鹿 屋 野 姫 と 隼 人 た ち





  京都府の京田辺市に大住という土地があり、そこには月読神社や樺井月神社といった月神を祀る式内社が複数、鎮座している。大住には、上代に隼人たちが居住したとされており、こうした神社がそこに鎮座するのも、彼らに月神を祀る習俗があった名残であろうと考えられている。

 隼人たちのほんらいの本拠地は、九州南部いったいであった。が、近畿地方にもこの大住のように、上代に彼らが居住していた地域が数カ所あり、これらは朝廷による支配を受けるようになった隼人たちが、国家政策により九州から近畿各地に移配された結果と考えられている。近畿圏において、上代に隼人たちが活動していた地域のきんぺんで、月神を祀る信仰が残っている事例をもう一つ紹介してみよう。




藤越神社
社叢
社殿

 【所 在】 亀岡市千代川町千原安田48番地
 【祭 神】 野椎命
 【例 祭】 10月21日
 【由 緒】 下に引用したとおり



 京都府亀岡市千代川町に藤越神社という神社が鎮座している。何の変哲もない普通の神社なのだが、伝わる口碑がやや変わっている。当社の祭神は野椎命であるが、『故郷鎮守の森 亀岡神社誌』からその口碑を紹介しよう(※1)。

 野椎命は、伊邪那岐命の御子で野を司られた神である。風俗でいういわゆる野の神という男神でなく、またの名は鹿屋野比売と申し上げる女神で、今の薩摩の阿多の郡に住んでおられた。夫神に従い、日向から西海道を伊勢へと出られ淡海国の日枝の山に来られる道すがら、山野の物、甘菜辛菜に至るまで霊感を示された。そのために、邪神たちはそのお姿を見るや平伏し拝したと口碑にあるが、信じることはむずかしい。

   ・『故郷鎮守の森 亀岡神社誌』p142


 さて、この「野椎命」という祭神をご存じだろうか? 私はこの由緒を読むまで、こうした神が存在するということじたい知らなかった。そこで、この祭神についてちょっと紹介しておく。野椎命のことは『古事記』上巻に出てくる。

 (イザナキ・イザナミの二神が)既に国を生み竟へて、更に神を生みき。<中略> 次に山の神、名は大山津見神を生み、次に野の神、名は鹿屋野比賣神を生みき。亦の名は野椎神と謂ふ。
 この大山津見神、野椎神の二はしらの神、山野によりて持ち別けて生める神の名は、天之狹土神、国之狹土神、次に天之狹霧神、次に国之狹霧神、次に天之闇戸神、次に国之闇戸神、次に大戸惑子神、次に大戸惑女神。

   ・『古事記』岩波文庫p22〜23


  総括するとそこでは野椎命について、
1. イザナキ・イザナミが国生みの後で生んだ神々の中の一柱であること
2. 野を司る神という神格があること
3. 鹿屋野比売神という女神の名が最初に出てきて、後からその別名として野椎神が出てくること。
4. 大山津見命と一緒にそれぞれ野と山を分担し、八柱の神を生んだこと
が事績として述べられている。

 藤越神社の口碑は大部分が、この『古事記』の記事から取られている。例えば、「野椎命は、伊邪那岐命の御子で野を司られた神である。風俗でいういわゆる野の神という男神でなく、またの名は鹿屋野比売と申し上げる女神で」という部分は、123の内容そのままだし、「夫神に従い、日向から西海道を伊勢へと出られ淡海国の日枝の山に来られる道すがら、山野の物、甘菜辛菜に至るまで霊感を示された。」にある「夫神」は大山津見命で、4で野椎命が大山祗命の后神とされていることから出てきたものであろう。また、そこに「淡海国の日枝の山」のことが出てくるのは、大山津見命が、日枝の山(=比叡山)を神体として祀る日吉神社の祭神であることから附会されてきている。

