隼人たちの月神信仰 「二.月を見る者」





 ★「甘南備山考」の続き


月を眺めるという所作は何を意味するだろうか。



 月を眺めるというしぐさは何を意味するだろうか。

 月と物語の関係について考えてみたい。

 すぐれた物語には必ず、それまで潜勢していた感情とか思想の核が、いっきょにむき出しとなって迫ってくる瞬間がある。ひらたく言えば、「クライマックス」のことだ。

 ところでクライマックスになるような場面はとかくドラマチックだから、舞台装置もそれなりにドラマチックな場所に設定される。例えば(これは映画の話だけど)、対立する2人の男が格闘する場面は、普通の地形の場所にするより、転落すれば命はないような断崖絶壁の上に設定したほうが、シチュエーションに内在する劇性がより強烈に噴出するだろう。

 さて、そういう劇的な場面の舞台として、日本の文学では(日本の文学だけではないのかもしれないが)月の出ている場所の選ばれることがある。例えば『金色夜叉』(未読)の有名なシーンがそうだ。

 「見ろ、お宮。今月今夜のこの月を。」

 月によって皓々と照らされている場所というのは、物語の舞台としてなかなかドラマチックである。したがって、多くの作者たちがそのような土地の上において、主人公たちの感情と感情がぶつかり合う幾多の事件を創案しているのもむべなるかなである。

 しかしながら、月に照らされた場所というのは、物語にとってたんに効果をねらったというだけではない、何かもっと根元的な場所であるのかもしれない。

 世阿弥が作者だろうと言われる謡曲『三井寺』は、人買いに息子をさらわれ、物狂いとなった女が、清水寺の観音のお告げにより、近江の三井寺で我が子と再会するストーリーである。母子の再会する三井寺の境内はおりしも八月十五夜であり、2人は中秋の名月の下で相まみえる。ちなみにシテの母親はそこで琵琶湖に映った月影を次のように謡うのだが、

  水のおもてにてる月なみを数ふれば今宵ぞ秋のも中なりける(171)

この詩章は『拾遺和歌集』にある源順の歌を引用したものである。源順は『竹取物語』の作者の候補とされる1人だ(※1)。

三井寺の「観月舞台
 三井寺の境内には、謡曲『三井寺』にちなんでか「観月舞台」がある。うっかりすると見落としそうになるが、この能舞台は琵琶湖を臨む崖の縁に建っており、下を覗くとたいへんな舞台造りになっている(右画像)。

 『三井寺』は謡曲の中でもとくに物語性に優れ、「月と狂女」という表現主義の取り合わせも見事だが(『月に憑かれたピエロ』みたい)、やはりその肝要は「満月の下の再会」というクライマックス・シーンにあると思う。しかしこの場面はたんに劇的な効果をねらっただけのものなのか。

 『三井寺』の作者とされる世阿弥は、月明かりに照らされた京の四条河原で舞ったという。月に照らされたこの世ならぬ空間は、他界からモノ(=神霊)が立ち現れる現場であった。彼はその訪れを「幽玄」と呼び、その契機を芸能化した。世阿弥の芸術は月の光のもつ異化作用によって支えられていたのである。

 いっぽう、世阿弥の生誕よりもはるかに以前から、わが国にはモノたちの伝承を語る「語部(かたりべ)」と呼ばれる人々がいた。三輪山の「オオモノヌシ」の伝承なども、彼らによって語り伝えられてきたのだろうが、かの神が夜になってモモソ姫のもとを訪れ、朝になると去っていったごとくに、彼らは決定的に夜の世界の主人公であった。こうしたことを考えると語部たちの活動も夜に行われたように思われるが、ここで世阿弥のケースから類推すると、彼らもまたモノたちの現前にリアリティを添えるため、月明かりの下で「モノ・語った」のではないか。その場合、月に照らされた空間こそは、物語が発生する根元的な場所であったことになる。

 さて、月に照らされた空間が根元的に物語が発生する場所であるとすれば、月を眺めるというしぐさは「物語の始まる時」を表す符丁でなかったろうか。

 トーマス・マンの『ヨセフとその兄弟』は、『旧約聖書』の「創世記」に取材した小説で、1926年から執筆が開始され、1942年に完成されている。その間、ヒトラーがドイツの政権を執り、マンはアメリカへの亡命を余儀なくされているが、この神話学・深層心理学・古代史・宗教史・考古学・旧約聖書学等々の膨大な知識を盛り込んで執筆された大長編は、ナチスの形象化した神話学、なかんずくローゼンベルクの『二十世紀の神話学』に抗すべく書かれたと言われている。

