の弟子だと、もう自分では思っているんです。なぜか。私ほど日野原先生のすごさをこれほど、私ほどすごさにショックを受けた研修医はいなかったはずだと、今でも思っているんです。ものすごいショックでした。
 当時、日野原先生は、内科の7人のコンサルタント。コンサルタントと言うと、大学で言うと教授かもっと上ですけどね。もうとにかく聖路加病院では、コンサルタントであれば、もうすごい。それ以外の人はもう全然すごくない位置ですから、もう研修医に至ってはネズミと同じだというぐらいに、そういう認識の、私達はそういうふうな認識を持っていましたけどね。でもネズミであっても、すごいことには感動したんですね。
 日野原先生は、毎日、朝から多数の外来の患者さんを診られたあとに、午後2時ごろから、毎日、私達に、毎日来て、ものすごく徹底的に私達を教えて下さったんですね。
 その教えの中から、もうその一言一言、先生は回診の時に、必ず私達に言ったのは「なぜそうなの」「なぜ」と、この「なぜ」という言葉をよくおっしゃいましたけどね。「なぜ」と言われると、私達はその答えを出すために、夜の間とか、土日にかけて、図書館で「なぜ」を調べるために、昔のカルテをずっと引っ張り出して、聖路加はそれができるんですね。そしてその中から、患者さんの統計を取る中から答えを出して、先生に「日野原先生、私はこう思います」とか、そういったようなことをしたように思います。
 それで私はその一言一言に感動して、メモに書き留めて、8ヶ月の間に、これは人に分からないように、こっそり小さなメモ帳に書いて、それを清書していったんですけどね。とうとう大きなノート4冊になったんですね。8ヶ月間でですよ。それほど日野原先生という方は、私達若者に教えをされることを、何かとっても喜んでおられたと言うか。

 私が日野原先生の後ろ姿を見ていて、とっても影響を受けたのは、日野原先生が、患者様に限りない愛情を注いでおられる。そして患者さんから、もう限りない愛情が返ってきていたという、それをずっと見ていて、そして目の前でどんどん患者さんが治っていく。その時に、なぜこういうすごいことが起こるんだと。あの時に僕は日野原先生を拝見していて、臨床は奥が深く、もう臨床ってこんなに奥が深かったんだと。医者としての力をつければつけるほど、患者さんの病気から救えて、医者はその喜びを味わうことができる。何と恵まれたところで、しかし、そこで必死で勉強しなければ、何の役にも立たない、役に立ち方は少ないということを学んだんですね。日野原先生みたいな、もうあの爪の垢でもという、本当にあのころは思っておりました。
 私はもう1つ感銘を受けたことは、日野原先生の時間の使い方なんですね。人の何倍もの仕事を、今でもそうです。もう今ではもう何十倍かも知れませんけど、この人の何倍もの仕事を完璧に、もう本当に完璧以上にすごいレベルで完成させていかれる。

 ところが、よく考えてみると、1日は24時間というのは、全ての人に平等にあるんですね。どこが違うのか。それはもう私はいろいろ考えたんです。そして私なりの結論というのが、1日は全ての人に平等に24時間与えられているけれども、その24時間をどのように使うかということを、一生懸命考えて、工夫して、そして日々改善しながら、継続して実行されていかれた。その結果が、あの時の日野原先生であり、今はもっとすごい日野原先生であると思います。
 今日は空港からずっとこっちに来ながらも、何とこの、要するに私達若造よりも、もう幾数倍の仕事を次々となさっておられるんですよね。
 患者さんが本当に目の前でよくなっていく。その中から、今さっきも言ったように、日野原先生から、臨床は奥が深く、力をつけるほど診療の喜びも大きくなるということを学んだんですね。

 それであの当時は、たった8ヶ月だったけど、私は入院患者さん350人を結局診て、直接私が退院サマリーを、私の字で書いたのが87人。それから下の研修医が書いたのにサインをして、私はもう完全に100%責任を上の人間として持たされていましたから。

 この時に日野原先生は、私みたいな若造を、とっても可愛がっていただいて、日野原先生の推薦で、米国のアインシュタイン医療センターに、研修医としての留学が決定したんですね。これはもう大変な、あの当時、私としては、もう名誉なことと言うか、もうこれは頑張らなきゃなと思いました。
 ただ、この米国研修スタート直前の6ヶ月間は、横須賀の米国海軍病院で研修することにしました。しかし、しばらく研修している時に、私の父が軽い病気になって、やっぱり手助けがいるということで帰りました。

