2 つ の 月 読 神 社





  奈良県五條市の吉野川沿いに阿田という土地がある。以前、そこを訪れた際、郷土史に明るい方から伺った話だ。阿田は、上代に隼人が南九州から移住し、住みついていたとされる土地であるが(「阿田」は、「阿多隼人」などと言う場合の「阿多」が地名転移したとされる。)、かってその人のところに鹿児島の隼人研究家を名乗る人から電話があり、「阿田きんぺんに月にまつわる伝承とか祭りはないか?」と、まずは聞かれたそうな。




阿陀比売神社
シメカケの森
社殿

 【所 在】 奈良県五條市原町
 【祭 神】 主祭神:阿陀比売命(木花開耶比売命)
        合祀神:火須芹命・火火出見命・火照命
 【例 祭】 10月20日
 『和名抄』には薩摩国阿多郡阿多郷がみえるが、五條市の阿田は、この鹿児島の「阿多」が地名転移したものと考えられている。阿陀比売神社は、阿田に隣接する原町に鎮座し、上代に南九州から移り住んだ隼人たちが祖神を祀ったものではないかと言われる。『延喜式』神名帳 大和国宇智郡に登載のある小社で、合祀神の火須芹命は隼人の祖神であり、阿陀比売命はその母神である。

 左の画像は「シメカケの森」。当社の境内から県道をはさんで反対側にある体育館横にあり、そこは吉野川の川岸でもある。阿陀比売命が、合祀されている子神三柱を出産した際、オシメを干した等の伝承がある。


隼人には月を祀る習俗があった、と言う説がある。その鹿児島の隼人研究家も、おそらくそうしたことを踏まえた上で、そんな質問をしてきたのだろう。

 それにしても、このエピソードなどをかんがみても「隼人には月を祀る習俗があった。」と言う説はかなり定着している様子なのだが、この説はいったい何を根拠に言い出されたことなのか? 隼人のことは、断片的ながらも記紀をはじめ、『続日本紀』『延喜式』等にポツポツと記事が表れているが、その中にも、彼らに月を祀る習俗があったことを伝えるようなものは何もない。おそらく隼人にそうした信仰があったという説は、薩南諸島を含む鹿児島県全域から、熊本・宮崎の南部いったいに分布する、十五夜綱引や十五夜相撲といった習俗に関する、民俗学者の小野重朗の研究から言い出されたものらしい。

 これらの習俗は、(あとで説明するが)月と密接に関係するものである。そして、その分布圏は隼人たちの墓制とされる地下式横穴墓や地下式板石積石室墓が分布する範囲とわりとよく重複する。さらに、京都府京田辺市の大住と呼ばれる土地は、阿田と同じく、上代に南九州から移入した隼人たちの居住した土地だが(「大住」は、「大隅半島」などに見られる「おおすみ」が地名転移したとみられている。)、ここには、月読神社や樺井月神社といった、月神を祀る式内社が複数ある。小野はこうした状況証拠を基に、隼人たちには月神を祀る信仰があったと考えたのである。
 もっとも、念のために言っておくと、小野は単なる民俗学者という枠に納まらないスケールの大きな人で、彼じしんは、民族学との学際研究により、そうした月を祀る習俗のルーツをヤポネシアという広い領域の文脈中に収めることに腐心したのである。その研究は視野が広くて精密なので、とても、この雑文が踏み込めるようなものではない。いずにせよ、「隼人には月を祀る習俗があった。」という言説は、このような小野の研究が通俗化する中から、出てきたように思われる。

 ちなみに、正倉院文書にある『隼人計帳』の研究が進み、京田辺市の大住郷に隼人が居住していたことが分かってきたのは、昭和二十年代のことであり、小野重朗が『十五夜綱引の研究』を出版したのは昭和四十七年である。してみると、「隼人には月を祀る習俗があった」と言う説、そんなに古いとは言えない。