 ところで、この小説の主人公、ヨセフが最初に読者の前に姿を現す時、彼は聖木のそばにある井戸辺に腰をかけて月を見あげている。最初に読んだ時、この印象的な主人公登場の場面はいささか唐突であった。しかし、月を眺めるというしぐさが「物語の始まる時」を表すものとすれば、宇宙的な広がりをもったこの小説の発端として相応しいものではないか。

 交響曲の中には、混沌の中にあった茫漠たる響きが、しだいに確固たる形をとって第一主題の提示となる、というような始まり方をするものがある。これから展開する深遠な音のドラマを予感させる見事な開始と言えよう。総じて、こうした表現はマンもその一員であるドイツのロマン派たちが得意としたものであるが、おそらく彼もまた、「主人公が月を見あげている」という発端によって、物語にとっての「かの始めの時」、太初の時を告げようとしたのではなかったか。

 スタンリー・キューブリック監督の名作SF映画、『2001年宇宙の旅』は、地球人と地球外生命体とのコンタクトをテーマに、人類の進化の歴史を描いた大宇宙叙事詩である。さてこの映画は、「人類の夜明け」と題された章で始まるのだが、そこには謎の黒いモノリスの導きにより、人類の始祖に当たる猿人が最初に道具を使うことを覚えるエピソードが登場する。そしてその猿人は、映画のシノプシスの中で「月を見るもの」と名付けられていたのだ。

「彼に名前を付けるなら「月を見る者」がふさわしい。なぜなら彼は、夜になると空を見あげ、月という光の輪を見つめていたからだ。彼は他の猿人より明らかに賢く、一座のリーダー格だった。」

 映画では、「月を見る者」が月を眺めるのは、ごく目立たないショットで示されるだけなので、あらかじめ知っておかないと、彼がそのような名前で呼ばれていることは、たぶん誰にもわからない。しかしこの発端は、『ヨセフとその兄弟』で主人公が最初に登場する時、月を眺めていたというのと同種のものではなかったか。彼のことを「月を見る者」と名付けたのがキューブリックだったのか、それとも原作の共同執筆者であるアーサー・C・クラークであったのかは分からないが、いずれにせよその命名者は、「人類の歴史」という最初にして最後の物語が始まる現場に、「月を見る者」を置いたのだった。

 「月を見る者」のイメージが、読者に対していかに「大きな物語の開始」を予感させるかは、日本民俗学の聖典、ニコライ・ネフスキーの『月と不死』のケースを考えればただちに見て取れる。この論文は、中央アジアの大地を進むシベリア鉄道のプラット・フォーム上で、筆者が皓々と輝く満月に見とれている不思議な日本人と出会うところから始まっている。

 ずっと以前のこと、かのシベリアの大鉄道を旅行して、私が丁度バイカルを過ぎたのは、麗しい六月の夜のことであった。天地に迫る涼味、寧ろ寒気が感ぜられる程で、偉大な夜の光は、隈なく湖と程近く聳える山々を輝し、水面には己が姿を映してゐた。
 私は汽車のプラットフォームに出て見た時、其処には一人の日本人が佇んで、蠱惑的なシーンに見とれてゐた。暫しの間息もつかず、沈黙が僅かに規則的車輛のの響に妨げられて続いてゆく。やがて彼の方から振り向いて来た。
 「このような月を眺めてゐると」と語り初めた。 ──
『月と不死』は、民俗学関係の書物などでしばしば言及される古典であるが、実際に読むと意外に短く、しかも未完に終わっている。思うにこの論考がこれほどまでに高名になったのも、「月を見る者」が登場するこの開始の場面があったからではないか。

 短いものであるにもかかわらず、『月と不死』を読了すると、何故だか壮大な論考であったかのような印象が残る。それはこの冒頭が、「物語の始まり」という何かしら根元的な体験をそこに付与するからなのだ。「月を見る者」がそこに姿を現しただけで、読者はこれから始動する大きな物語を予感し、そこで扱われているのが重要な問題であることを察知する。