 その時に、私は米国に行こうか、残って父の手伝いをしようかと、随分迷いました。ただ、父はもう仕事はしばらくはできないということで、人生ここという時に、やっぱり頑張らなきゃなというので、全てのことをキャンセルして、日野原先生のご許可もいただいて、鹿児島に帰ったんです。
 父は幸いしばらくして元気になって、元気になったところで「おい、光弘、お前はもうどこでもまた勉強しに行っていいぞ」と言われても、もう全部キャンセルしたあとで、どうしようかなと思っていたちょうどその時に、井形先生が東京から鹿児島に来られて、教室を作られたんです。
 私は神経内科なんてしたこともないから、三内科じゃなくても、結局、消化器を昔していたから、第二内科の佐藤八郎先生の所に入局したいと考えたんです。
 ところが、運命の1つのいたずらで、佐藤先生に入局をお願いに行ったら、「おう納君、よし今日入局させてやる」と。「その代わり、二内科の納ですと言って、井形の所に入局しろ」ということを言われたのです。

 佐藤先生のお部屋はこの一番手前の建物の2階にありした。井形先生がおられたのは、この1番目の建物と2番目の建物の間にあったプレハブ住宅で、

その半分が麻酔科の教授室であり、実験室であり、医局であり、当直室。三内科も同じですね。そういう状況で、私は佐藤先生が「会いに行ってこい」と言うけど、僕は神経内科は嫌なんだよなと思いながら、渋々と井形先生に会いに行って、

そこで井形先生の一言一言に、この若き28歳の男は、もう本当にしびれまくってですね。
 井形先生がおっしゃったのが、「納君、私はこれまで理想の医療のあり方を目指して、時には体制と戦いながら頑張ってきた。今、鹿児島大学に赴任して、今度は全く違う、今まで攻めていた教授会のその教授の一員として来た以上、今度は理想の医療をその立場で追求したい。一緒に頑張ろう」というお言葉をいただいて、私は、これはもう死ぬ気で頑張ろうと思いましたね、あの時に。
 これでもちろん、それで報告に佐藤先生の所に行ったら、佐藤先生から「ほら見てみろ、俺が言ったとおり素晴らしい人だっただろう」ということで、その後、井形先生は、佐藤教授に会われる度に「素晴らしい人を送ってくれてありがとう」と、いつもおっしゃっていました。事情は全部分かっておられた上でですよ。ともあれ、こういうわけで、私は今も1日だけ二内科の教室員であったということに2内科でもなっているのです。
 当時、実験もできる状況ではなかったもんですから、診療の合間を縫って、鹿児島県、宮崎県、沖縄県の神経筋疾患の疫学調査に、少ない医局員が奔走したんですね。

いろんな台帳も作って、私は疫学調査で、ものすごくいろいろとあの当時頑張って、ちょうど1年したところで筋ジストロフィー病棟ができて、そこの病棟医長で行ったんです。

 ところが、あそこで患者さん方を診ていて、なかなかこの治療法がいかない、病気の原因が分からない。そういう中で、もう私はもうはっきりと決心したんですね。患者さんからも言われました。「先生、私達を治して下さい。1日も早くもう1回走りたい、歩きたい」それで私はその言葉にそうだと。自分の一生はこの子達の将来のために頑張るかと。もう本気であの時にそう思いましたね。

 そしてこの井形先生は、そういう私達をいつも背中を後ろから押して、

「納君、医学の進歩に期待しながら、いつの日か治る日の来るのを夢見ている患者さん達のために頑張って欲しい」と言って下さったんですね。
 それで結局、私はその患者さんたちの病気を治すという夢のために、世界で一番進んでいる所に行こうと言うのでとうとう、いろんな紹介で、井形先生のお力も大きかったんですが、メイヨークリニックに2年8ヶ月の留学をすることができました。