 かって隼人たちの本拠地であった鹿児島県には、桜島市と串良町有里にそれぞれ「月読神社」という神社がある。前者は旧県社、後者は旧郷社であり、いずれも比較的大きな神社だ。名前からも明らかな通り、これらの神社は月神の月読尊を祀っているのだが、稲荷や八幡等と比較し、月神を祀る神社がそれほど多くはないことを考えると、鹿児島県下に、こうした大きな月読神社が2社も鎮座していることはなかなか示唆的である。じっさい、この2社はよく、隼人による月神信仰の名残りの社ではなかったかと言われるのだが、ここではこの2っの神社を紹介しながら、隼人には月を祀る習俗があったという説をかいつまんで紹介することにしたい。

 2つの月読神社のうち、桜島の月読神社は現在、鹿児島市内と桜島を結ぶフェリーの発着所近くに鎮座している。このため、当社の鎮座地は桜島の海の玄関口に当たっているのだが、海に面して大きな鳥居が建っている姿は、鹿児島市方面からやって来る人たちに、何か桜島の地霊を祀るかのような印象を与えるかもしれない。じっさい、当社はもともと五社大明神と呼ばれる神社であったが、その頃は「桜島惣鎮守」の名を冠していた。また、祭神は月読命を筆頭に外四柱であるが、ここの地元には月読尊は桜島で出生したという口碑があるため、当社が桜島の地霊を祀っているという印象を受けたとしても、それは的はずれではないのである。



月読神社(桜島町横山)
桜島
社殿

 【所 在】 鹿児島市桜島町横山1722−8
 【祭 神】 月讀命・爾々藝命・彦火火出見尊・鵜草葦不合命・豊玉彦命
 【例 祭】 10月30日
 


 社伝によれば当社は和銅年間の創祀だが、最初の鎮座地は旧西桜島村の赤水字宮坂であったという。ところが大正3年の大噴火で、旧社地が溶岩流に没したため、神体を同村の武に遷し、それからさらに昭和15年になって現在地に遷座したという。現在の当社の境内に古社らしい趣が希薄なのはこのためだろう。しかし、そこにある展望台から眺めた桜島の勇姿は忘れがたい。




   



 もう一つの月読神社が鎮座する串良町の「串良(くしら)」は古い地名らしい。『大隅国風土記』逸文に「串卜の里」と言う記事がある。

 大隅の郡
 串卜(くしら)の里
 昔、国をお造りになられた神が。命じて使者をこの村にお遣わしになり、状況を検分させなさった。使者がその報告で髪梳の神がいると申し上げたので、髪梳の村というのがよいとおっしゃった。これによって久西良(※くしら)の里というのである。(髪梳は隼人の日常語でクシラという)風土記編纂の今、文字を好い字二字にして「串卜」の郷というのである。

   ・『風土記』(小学館 日本古典文学全集)


 この記事にある串卜の郷は「大隅郡」とあるが、これを「姶羅郡」の誤りとし、現在の串良町と東串良町辺りに比定する説がある。この説はかなり有力で、『大日本地名辞書』も採用し、各社が出版している『風土記』の注でも紹介されることが多い。
 「髪梳」は隼人の日常語とあるから、「串卜の郷」に隼人たちが居住していたことは間違いなかろうが、串良町と東串良町を含む、志布志湾沿岸と肝属川流域は、大隅隼人の墓制と言われる地下式横穴墓が数多く集中する地域であり、こうしたことも、このいったいを「串卜の郷」に比定することを支持する。

 考古学上からみて肝属川流域は、隼人文化圏の中でもとくに古墳文化が発達していた地域である。そこには国定史跡に指定され有名な、唐仁古墳群や塚崎古墳群を含むいくつかの古墳群がある。とくに唐仁古墳群の唐仁大塚古墳(一号墳)は前方後円墳であり、畿内的な文化の影響を感じさせるとともに、墳丘の全長が140m、周濠も含めると185mもあって、県下最大規模の古墳である。築造年代は本格的な発掘調査が行われていないため不明だが、古墳時代中〜後期頃とされ、当時、この地で畿内と接触をもちながら独自の勢力を発展させていた勢力のあったことをうかがわす。