 歴史のない場所にあった混沌の底が割れ、物語の時間が流れ始める時、いつだってそこには月を眺める者たちがいた、── そんなふうに考えることができないだろうか。




   




 前置きが長くなった。本題にはいる。

 月の都から迎えの来る日が近づくにつれ、かぐや姫は月を見あげてふさぎこんだり泣いたりするようになる。そんな彼女の様子を見て、「月の顔を見るは忌むことなり。」とたしなめる者もあった。当時、月を眺めることを不吉とするそのようなタヴーがあったらしいのだが、それにもかかわらず、まだそうした禁忌が残っていたであろう時代に生きた1人の女が、今、ここで月を眺めている。

 余談になるが、かって市川崑監督が沢口靖子主演で『竹取物語』を映画化したとき、月からの使者が姫を迎えに来るシーンで、スクリーン上に巨大な円盤形のUFOを登場させて、心ある映画ファンを卒倒させた。それは、どう見ても『未知との遭遇』のパクリであり、彼らは日本映画を黄金時代から支えてきた名匠が、「やってはならないこと」をしたのを目撃して映画館の椅子の上で悶絶したのである。ここ最近の市川監督は90歳を越えてもなお、毎年、新作が公開されているが、『竹取物語』の後は一時期、劇場に監督作がかからなくなり、活躍の場をテレビに移していたのではなかったか。気のせいだろうか…。


石山寺
 全くどうでもよい話をしてしまった。話を月を眺めている一人の女のことに戻す。
 女がいるのは近江の名刹、石山寺である。年の頃は30歳くらい。理知的な顔立ちをした彼女の前には大盤若経が広げられている。遠い都では時の摂政、藤原道長が権勢を誇り、宮廷に出入りする貴族たちの間では、王朝絵巻そのものの華やかな生活が送られていた。しかし彼女は、そうした世界を捨てて、へんぴなこの山寺にこもっているのである。

 その女の名前はわれわれの時代にまで伝わっていない。夫との死別後、一条天皇の中宮であった藤原彰子に仕えたのであるが、その時の女房名は「藤式部」であったという。しかし、通称であったらしい「紫式部」の方が、あるいはよりわれわれの間で流通している名前かもしれない。

竜頭鷁首

 折しも八月十五夜である。瀬田の唐橋の向こうに広がる琵琶湖の湖面には、月が霜のような月影を落としている。都ではこの月を愛でるため、貴族たちが自分の邸宅にある池に竜頭鷁首を浮かべて船遊びに高じているだろう、 ── そうした想いは彼女の孤独感をいっそうつのらせた。やがてその女の脳裏に、僻地に流れてきた一人の貴人が、中秋の名月を見あげながら都での華やかな日々を偲んで落涙する暗鬱な場面と共に、一編の物語の構想が浮かびあがる。彼女は忘れないようにと、その冒頭の文章を大般若経の裏に書き留めた、「今宵は十五夜なりけりと思し出でて、殿上の御遊恋ひしく…。」──
 これは紫式部による『源氏物語』起筆の伝承とされるものである。貞治年間(1362〜7)に成立した『河海抄』にも見られる伝承であるから、なかなか古いものらしい。中宮彰子からまだ読んだことのない新しい物語を求められた彼女は、その執筆の願成就のため石山寺に籠もっていた。大盤若経の裏に書き留めた「今宵は…」は、「須磨」の一節であるが、政争に破れ、都を捨てて須磨に流れてきた光が、折しも上空に出ていた中秋の名月を見あげ、都での華やかな生活とそこに残してきた人々を想い、声をあげて泣くくだりである。
 つまりこの伝承によると、都から離れ、寂しい山寺に籠もっていた紫式部の心境が、「須磨」の構想を生み出すきっかけになったというのだ。

 須磨も石山寺も都からそう遠くもなく、近くもない土地である。また須磨には「須磨の関」があり、石山寺も近くに「逢坂の関」があった。両者とも当時、畿内とそうでない「道の国」とを限る境界と見なされていた場所であるが、このように須磨と石山寺しゅうへんは人文地理がよく似ている。したがって、石山寺に籠もっていた紫式部の境遇が、「須磨」を構想するきっかけにとなったというのは、話として実によくできている。というか、あまりにもできすぎているので、かえって怪しくなってくる。石山寺には、紫式部が源氏執筆に使用したとされる硯なども伝わっており、そうしたこともあってか、かなり一般向けの本の中にも、まるでこの伝承が史実であるかのような書かれ方のされているものがあった。しかし、この伝承はあくまでも伝承の域を出ないものであり、史実とは認められていない。