 ところが1ケ所だけ、藤越神社の口碑にあって1234にはない内容がある。それは野椎命が「薩摩の阿多の郡に住んでおられた。」という部分である。だが、これについて考える前に少し補足しておく。
 記紀において野椎命のことが出てくるのは、この『古事記』上巻の箇所だけである。そこでこの神は、野の神として大山津見命と対になって活動しているが、いっぽうの大山祗命がかなり一般的であるのに対し、野椎命はどちらかという、地味で目立たない祭神と言ってよいだろう。おそらく、全国的にみても、野椎命を祀る神社というのは比較的珍しいのではないか(※2)。ところが、藤越神社の鎮座する亀岡市内には、当社いがいにも、野椎命を祀る神社が2社もある。同市稗田野町字佐伯に鎮座する稗田野神社(祭神:保食神、大山祗命、野椎命)、および同市宮前町に鎮座する笹葉神社(祭神:大山祗命・野椎命・彦火々出見命)である。


笹葉神社
【所 在】
 亀岡市宮前町猪倉宮ノ下55番地
【祭 神】
 大山祗命・野椎命・彦火々出見命
【例 祭】 10月17日
【由 緒】
 延喜4年に、貞純親王の令旨により、当地の氏神として勧請創建されたと伝えられる。




稗田野神社
社殿
当社のシンボルとなっている大鳥居

 【所 在】 亀岡市稗田野町佐伯垣内亦46番地
 【祭 神】 保食命・大山祗命・野椎命
 【例 祭】 10月23日
 社伝によれば、和銅2年(709)丹波の国守、大神朝臣狛麻呂が聖旨を体し五穀守護神として、また佐伯郷の産土神として創祀したという。『延喜式神名帳』丹波国桑田郡に登載(小社・一座)。詳しくは、『式内社調査報告』と『日本の神々』を参照。

 なお、当社の例祭は10月23日だが、8月14日(古くは7月15日)に行われる「佐伯灯籠祭」の方が有名。


 このうち、稗田野神社は『延喜式神名帳』丹波国桑田郡に登載のある式内社であり、現在でも地域の名社として格別の崇敬を受けている。稗田野神社は藤越神社のように、野椎命一柱だけを主祭神として祀っている訳ではないが、それにもかかわらず『日本の神仏の辞典』(大修館書店)を引くと、この神を祀る神社の例としてあげられているのは当社のみである。このことは、稗田野神社が野椎命を祀る代表的神社であるということを感じさせるとともに、「野椎命を祀る神社は珍しい。」、という先ほどの疑いをいっそう強めさせる(※2)。そしてその場合、当社を含めこの祭神を祀る神社が3社も集中する亀岡市の南西部は、野椎命を祀る神社が集中している点で特異であることになろう。

 ところで、稗田野神社が鎮座している亀岡市の佐伯という土地は、どうやら古代に隼人たちが住み付いていたらしい。佐伯は『和名抄』にある「佐伯郷」の遺称地とみられ、中世期には佐伯庄という庄園があって、室町初期に中原康富という人が知行していた。彼の日誌である『康富記』には、応永27年8月3日条、同年11月10日条及び嘉吉2年12月4日条に、佐伯庄にあった「少所(「「氷所」の誤記とされる)」に住む隼人たちのことが登場する。少所(氷所)は現在の亀岡市稗田野町佐伯から同町太田あたりに比定されており、どうやら佐伯は、上代において南九州から移り住んだ隼人たちの居住する地域で、康富の頃にもその子孫が生活していたらしいのだ。

 となると、全国でも野椎命を祀った代表的な神社とされる稗田野神社が鎮座する佐伯は、古代において隼人たちが居住していた特異な土地であったことになる。これは単なる偶然だろうか? むしろ、野椎命を祀る神社がそんなに多くなさそうなことを考えると、「野椎命と隼人には、何らかの繋がりがあったのではないか。」という疑いが生じてこないだろうか。そうして、実際に同じ亀岡市内にあって野椎命を主祭神として祀る藤越神社には、この祭神について記紀にはない「薩摩の阿多の郡に住んでおられた。」という独自の口碑を伝えているのである。言うまでもなく、「薩摩の阿多」は阿多隼人の本拠地である。してみれば、「野椎命と隼人たちには何か関係がある。」という当てずっぽうが、当てずっぽうとは思えなくなってくるのだ。