そしてそこでいろんなテクニックを習って、そして帰ってきてから、とにかく頑張ろうと。
 井形先生があのころにおっしゃっていた言葉が「納君、目の前で病気で苦しんでおられる患者さんを治すために頑張っていけば、その中からこそ、きっと世界的な発見が起こる。発見のために実験をしたり、そんな小さなことをするな。患者さんのために診療する、その1つでいいんだ。結果はあとからついてくる」と。
 すなわちこれを井形先生は、もう1つの言葉を私達にメッセージで下さいました。それは「限りなくローカルであることこそが、限りなくインターナショナルな発見につながる。すなわちローカルであればあるほど、アメリカのどこも真似ができないことができるんだよ」と。そういうことなんですよね。

 それがある意味のHAMの発見という出来事につながったいったと思うんですね。

結局、鹿児島県、宮崎県、沖縄県で、ずっと私達が調べていった結果が、変な病気があるなというので、その原因を見つけていく中から、HAMという新しい病気が見つかって、それでその井形先生が「名前はね。納病とかそういうのをつけてもらおうということを一切考えなさんな」と。要するに「人々にとって分かりやすい名前、すなわち英語で言うと、このHTLV1という成人T細胞白血病ウィルスが関与した脊髄の病気というのの頭文字を取ったこれでいいよ」ということで、もう私も全くそうだと思って、感動しながらこのHAMの名前で、世界の雑誌に発表し、そして世界から認められ、

かつまた日本中から、「ここにもいたよ、ここにも患者さんがいらっしゃいましたよ」という報告が相次いで、結局、これが鹿児島で発見された新しい病気して、WHOもセンターに認めてくれて、

いろんな形でバックアップをしてくれて、

この鹿児島がその後も、この病気の世界のセンターとして機能することが可能になったんてすね。

 このHAMについては、私達はこの病気を発見しただけじゃなくて、どうしてこの病気が起こるのか、そしてこの病気の治療法をどうしたらいいのか、そしてこの病気にならないためにはどうしたらいいのかということのために、私はその以後ずっと随分努力してきました。

 そして、今、ちょうど山の6合目まで来たのかな。あと4合は、実は鹿児島大学に素晴らしい若い人材が育っていまして、もう私は何の心配もなく定年退職できると。そういうここまで持ってこれたというのは、僕は本当によかったなというような気がするんですね。
 私にとって最大の勲章と言いますか、最大の喜びは、アメリカで最も権威のある神経内科の神経疾患の教科書が、アメリカの100人のもう腰を抜かすようなオーソリティが分担執筆した本があるんです。それを第2版も、そして改訂された第3版も、ただ1人日本人で、私にHAMの章を書いてくれと言ってきたんです。

 これはまさに井形先生がおっしゃった、ローカルなことであって、鹿児島でやった仕事だから、アメリカではできない仕事だから、鹿児島に書いてくれと言ってくると。そういうことなんですよね。1つのサンプル。もう私にとっては、これが一番の勲章ですね。
 井形先生は、医学だけじゃなくて、私達若者に人生の生き方を含めた、「とにかく君たちは患者さんのために役に立つ人間に、職業人としてはならないといけない。そしてまた、尊敬される人柄を身につけ、そのために鍛練しなきゃいけない」と、いつもおっしゃっていまして、

そういう教えを私達は、井形イズムと呼んで、この井形先生の下には多くの若者が集まってきて、そして全国に今度は発信していったんですね。
 ところが、今度はここで市民の皆さんに、もう1つ誇り高くご報告できることがあるんですね。それは、今、鹿児島大学は、これは井形先生が1つのレールを作られたような気もするんですけれども、とにかく全国から優秀な臨床科、優秀な研究者をお呼びになって、そして私達もずっとそれを努力してきて、今、ここに、これは臨床だけでなく、基礎のほうも同じことが起こっているんですけれども、この鹿児島大学の教授の先生方は、今、まさに日本でときめいた方が集まっておられるんですね。

 今、県外からもたくさんの患者さん方が、鹿児島大学に受診に来られる。そういう状況ができたんですね。まだ建物はこんなに古いのに集まってくるんですよ。
 ところが、この度、