石山寺の硅灰石と「月見亭
 左画像は石山寺の境内にある硅灰石の露頭。国の天然記念物に指定されており、「石山」の地名の由来になったと考えられている。神秘的な感じのする自然の造形であり、寺院が開山されるよりもはるかに以前から、ここが磐座祭祀の聖地であったことを感じさせる。

 右画像は石山寺境内にある「月見亭」。瀬田川を見下ろす山地の縁にある。後白河天皇の行幸があった際、初めて建立され、その後、幾度か修繕を受けている月見のための施設。月の名所、石山寺のシンボル的存在である。

 とはいえ、そのいっぽうで、ここにはどこかしら心うたれるものがある。ことに私は、日本人が書いた最高の小説が生まれた瞬間、紫式部が月を見ていたという点に感動する。こだわるようだがここでも偉大な物語が生成する現場に、「作者」という「月を見る者」がいたのだ。

 また、この伝承の舞台として、どうして石山寺が選ばれたのかというのも気になる点である。須磨と石山寺の人文地理が似ていることもあるだろうが、もっと深い別の理由があったのではないか。

 石山寺は古くから月の名所とされてきた。『新古今和歌集』には藤原長能の「石山に詣で侍りて月を見てよみ侍りける」として、

  都にも人や待つらむいし山のみねにのこれる秋の夜の月(1512)

が見えているし、「石山の秋月」は近江八景の一つである。広重の版画で有名な近江八景は、遅くとも室町期末には成立していたらしいが、とにかく石山寺いったいが月の名所とされていなかったならば、このような伝承もまた、生まれていなかったに相違ない。


 ところで、古くから月の名所とされるような場所は、上代に月神を祀る祭祀の行われていた場合がある。

 桂離宮の松琴亭は、『源氏物語』の「松風」巻に因んで命名されている。
 京都盆地の桂川右岸にある桂地方には有名な桂離宮があるが、この離宮は17世紀の前半に八条宮智仁親王と、その子息の智忠親王によって月見のための別荘として営まれたものである。桂地方は『源氏物語』や『土佐日記』にも月の名所として登場しており、また、中国の古い伝説では、月には巨大な桂の樹が生えているとされるため、いっぱんに普通名詞「桂」そのものが月の代名詞となっている。

 桂地方の近くには月読尊を祀る式内明神大社の葛野坐月読神社が鎮座しているが、この神社の縁起は、『日本書紀』顕宗天皇3年2月条の記事に表れており、当地域がかなり古くから月神の聖地であったことを示している。おそらくそうした信仰の記憶が後世になってから情緒化され、当社の信仰圏いったいが、月の名所とされるに至ったのだろう。

 8世紀の近江国滋賀(志何)郡古市郷の戸主、大友但波史某の戸口に「阿多隼人乙麻呂」ら4名の隼人たちの名が見えている(『大日本古文書』第二巻)。古市郷は、現在の大津市膳所から石山あたりに比定されており、当時、石山寺きんぺんに隼人たちがいたことがわかる。彼らに月を祀る習俗があったという説があることは、これまで何度も紹介してきたが(『2つの月読神社』参照)、その場合、石山地方が月の名所となった淵源は、この地域に居住していた隼人たちによる月神信仰にあったかもしれない。


 もう一つ、注目しておかなければならないのは、ここで紫式部が執筆した『源氏物語』の最初の部分が、「須磨」であったという点である。
 「須磨」は、源氏54帖中、12番目であり、最初の部分ではない。起筆の伝承であるなら、第1巻「桐壺」から書き始められたことになっていなければおかしいが、どうして彼女は「須磨」から『源氏物語』を書き始めたことになっているのか。

