隼人たちの月神信仰 「三.ミアレと水害」





 ★「月を見る者」の続き


 正倉院文書の中に国郡の記載がない、とある計帳(律令の課税台帳)の断簡がある。国郡の記載がないため、かつてのこの計帳はどこの国のどこの地域を所管したものか不明であり、普通ならそのままで終ってもおかしくなかった。ただし、この計帳にはある顕著な特徴があり、そのことが所管地を突き止める手掛かりになるのではないかと考えられた。その特徴とは、そこに登載のある91名の人名のうち、76名までが氏の名として「隼人」を名乗っていたことである。このため、研究史の初期の頃、この計帳は「国郡未詳の隼人計帳」と呼ばれ、漠然と大隅国のものではないかと考えられていた。

 ところが戦後になって西田直二郎の研究が表れ、この計帳の所管する地域が畿内に求められるようになり、さらにそれが山城国綴喜郡大住郷に比定されるようになった。大住郷は中世期に「隼人庄」と呼ばれ、上代に南九州から移住してきた隼人たちの居住する地域であった。「大住(おおすみ)」という郷名も、「大隅国」のそれが地名転移したものである。こうしたことは、おそらく以前からも分かっていたのだろうが、古代のこの地域に多数の隼人たちが居住していたことが明瞭になったのは、こうした西田の研究が広く認められるようになってからである。昭和20年代のことだ。

 京都府京田辺市の西郊に「甘南備山」という山があり、その北麓に「大住」という地名がある。同名の鉄道の駅もあるが、この「大住」が大住郷の遺称地である。甘南備山の東麓には「薪」という大字もあるが、その辺りいったいも大住郷に含まれていたと考えられており、古代の大住郷はこの山を取り巻く木津川左岸いったいに展開していたと考えられる。
 ちなみに、隼人たちが大住郷に居住しはじめた時期については推古朝頃と考える説や、天武天皇十一年前後とする説が一般的だが、考古学者の森浩一は鹿児島の大隅地方の墓制から類推して、大住郷にある大住車塚・大住南塚という前方後円墳が当時、そこに居住していた隼人たちと関係がなかったか「今後の検討を要する。」と述べている。この2基の古墳は未調査だが、古墳時代中期のものなので、隼人たちに関係があるものとすれば大住郷に彼らが居住し始めたのは5世紀代にまでさかのぼることになる。

月読神社
 それはともかく、甘南備山は大住郷にいた古代人にとっての聖なる山で、その山頂には甘南備神社という式内社が祀られている。当社の神宮寺に残る文書によると、その祭神は月読尊であるという(「甘南備山考」参照)。またこの山の北麓にはやはり月読神社という式内社(大社)があり、社名からも明らかな通り、当社の祭神もまた月読尊である。さらにまた、大住郷からみると木津川の対岸に当たるが、城陽市の水主神社境内に樺井月神社という境内社がある。これまた式内社(大社)で、先人たちによってやはり月神を祀ったものと考証されているが、この神社はもともと木津川の川中にあった州の上に鎮座しており、旧社地は志賀剛によると現在の健康村ふきんで大住郷のエリア内であった。

 こうしてみると古代の大住郷に、甘南備神社、月読神社、樺井月神社と、月神を祀る式内社が3社、鎮座する。上代の同じ郷内に、3社もの月神を祀る式内社が集中するのは全国でもここぐらいだろう。その場合、当時の大住郷には月神を信仰する特異な集団の居住していたことが感じられるが、かつての大住郷に多数の隼人たちが居住していたことを考えると、そのような集団とは隼人たちではなかったか、という疑いが生じる。そうして、じっさいに彼らの本拠地であったトカラ列島を含む鹿児島全域から、宮崎、熊本の南部にかけては、十五夜相撲・ソラヨイ・十五夜綱引き・オツッドン等の月への信仰と密接にかかわるような習俗が濃厚に分布しているのである。隼人たちに月を信仰する習俗があったという有名な見解は、こうした状況証拠から言い出されたものでだ(「2つの月読神社」参照)。ちなみにこの思想がテキストの形で広く一般の目に触れたのは、『隼人』所収の小野重朗による『民俗にみる隼人像』を嚆矢とするのではないか。その場合、『隼人』の初版は昭和50年なので、「隼人たちに月を信仰する習俗があった」と言う説はそんなに古いとは言えない。