高松病院長のもとで、今の若い教授の先生方、スタッフの先生方の努力で、とうとう鹿児島大学も素晴らしい、これは部分的、例えば中央診療棟の手術場なんかは日本でも有数の計画に、今、なっていますけど、とにかく素晴らしい新しい病院が今年から建ちはじめます。
 それであと3年か4年後には、皆さんにもう素晴らしい、ソフトではもう今できているんですけど、ハード面でも素晴らしい医療を提供できる。そういうことがはっきりした段階で、こういう時に私は定年退職できるって、本当に幸せなんですよね。病院長時代に果たせなかった夢を、今、次の世代の若い人達が果たそうとしているんですよね。これはやっぱり、人生冥利に尽きる出来事なんですね、私にとっては。

 というところで、最後に私は1つだけ、締めくくりの話をしたいんです。これは私の人生にとっては、もうこの話抜きにはしゃべりたくないというぐらい、人生の危機とも言いますか。
 4年半前の夏、病院長としてのもうぎりぎりの過労。これは文部科学省との交渉が、とにかくまさに新しい病棟を建てよう、そして素晴らしい医学部にしていこうと。特に病院長でしたから、病院のことばっかりに一生懸命でしたけどね。そういう状況で、血圧が下がらなくなって、高血圧という病名でしたけど、やはり疲労困憊というのが根底にあったように思うんですね。倒れて、このことは私にとっては、これでもう納光弘は終わりかというぐらいな、入院する時はショックを持ったんです。

 入院した先が、大勝先生の病院だったんです。私はもう疲れ果てて、もうとにかく、要するに単に血圧を治せばいいというような問題じゃなくて、私は心身ともに疲労困憊していたと思うんですね。そしてまた、もうこれで自分は職場に復帰できないかも知れないと。あるいは、今後、どうしていったらいいんだろうというようなことまで追い詰められたような気持ちでしたね。
 その時に大勝先生が、本当に優しく指導していただいたと言うか、「私もね、納君。高校時代に結核で何年間か休んだことがあるんだ。その時は自分としてはとってもショックだったけど、でもね、今になって思うと、あの時の病気をした経験によって、患者さんの気持ちが分かるようになってきたと思う。だから納君も今まで全然病気しなかったから、神様が君をもっと大きくしようということなのよ」と、先生がおっしゃって下さったんですね。
 もうあと2人、同じような教えを私にしてくれて、その3人のお力で、私は生き返ったんです。生き返ったと言うか、もう1回元気が出て、退院できたと言いますかね。
 そのもう一方というのが、もちろん井形先生で、お手紙が来ました。「納君、私も急性肝炎で入院していたんだ。あの時はとってもショックで、今後どうなるんだろうと思ったけど、でも完全に治って、そして治ってそのあと考えると、あの経験が、自分が病気で入院したというあの経験が、何にも優る大きなことだったんだ」と。
 そしてもう一方が日野原先生。私の家内が「あなたがいつも言っている、尊敬している日野原先生が、最近、本を書かれたのよ。ベストセラーなの。それを買ってきたわよ」と言って、私に渡してくれたのが日野原先生の本で、それをパラパラとめくって、ちょうどあとがきのところに、日野原先生はこんなに書いておられた。

 3人の私の恩師から、同じような言葉で、私はもう一度元気百倍の人間に戻って、4ヶ月後には全快退院のお許しが出たわけですね。

 この時に私の4ヶ月というのは、やはり私にとっては、とっても長かったし、いろんなことを考える機会があって、自分が病気になったら何にもならないじゃないかと。自分と袖触れ合う人達、その第一が家族ですね。これほど一生懸命自分のことを悲しんでくれた。それから先生がいないと困るという患者さん達からの声が届いていましたし、教室員、学生などのために、自分の身近な人のために役立つ生き方を第一に据えようじゃないかと。それで、とりあえず、3つのことをやろうと思ったのです。その1つは、私の健康のためも含めて、絵を描こうと。描きたかったけど、本当にそれまでほとんど描く暇がなかった。少し時間を割こうと。2つ目は、せっかく痛風の体験もしたんだから、その時学んだことを単行本に書こうと。これに加えて、痛風だけでなくて、今後、定年退職したら、その他の健康本も書いていこうというようなことを考えたんですね。3つ目に、私は学生教育がとっても好きなのだから、定年退職してからも、学生だけじゃなくて、全国の若い人達に呼びかけて、心に火を灯していきたいという、もう強い気持ち、これは病気の間に本当にそう思ったんですね。
 それで結局、日本画の世界に3年前から本格的に描きはじめまして、