   



 だがその場合、どうして野椎命は隼人とつながるのか? ──  隼人と月神という本題からはいささか脱線するが、これについては次のようなことを考えてみた。

 『古事記』によれば、野椎命は「鹿屋野比売(かやのひめ)」という女神の別名であった。私は、野椎命と隼人に関係があるとすれば、その手がかりはこの「かやのひめ」という神名に含まれる「かや」にあると思う。

 『日本書紀』景行天皇12年12月5日条に、熊襲(くまそ)の指導者たちの名前として、厚鹿文(あつかや)、?鹿文(さかや)、市乾鹿文(いちふかや)、市鹿文(いちかや)、同27年10月13日条に取石鹿文(とろしかや)といった人たちが登場する。これらの人名は、「かや」が付く点で共通しているが、このことは他の異種族の首長名にはない特徴でもあるため、熊襲の言語で「かや」は、彼らにとって何か重要な概念を表しているらしい。
 大林太良の論考を引用する。

 ここで気になるのは、先ほど例を挙げた熊襲の男女の首長の人名についているカヤという語である。これは、熊襲の首長名には繰返し出てくるのに反し、他の異種族の人名には出てこない、ないしは少なくとも特徴的でないことから見ても、熊襲語にとって、何か重要な概念をあらわしているではないか、という疑いがある。デンプヴォルフによれば、原アウストロネジア語のkaja'には、財産(Beisitz)、仕方(Art und Weise)、可能であること(Moglichsein)の三つの意味が意味が与えられている。ところが、インドネツシア民族学の研究者として有名なオランダのドイフェンダックは、マレイ語kaja(富む ── 形容詞)が、呪力を示す語彙と語源上親縁なことに注意を喚起している。つまり、セレベスのハナハッサ諸語ではkajaの反復たるkakajaはtovermiddel(呪術、まじない)を意味し、またここではkoemakajaは呪術(魔法)にかけること(toveren)を意味している。またフィリッピン諸語では、kajaは、力、資産(vermogen)、利益(winst)を意味し、ビサヤ語のkajaは案山子(vogelverschriskker)を指している。マレイ語では、呪的な意味は、kakaja'an Allah(神の奇跡)という表現にまだ残っている。このような事例を挙げてドイフェンダックは、メラネシアのmanatが呪力と物質的な財宝の双方を指していることの類似を指摘している。このようにして見ると、呪力と資産をもつことを意味するという語は、男女に拘わらず首長の名に極めてふさわしいものと思われる。事実、スマトラなどでは、首長の称号としてオラング・カヤ(orang kaja)つまり、カヤのある人という名がしばしば出てくる。熊襲の首長の名に頻繁に出てくるカヤというという語をこのように解釈することが許されれば、熊襲の言語がインドネシア系だった可能性が考慮に入ってくる。

   ・『隼人』社会思想社 p27〜28



 この大林の考察は、有名な言語学者の村山七郎から賛同を得ているが、そうなるとなかんずく熊襲と呼ばれた人たちはインドネシア系の言語をしゃべっていたことになる。いっぽう、隼人もまた、記紀にある海幸山幸の神話と同モチーフのそれがインドネシアに分布すること、『大隅国風土記』逸文にみられる隼人の語彙がマレイ語として解釈できること、褌(ふんどし)等の習俗もインドネシアに見られるものであること等から、その出自がインドネシア系ではなかったかとする説がある。この説は戦前から唱えられ、極めて有力なのだ。