 ところで私は、この『隼人たちの月神信仰』のシリーズで、最終的には隼人たちの間で伝えられていた神話について考えてみたいのだが、そのとっかかりとしてまず大住郷内で月神を祀った3社の式内社を問題としたい。この3社をみると、社地がそれぞれかなり特徴的な立地をしていることに気付く。すなわち、甘南備山の山頂に神奈備神社、その山麓に月読神社、そして(現在は遷座されてしまっているが最初の頃は)木津川の川中の州に樺井月神社がそれぞれ鎮座しているのである。こうしたことは「ミアレ」に関して日本民俗学が打ち出した学説によって説明できるように感じている。

 「ミアレ」は、古代人が崇拝した太陽・月・風雨・雷等の、自然信仰の神威が、天空から天下ってきて、地上に姿を現すことである。ただし、その顕現の過程は、たんに上空から地上にやってくればよいというものではなく、複雑な順番と手続きを経る必要があった。
 京都の上賀茂神社で執行される葵祭の「御陰(みあれ)神事」は古態を残し、古代人が神々のミアレをどのようにイメージしていたかをよく伝えている。この神事の事例研究からミアレの過程をいきいきと復原したテキストとして、筑紫真申の『アマテラスの誕生』より、「アマツカミ」についてのそれを引用する。

 筑紫は言う。


 「天つカミは天空に住んでいると信ぜられた霊魂で、大空の自然現象そのもののたましいでした。大空の自然現象といえば、日・月・風・雷・雲ですから、天つカミはしたがって、日のカミとも、月のカミとも、風のカミとも、雲のカミなどとも考えられていたのです。」

 「日本中のどこの村でも、むかしからそれぞれにまつっていた、もっともふつうのカミが天つカミなのです。」。

 すなわち筑紫の言う「天つカミ」は、国津神と対になるものとしてしばしば言い習わされる「天津神」のことではなく、古代人から信仰を受けていた日・月・風・雷・雲のような天空の自然現象(いずれも水稲耕作と関係深い)いっぱんの神格化である。


 天つカミが地上に天降アマクダってくる順序と手続きというものは、なかなかに面倒なものでした。いま、皇大神宮の場合をふくめて、一般論として、天つカミの天降アモりのしかたを述べてみますと、つぎのとおりです。
 まず、カミは大空から船にのってかけおりて、めだった山の山頂に到着します。それから山頂を出発して、中腹をへて山麓におりてきます。そこで、人々が前もって用意しておいた樹木(御蔭木ミアレギとよばれる)に、天つカミの霊魂がよりつきます(憑依)。人びとは、天つカミのよりついたその常緑樹を、川のそばまで引っぱっていきます(御蔭ミアレ引き)。
 川のほとりに御蔭木が到着すると、カミは木からはなれて川の流れの中にもぐり、姿をあらわします(幽玄)。これがカミの誕生です。このようにして、カミは地上に再生するのです。このような状態を、カミの御蔭ミアレorミカゲ(御生ミアレ)とよんだのです。
 そして、カミが河中に出現するそのとき、カミをまつる巫女、すなわち棚機つ女は、川の流れの中に身を潜らせ(古典はこのような女性をククリヒメとよんでいます)、御生れするカミを流れの中からすくいあげます。そして、そのカミの一夜妻となるのでした。

  ・『アマテラスの誕生』講談社学術文庫版、筑紫申真、P32〜33。


 ここで、筑紫の天つカミを、大住郷の神社配置に当てはめてみる。

甘南備神社
 まず、「隼人の月神=天つカミ」は天空から船に乗って甘南備山々頂の甘南備神社のところに降臨する。こういう、船に乗った月神のイメージ、あるいは月じたいを船に喩えるイメージは世界的なもので、エジプトの月神トートは、妻マートとともに船に乗り、バビロニアの月神シンは、後世は牛に乗った姿となったが、古くは船に乗っており、しばしば「天上の輝く船」と讃えられていた。ポリネシアの月神ヒナも時として船に乗って表象される。