先日は、現在開催中の第2回納光弘展について南日本新聞でも取り上げて下さいましたけれども、

これがあと1週間ありますので、よかったら是非、見てない人は見て欲しいんですが、

この3月31日土曜日のみは休館となっていますね。これには深い深い理由がありましてね。日野原先生がどうしても君の絵を見たいとおっしゃってくださったのです。ところが、三宅美術館は谷山のほうで、空港に間に合わないんですよね。今日、日帰りで帰られるご予定なのです。それで全ての絵を今日1日だけ、三宅美術館のお許しを得て、城山観光ホテルに移したんです。

これは今日撮ってきたんです。城山観光ホテルで。
 城山会場と銘打って、一般の人もどうぞとして、サインブックも置いてあるんですね。どうぞこの、もう今も受付は朝の9時から受け付けております。本来は三宅美術館で是非見て欲しいんですが、どうしても例えば今日の講演会に遠方から来られて、もう1回鹿児島市まで出てくるのは大変だという方は、どうぞ今日6時までですけれどもご覧になっていただければ幸いです。

そこの会場にはずらりと、これは会場で私が今さっき撮ってきて貼り付けたんですけど。あの三宅美術館の絵は全部ここに今日だけはお借りしてあります。

 それで日野原先生がサイン帳にサインして下さったのは、もうこれは我々の宝だというので、早速、写真も撮って、今日見ていただいたんですね。これはもう画家冥利に尽きる出来事でした。日野原先生に見ていただいたということは。
 私は、これは50号ですから畳1畳近い絵ですけれども、
こういう群青の墨絵という世界にはまりましてね。

これは、雪の桜島の満月の夜景で、次は、ノルエーのフィヨルドの日の出前。


それから朱だけで描く朱の墨絵。

これは中学時代の思い出、記憶、4,000mぐらいドーンと上がる噴煙を、山の上が夕日で、下は夕闇が迫っているという、それを描きたくてですね。
 それから群青の世界に色をつけたいと、オーロラを描きたくなって、私は行ったんですよ。アラスカに10日間ぐらい、休みを取ってですね。それで絵を描いてきました。

この絵も含めて、オーロラの絵は5枚描いたのです。

 それから、痛風の単行本は、幸い半年ぐらいで4万部以上売れて、

その後も静かに売れていて、今日も日野原先生の本を講堂の前に置いてあるけど、私の本もちらっと置いてありますから、よろしかったら、読んでない人は買ってくださいね。印税が岩絵の具代の足しになりますからね。

 それから個人のホームページ、これだけはどうしても述べて、締めくくりにしたいんですけれどもね。

実はヤフージャパンでもいい、グーグルでもいい、何でもいい、検索で「納」1つ空けて「光弘」で入れていただいて、この検索ボタンをポンと押していただくと、

32,000ぐらい出てくるうちの一番上に、必ず私のホームページが出てきます。
 ここをクリックしていただきますと、この表ページが出てきます。

この右半分は、私の個人情報が満載されているんです。勉強にはなりませんけど、面白いんですよ。左半分は、面白くはないかも知れないけど、若者が読むと、必ず役に立つという内容になっています。だから高校生の子供さんをお持ちの人は、是非、お勧め下さい。必ず心にやる気の火がつきますから。
 最後に当たって、夢を追って、夢を求めてきたこの納という男は、今後どうするんだろうとお思いになられることでしょう。

実は、今朝、3月31日午前5時に、思うこと196話として、今日、定年退職を迎えて思うこととして、ここに私の熱き今後どういう生き方をするんだということを、縷々書いてありますので、よかったら読んで下さい。できるだけ多くの人に、このホームページのファンクラブの一員になって欲しいという思いがあるんですね。ここを通じて、今後情報を発信していこうと。だからこのホームページを知らないと、結局は情報を伝えられませんからね。
 私は、今日、この鹿児島大学病院を去って、明日からこの鹿児島市内の職場に移ります。

私の夢は、日野原先生と井形先生から教えていただいたことを、鹿児島の地にさらに根づかせて、鹿児島県民の皆様の健康を守り、いい医療が受けられる環境を作るために、今後とも頑張っていきたいというもので、この私の所信を述べまして、私の今日の「夢を追って生きる、65歳の節目」という講演を終わりたいと思います。どうもありがとうございました。