 こうした説が正しいとすれば、熊襲と隼人は供にインドネシア系の言語をしゃべる同系の種族だったことになる。じっさい、熊襲とか隼人というのはほんらい、同じ種族で区別はなく、征服者である大和朝廷が、自分たちに対し反逆的な態度をとった支族を熊襲、従順であった支族を隼人、と勝手に呼び分けていたに過ぎない、という意見さえある。


隼人塚
姫木城跡
 左画像は隼人塚。鹿児島圏姶良郡隼人町見次にある。石造の多重塔と四天王像が残存し、景行・仲哀によって討たれた熊襲を供養するため、和銅元年(708)に建造されたなどと言われる。国定史跡。

 右画像は姫木城址。同県国分市姫木にあり、『八幡宇佐宮御託宣集』にある「比売之城」の城址とされる。同書によれば、養老4年(720)に反乱を起こした隼人たちは、大伴旅人に率いられた朝廷軍に対し、7つの城に立てこもった。そして他の城が落城してからも、「曽於之石城」と「比売之城」だけは最後まで抗戦を続けたという。姫木城址は手籠川の右岸、春山台地の尾根上にあり、周囲を絶壁に囲まれたすさまじい天然の要害である。画像は南端ふきんから撮影したもの。



 「くまそ」という種族名は、彼らが活動していたのが、九州南部の球磨(くま)と曽於(そお)の両地域であったため、この2つの地名を連ねて造語された「くま・そお」であるという説が有力だが、このうち、曽於地域(現在の鹿児島県国分市、同姶良郡隼人町・福山町・霧島町いったい)は、養老4年に起きた隼人たちの反乱の本拠地になった地域で、彼らが朝廷軍に対し最後まで立てこもった「曽於之石城」や「比売之城」といった山城の址が、現在でも残っている。
 いっぽう、「くま・そう」のもう片方である、球磨地域は熊本県の球磨川上流域に広がる人吉市と球磨郡地方に比定されているが、このいったいは、隼人による月神信仰の遺存のものといわれる十五夜綱引きの分布圏内に包摂されるし、阿多隼人の墓制と言われる地下式板石積石室墓の分布も若干、見られる。こうしてみると考古学や民俗学上からも、熊襲と隼人が同質の文化をもつ集団であったことに対し、ある程度の支持が得られそうな感じがする。

 記紀や『続日本紀』には隼人の首長の名がいくつか出てくるが(※3)、その中に「かや」のつく人名は出てこない。が、隼人と熊襲が同じ南島(アウストロネジア)系の言語を話していた同系種族だったとすると、記録には残されていないものの、隼人にも熊襲と同じく「かや」の付く名をもった首長がいそうな感じがしてくる(※4)。

 いっぽう、『続日本紀』文武4年には、南島へ派遣された覓国使が、隼人たちの土地に寄港した際、彼らの首長から脅迫される記事がある。そして、その中に「薩末(薩摩)の比売」という女性首長らしい人物が登場する。おそらく、巫女であり、隼人たちの間で宗教的な権威をもつような人物であったろうが、ここから隼人の社会には、女性の首長がいたことが分かる。

 さて、以下は私の作ったお話である。

 隼人たちにも、熊襲と同じく「かや」の付く名の首長がおり、その中に女性首長がいたとすれば、かって彼らの中には「かやの姫」という女性首長がいたかもしれない。彼女がいったいいつ頃の人であったかは、にわかには断じがたいが、7〜8世紀頃か、あるいはそれよりやや後生に生まれた人だろうと思う。いずれにせよ、彼女の人生には大きな変転が訪れたのであり、南九州で生まれた彼女は、朝廷による移配政策を受けたため、一族を率いて故郷を離れ、京都府亀岡市の佐伯ふきんへと移住しならなくなった。移住後の彼女が、再び故郷の土を踏むことができたのか、それとも異郷の地で没したのかはわからない。だが生前の彼女は、強い宗教的権威をもっていたため(なかんずく、巫女としての彼女は月神に仕えていたのだろう。)、没後も亀岡に残った隼人たちから神格化され、女神としての信仰を受けるようになった。