 『潤一郎訳 源氏物語』の文庫本カバーには、「この「須磨」の巻は物語の場所が、はじめて京を出ており、印象が鮮明で名文の評判の高い個所がある。紫式部も石山寺で、この巻から源氏を書き始めたという伝承があるくらいである。」と、池田彌三郎による解説があった。
 しかし、たんに印象が鮮明で、文章の結晶度が高いというだけでこのような伝承が生まれるだろうか。むしろ私は、「甘南備山考」でも指摘したとおり、「須磨」で光が中秋の名月をみあげながら都を想って落涙する所作が、月に帰る直前のかぐや姫とよく似ていることに注目したい。


【以下、「甘南備山考」で書いたことのダイジェスト】

 「須磨」で、都をはなれ、へき地の須磨へと流れてきた光は、おりしもその上空にかかっていた中秋の名月に、華やかな都での生活やそこに残してきた人々のことを懐かしんで声をあげて泣く。そして、「見るほどにしばしと慰むめぐり合はん月の都ははるかなれども」の歌を詠んでいる。

 いっぽう、『竹取物語』のかぐや姫は、物語の末尾近くになると、月を見あげて物思いにふけったり、泣き出したりするようになる。周りの者が問いただすと、「おのが身はこの国の人にもあらず。月の都の人なり。」と答え、自分は月の都の住民であったのが、訳があって地球で暮らしてきた、しかし、今度の中秋の名月の夜には、月の都の者たちが迎えに来るので、故郷に帰らなければならないと答える。

 こうしてみると、月をみながら泣くというかぐや姫の所作は、須磨の光源氏が、中秋の名月を見ながら都での華やかな生活を懐かしんで泣いたというのとよく似ている。しかも、「おのが身はこの国の人にもあらず。月の都の人なり。」というかぐや姫の台詞とパラレルに、光はそこで「月の都ははるかなれども」の歌を詠んでいる。つまり、ここでの2人は月を眺めながら泣き、同時に「月の都」という語を口にしているのであって、これはちょっと偶然とは思えない。どうやら「須磨」を執筆した紫式部の脳裏には、月の都へ帰る直前のかぐや姫のイメージがあったものと見える。

 『源氏物語』の「絵合(えあわせ)」巻で紫式部は、『竹取の翁』の物語について、「物語の出で来はじめの祖」と評している。

 「絵合」は、絵の好きな冷泉院のために、光が後見役をしている「前斎宮の女御」と、光のライバルである権中納言の娘、「弘徽殿の女御」がそれぞれ左右に分かれ、絵物語をもちよってその優劣を競う場面である(※2)。そこでは登場人物たちによって、それらの物語が様々に論じられるので、物語類に対する紫式部じしんの見識もそこにうかがえて興味深い。左方から出された『竹取の翁』について、前斎宮の女御は次のように述べている。

「これはなよ竹の節々(よよ)を重ねた古物語で、変わったふしもないのですけど、赫奕姫(かくや姫)がこの世の濁りにも汚れず、月の世界の契を思ってはるかに天へ昇って行きました気高さは神代のことででもありましょうから、浅はかな女の眼では見極められないかもしれません。」(谷崎潤一郎訳)

作者がこの物語にいだいている深い愛着をうかがわせる台詞だ。


 有名な小説家の伝記を読むと、子供時代は物語を読むのが好きで、まるで砂が水を吸い込むかのように、手に入る物語を片っ端からぐいぐい読破して周囲にいた大人を驚かせた、というようなエピソードによくぶつかる。おそらく紫式部にもまた、そのような時期があったのであり、なかんずく『竹取物語』のストーリーは、幼年の頃からずっと親しんできたものであったのだろう。だとした場合、前斎宮の女御の口を借りて述べているように、彼女が、かぐや姫が月へと帰還する『竹取物語』のシーンに格別な思い入れがあったとすれば、「須磨」の構想が、当該シーンにおけるかぐや姫のイメージから影響を受けていたとしても不思議はない。

 またそもそも、「須磨」も『竹取物語』も、ともに「貴種流離譚」と呼ばれる上代文学の類型に属するものであり、物語の枠組みとしては同じものを用いている。私は、「須磨」の執筆には、当時、かなり古くさくなってきていた上代文学の紋切り型を、現代的な感覚で語り直す意図が働いていたのではないかと思っているのだが、その場合、作者の紫式部としては、広く知られ、かつ、自身もまた幼い頃から親んできもし、かなりの影響も受けてきた物語をリライトする訳だから、それなりの文学的野心がはたらいていたろう。源氏全編中でも「須磨」の芸術的達成が高いのは、そうした面から説明できないだろうか。

