思うこと 第83話           2006年4月9日 記       

故・山村雄一先生から贈られた最後のメッセージ 

 故・山村雄一先生(1918〜1990)との出会いは、人生に対する私の考え方を大きく変えたような気がする。これまで、この私のHPでも、エッセイなどの書き物でも山村先生については一度も触れていない。いつの日か語ろうと思いながら、大事にとっておいた思い出を、今日は、なぜか語りたくなった。実は、先生との出会いは、そして、先生が亡くなられる直前に贈ってくださったメッセージは私にとって、極めて大切なものである。
 私がはじめて先生にお会いした当時の状況をまず話す必要がある。それは、1960年春、医学部1年生になったばかりの時である。高校を卒業し、向学の夢高く列車で上福した18歳の若者を待っていた学園は、想像だにしなかった騒乱のまっただなかにあった。大学の最初の2カ年間は福岡市の西の外れの6本松の教養部キャンパスで医学部進学過程を過ごすことになっていた。ところが、大学に登校してみると、大学の正門は机や椅子などのバリケードがうず高く積まれたており、その上に多数の学生が陣取り、小型拡声器でなにやらまくしたてていた。いわゆる、60年安保闘争の嵐のなかで、全学連の学生運動家により学園は封鎖されていたのである。彼らは、「学園の自由を奪っている大学当局を糾弾しよう!」というようなことを叫んでいたように記憶している。 私は、「私達学生には学問を受ける自由がある。その自由を奪っているのはあなたたちではないか。このバリケードを撤去して、我々に授業を受けさせてほしい。」とバリケード上の彼らに抗議した。その時たまたま、この学生によるバリケード闘争を取材していたNHKのテレビ取材陣にとって、新調の学生服を着たピカピカの一年生が封鎖学生に向かって抗議する光景は格好の映像を提供してしまい、私の地元の鹿児島でも、坊主頭(丸刈り)の私が抗議する様が大写しで放映され、「光弘は学生闘争に巻き込まれた!」と両親を心配させてしまったという逸話を残すことになった(左写真が医学部1〜2年生当時の私の姿。バリカンで自分で頭を丸刈りにして生活費節減に努め、カバンは持たず、風呂敷包みで勉強道具を包んで登校する“バンカラ”学生であった。)
 どのような経過であったかは今や記憶は定かではないが、間もなくバリケードは撤去され、騒然たるデモは続いていたものの、授業は開始された。ところが、その授業は、いずれも、向学の夢高き青年の期待を打ち砕く、無味乾燥の、面白くもなんともないものばかりであった。医学部キャンパスでの医学の授業は3年生にならないと始まらないので、それまでの2年間を、どう過ごそうかと案じていたときに、私達の前に忽然と現れたのが、山村雄一先生(当時、医学部の生化学教授、41歳)であった。先生の授業はカリキュラムにはなかった。辻説法よろしく私達医学進学過程の学生に呼びかけ、有志をつのって、先生の授業に集合するよう熱く問いかけたのであった。教材は「Dynamic Aspects of Biochemistry(動的生化学)」で、私達学生は先生の授業を聴き、その教材を読み、そして感動した。自ら遠く離れた6本松の地に乗り込んでこられて、辻説法的講義をしてくださる先生の情熱にも打たれたが、これが生化学の真髄だ、と説く先生の講義内容の明快さは格別のものがあり、我々学生は、これが学問だ!と、大学に来たよろこびをはじめて味わったのであった。
 2年後、箱崎の医学部キャンパスに移り(左の写真はキャンパスでの当時の私、この頃、坊主頭を止め、髪をはやした)、今度は山村雄一先生の正規の授業を受けた。先生は、時間きっかりに授業をはじめ、エッセンスを教え、あとは自分で本で自習するようにと言い残して、120分の授業を30分ぐらいで終わるのが常であったように記憶している。先生は、医学生が学ぶ生化学は、医学生向けのスピリッツで一貫すべきとの考えから、教室名も「医化学」に変え、「医化学」という分厚い教科書も執筆・出版されたので、残りの時間はその本をめくって過ごしたように思う。ともあれ、強烈な印象を私達学生にインプットしてくださったのであったが、1962年、授業半ばにして、私達学生に惜しまれながら、43歳の若さで、大阪大学第三内科教授に抜擢され、福岡を後にされたのであった。
 大阪大学医学部に移られてからの先生の活躍はすざまじく、瞬く間に日本の内科学会をリードする一方、1967〜69年医学部長、1979〜89年大阪大学学長の要職にも就かれ、大阪大学に飛躍的発展をもたらした。
 先生は、惜しくも1990年72歳で癌で亡くなられたのであったが、亡くなられる3年ほど前から、九州大学の笹月教授の肝いりで『山村雄一先生を囲む夕食会』が毎年中洲の川沿いの料亭で行われるようになった。山村先生が九州大学におられた時に先生から教えを受け、感動した有志が集まり、先生のお話を聴くという趣旨の会で、その度ごとに感動を新たにさせてもらったのであった。亡くなられる3ヶ月前の会が結果的に最後の会となったが、この時のことは、強烈な記憶として鮮明に憶えている。そして、このことこそが、私が大事にとっておいた、まさに、“とっておきの”話なのである。
 その夜の先生は、それまでの会での先生とは全く異なる雰囲気であった。いつもは、飲むほどに酔うほどに、座ったままでいろいろな話をのんびりと語り、我々も飲みながらお話に耳を傾けるというスタイルであったが、その夜は、先生は起立の姿勢で語りはじめられた。『今日は、君達に、ぜひ語っておきたい話がある。』 この時には先生はご自身の病気については何も語られなかったが、あとで聞いた話では、先生はご自身が癌であと数ヶ月の命である事をご存知であったとのことなので、これが私達との最後の夕食会になることを知っての、最後のメッセージを伝えにお見えになったことになる。『人生で一番大切なことは「出会いを大事にする」ことです。よく、“出会いの大切さ”について語る人がいるが、出会えばいいというものではない。私の人生にとって、赤堀四郎先生との出会いは私の人生を決める出会いであった。しかし、当時、毎日大勢の人が赤堀四郎先生に会っているわけで、私だけが出会ったわけではない。いいかい、出会った時、その人との出会いがすばらしい出会いであると感じ、飛び込んだ私も偉かったのであって、これこそが、大事なことなんだ。いいか、肝に銘じてほしい。』ここまで一気におっしゃって、そして、座られた。私は、この言葉に、雷に打たれたように感動し、震えた。そして、このメッセージが、先生からいただいた最後のメッセージとなった。