 その後、記憶の風化とともに彼女のことは忘れられ、それに伴い、たまたま『古事記』に「鹿屋野比売(かやのひめ)」の別名として野椎命が登場することから、彼女のことはこの祭神と混同されるようになった。かって「かやの姫」を祀っていた稗田野神社でも、祭神が「かやの姫」から野椎命に改められた。藤越神社でも同様の祭神の改変があった。が、かろうじて上に引用した口碑だけが、かって故郷を離れ、はるばる九州から口丹波にまでやって来た「かやの姫」の事跡を今に伝えている ── 。




   



 まぁ、それはともかく、野椎命の話が長くなったが、話を隼人と月神のことに戻す。

月讀神社
【所 在】
 亀岡市千代川町小川宮ノ本31番地
【祭 神】 月読命
【例 祭】 10月21日
【由 緒】
 不明だが、式内・小川月神社との関係が考えられる。
 藤越神社から南へ7〜800mくらいしか離れていない千代川町小川に「月讀神社」という神社が鎮座している。祭神は月読尊で、月神を祀る神社である。当社が鎮座する「小川」という字は、『和名抄』にある小川郷の遺称地で、このきんぺんは丹波地域における月神信仰の中心地であった。そこには『延喜式神名帳』丹波国桑田郡に登載のある明神大社、「小川月神社」が鎮座しており、名前から明らかな通り、この神社も月神を祀る神社だからである。

 式内・小川月神社は現在、大堰川の左岸側にあたる馬路町月読に鎮座している(祭神は月読尊)。今、この神社を訪れると、ひなびた社殿と若干の樹木が田の中にポツンとたたずんでいるだけだが、かっては広大な神域を誇る大社であったと言う。ちなみに、丹波国式内69社のうち、明神大社は、当社と出雲大神宮等を含む4社5座のみである。当社が衰微した理由は、兵乱や大堰川の洪水に遭ったためとされ、一時期は小祠を残すのみで廃絶しかけていた。現在の鎮座地は、古文書に「神代からの舊地なり」とあり、また周辺には「月読」の字名も残っている。しかし、いっぽうで大堰川は、古代から流路を何度も変更してきている(じっさい、現在の小川月神社の東方を流れる古川という小川が、かっての旧大堰川のルートだとも言われている。)。また、「小川月神社」という神社名についた「小川」は地名であるが、現在も鎮座地にこの地名が残るのは当社ではなく、上述した千代川町小川の月讀神社の方である。したがって、ほんらいの式内・小川月神社の所在は、大堰川の流路の変転によってどこかに紛れ込んでしまい、現・小川月神社と月讀神社の間に挟まれたいったいがこの式内社の信仰圏であったように思われる。ちなみに両社間は直線距離で1.5q弱、離れているが、その間に大堰川が挟まっており、移動のためには途中で「月夜見橋」という大きな橋を渡らなければならない。




小川月神社
社地の遠景
社殿

 【所 在】 亀岡市馬路町月読16番地
 【祭 神】 月読命
 【例 祭】 10月16日
 古記録によれば伊勢の内宮・外宮が現在地に遷座される前からの末社であり、神代から祀られてきたというが、京都盆地にいた秦氏が亀岡盆地へ進出した際、松尾大社系の葛野坐月読神社を勧請したものと考えられる。『延喜式神名帳』丹波国桑田郡に登載があり(明神大社・一座)、出雲大神宮に次ぐ桑田郡の第二の大社とされていたが、応仁の乱iによる兵害や、大堰川の水害にみまわれ衰微した。
 詳しくは、『式内社調査報告』と『日本の神々』を参照。