 わが国でも『万葉集』に収められたいくつかの歌や、『懐風藻』に納められた文武天皇の和詩などに船に乗った月のイメージが登場するので、そこに同種の信仰をみてとることができるかもしれない。

  秋風の清き夕べに天の川船漕ぎ渡る月人荘士  (2043/2047)
  天の海に月の船浮け桂楫かけて漕ぐ見ゆ月人荘士(2227/2223)
  大船に真楫しじ貫き海原を漕ぎ出て渡る月人荘士(3633/3611)

ただしこれは何らかの信仰を伝えるものというより、三日月のフォルムを船に喩えたレトリックである感じもするので、その点、留保が必要である。むしろ次に見る、葛野坐月読神社の御船社祭のケースの方が、わが国にもこうした船に乗った月神の信仰があったことを感じさせるものとして興味深い。


 京都府西京区に鎮座する葛野坐月読神社は月読尊を祀る古社であるが、松尾大社の神幸祭のとき、松尾七社の1社として大堰川をはさんで対岸にある西七条御旅所まで神幸を行う。この神幸は現在では陸路で赴くが、昭和37年までは大堰川を渡ってなされた。また、松尾七社のうち、当社だけが神輿ではなく唐櫃によって渡御が行われる。
 神幸祭の前日、当社の境内にある御船社では、渡御の安全を祈願する御船社祭が行われる。大和岩雄は上記の唐櫃について、「この唐櫃は、当社に御船社があることからして、おそらく船の意味であろう。すなわち月神が船に乗って渡御することを示すものであり、当社の月神がもともと海人に信仰されていたことの名残りと考えられる。」と述べているが、こうした船に乗った月神信仰があったことを感じさせるものである。ちなみに、さっき述ぺたバビロニアの月神シンの祭礼には、船山車や神幸船が出たというから、この松尾大社の神幸祭と通ずるものを感じさせる。




葛野坐月読神社
社 殿
月延石
   葛野坐月読神社の境内にある月延石は(右画像)、応神天皇を身籠もっていた神功皇后が、新羅へ遠征した際に肌身に付けて、その誕生を遅らせた鎮懐石の伝承が伝わっている。本殿むかって右手の木立の中にあり、安産の信仰を受けているという。

 


 続いて月神は、甘南備山の山麓でミアレ木が準備してある場所に降ってきて、それに憑依する。

 志賀剛の『式内社の研究』には次のようにある。

「甘南備神社の祭神月読神(甘南備寺文書)は<中略>、隼人が故国から将来した神で前述の樺井月神や大住の月読神もこの甘南備山頂の神を祭ったものである。それは次のような古儀によるものであった。それにはまず山頂から二〇町(二キロメートル)の尾根続きの外ト山(問ふ山=神山。)に柴を挿して迎え、そこからさらに各里近くの神社に祭ったのである。」

 志賀のこの発言は、地元で採録した古伝を踏まえたものというより、日本芸能の主流に関する彼の個人的見解が生んだイリュージョンである気がする。しかしいずれにせよ、この外山に挿したという柴がミアレ木だろう。外山から7〜800mほど尾根を下った場所には城山という山があるが、志賀によれば、月読神社はかってこの山に鎮座したという。中世期の城山には城があったので、当社はその築城に伴って現在地に遷座したのだろうか。とにかく志賀にしたがえば、甘南備山の月読尊はまず戸山に挿したミアレ木に憑依させられてから、城山にあった里宮の月読神社で祀られたことになる。こういうふうに、神体山に天降った祭神を山麓で祀る際、いきなり呼び寄せるのではなく、まず外山のような場所でワン・クッションおいてから、里宮で祀るのは上賀茂神社の御影祭にも認められる事例であり、神威に対して丁寧であった古儀を感じさせる。