 串良町有里の月読神社は、この2つの古墳群から10km内外の地点に鎮座している。こうしたことは、隼人には月を祀る信仰があったという説を考える上で、見落とせない事実ではないか。




塚崎古墳群
 塚崎古墳郡は肝属郡高山町野崎及び塚崎にある。現在、39基の円墳と4基の前方後円墳が残っており、ふきんでは地下式横穴墓や集落跡も見つかっている。国定史跡。

 辺りいったいは一面のサツマイモ畑だった。ここで穫れたイモは、カルビー社の製品になるらしい。




唐仁大塚古墳
露出している竪穴式石室の蓋石
唐仁大塚古墳。
石段の上は大塚神社。

 唐仁古墳群は肝属郡東串良町新川西及び唐仁に広がる鹿児島県下最大規模の古墳群で、前方後円墳と円墳が約百数十基ある(国定史跡)。ふきんは肝属川河口部の左岸に広がった平地で、落ち着いた感じの農家集落のなかに古墳が混在する。古墳群中には前方後円墳が5基あるが、そのうち、全長140mの唐仁大塚古墳は県内最大規模である。現在、後円部の墳丘上には島津忠久が下向した際、守護神として武蔵国秩父大明神天一妙見(現・秩父神社)を勧請した大塚神社が鎮座している。拝殿と本殿を連結する渡り廊下の下部には、竪穴式石室の蓋石が露出しており(左画像)、石室内は朱によって塗装され、縄掛突起が両端につけられた凝灰岩製の舟形石棺が収められているという。石棺の全長は2.68mもあり、その蓋石はわが国最大という。内部は未調査。


 また、当社から3kmほど南に「串良」という大字があるのも見落とせない。この串良が、風土記のいう「髪梳の村」の遺称地であったとするならば、「髪梳の神」はそこにいたことになる。古代において櫛は、呪力をもつ祭具とされたから、「髪をくしけずる」所作にはマジカルな意味があったことと思う。が、そのいっぽうでやはりこの神が女神であったことを思わすものでもある。

 『続日本紀』文武4年には、南島へ派遣された覓国使が、隼人たちの土地に寄港した際、彼らの首長から脅迫される記事がある。そして、その中に「薩末(薩摩)の比売」という女性首長らしい人物が登場する。おそらく宗教的な権威をもった巫女的な女性だったのだろうが、あるいは「髪梳の神」はこうした女性が神格化されたものかもしれない。そしてその場合、「串良」という地名の近くにこの神社が鎮座しているのも、彼女たちの仕えていた神格が月神だったことを示唆しているのではないか。

 それはともかく、串良町の月読神社はかって一之宮大明神と呼ばれる神社であったが、明治四年に現在の社名に改称された。藩主のいた頃の九月中寅日には、郷士によって流鏑馬が奉納されたというから、桜島の月読神社と同じく、地域の中心的な神社であったに違いない。古文書によれば、慶長八年(1603)の年号のある棟札があったという。
 現在の当社は下の道路に面してコンクリート製の鳥居があり、そこを入って大きな石段を上ると、6〜70mくらいの参道が続いてから社殿の前に着く。境内はガランとしていて、風致に見るべきものがなかったが、志賀剛の『日本芸能の主流』によれば、かってはもっと北の方に鎮座していたのを遷座してきたと言うから、そのせいかもしれない。有里きんぺんのシラス台地は崖下に豊富な湧水がみられるので、旧社地はその水辺に鎮座していた可能性はなかろうか。