 藤越神社と小川月神社もまた直線距離で1.5q弱、離れているので、地図上にこの2社と月讀神社の位置を落とすと、小川月神社からそれぞれ1.5qの等辺が延びた二等辺三角形ができあがる。既に言ったように藤越神社と月讀神社は7〜800m程度しか離れていない。まさに藤越神社は、式内・小川月神社の月神信仰圏と隣接して鎮座しているのである。
 小川月神社は京都盆地の桂川流域にいた秦氏が、この川をさかのぼって亀岡盆地へ進出した際、松尾大社系の葛野坐月読神社を勧請したものと言われるが、その場合、同じ月神を祀る信仰とは言っても、小川月神社のそれと隼人たちによるそれと別系統であったことになる。
 藤越神社の祭祀が、上代の当地に居住していた隼人たちと関係するものであったとすれば、小川月神社の月神信仰圏近くに当社が鎮座するのも、もともとあった在地の式内・小川月神社の信仰に、後から口丹波へ移配されてきた隼人たちが、南九州から持ち込んだローカルな月神信仰を習合させた痕跡ではなかったか、などと考えている。




 葛野坐月読神社。京都市西京区松室山に鎮座する式内明神大社で、その縁起は『日本書紀』顕宗天皇3年2月1日条に記載がある。


2006.03.12







※1  藤越神社に隼人たちのことらしき口碑が伝わっていることを初めて知ったのは、『丹波の神社』サイトを閲覧していた時である。

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※2  野椎命を祀る式内社としては『延喜式神名帳』加賀国加賀郡に登載のある「野蛟神社(のつち・の・神社)」(小社・一座)もあげられるかもしれない。当社の現祭神は、高皇産霊尊・猿田彦命・事代主命等であるが、江戸初期以前は野椎命を祭神として祀っていたことが古文献に出てくる。
※3  古文献に出てくる隼人の人名としては、記紀の履中条にある「さしひれ」「そばかり」、『続日本紀』の南島に覓国使を派遣した記事のところにみられる「さつまの・ひめ」「さつまの・くめ」「さつまの・はず」「えのきみ・あがた」「えのきみ・てじみ」「きもつきの・なには」、天平元年七月二十二日条にみられる「かしのきみ・わたり」「さすきのきみ・やまとくくめ」、藤原広嗣の乱の記事にある「そおのきみ(曽於君)・たりしさ」などである。
※4  ちなみに地名では、古代に隼人が居住していた地域に「かや」の付く例がみられる。例えば、大阪府八尾市萱振(かやふり)町は、『康富記』にある「萱振保」の遺称地で隼人の移配地であったし、『和名抄』には大隅国姶良郡に「鹿屋郷」がある。鹿屋郷の遺称地は、現在の鹿児島県鹿屋(かのや)市であるが、この辺りいったいは大隅隼人の墓制である地下式横穴墓が濃密に分布する地域で、古代において隼人たちの人口がもっとも多かった地域の1つと考えられる。亀岡市の佐伯近くにも、同市本梅町に「東加舎(ひがしかや)」・「西加舎」という地名がある。佐伯は『和名抄』の佐伯郷の遺称地とみられているが、平安期には「賀舎荘(かやのしょう)」という荘園があった。東加舎・西加舎いったいは、この荘園のあった土地とも言われるからから古い地名だ。



主な参考文献

『故郷鎮守の森 亀岡神社誌』 亀岡市神職会/
亀岡市氏子総代会

 
『隼人』 大林太良編 社会思想社

『隼人の古代史』 中村明蔵 平凡社新書

『式内社調査報告』第十八巻から
 「稗田野神社」の項
美馬恒重 皇學館大學出版部
 同「小川月神社」の項 美馬恒重  〃
 
『京都府の地名』 日本歴史地名大系 平凡社
 
『日本の神々』4から
 「小川月神社」の項
山路興造 白水社
 同「稗田野神社」の項 青盛 透  〃
 
『古事記』 倉野憲司校注 岩波文庫
『日本書紀』 宇治谷孟訳 講談社学術文庫
『続日本紀』 宇治谷孟訳  〃





2006.03.12





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