樺井月神社
この神社については「石牛と月」で触れたことがある。
 さて、今までのところで、甘南備神社と月読神社が山宮と里宮の関係にあったことがよくわかるだろう。神体山の山頂に山宮、その山麓に里宮が鎮座しているのは、山を神体として祀る各地の古社の通例でそれほど珍しいとはいえない。が、ここで問題になるのは樺井月神社である。この神社も上述のように月神を祀る神社であるが、しかしその位置付けはどうなるのだろうか。

 『三代実録』貞観元年正月二十七日条に見られる昇格記事には、「樺井月読神社」「樺井月神社」という神社がみえている。このうち、「樺井月読神」は月読神社、「樺井月神」は樺井月神社を指すと考えられているが、このような表記の仕方は、いかにも両社がペアになっていることを感じさせるものである。してみると、両社は祭祀面で強いつながりがあったことになる。

 現在の樺井月神社は、城陽市の水主神社境内に、境内社としてひっそりと鎮座している。しかし、もともとは大住郷の樺井という場所に鎮座しており、志賀剛によればその旧社地は、木津川左岸の「外島トシマ」「豊島」という川中の州であったという(※1)。それが現在地に遷ったのは、寛文十二年に木津川の氾濫に遭ったらしいが、それはともかく、これを筑紫による天つカミの行動にあてはめると次のようになる。上述の月神が憑依したミアレ木は、月読神社からミアレ引きされ、木津川のほとりに到着する。すると、カミは木からはなれて、木津川の流れの中にもぐり、月神の一夜妻がその流れに身を潜らせてカミとの婚儀を果たすのである。川中の州に鎮座していた当社は、いかにもこうした神婚儀礼が行われる場に相応しいだろう。




   




 さて、こうしてみると、天つカミ降臨に関する筑紫のテキストは、大住郷で月神を祀る3社の神社配置にかなりうまく当てはまってしまう(※3)。筑紫は折口信夫に師事していた人で、天つカミ降臨の過程も、京都府の上賀茂神社で執行される葵祭の事例研究などをもとに、師の学説を上手に自説に取り入れたもの。それにしても、こうなるとこの3社は、隼人たちが月神を祀ったものだからといって何か特別なことをやっていた訳ではなく、古代信仰としてごくありふれた形姿をしていたことになる。それは別にかまわないものの、たんにそれをもって結論としてしまっては、月神の祭祀の特質が今ひとつ浮かび上がってこないきらいがないだろうか。そこでそれを浮き彫りにするため、例によって各地の神社の事例等をみながら、もう少し掘り下げを続けてみることにしたい。

 私はさっき、樺井月神社の旧社地が木津川の川中にある州の中にあり、それが寛文十二年に木津川の氾濫に遭ったので現在地に遷座してきたということを述べた。さて、ここで是非、言っておきたいことがある。月神を祀った式内社というのは当社に限らず、何故か水害にあったか、あるいは過去に水害に遭ったのではないかと推測させられるケースが多いのである。


 御船社祭を紹介したところで話題にした葛野坐月読神社は、『延喜式神名帳』山城国葛野郡に登載のある明神大社で、壱岐で月神の託宣があったため、山城国葛野郡の「歌荒樔田(うたあらすだ)」に月神を祀ったという『日本書紀』顕宗天皇3年2月1日条の記事を縁起にすると言われる古社である。

 この神社の旧社地だった歌荒樔田の正確な所在は不明だが、『文徳実録』斉衡三年(856)三月三日条には、当社が「河浜に近く水のため噛まれる故」、松尾の南山に遷座した記事がある。「松尾の南山」とは当社の現社地だろうが、いずれにせよ、この神社は旧社地が河川による浸食を受けたために、現在地へ遷座してきたのである。



 伊勢内宮別宮の月読宮と月読荒御魂宮は、『延喜式神名帳』伊勢国度会郡に「月読宮二座(並大社)」として登載のある神社で、それぞれ月読尊と月読尊荒御魂を祭神としている。『大神宮諸雑事記』によれば、当社は仁寿三年(853)八月二八日、「大風洪水」によって「神宝装束玉垣瑞垣門等巳流失 併正殿二宇同以流出亡」という大被害を被った。小さな丘の上にある現在の鎮座地は、この水害の被害に遭ってから遷座してきたものらしい。