 私が鹿児島へ行ったとき、大阪から宮崎まで就航するフェリーを利用したのだが、前日は京都府の京田辺市にいて、上代に隼人たちが居住していた大住郷を訪れ、式内社の月読神社や樺井月神社を参拝していた。船内で一泊した翌朝、フェリーから下りて車で走りはじめると、空が昨日までとは一変し、明るい南国のそれへと変わっていることがひどく印象的だった。有里の月読神社で、抜けるような青空をバックに鎮座する社殿を見た時は、上代に大住郷へ移住した隼人たちは、さぞかし故郷のこの空を恋しがったろう、と思わずにはいられなかった。






月読神社(串良町有里)
土俵
社殿

 【所 在】 肝属郡串良町有里313番地
 【祭 神】 月讀命・国常立命・国狭槌命・豊斟淳命・建御名方神・八坂刀売神
 【例 祭】 10月17日
 





 ところで、この月読神社の入り口には公民館があり、建物の横に土俵があった。土俵の後ろにあるコンクリート製の擁壁には、「十五夜すもう大会」と落書がしてあるので、毎年、八月十五夜にはここで十五夜相撲が奉納されるらしい。このように、八月十五夜に、満月の下で相撲をとったり、綱引きをしたりするのは、薩南諸島を含む鹿児島県全域から、熊本・宮崎の南部にかけて分布する習俗で、これまたよく隼人による月神信仰の遺存のものとされる。ちなみに、隼人と相撲というと、『日本書紀』天武11年条にある、大隅隼人と阿多隼人が朝廷に出仕して相撲をとり、大隅隼人の方が勝ったという記事が想起される。

 小野重朗の『十五夜綱引きの研究』には、十五夜綱引きの事例が多く紹介されているが、その中には、開始する前に縄を渦巻き状にして地面に広げ、参加する子供らがその上に乗って月を拝む、あるいは、輪にして積み上げ、十五歳の子供からその中に飛び込んで月を拝む等、綱引きの開始される前に月を拝する所作を伴う場合が多い。こうした事例は、この習俗が月を祀る信仰と密接な関係があることを感じさせるが、小野重朗はこうした習俗の分布圏が、上代に隼人たちが活動していた地域と重複することから、彼らには月を祀る信仰があったと考えた。


 鹿児島県内には、この他に、もっと直接的に月を祀る信仰としてはオツッドンがあり、オツッドンのことは『石牛と月』で紹介した。こうした民俗については、前掲書や『民俗神の系譜』等、今では古典となっている小野重朗の研究が詳しい。


鹿屋市船間の集落
 鹿児島県下では主に薩摩半島方面で、オツッドン(お月殿)と呼ばれる月神の信仰が行われている。鹿屋市船間は大隅半島にある集落だが、ここのオツッドンについて小野重朗は次のように紹介している。

 「船間は鹿児島湾に面する半農半漁の一〇〇戸ほどの部落で、部落神としてオツキサア、オツキドンという神社を祀る。部落の最も高い場所に石の祠がある。<中略>オツッドンは漁業と農業の神で、水の性で、そのために部落には昔から火事がないという。」『民俗神の系譜』p24

 私が船間を訪ねた際、70歳を越えていそうな方、2〜3人に、この神社のことを尋ねたが、「昔はそんな神社があったらしいが、今は無くなったのではないか。」というような返事しか返ってこなかった。


2006.03.14







主な参考文献

『十五夜綱引きの研究』 小野重朗 慶友社
『民俗神の系譜』   〃 法政大学出版局

『鹿児島県の地名』 日本歴史地名大系 平凡社

『日本芸能の主流』 志賀剛 雄山閣

『隼人の古代史』 中村明蔵 平凡社新書

『日本の神々』4から
 「阿陀比売神社」の項
宮坂敏和 白水社

『風土記』 植垣節也校注・訳 小学館/日本古典文学全集
『古事記』 倉野憲司校注 岩波文庫
『日本書紀』 宇治谷孟訳 講談社学術文庫
『続日本紀』 宇治谷孟訳  〃





2006.03.14





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