 とともに私は、このような成立の事情を考えるにつけ、「須磨」に「月を見る者」のイメージが登場するのは、紫式部より約一千年後に生まれたマンが、『ヨセフとその兄弟』で主人公を最初に登場させる際、月を眺めさせていたのと同種の直観が働いていた可能性を感じる。紫式部とは1人のヴォアイヤン(見者の人)であったろうが、そんな彼女は物語の生成する場所に「月を見る者」が現れることを深いところで感じ取っていたのかもしれない。また、彼女が『竹取の翁』を、「物語の出で来はじめの祖」と評したのも、そこに「月を見る人」が登場するからではなかったか。


広陵町の讃岐神社
 ところで、『竹取物語』は隼人たちの間で伝わっていた伝承をベースに成立したとする見解がある。この説は、『竹取物語』の舞台が、上代に隼人たちが多数居住していた京田辺市の大住郷ふきんであったというそれと表裏の関係にあるのだが、そのいっぽうで、『竹取物語』の舞台の候補としては、奈良県広陵町に鎮座する讃岐神社いったいとするそれなどもあり、この方もなかなか有力なので無視しがたい。したがって、『竹取物語』が隼人たちの間で伝わっていた伝承をベースに成立したという意見は定説化していないが、しかし、この説には森浩一や塚口義信のような一流の学者たちも関心を寄せ、それなりに有力な見解とみなせよう。そうしたことについてはそのうち触れることするが、ここではとりあえず、『ブレ・竹取物語』とでも言える伝承が隼人たちの間に伝わっていたとして論を進める。

 『竹取物語』にみられる、「月界から地球に来訪した女性が、やがて元いた世界へ戻ってゆく」というストーリーが、もともと隼人たちの間で伝えられていた神話に基づいており、なかんずく彼らによる月神信仰と繋がりがあったとみたらどうなるか。同じような神話が上代の石山寺きんぺんに居住していた隼人たちによっても、この地方に伝えられていなかったろうか。

 だとした場合、「須磨」が月の都へ帰還する直前のかぐや姫のイメージと酷似することから、その類似による連想を介して、「須磨」と石山寺が通底することになる。石山寺に籠もっていた紫式部が、中秋の名月を見あげてインスピレーションにかられ「須磨」を書いたという伝承も、その連想から附会されて出てきたのではあるまいか。たまたま偶然、須磨と石山寺しゅうへんの人文地理が似ていることや、平安期に隆盛した観音信仰により、当時、貴族たちの周辺で石山寺に詣でることが流行していたことなども、こうした伝承の形成を後押ししたのだろう。












※1  他にも源融、遍照僧正、「斎部氏の一族の中の誰か」等が、『竹取物語』の作者として候補に挙がっている。

※2  「絵合」の勝負は最後までなかなか決着が付かなかったが、最後になって光が、「須磨」における自分の体験の絵日記を提出したので、左方の勝ちとなる。『潤一郎訳 源氏物語』の巻末にある解説で池辺彌三郎は、「あるいは源氏物語の須磨のの巻の源流には、それに似たものがあったのかもしれない。」と述べている。

 『プレ・源氏物語』として「須磨」が先行して成立していたとすれば興味深いことだが、石山寺の伝承も、そうした成立の事情をはんえいしたものかもしれない。



2006.12.22



主な参考文献

『竹取物語』 阪倉 篤義校注
岩波文庫

『謡曲集』
小山弘志/佐藤健一郎校注
小学館日本古典文学全集

『ヨセフとその兄弟』
トーマス・マン 筑摩書房
『未来映画術「2001年宇宙の旅」』から
 シノプシスp142
ピアース・ビゾニー 晶文社
『月と不死』
ニコライ・ネフスキー
東洋文庫


『潤一郎訳 源氏物語』
谷崎 潤一郎訳
中公文庫
『全訳 源氏物語』
輿謝野 晶子訳
角川文庫



『新古今和歌集』

岩波文庫
『拾遺和歌集』

岩波文庫

『隼人』から 社会思想社
 「近畿地方の隼人」 森 浩一

 「隼人支配」 井上 辰雄








Copyright (C) kokoro