月読宮・月読荒御魂宮
   当社の神域には同一規格の社殿が4社、並列する(左画像)。手前から「伊邪奈弥宮」「伊邪奈岐宮」「月読宮」「月読荒御魂宮」で、最初の2社も度会郡所載の式内社。やはり、本文中にある「大風洪水」によって現社地に遷ってきたという。

 伊勢には月神を祀る神社がいくつかあるが、内宮の別宮である月読宮(右画像、月読荒御魂宮はその右手にある)は、その中でももっとも格式が高く、また、月神を祀る神社全体の中でも、もっとも有名なものの一つだろう。
 



 京都府亀岡市馬路町に鎮座する小川月神社は『延喜式神名帳』丹波国桑田郡に登載のある明神大社で、月読尊を祭神としている。現在は田の中にひなびた社殿と若干の樹木があるだけになってしまっているが、かっては広大な神域を誇る大社であったという。それが現在のように衰微した理由は、応仁の頃、大堰川の洪水によって社地が流失したせいらしい。


小川月神社
この神社については「鹿屋野比売と隼人たち」で触れた。


 以上あげた例は、月神を祀る古社に、はっきりと水害に遭ったという伝承が残っている場合である。いっぽう、これとは別にそのような伝承は残っていないものの、状況からみて水害に遭った可能性が高いと考えられる月神の古社がある。

川原神社
 伊勢国度会郡の式内社、「川原神社」は、『皇太神宮儀式帳』に「月読神御玉」を祀るとあり、月神を祀っている。この神社は中世期に祭祀が断絶し、一時期、社地さえも不明となっていた。その後、寛文三年(1663)に現社地を旧社地と定めて復活させられたが、今の場所をほんらいの鎮座地に比定した根拠についてはよくわかっていない。そのいっぽう、『式内社調査報告』でもその可能性が示唆されているとおり、当社は今でも近くを宮川が流れており、「川原神社」という社名から言っても、かっては宮川の川原で祭祀が行われていた可能性がある。その場合、一時期、当社の祭祀が断絶し、社地も不明になったのは水害に遭ったためである可能性がある。



 同じく度会郡には、「川原坐国生神社」という式内社がある。若干の異説はあるが、『神明秘書』等、多くの諸書がその祭神を「月夜御玉」としている(現祭神は「月夜見神の御魂」)。この神社は現在、月夜見宮の境内社として祀られているが、これは河原神社と同じく、廃絶して社地が不明になっていたのを、寛文三年になってから復興したもので、旧社地は今とは別の場所にあったと思われる。
 この神社は、現在、「高河原神社」と呼ばれているが、この社名は旧社地の地名に由来するものらしく、橋村正身は「古説に高河原に在とは今の西河原にて、北宮川の川上なりし故の名なり。古此処に神寺ありて、太神宮司神税の出納を成しければ国府と云。此地低く洪水の患ありとて、延暦十六年宇羽西村に移さる。即今の離宮なり。然れば此神社も其地に在べし。」と考証しているる。これが正しかったとすれば、当社の旧社地には「洪水の患」があったことになる。したがって当社の祭祀が断絶し、社地が不明となっていた原因についても、水害の被害があった可能性が考えられる。


川原坐国生神社と月夜見宮
高河原神社 月夜見宮
 月夜見宮は外宮の別宮であり、内宮のそれである月読宮と区別するため、後者を「ゲツドクさん」を呼ぶのに対し、前者を「ツクヨミさん」と呼び分けられる。ふきんは古今伝授の創始者を出した旧家があるなど、古い文人的な雰囲気を漂わせる土地である。

 高河原神社(川原坐国生神社)は月夜見宮の境内摂社で、本宮の社殿右手の木立の中に鎮座している(左画像)。

魚見神社
 伊勢国多気郡の式内社「魚海神社 二座」は、『倭姫命世紀』に「月夜見命 二座」を祭神とするとある(月夜見命以外に祀られたもう一柱は豊玉姫命であったらしい)。この神社の有力な論社は、松阪市魚見町に鎮座している魚見神社だが、当社は櫛田川の河口部近くに鎮座し、すぐ横がこの川の堤防となっている。ふきんは田が広がり、当社の境内はそうした農地とほとんどレベルの差がない。したがって水害に遭ったというはっきりした記録は残っていないものの、古来、それと全く無縁であったとはとうてい考えられない立地をしている。じっさい、古社であるにも関わらず当社の境内はそれほど広くなく、また樹木にもそれほど大きなものがない等、風致もやや乏しい。これも繰り返し水害にみまわれたことを間接的に物語っているのではないか。



 伊勢国度会郡の式内社、「大土御祖神社」は、『皇太神宮儀式帳』によると、「大国玉命・水佐々良比古命・佐々良比賣命」を祀るという。この三柱のうち、どうやら夫婦神らしい「水佐々良比古命・佐々良比賣命」は聞き慣れない神名だが、そこに含まれる「佐々良(ささら)」という語を、『万葉集』に月の美称としてある「佐散良衣壮士(ささらえおとこ)」と関連づけて考える説がある。この説でいくと、この二柱には月神格があったことになりそうだが、伊勢に月神を祀る神社が多いことを考えれば注目すべき説である。この神社にも水害に遭ったという具体的な伝承はないようだが、社地のすぐ背後は五十鈴川になっており、若干の比高はあるものの、やはり水害の心配がしたくなるような立地をしている。


大土御祖神社
【住所】三重県伊勢市楠部町字尾崎
【祭神】
  『皇太神宮儀式帳』『類聚神祇本源』等に「大國玉命・水佐々良比古命・佐々良比賣命」とみえており、そのまま現祭神となっている。
境内 社地の遠景
 左画像に写るのが当社の社叢、その横が五十鈴川である。

 丹波国桑田郡の式内社、大井神社は社伝によると木股命と月読命を祀ると言い(現祭神は木股命・月読命・市杵嶋姫命の三柱)、北に1qほど離れた所には上述の小川月神社も鎮座していて、口丹波における月神信仰の根強さを感じさせる。
 口碑に従えば当社はかつて、現社地からみて大堰川の対岸に当たる勝林島ショウリンジマという場所に鎮座しており、勝林島の「元宮」と呼ばれる場所が旧社地だという。『亀岡市史』は、この付近では田畑にでかけることを「島へ行く。」と表現する慣習のあることなどから、そこが中州状の部分であったと想定している。もっとも同書では、元宮の位置が大堰川の直接の氾濫原であることからこの旧社地に関する口碑について疑問を表明しているのだが、樺井月神社も川中の州に鎮座する神社であったことを思えば、当社もかって州の中で祀られていたとしてもおかしくはないのではないか。おそらく、かつて元宮に鎮座していたこの神社は、水害に遭うので台地の上にある現社地に遷座してきたことと思われる。


大井神社
【住所】京都府亀岡市大井町並河宮ノ後
【祭神】木股命・月読命・市杵島姫命
大井神社
若宮神社の摂社「大井神社」
 本文中にある勝林島は亀岡盆地の低地帯に位置し、大堰川が洪水になるとたちまち水没するという。勝林島の大淵に鎮座する若宮神社には、月読尊を祀る「大井神社」という摂社があり、京都松尾大社から亀に乗って大堰川を遡ってきた月読尊と市杵嶋姫命が、途中、流れがきつくなってきたので鯉に乗り換え鎮座したとの伝承が伝えられている。そしてその後、現在の大井町の方に遷ったのが現在の大井神社にあたるという。

 伝承によれば、「大神が陽の当たる所に祀りまひ」とのことで、大井神は昼は大井町で、夜は有本でと、2つの地域の守護神になったというが、実際には水害の難を避けて有本から大井町の現社地に遷座してきたのではなかったか。

 勝林島の方の大井神社は、もともと勝林島の「有本」という場所にあり、口碑によればそこが大井神が最初に降臨した場所であるという。「有本」は「ありもと」と訓むのだろうか。だとすれば「有本」の「あり」は、「ミアレ」の「アレ」かもしれない。

 なお、勝林島の十数件にあっては、今でも鯉は食べず鯉のぼりもあげないという。これは祭神が鯉に乗って大堰川を遡ってきたという伝承にむちなんでいる。

 大井神社の拝殿内に架かっていた鯉の絵馬(?)


 こうしてみると、月神を祀る式内社のしゅうへんには、何故かオブセッションのように水害の記憶がまとわりついている。どうしてこれらの神社は水害に遭いやすいのか、── むろん、流水に近い環境に鎮座するからである。しかし、単にそれだけならば日神を祀る伊勢神宮だって、すぐ横を五十鈴川が流れている訳であり、ふきんに流水があるのは月神を祀る式内社だけの特殊事情とは思えない。そもそも、近くを川が流れているなどというのは、古社の立地として典型的なものである。なのに、月神を祀る式内社たちが、その中でもことさら水害に遭う頻度が目立つのは何故だろうか。

 伊勢の川原神社と川原坐神社はそれぞれ社名に「川原」の語を含んでいる。魚見神社の鎮座地の字名は「川原田」だ。大井神社や樺井月神社は、もともと川中の州の中に鎮座していた。また、ふきんの地形や大井川の旧川筋とされる小河川が社地近くを流れていることをかんあんすると、小川月神社もかつては川原か州の上で祀られていた可能性が高い。葛野坐月読神社の旧社地の地名、「歌荒須田(うた・あらす・だ)」の「あらす」は、「あれ・州」であり、桂川の中にあった月神がミアレする州のことではなかったか。こうしてみると、これらの神社はしばしば川原とか州の上に鎮座していたのである。平面的に流水に近いだけではなく、水準的にもそれとほぼ同レベルの土地上で祀られていたのだ。これでは水害に遭うはずである。

 月神を祀る神社としては出羽の月山神社のように山頂で祀られている例もあるが、それにしてもこれほど多くの月神を祀る古社が、しばしば河原や州の上で祀られてきたのは異常なことだ。なぜこれらの神社は極度に川の流れに近い場所で祀られねばならなかったのか。私はここに、月神の祭祀の特質を解き明かすヒントがあると考える。













※1  外島は、三野と薪の間にあったが、現在は薪にくっついて島ではなくなったらしい。『日本芸能の主流』のp147にある地図によれば、そこは健康村の東側で木津川に近い辺りである。

※2  「樺井氏は、中世以後は大住郷中の名族となり隼人司官人とか公役人と称し、大住村の中心地に居を構え(『日本芸能の主流』p146)」たという。

※3  それにしても筑紫のテキストは、天つカミが神体山に降臨してから一夜妻との結ばれるまでの過程が、まるで実際に見聞してきたかのように克明に記述してある。読者は不思議に思わないだろうか、「どうしてそんなこと、分かるのか」と。だいたい、目に見えないカミが相手なのだから、特殊な霊能者でもないかぎり、仮にその場に居合わせたとしても、筑紫が書いたようにはその様子が分かるはずもないのである。
 実はこうした筑紫による天つカミ降臨の過程は、京都の上鴨神社の葵祭に見られる古儀などから類推してできあがっているのである。

 筑紫は上の引用文の少し後で、次のように述べている。

 「考古学者が、埴輪のかけらを手に入れると、たとえそれがわずかに四つ五つの小さな断片であっても、それをもとにして堂々たる大きな人物や家屋の形をした埴輪をみごとに復元してみせます。なぜ考古学者に、そんな器用なことができるのかといえば、無疵で残された完全な形の人物や家屋をかたどった埴輪が、別にちゃんとして残されているからです。完全な埴輪をみならって、採集された少数の断片が、埴輪のどの部分にあたるかをみきわめると、わずかな断片をもとにしてでも、りっぱな埴輪に復元できるものなのです。急所急所をおさえたかけらでありさえすれば、四つか五つの小破片をもとにしてでも、失われた過去の偉容を復元できるのが、埴輪復元の技術というものです。(p34)」

 そしてその上で、「まず、復元の手本となるべき完全な例を提示することです。京都の賀茂神社の御蔭祭こそ、その完全な手本です。」と述べ、御影祭の説明に入る。

 「賀茂の上社(※上賀茂神社)の本殿には、そのなかにカミさまの座席は設けられていますけれども、カミさまの姿はない、ということです。カミは空位である。つまり、本殿のなかはからっぽだというのです。それにはわけがあります。
 本殿の裏手にあたって、神山(賀茂山)とよばれている神聖な山があります。人びとは、拝殿から本殿をみとおして拝礼すると、この神山をおがんでいることになるのです。神社の裏手のこの山を、ほんとうはおがんでいるというわけです。それならば、本殿が空位であってもすこしもさしつかえありません。
 賀茂神社といえば、だれでもすぐ葵祭を思い出します。京都における年中行事で、もっとも伝統が古く、いかにも王朝文化そのもの、というまつりをさがせば、だれでも賀茂の葵祭を第一番にあげるでしょう。この葵祭の前夜祭が御影祭≠ネのです。
 御影祭は、カミが天から地上におりてくるのを迎える儀式です。神山の頂上には岩があり、これを降臨石とよんでいます。カミはまず、船にのって天からこの山上の岩まで空中をこぎくだってきます。賀茂氏久が、つぎのような歌をつくっているのは、古い信仰の姿をよくとどめているといわなければなりません。

 ひさかたの天の岩舟こぎよせて、神代の浦や今のみあれ所

 カミは、山のいただきから神山をつたわって、麓の御阿礼ミアレ所≠ニよばれる聖域におりてきます。そこには、あらかじめ御蔭ミアレ木(御阿礼木)≠ニよぶ樹木が、根こじにして用意してあります<中略>。
 カミがこの御蔭木によりつくと、人びとは紐を手に手に、この御蔭木を賀茂川の川ばたに引いてゆきます。これがみあれ引き≠ナす。
 御蔭木が川ばたに到着すると、カミは木をはなれて川のなかにはいります。そのとき、斎王(皇女であり、賀茂のカミの巫女として差し出されたひと)が川の流れのなかに身をひたして、カミを河中からすくいあげるのです。そのとき、川上から御幣を川に流します。このようにしてカミは地上に姿をあらわして再生し、斎王はカミの一夜妻となるのでした。
 賀茂神社とは、古くから土地の豪族である賀茂氏が、このようにして御阿礼神事を行って、天つカミ(雷)をまつっていたものです。社殿が固定化され常設されたのは、新しい工夫であったにすぎません。」という。



2007.01.14



主な参考文献

『アマテラスの誕生』
筑紫 申真 講談社学術文庫

『隼人』から
 「民俗にみる隼人像」

小野 重朗
社会思想社
 同「近畿地方の隼人」
森 浩一  〃

『月と水』
松前 健
『日本神話の新研究』
 〃 桜楓社

『式内社の研究』第三巻から
 「甘南備神社」の項
志賀 剛
雄山閣
 同「月読神社」の項
 〃
 〃
 同「樺井月神社」の項
 〃
 〃

『日本の神々5山城・近江』から
 「月読神社」の項
大和岩雄
白水社
 同「葛野坐月読神社」の項
 〃
 〃

『式内社調査報告』第一巻から
 「甘南備神社」の項
西山 克
皇學館大學出版部
 同「月読神社」の項  〃
 〃
 同「樺井月神社」の項  〃
 〃
 同「葛野坐月読神社」の項 笠井 倭人
 〃

『式内社調査報告』第六巻から
 「月読宮」の項
渡邊 寛
 〃
 同「大土御祖神社」の項 石井 昭郎
 〃
 同「川原坐國生神社」の項 堀越 光信
 〃
 同「川原神社」の項 齊藤 郁雄
 〃
 同「魚海神社」の項 田中 卓
 〃

『式内社調査報告』第十八巻から
 「小川月神社」の項
美馬 恒重  〃
 同「大井神社」の項 金田 章祐
 〃

『故郷鎮守の森 亀岡神社誌』 亀岡市神職会/
亀岡市氏子総代会







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